サイコサスペンス(4)

サイコサスペンス(第4話)

月形与三郎

小説

9,210文字

女流作家を取り巻く絢爛でイカれた人々、中心を喪失した精神の罅の多重奏(ポリフォニー)――

大きな布の壁掛けで、つよい色合いが乱雑に混ざり合う。アンフォルメルで、何が描かれているのかは判らない。何かしら対象を描くつもりなど、はじめからないので当然である。その壁掛けを背景にして女が座っている。アリサは観察しているのを覚られないように背中をむけると、女性の顔を、壁の反対側の鏡に写る色彩の中へ浮かべて見た。白い服を着た女の、白い顔と白いカチーフを巻いた頭部の輪郭が、後ろの原色を切り抜いて、むしろ人間の鏡像のほうを作り物に感じる。光の加減で、そう見える。左右から集中的に鏡を照らしていた。したがって光線の反射がある。それは作り物のような写像に相応しく、全く意味のない反照だった。アリサは凝視しているうちに、壁掛けのあることが気にならなくなった。透明さに像が塗りこめられて見えてきたちょうどそのとき、女がこちらを向いた、いやにゆっくりと首を巡らし、九十度ほど巡らし、アリサへ笑いかけた。アリサは、はにかんだ笑みをお返しした。鏡像の女は、白目を剥いて舌を突き出した。舌は、寄生する別の生き物のように長い。そうしたところ、

「ナオミとお知り合いなの?」とエマ夫人が訊いた。

「ええ、隣に越してこられたんです」とアリサは答えた。鏡の女は隣家の妻なのだった。

「お隣さんだったの!」と夫人は驚きを誇張した。アリサはそうやりとりしただけで、へたり込みたくなる疲労感に見舞われた。

「あっ」と夫人は声をあげてよろけ、下を見た。アリサもつられて見た。彼女の銀色のヒールが、尖ったその先端で、夫人のドレスの裾を踏んでいた。傾いた夫人の頭に、染め残した白髪が一本あるのをアリサは見つけた。白髪は取り返しのつかない亀裂のように髪飾りの囲いから漏れ生えていた。

アリサたちの近くで年配の女が、

「わたくしは断食と禁欲のおかげで」と言うと、すこしあたりを気にしてから、「愛欲というものの本質を知ったのよ」と、いやらしい勝ち誇ったうすら笑いを浮かべた。

「本質はどういうものですの?」と、若い女が興味深そうに身を乗り出した。尋ねられて機嫌をさらによくした年上の女は、

「善悪の自己媒介ではないの。そういう人がいるのは、たいへんな考え違いのせいなの。愛することに善悪がないのを忘れているのね。だって、愛が善悪の判断に従わないからといって、誰も非難することなんてできないでしょう」

はやくも察した若い女は、

「愛情は道徳感情の付属物ではないですものね。善とともに栄光に包まれもしなければ、悪とともに滅びもしないわ」と先回りした。そうしたら、隣のテーブルの女性が、

「愛情自体は道徳感情の付属物ではないとしても、愛欲は媒介です。もっと大きな自己に達するための入り口を愛欲が開くのですわ。それによって人間は、個々の小さな人格への執着を捨てようとし始めるんです。超越的な場所に到達したいという意思が芽生えるのは、我が身を焼き尽くすのも厭わないぐらい、愛情が昇華されて献身の情念に変わったときなんです。崇高さはそこからしか生まれません。そうでもなければ、愛する欲望の自由を擁護する根拠がないじゃありませんか。それが災厄をもたらすのが明らかな場合でも、制約なく愛する事を禁じないで、破壊と破滅さえ放って置くべきだというのは、なぜですか? いずれは最高善へ至りうる過程の端緒だからでしょう」と、とうとうとした差し出口を挟んだ。先の女性二人組は、とやかく言われたくないというふうに、聞こえない振りをしていた。三人が着る、手の込んだ誂えのドレスに染み込んでいる香水が揮発し、宙で混じりあって、洪水みたいに猛烈なあくどい薫りを振り撒いている。

柱の陰で男が二人、席に着こうとしないで、立ったまま話し込んでいた。彼らの背後には、多彩な蛍光絵の具を塗られた雌羊と牧童の彫刻が置いてある。獣と人は愛し合っている。作者は生死不明である。男の一方が上着の胸ポケットから葉巻の箱を出し、相手に一本すすめた。向かいの男はきれいな口髭を横に引き伸ばし微笑んで断わった。優しげでもこのうえなく明確な拒否の身振り。

「君が吸わないのを、僕だけが吸うわけにいかない、そのくらい分かるだろう」と喫煙者の男はもう一度すすめた。

「大体ここは喫煙所じゃないんだ、だから、そんなマナーなんか、無視したって、たいしたことじゃあないさ。かまわないで吸えばいい。僕は煙草を吸うと息が詰まって死にそうになるし、そのうえ家内に離婚されてしまうんだ」と相手は言った。

「命を賭けるのはお互い様だよ、僕は気道に穴が開いているんだから。しかも途方もなく大きな穴なんだ」と、しつこく葉巻を勧めた。向かいに立つ男は、相手の手を押しのけて、

「いつまでもこんな水掛け論をしていたら、二人とも芯から疲れきってしまう。もうやめないか」とため息混じりに言った。

「そうだな、このままじゃあ、ほんとうに共倒れするかもしれない。わかった、やめよう」と、煙草の男は肩をすくめてみせた。アリサはその仕草で、女が男装して人目を欺いているということが分かった。いかにも男っぽさを演じている、しゃちこばった素振りだったからである。よく見れば、相手方の口髭もずれていた。二人とも男装した女だったのだ。そして彼女らにして彼らの会話は、そのぎこちない演劇的な様式性のせいで、周囲から黙殺されていた。

パーティの客たちのほとんどは、すっかり酔いがまわり、まわった酔いが冗舌をエスカレートさせ、美辞麗句と毒舌のちゃんぽんが、もっと深酔いさせる。それでもユリの耳には周りの物音は聞こえなかった。いまはルイの声しか聞こえない。青年は夫人の甥だ。小さいころ両親は亡くなっていて、夫人が親代わりなのである。法学生ではあるけれど、夫人の意向で仕方なくそうしているだけで、本心はプロの水中カメラマン志望だった。夏休み中は写真を撮るため、近くのボートハウスに居る。ボートハウスは死んだ父が残したものだ。

ユリは今宵、生きてきたうちで最も心騒ぐ夜を迎えたと思った。そうそうあるものではない、おそらく運命的な、と彼女は考えていた。真の恋が間近に待っているのか、何かほかのものが到来する兆しをそう取り違えているのか、どちらとは区別できなくとも、夜の間の夢、とりわけ真夏のそれは、もとから明瞭なものではないのだから、なにもはっきりさせる必要はないのであった。ゆっくり近づいてきたルイが、

「ベランダに出ない?」と誘った。城の海側には無数の窓がある。ユリは彼と並んで窓の方へ歩んだ。

ベランダからは水平線まで見渡せる。ルイは手摺へ両肘を乗せ、ぐっと身を乗り出した。海の息の掠めたその横顔を、ユリはきれいだと思った。彼女も、鉄製の手摺に両腕をもたせた姿勢で、沖へ向かうクルーザーを見やるともなく追った。ライトが水面を照らし、暗さの中に白い波を曳き、船体は遠ざかってゆく。夢の海原を縦断する彗星と尾だった。太洋からの風は徐々に強まる。船影がみえなくなり、光跡も波間に隠れた。

ルイは物知りだ。かといって、自意識過剰な面はなくて、態度が控えめなのに好感をもてる。ようするに繕いのない、信頼に足りる、親切で繊細な、くわえてユーモアたっぷりな、そういう青年だった。おかげでユリは、かつてなく打ち解けた気分になった。こういう空気が清んだ夜には、波に洗われる砂の音さえもが掴めそうな気がする。海の律動が結晶になって夜景色の底へ沈んでいき、穏やかなのに堅固な繰り返しのうちで、彼女たちの呼吸が、独特の不規則なリズムともいえないリズムを刻む。密かな乱脈を呼び入れる。雨が降ってきた、水滴の矢は熱くなった心を貫くほど冷たかった。

つかつかとアリサの側へ歩んだ警部が、「踊っていただけませんか」と言った。あまりの恭しい物腰にアリサは面食らったが、「よろこんで」と答えた。

直下に垂直に、遠慮なく照らすシャンデリアの灯りは、黒い大理石の床を夜の海面のようにゆらめかす。白い柱や壁で跳ね散る光は真昼の強さで、円形劇場をライトアップする包囲光のようで、対象へあまねく照射するので、視界がアクセントを失う。アリサは踊っていて容赦ない眩しさに眼を開いていられなかった。彼女らに連られてめいめいがカップルを組んで踊りだし、どことなくバンドの演奏も踊り狂わせたがっているかと威勢を帯び、まわりへ熱気が立ち込めてきた。息が詰まる。警部はダンスに没入していた。人いきれの中でも馥郁としたアリサの匂いを嗅ぎ、カウボーイハットの下の表情は、ステップのたびごと、楽園に一歩近づくかのような陶酔に包まれる。それを横目に映しているアリサの胸で、つかの間の不安とつかの間の平安が交互によぎった。いつか二つは、打ち消しあって滞留し、空白が渦巻く。それもしかし、なにか出来事を呼び入れることはない。なぜなら、自己観察しようとする内面は、自身の魂の運動から最も遠い事だからだ。

夫人の隣には、遅れてきた愛人の医師が立っていた。女性的なほど体の線がほっそりしている。アリサがダンスしているのを見て夫人が、

「彼女、喋っていると、なんだか鉄の処女みたいだけれど…」と言いかけたら、

「鉄の処女か」と医師は嫌味っぽく笑って、じろじろ見た。

「そう」と夫人は言い、「それが、踊りだせば、ああいう風に流れる身のこなしで、軽快なステップワークで、白人奴隷女みたいにセクシーで素敵でしょう」と賞賛した。

「鉄の処女が踊ると白人奴隷女に変身するからって、一体なんだっていうんです、くだらない」と医師は言った。

そこに、やくざな男性二人組が来た。年嵩の男はたるんだ腹へ、黒い革ベルトを物凄くきつく、息をするのも辛いほどきつく締めている。それでも、サスペンダーに替えろという忠告は、一切聞こうとしないのである。若い方の男は重い偏頭痛もちで、魔除けの紫色をしたベースボールキャップをかぶっている。二人ともこのパーティには似つかわしくない、いかがわしい風体。地獄から脱走してきたばかりのように、暗黒の悪辣で邪まな歪みきった想念が、腹にたらふく澱んでいるので、どんより目が曇っているのだった。年嵩のほうが夫人に耳打ちした。

「ご苦労でした」と夫人は言った。二人組はうなずくと、そそくさとその場を立ち去った。逃げるようにして去ったのは、どうやら、客のなかに警部の姿をみとめて、内心で慄いたかららしい。警部のほうはダンスに夢中なので、二人組へ気づいていなかった。

「わたくしと踊ってくださるなんて、…光栄です」と警部は感激を言葉にした。

「わたしこそ、光栄ですわ」とアリサは愛想よく言った。このやりとりは、これで数度目だった。

そうこうしているうち、アリサたち二人のステップは流れ流れて、部屋の隅へ寄っていった。水槽の中、気泡の向こうで、極彩色の熱帯魚が泳いでいる。ダンスしていた夫婦の夫のほうが、ドレスの皴を調えていた女にぶつかった。その夫に裾を踏まれた女性がよろけて、小テーブルに膝頭をぶつけ、その上の水槽に手をついた。水槽が大きく揺れた。動きを止めたアリサが振り向くと、クリスタルがぐらぐらしており、波立った水がテーブルへも零れていた。床に投げ出された熱帯魚が一匹、精巧なCGみたいな動きで尾びれをぴちぴち震わした。照明をうけて鱗が閃く。皆がダンスを中断し、会話は途切れ、音楽だけが奏でられる。夫人の権高い声が響いてボーイへ命令した、

「この魚は、もう流行遅れだから、海に捨ててしまいなさい。運がよければ、故郷の珊瑚礁に帰れるかもしれないわ。ああ、鰭はちゃんと綺麗にカットしてから離すのよ」夫人は許しがたいものを見るかのように眉間へ皴を寄せた。

 

 

次の日の夕方、ユリは歩みもいそいそ磯辺へ行った。そこには背の高い青年がいた。波の穏やかなところで、ルイは、シュノーケルをつけ、潜ったり浮かんだりを繰り返す。手には水中用ビデオ・カメラを持っていた。ユリが声をかけると、ルイは驚いて、カメラではない秘密の何かを後ろ手に隠し、そうして、水面から首を伸ばし気味に、にこにこした。

ユリは長いこと、岩礁の上へ座り飛沫に濡れながらも、飽きないで海中撮影の模様を見ていた。昨晩の土砂降りが何かの間違いだったかと思うほど、海はいつまでも明るく、遠浅は澄んでいる。背後では、夕空を仰ぐ屋根や建物の壁が湛える色彩へ、風が運んできた砂塵が降る。傾いた陽の眩しさが、遠望の視界で媒質と物体との境をあいまいにし、色彩を市街から宙へと遊離させて、煌らかさも虚ろに中空を漂う。入り江で鳴る潮音に重なって松がざわめき、目を刺す光の透明は時おり氾濫する。やがて巻雲はほぐれていく。

ルイが水からあがった。砂まみれの足、脛には毛が薄く、腿は筋が何本も縦に走っている。上半身は均整のとれた筋肉が、細身の鎧を纏ったみたいにワイルドで、それでもなんだか優雅なかんじだった。肌色は日焼けが染み込んでいて浅黒くとも、皮膚は薄い、きっと元は色白なのだ。ユリが顔を見たとき、彼の肩からかけていたタオルがずり落ちた。真っ青な木綿の布が砂へつく前に、二人の顔は睫が触れ合うほど近づいた。彼はユリの腰へ腕を回して引き寄せた。もっと顔が近づいて、二人の口が花のように開いた。キスすれば塩と汗の味がするだろう。空には日と月がある。ユリは彼の鼓動を感じながら波の音を聞いていて、酔い心地になった。恋のもたらす無軌道さは危うい、ただ今は、そういう幼い高揚に成り行きを任せたい。いつまでも去らない暑熱が、磯のにおいを絡みつかせる宵の気配が、湿気とうとましさのうちにも、甘やかな冒険を招く。ルイの肩の隆起が、雄々しく目線を遮って、そうやって眼前に迫った。畏怖と恍惚とが争い交じり合う、瞼に感じる息の親しさ、首筋に触れる手のひらの柔らかさ、胸板の奥から漏れてくる心臓の音にも。

――ボートハウスのほかの部屋には立派な家具が設えられていても、ルイの部屋はあまり物を置いていない。恐竜の全身化石標本みたいな形をした金属のベッドとドレスケース、書き物机に椅子が二脚。木製戸棚のほう見た。小さな自作の、紙粘土に彩色した、犬や猫、熊やライオンやカモノハシ、カモシカやシマウマやキツツキ、それと、半身半獣の姿をした人形が何体か、魔女、吟遊詩人、馬に跨った騎士と従者、小猿を抱いた貴婦人、インドの蛇使い、中国人召使、黒人奴隷、アラブの盗賊、そういうものが仕舞ってあり、そちらを見やったユリの目には、心細そうにしていたのが、ルイが帰宅したとたんに、皆一斉に活気づき小躍りして見えたのだった。万が一の事で、ルイが帰らぬ人になったなら、この小さな家来たちは、ずっと寂しそうにして待ち続けるだろうか、とか彼女はちょびっと不吉なことを考えたりもした。壁には引き伸ばした写真が何枚か貼り付けてある。全部がいろんなコンテストの入選作品で、一枚は今年リーフェンシュタール賞の新人賞を最年少で受賞した作品だそうだ。

ルイは部屋へ入るなり素っ裸になっていた。ユリは彼のあれを、両手を使って、おむつを換えるベビーシッターよりも優しく、しかし、メジャーリーガー顔負けの強いグリップで、しごいてあげながら、じっと見た。黒い毛が密に生えるそこで、桃色の棒が、ぎんぎんに勃っている。見ていたら目の周りが熱っぽくなった。ルイはあまりにも気持ちよくて、拷問されている聖人みたいに、大きく口で息し、首を仰け反らせている。

「ぼく、初めてなんだ」と言ったルイは、両掌で有無をいわせないぐらい強く、ユリの頭部を引き寄せた。引き寄せ方には、野蛮な力がこもっていた。

突き立てる腰の動きの切実さに、ユリは、祖父が歌っている姿を想いだした。祖父は時々、古い歌を孫娘にうたってきかせた。応接間に拵えたステージの上で、真紅のラメ入りタキシードを着て、虹色に発光するマイクスタンドを両手で持ち、狂熱にはげしく身を震わせ、ほんとうに心を込めて歌いあげた。ルイのあれは、すごくでっかくて、すごく先っぽが太くて、祖父が愛用したマイクロフォンとそっくりなのだった。ユリはこみ上げてくる懐かしさが、硬く脹れた肉塊の喉へ押し込まれる息苦しさに耐え切る力を漲らせる気がした。SP時代のソウルを歌うハンサムな祖父、口の中で脈打ち若く匂うもの、点滅するネオンの下のステージ、深く垂れた紫の布、きらめくラメ、また、クラシカルで発作のようなヴィブラート、滲みでる透明な液体の粘つき、それらは、乱雑に絵の具を何色も混ぜ合わせた、いつか複雑な発色の画面になって、思い出の宮殿を描きだし、はるかに気高く、その殿堂を彷徨う無形のものどもは、彼女にむかって、誇りかに歌えと託宣をくだす。彼女は吐きそうになってしゃくり上げながら、懸命に歌おうとした。何時間でも、一晩中でも喉を顫動(せんどう)させていたかった。…今日に限って髪をブロンドに染めていないことが、とても心にかかった。

ルイはつぶさに、凝然と、ユリの首が規則的な前後をするのにつられてささやかに揺れる胸を、耀く瞳で見詰めた。慎ましくともそれは、全世界に授乳できるほどの慈愛を溢れさせていて、非現実的な柔らかさの内部へ誘っている。掌に圧しつけられたときの感触を彼は克明に想像した。それに高まった脈拍も。温かい涙がルイの顔を伝った。

「ユリ、愛してる」と言って、頬を拭った手を、ゆっくりと差し伸べて、「死にそうなぐらい」と、(たか)まる思いをうったえた。

嬉しそうにうなずいた彼女の胸へルイの手が触れた途端、ユリには、均整の取れている確かな結晶をほおばっていたのが、肉ですらない輪郭もぼんやりした、境目の定かではない、気状のものに変わってしまう気がしてきた。遁走、いたるところにある、死の纏わる記憶からの、つまるところ、気分がそういう遁走のモードへ切り替わった。一塊の恋する躰を言葉はいろんな器官に分解する。なかでもセックスに関する言葉は、その点で、なによりも雄弁なのだ。快感の出所はどこか、それはどう伝わるか。どの感覚が調和し、または、打ち消しあうか。規律化された観念は、どんなふうにして介入するのか。苦痛や罪悪感への偏愛は、破壊的な衝動の誘惑は、どこから来るのか。肉体が不透過であること、透かし観ることのできないのが相手を確固とするのに、混じり合うこと浸透し合うこと、そんな不可能へ向けて、懸命な惜しまない努力をさせる。互いに、不透明と透明さを同時に求める背理へ踏み入り、精神でもあるボディの操作へ精を出す。それでも、きゅうに愛の課した義務から逃げ出したくなることもある。予期しない乱調は、細かな身震いになり、身震いは痙攣になって背筋を走り、そのせいでユリの体はおかしな硬直をしかけた。異変を免れようと彼女が口を離そうとした瞬間、ルイは射精した。迸るその量はおびただしかった。

――ビーチパラソルの下、無断外泊した娘の帰りを待つアリサの目先で、砂を含んだ風は巡り回り、陽射しが四散していた。彼女は憂慮のまま焦慮のままに、白い円テーブルの上のオレンジへ、鋸刃のナイフをぐさっと突き立てると、その刃を一回転させて真っ二つに切った。真ん円な切断面から金色の果汁が白磁の皿へ飛び散った。

気流に乗って橙色のパラグライダーが飛ぶ。青空を一線で裁断した。ヌーディスト・ビーチがある。丸裸の老若男女が、ねそべったり、波打ち際を歩いたり、水に入ったりし、色模様さまざまなパラソルを広げて陽を避けたり、反対に肌を焼いたり、それぞれがおもいおもいの姿で寛いでいた。

オレンジを頬張りながらアリサの指はキイを打った。――私はドアを押し開いた。浴室は湯気で煙っている。換気扇を回した。暑い霧が晴れた。タイルの上には血がひと筋流れていた。裸で湯に浸かっている少女の肌色は明るくとも、意識はなかった。理性は感情よりも強い、せいぜい行く者を見送れる程度には。このアパートの薄汚れた風呂で、少女は耀く永遠の孤独へと去る。私はバスタブの側へ膝をついた。床は零れた湯に濡れていて温かかった。栓を抜いたら、ごぼごぼいう音を立てて湯が排水口へ吸い込まれていった。力なく下がっている少女の腕を取った。手を持つと血で滑るので、肘の辺りを持って、自分の唇へ近寄せた。真新しい手首の傷を舐めた。海水とおなじ味のする傷口を、全世界の苦悩を味わいつくすつもりで吸った。舐めながら私は嗚咽を漏らした。花柄のタオルから雫が滴っている。湯気を吸って色鮮やかな模様は、花嫁の持つ花束に見えた。「一体こんな死が…」と、私はそれより先を言葉に出来なかった。私は少女の頸をかたく抱きしめた。そのとき、自分の頬を涙が伝っていることに、やっと気づいた。――ビーチで女が金切り声をあげた。ぎゃあぎゃあ喚いている。はじめは人目を憚りやんわり謝っていた連れの男の態度も、訳の分からないヒステリーがしつこいので、掌を返し怒り出した。それでも女は静まらない、大変な剣幕で毒づいている。見ていて、得体の知れない想いがアリサを捉まえた。彼女はプリント済みの原稿を手に取った。誰かの人生なんてものは、書いておらず、書くつもりもない。もとより、そんなものは紙の上にありようがない、あるのは文字だけ。インクの染みた繊維は燃やせばなくなる物体、それだけのことだ。人間と書いたところで、そこに感情もなければ体温もなく、土地といっても、雨風の音もしなれば寒暖もない、あるのは書いてある名だけだ。それ以外は何もないはずなのだ。記号的なものの操作、そう考えて書いてきた。だが今アリサの心には、作中の人物や景色が、手で触れられるほど身近にある、灰色の壁が、暗がりで戦慄的に蠢く男女の肢体が、窓際へ置かれた観葉植物の末枯れた葉が擦れる乾いた音まで。この物語は過去に書いたことがある、それどころか、この物語を生きたことさえ少なくとも一度はある、そうアリサは思った。皮膚が熱い。陽射しが白い厚地のガウンをつらぬく、首筋が焼ける。と、襟を直したアリサの手首に、硬いものがあたった。プールで拾って以来肌身離さずにいる鍵だった。…家中の鍵穴という鍵穴にためしてみても、この鍵はどれにも嵌まらなかった。

耳をつんざくエンジン音を響かせ、パワー全開のクルーザーが、海上を横切った。アリサはマシンの絶叫が遠退くのを追い見た。マナーの悪い操縦者は、あの医師だった。数人の只者ならない男性が乗船している。アリサのほうを一瞥した医師は、眉を片方吊り上げて流し目がちの、にやけた表情を浮かべ、白いものを海へ投げ込んだ。それが彼女の目には捧げ物の骨片に映った。

2010年2月21日公開

作品集『サイコサスペンス』最新話 (全4話)

© 2010 月形与三郎

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