徐州。
徐州琅邪国、北軍中候の内越騎校尉・徐文の嫡子、徐瓢は、雨中馬に乗って国を飛び出した。梅雨西方より体を打ち、ただ一人、曠野駈けんと無心に馬に鞭を振るう。
霊帝の中平二年(百八十六年)七月、黄巾賊軍はとうに冀州を呑み、ついには都・洛陽を落とすべく西へ進軍を始めた。早馬は毎月、毎週、毎日と頻度を上げ、一日およそ三回の早馬が来たとき、霊帝は御身の危うさを察し、益州への遷都を決意した。そして、中平二年八月五日、霊帝は洛陽を捨て官僚、民などを合わせ数万の群として益州へと下った。
徐瓢は夜半より東莞、東安を抜け、黎明より琅邪を出た。そして兗州泰山郡に入る頃にはもう賊軍は冀州を抜け、はるか遠方より視える砂塵を、彼は丘の上から眺めていた。軈て彼は丘を下り、賊軍の後を追って帷幕を見つけると、二里程離れた林に馬を置き、夜を待った。
時は戌の刻を過ぎ、附近は闇に塗れる時分、草叢から陣を覗く徐瓢は、相手が少数の兵団だと知るや否や、背に担いでいた胡簶から一矢、松明の火を点け、高く打ち上げたかと思うと、忽ちの内に帷幕は赤く染まり、賊兵は驚いて持っていた盃を投げ出した。身を纏う火の粉を振り払う者、無我夢中に転がり回る者、盃の中の酒、瓶の中の酒を身に振り掛ける者さえいた。徐瓢は直ぐ様小さな丘に登り、亦しても胡簶から一矢取り出し、「我こそは徐州琅邪国守、徐文が嫡子徐瓢也」と叫び、ひゅっと放った矢は空を切ること一瞬、敵兵は脳を射抜かれて倒れた。続けざまに徐瓢は矢を放ち、弦が鳴ると同時に敵は射殺されていく。終に後一兵となった時、彼は丘を滑って降り、見事残兵を一刀の下に斬り捨てたのである。
賊軍の陣営を奪い取った徐瓢は、林から馬を連れてきて、賊兵の鎧を着、その儘眠入った。翌日の明朝には陣営を発ち、亦もや馬に鞭打って、泰山郡の中部、牟県の城へただ一騎這入り込んだ。
城には最早一兵もおらず、ただあるるのは襤褸に裂かれた漢の軍旗のみであった。処々には屍体が横たわり、彼は鼻を抑えざるを得なかった。漢軍の全滅を覚った彼は、牟県の城を飛び出し、博県へ向かった。中平二年、八月二十日の事である。孤軍趨走、潘水渡河、亀山登降、昼夜問わず馬で駈け、寝、起き、趨り、亦寝る。そうして徐瓢は博県、鉅平侯国を越え、泰山郡を去った。大暑とうに過ぎれど未だ地は熱く、日輪は砂上を照り、彼の額には幾粒もの汗が視える。今は唯、乱を鎮める。勇士一剣を帯び、黄巾の後を懸命に追う。無人の荒野に一線の蹄鉄が、彼の寂寥寂寞の念を強く思わせた。……
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幾月か時が経った。兗州済北郡盧県。徐州琅邪の勇夫、徐瓢は、盧県へ入城し義勇軍を募り、果てに城主である中尉・劉之斉を総帥とし、兵数およそ四千二百。徐瓢は副官・参謀として軍に這入った。劉中尉は済北郡を出、南の東平国寧陽県への進軍を決定した。洛陽より東九百七十五里。目指すは冀州魏郡、後に趙国都・邯鄲。天公将軍・張角が本拠地は冀州鉅鹿郡、黄巾の中枢を落とせば乱は終わる。徐瓢はそう考えていた。彼の放った斥候によるところ、黄巾賊は兗州より東青州からおよそ百万。南の任城国を襲撃し太守、鄭遂を殺し北上してくるという。侵攻するならば幾ら百万と云えども退けるのみだと、徐瓢は劉中尉に進言し、先ずは附近の賊軍を殲滅するべきだと寧陽県へ出立したのである。
中平二年秋十月、劉中尉、徐瓢率いる歩卒三千二百、騎兵(之斉、瓢除く)一千、計四千二百の軍は済北郡盧県を出、東平国寧陽県へ行軍を始めた。対する青州黄巾は優百万。兵力差六千強。稲穂は金色に実り草は寒露纏う。芒高く伸び如何にも晩秋の余韻に感極まる景観である。徐瓢は何れ、この地が血に染まるであろうと先見した。一行は盧県を出てから三日、早くも東平国へ進入し東平陸で止営した。もう日が沈みかけてきた頃、斥候が陣営に駆け込んで、黄巾賊が陣営より東五里。林に伏兵と報告した。夜襲かと中尉は徐瓢に訊ねた。そうでしょうと徐瓢は答え、直ぐ様鼓を鳴らして兵を起こし、陣営を一刻毎に三里移した。朝陽が丘から上がる頃には、彼らは東平陸を去っていたのである。
黄巾賊の夜襲から逃れた一行は直ぐに寧陽県へ向かった。大軍という虞があるからである。敵に狙われやすいが近路である平沙を通るか、逆に狙われにくいが馬一頭分の隙間しかなく、遠回りになる深い峡谷を通るかでは、断然後者の方が、兵力の少ない彼らにとって有利であった。彼らは終日、暗く湿った峡谷を通り抜け、一切の兵を失うことなく、寧陽県へたどり着いた。後から斥候の報告で、徐瓢たちが峡谷を通っている間、黄巾賊軍は既に東平陸を襲撃し、城障を落としていたという。
天日は既に落ち、万里残照に光る。山頂の陣は早くも翳り、軍はまだ一兵も失っていなくとも、未だ彼らを追う賊軍が、山麓より遠くから迫っていることには変わりない。東平陸を陥落した賊軍は更に増兵し、漢軍撃破を確実として、任城から刻々と平野を埋める程の人々が進んでいる。百万と、四千では、一疋の蟻と、鷹のようなものである(少し誇張し過ぎな気もするが、瓢たちにとってはその位が丁度好いのだ、)。
然し依然として、瓢も、劉中尉も大して焦り散らかす事もない。二人は知っているのだ。黄巾賊というのは、一見すれば大軍であり、同時に脅威である。だが、その過半は唯の農夫であり、心弱き信仰者である。漢朝に対する不平不満をぶち撒けたくなる心持ちは、義軍の中の誰一人理解の無い者はいない。瓢の父・徐文は、本来であれば越騎校尉よりも、司徒の属吏として活躍できる技倆を持っているのだが、今の朝廷では賄賂が横行し、技倆無き者でも高位に就ける。徐文は賄賂を一度も送った事はない。位が上がらないのはその所為である。彼は拳を強く握ることしかできなかった。その感覚は今でも記憶している。
夜になって、軍議が終わり、徐瓢は陣幕の外に出た。秋風は、甚だしい程澄んで視える。……
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