幽州。
後漢末期。霊帝の光和七年(百八十四年)五月、偏将軍・楽春は、配下の鄭焉、曹樊良を連れ、兵数五千と号して、冀州中山の黄巾賊征討の為、幽州遼西郡、令支を明朝より発ち、代郡北平邑を目指した。彼らが午過ぎに遼西を去り、隣郡右北平の郡治所である土垠へ入城したのは、遼西を発ってから十日のことである。候は薫風の頃合となったが、北地の辺境を歩む兵卒たちは折からの北風に酷く偬しみ、無終に止営する頃には、兵馬共々困憊の身であった(唯一春だけはまだ平然な面様を保っていた)。
彼らは右北平を過ぎる前に無終に陣を敷き、少なくて三日、長くて五日の休息を入れた。辺境ゆえの荒地で、ただ荘厳な更なる北方の山々が、彼らを漠然とした自身の危機を察知させた。そうして三日には無終を去り、翌日右北平を越え、漁陽郡潞県への入城を果たした。そこからの具合は思っていた以上に早いものであった。
先ず、安楽県にて黄巾賊の動きが見え始めると、潞県の城主である宋建兪の命によって、彼らは入城して二日余で出陣することになった。ここまでは善しか、悪しかと云われれば後者の方であるのだが、逆にこの出陣が、彼らの冀州到達への大きな契機となった。
潞県の城を出た楽春一行は、軈て安楽県に着くと、郡治所の漁陽県から龍文越という長身の者が後援として(彼の方が先に賊の動きを察知し、安楽県に着いてから春一行の存在を知ったのだが、)二千の兵を率いやって来た。その為攻略が大変容易な物となり、亦賊の行動が尚早であったのとで二刻もすれば決着が付いた。戦後、文越は手勢二千を楽春の下に加え、自らを鄭焉、曹良たちと並ぶ側近として軍の中に入った。また、彼の生家である獷平の村中からおよそ五百の馬を拵えた。安楽県の攻略を終えた一行はその儘上谷郡へ進入し、涿鹿県、寧県で亦しても黄巾を討ち、徐々に兵数を増やし、もう幽州を出る頃には、初め五千の兵が八千強まで膨れ上がったのである。
十二分に黄巾賊との対峙への支度が整った春一行は、北平邑へ入城し、十日余の休息をとった。鄭焉がこの儘冀州への侵攻を進言したが、黄巾賊によって(彼らではなく、彼らを防ぐ為の民衆の所為だが)北方からの冀州進入が難儀になり始めたので、并州を通じて西方から冀州へ進むのがよかろうと云った。楽春はやると云ったら早急に事を行う人であった。北平邑の城で馬を調達し、兵卒全員に騎乗を命じ、即刻雁門へ進軍した。この時(雁門に着いた時)光和七年六月、既に緑風は冷め戎衣を裂くように吹き、軍は迅速に北方を去らなければならなかった。平城に着き、楽春は歩哨・史九竜に、黄巾賊征討の為幽州遼西郡より偏将軍楽春来たる。一ヶ月後帝都・洛陽に到着する予定と報告するように命じた。生まれる前日に母親が九竜の夢を見た為名付けられた字の壮佼は、駿馬に跨がり鞭を打って城を出、洛邑へと疾走っていった。九竜が去った後、楽春は命じた通り一ヶ月後には洛陽に着いていなければ、虚偽の報告として彼が処罰されるだけでなく、九竜もその伝達を行ったとして処罰される。望むなら、一ヶ月後より五日程前が丁度好い。一刻も早く進まなければならない。楽春は軍に、「翌明朝より平城を発ち、帝都を目指し行軍する。常時出発できるようにしておけ」と伝達を行い、一人室に戻って毛布を被って死んだように眠った。
翌朝、軍は伝達通り充分な支度が済んでおり、平城を去った彼らは汪陶へ向かった。
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并州雁門郡平城県。候は概ね晴れにて吹く風は涼しく、洛陽から北千五百里。偏将軍・楽春は郡城を出発し、南およそ二百里、汪陶県へ向った。晴天に兵卒の士気はすこぶる高く、今まさに義軍北方より都へ警衛として参らんと、奮い勇んでいる。汪陶に着いた頃には、日は白昼*にしても矢張涼しく、城内は若干蒸している。とは云え、休む暇など無いので、彼らは兵糧、軍備を調達した後直ぐに城を発出した。そして郡治所・陰館、広武、原平を五日で趨り、平城を出てから五日余。春一行は雁門を抜け太原郡の慮虒に這入った。……
雁門と太原の国境に差し掛かった時、二里程先から塵埃が視えた。楽春は磐良に先方の偵察を行わせた所、黄巾賊来襲、兵数およそ二万と報告した。楽春は直ぐに陣形を調えた。先鋒隊は弓を番え、次鋒は騎馬隊、中堅に長槍、副将に焉、文越、大将に春と磐良を配置した。
賊との距離五十五間、賊二万にして春軍八千強、剰りに近ければ呑まれる。黄巾を装った風采の男等が眼前に迫った時、先鋒が矢を放ち、軍の不意を衝いた。春は散開の命を下し、次軍の騎馬隊が仕掛け、賊軍の大部分を討ち取った。賊は頭、胴を射抜かれ、馬から顛落する。即座に軍は乱れ崩れる。春軍の兵卒たちは遮二無二、ほぼ初陣であるこの戦に死力を悉くした。
戦後、慮虒の往来は屍体が積まれ、春の兵卒たちはすべて磧に流した。相手の黄巾賊は唯驀進と突撃をしてきたからか、春の兵は余り減っていなかった。
───南へ行く程、黄巾の数は増えてくる。
彼らはそれを充分に理解していた。唯時機がなかった。若し、黄巾の軍勢について、甘い思案を抱いていたのなら、今頃磧へ流されるのは果たして誰だったか。楽春は慮虒を去ってから、初めてその事を考えて身震いをした。
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