モルフォの水槽

光源のない走馬燈(第6話)

アサミ・ラムジフスキー

小説

17,739文字

大人になってから見た学校のプールは、とても小さかった。

色を塗るのが苦手だった。絵を描くこと自体は嫌いではなかったし、しばしば褒められもしたのだが、どうしても絵具とだけは仲良くなれなかった。あれほど扱いづらく気むずかしい奴はないと思った。理解し合えば最良の友にもなるのかもしれないが、あいにく僕は博愛主義者ではない。差し出した手を幾度となく振り払ってきた相手に対して、いつまでも対話を試みつづけることはできなかった。なにせ、どれほど満足のいく下絵が描けたとしても、あいつらはそれを一瞬で無惨な姿にしてしまうのだ。

筆先が触れた途端、イメージしていたはずの境界線は呆気なく崩れ去り、画用紙一面に濁色のマーブル模様が広がっていく。侵略の速度はゆるやかだが、それは倒れはじめたドミノのようなものだった。途中で食い止めることはむずかしい。僕はただ、自分の想像力が毟られていくのを指をくわえて眺めているほかなかった。少年時代の僕にとって、色塗りとは拷問に等しかった。

絵心が皆無だったならば惨めな思いはせずに済んだのかもしれない。たとえば、運動会の徒競走では毎回最下位だったが、これに関してはまったく悔しくも恥ずかしくもなかった。体のつくりが違うのだから仕方がない、そう割り切れたからだ。ところが絵は違う。なまじ鉛筆画をそれなりに描けてしまうがゆえに無力感は一入だった。写生会などでは、下絵の段階までは同級生たちが見物しに寄り集まってくるのに、色を載せると一切寄りつかなくなるほどだった。子供の感想は正直で残酷だ。

だから、できれば色なんか塗りたくなかった。だが学校の授業ではそうもいかない。下絵のまま提出したいと陳情しても教師は駄目だと言うし、それなら色鉛筆を使わせろと提案しても首を縦には振らない。嫌いな相手と仲良くしろと言われたって無理なものは無理なのに、教育者というのは理想主義的だから困ってしまう。丹誠込めてつくった砂の城を自分の足で踏み潰させることが教育だというならば、僕はこの国の教育には向いていないようだ。「好きこそものの上手なれ」とはよくいったもので、苦手意識をもってしまったが最後、もう上達は見込めなかった。やがて好んで絵を描くこともなくなった。

一方で、早めに見切りをつけたからこそ色の美しさを見失わなかったのだとも思う。青春のすべてをなにかに捧げた若者が、大人になってからその対象への興味を一切失ってしまうという話はよく耳にする。それどころか、憎しみに近い感情を抱くようになることだって少なくないようだ。幸いにも、僕が色そのものまで嫌いになることはなかった。色を巧みに操る人々のことは素直に尊敬できるし、そうしてつくられた色を眺める時間は至福だった。それは僕にとって些細な趣味であり、無益な娯楽であり、文字どおり生活の彩りだった。

 

コレクションは本棚の一画に保管してある。現存しているのは二十六個。割れてしまったものを足せば全部で三十個近く持っていたはずだ。サイズや形状はまちまちだが、いずれも何の変哲もないガラス瓶だった。薬瓶、フラスコ、花瓶、ウイスキーボトル、果実酒の保存瓶などなど、どこでも買えるような代物ばかりだ。これらがただのガラス瓶と違うのは、それぞれ青色の液体で満たされているということだった。

一口に青といってもその色味は多彩だ。秋晴れの空のような青もあれば南国の海のような青もあるし、青磁のような青もある。さらにそれらは、光の加減や角度でほのかに表情を変える。互いに干渉し合うことで、レイヤーの隙間からまったく異なる青が現れることもある。そうした偶発的で瞬間的なものまで含めて、空間全体が僕のコレクションだった。

いずれの青も色屋で手に入れたものだ。色屋の品物のなかで色水は最も原始的で最も安価な部類に入るが、僕はそのシンプルさをこそ愛していた。何の役にも立たないものだからこそ、色のもつ美を最大限に味わうことができる。形の定まっていないものだからこそ、想像力を自由に泳がせることができる。じっと見つめていると、視界が次第に青に浸食されていくのだ。僕が青を眺めているのか青に見つめられているのか区別がつかなくなり、やがて世界の輪郭はオブラートのように溶けてしまう。青い海のなかで、僕は気泡を求めて彷徨う魚だった。青はあるとき癒しの色となり、またあるときは官能の色となった。自分だけの青のなかへと深く沈んでいく時間が、なによりの愉しみだった。

ほかの商品にはまったく興味がなかった。子供のころは、色鮮やかな文具や傘やサングラスなどを持っている同級生から馬鹿にされることもあったが、心の底ではこちらこそ嘲笑していた。実利的なものにしか価値を見出せないだなんて、なんと愚かしく貧しいことだろうか。すぐに役立つものはすぐに役に立たなくなるのだ。大人になり財布に余裕ができた今ならどの商品だって買えるが、僕は一貫して色水ばかりを求めつづけた。

これまでの三十年あまりの人生を振り返るとき、その記憶は必ず無数の青色に染め上げられている。嬉しい青も悲しい青も楽しい青も苦しい青もあったが、どれも大切な青だ。

 

 

少年の趣味の多くがそうであるように、僕の色水収集も父親からの影響だった。自ら進んで興味を示したわけではない。そういう世界があるということを知ってはいたが、もともとまったく縁も関心もない分野だった。父がいなければ、僕がここまで青色の虜となることはなかっただろう。もっとも、父とて色屋に対して格別の愛着をもっていたわけではない。あの日僕を色屋へ連れ出したのは、おそらく思いつきに過ぎなかった。

それは小学二年のゴールデンウィークのことだったが、当初は何の予定もなかった。母が祝日に休めない仕事だったため、わが家には大型連休だからといって外出する習慣はなかった。世間が浮かれたり実際に飛行機で飛んだりしているのを横目に見つつ、デリバリーのピザをとる程度の贅沢がせいぜいだった。その年の連休も例年どおり淡々とはじまり淡々と終わるのだろうと思っていた。ところが朝起きると、父が急に「出かけるぞ」と言い出すではないか。どこへ行くのかと訊ねても「いいから早く支度しろ」の一点張りだった。きっと、連休なのに家でじっとしている息子を不憫に感じたのだろうと思う。父はそれなりに子供思いの親だった。ただしあいにく古いタイプの人間で、こういうときに子供の意見を聞くということはほとんどしない。「どこかへ連れていってやった」という事実だけであの人は満足なのだった。それで、お互いろくに興味もないのに電車を乗り継いで色屋まで向かったというわけだ。

とはいえ、当時はまだ色屋といえば名実ともに国民的娯楽だった。人気のコーディネーターはテレビに引っ張りだこだったし、日本人なら誰もが知るスーパースターも何人かいた。色屋はいつでも超満員という印象があった。そんな場所に自分が足を踏み入れる日が来るとは夢にも思っていなかったので、それなりに興奮してはいた。というのも、父は人混みが大嫌いだったからだ。おかげで、それまでレジャースポットらしいレジャースポットを訪れたことはほとんどなかった。東京という文化的に恵まれた土地で生まれ育っていながら、僕は遊園地も動物園も水族館も博物館も、家族と一緒に出かけたことは一度もない。こんな機会は二度とないかもしれないと思うと、全力で楽しもうと考えるのは自然だった。

いざ足を踏み入れてしまえば、そこは楽園だ。コーディネーターたちが織り成す美しい世界の虜になるのに時間はそうかからない。目のまえで次々につくられていく新しい色の数々。ある者は塗料を駆使し、ある者は光を操り、またある者は紙を用いながら、さまざまな青が完成していく。目に見えるすべてが青色に染め上げられたその空間は、まるで海の底のようだった。低い背をめいっぱい伸ばして、僕は色とりどりの青色を食い入るように見つめた。

なかでも僕を釘付けにしたのは、液体を使って青をつくり上げている女性の姿だった。彼女はまるで精密機械のように正確に、しかし舞踏のような優雅さで、次々に色水を調合してはガラス瓶へと詰めていく。真っ青な空間のなか躍動する白い指先は、魔法の杖に見えた。あの憎き絵具と大差ないはずの青色が、ガラス瓶に閉じこめられることによって生命を獲得するのだ。骨なしでは肉が肉でいられないように、あの青色もガラス瓶なしでは青色ではいられない。僕は彼女のまえにずっと立ち尽くしていた。

どれくらいの時間そうしていただろう。やがて彼女は僕に微笑みかけると、一本の試験管を手渡してくれた。
「プレゼントだよ」と彼女は言った。

瓶のなかには、透明と不透明のちょうど境目のような、水色と緑色のちょうど境目のような青があった。側面から見ると見通しがいいのに、真上から覗き込むと、どこまでも深く僕の意識を引きずり込んでくれそうだった。なんだか怖ろしくなって、彼女の顔と色水とを何度か交互に見た。青い深みのその奥に、やわらかな笑顔が見え隠れしていた。彼女に引きずり込まれるのであれば、底なし沼でも構わないと思った。たまたまその日が、小学生以下の子供ならば誰でも一品もらえるキャンペーン中だっただけだと知るのは、しばらく先のことだ。

 

神秘を自分の手のなかに収めたという優越感と満足感。やはり幼くても僕は男子だった。それまでに経験したことのないような興奮が全身を駆け抜けるのがわかった。よくわからないけどヤバイ興奮。今ならもっと気の利いた言葉で形容することもできるのだが、小二男子のリアルな感覚として、それは「よくわからないけどヤバイ興奮」だった。だから、もっとたくさんの色を欲しいと思った。あの感覚を何度でも何度でも味わいたかった。僕のパレットにあらゆる青を敷き詰めたかった。知らない青がなくなるまで青をコレクションしたかった。だが、いくら安い部類といえども、やはり色水も子供の小遣いでおいそれと買えるようなものではない。ならばせめて、色屋に通いたかった。

それで僕は、ファンクラブに入ることにした。実は試験管と一緒に、ファンクラブの入会案内チラシも渡されていたのだ。なんでも、小学生以下の子供は会員証さえ持っていればいつでも無料で入店できるらしい。スタンプカードもあって、一定数貯まると好きな品物と交換することができるという。さらに、入会時と更新時にはファンクラブ限定の色水をもらえる。至れり尽くせりとはまさにこのこと、僕は迷う暇もなく書類に必要事項を書き込んでいた。まだインターネットなんか普及していない時代の話だから、入会手続きには少なからぬタイムラグが生じるのだが、その待ち時間もまた愛おしかった。

2015年8月9日公開

作品集『光源のない走馬燈』第6話 (全7話)

光源のない走馬燈

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© 2015 アサミ・ラムジフスキー

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