喫水線

長崎 朝

小説

12,157文字

――見知らぬ死者のために。
市民プールのロッカー。宛名のない手紙のような小さなメモ書き。錯綜する「存在しない者」たちの幻影。
個人的な、まったくわけのわからない痙攣的文書です。

 

私は、市民としての権利を行使するため、夏には休日に市民プールに通うのだが、そのプールは屋外プールで、五十メートルの競泳用と二十五メートルのファミリータイプと、小さな円形をふたつくっつけた水たまりのような浅さの幼児用プールの三つで成り立っていて、私の泳ぐのは決まって五十メートルの競泳用だ。券売機で〈市民百五十円〉のボタンをべつにこの市の市民でなくとも簡単に押せる――実際にその場でただ手を伸ばして指先で押すだけだし、誰かがいちいち監視したりしているわけではなく、身分証をみせるわけでもない――のだから、けっきょくは私は何の権利も行使してはいないことになる。ここへ来るために私は汗をかきながら家から駅まで十分歩き、それから電車に五分乗った先の駅でバスに乗り換え、またバスで八分ほどかけなければならない。それをふまえれば、むしろ私は損をしているような気もしてくる。その運賃をかけてまで、ここへ来て泳ぐ価値があるものかどうか、汗でべとついたTシャツを更衣室で脱ごうとするとき、肌に貼りついてなかなか脱げずに腹立たしい気持ちで、私は夏のことや細かな運賃のことを恨んでみたりするのである。ここの市民でない人間がいくらの料金を支払うのか(おそらく三百円ほどだろう)、それに、まじめに〈市民以外〉のボタンを押したりする市民外の者がいるのだろうか。

 

 

敷地の入口にある飲料の自動販売機のあたりの木にアブラゼミが二匹とまって、熱せられた空気と溶け合ってほとんど液体化しそうな音声をあげて鳴いていた。なんとなく木陰の暗がりに視線が引き寄せられるのは、直射日光(まさしく、垂直に差し照らしてくる容赦のない光線!)に耐えきれなくなった眼球が、休息をもとめてほとんど涙混じりにあの甘ったるそうな陰影の冷たさに擦り寄っていくからで、あれは、あの蝉は尻のあたりから音を出しているのだろうか、とも思うが、どうなのか知らない。知らないまま私は、ああやってセミのオスがメスをおびき寄せて交尾をするのだろうと考える。それがどんなふうに行われるのか想像してみたが、つがいで飛行するトンボとはまた違うのだろうとか、一瞬のことなのだろうとか考え、つまらないので考えるのはすぐやめた。脇へ延びている小径の先を見ると、奥のほうでひとりの高齢の男が地面で何かを燃やしていた。蝉の死骸でも集めて燃やしているのかもしれなかった。

 

 

何かの拍子に、ということはないけれど、運悪く世間一般の多くの人が休みであるような日にわざわざ泳ぎに行くと、水中はひとがあっちもこっちも身体を浮かべていて――ほとんどすべてが、私より年長の中高年男性によって形成された泳者たちである――、私の期待しているはずの自分の水路が踏みにじられているような気になる。これ以上泳いでいる気にはなれず、私は水中歩行で時間を潰しながら、もう上がろうという決心が自分の中に訪れるまで待っており、その気配はすぐそこにあるのに、なかなか気持ちがくすぶって踏ん切りがつかない。もうあとひと往復したら上がろう。クレープ生地のように薄く広がる雲が太陽を覆って、光が滲んだかと思ったら、水に跳ね返すあの揺れる網のような光模様も消えた。日が滲んでいくようだった。

水温は、冷たくもなく、温かくもない。まだ昼前だった。この時間に、ここでこうしていることが私は好きだ。私はここにいて、にもかかわらず、身体の均衡を不安定にさせる水の柔らかさのせいだろうか、同時にここにはいないような、どこかへ溶けだしていくような心地を覚える。何か保留にしてあるものを、いったんはわきへ押しよけておいてということではなく、私はその保留の真っ只中を揺られているのだ。私は自分自身を脱ぎ去っている。

不意に私はあの視線に耐えられなくなる。あの、若い監視員の目、サングラスをしているために、どの方向を見ているのか正確には判別不能であり、だからこそその視線は私を見ており、また何ものをも見ていないともいえる、全体的な視線、つまり彼自身が視線そのものであり、その任務は視線であることに徹するということなのだろう。私は見られる対象であるということしかできない。しかし、その見られている者とはいったい誰だろう、ほんとうに私なのだろうか。市民としての私、泳者としての私、水を掻くその手首に嵌めたコインロッカーの鍵が、私のあり方をいま規定しているような感覚に追い詰められ、水の重たさが鬱陶しくなる。

プールサイドに寝そべり何度かそうしたことがあるように身体を干すのを今日はよして、更衣室へ戻ってロッカーを開けると、濡れた手のまま、そこにある一通の手紙を掴んだ。

――泳ぐこと。日に当たれ。何よりも、話し相手を見つけることだ。ぼくは医師としてきみに忠告する。少しは飲み方を覚えたほうがいい。今度こちらをかすめたときには、ぜひとも立ち寄ってほしい。――N.

どうせ忙しいに決まっている。かすめた程度の相手のために、彼が面会する時間などとれるはずもない。いったいこんな忠告を私にしてくれる友人が、私の人生にいつ、どんなふうにして登場することになったのか。N医師からの短い手紙は、いつも的を射たものであり、当然のことながら――私宛に忠告を送って寄越すくらいなのだから――、私のことを詳しく知っているどころか、私たちのあいだにはどちらかといえばかなりの親しさが存在するとみてよいのだが、あいにく私は彼のことを何も知らなかった。

N医師(本物の医師なのかどうかはおいておいて、ひとまずそう呼んでみることにする)が「こちらをかすめたとき」というときの「こちら」とはどこのことなのか、あれこれ想像をしてみるうちに、それが私のいる場所からとても近いということはないだろうし、かといって遠すぎるということもない、日帰りで行こうと思えば行けなくもない中程度の距離を「こちら」とのあいだに置いてみるのがちょうどよいように思われる。

とにかく、彼が忙しい人間だというのは、これまでの彼からの手紙を受け取ってきた過程でじゅうぶんに理解できることだった。薄い、無地の生成り色の小さな便箋を縦長に使い、横書きに文自体は流れるようでいて、一字一字が何かに堰き止められているような不思議なボールペンの筆跡が、水の抵抗のなかで緩慢に手脚を動かしてウォーキングをする常連の中年男性たちの動作と結びついているようで、この人もきっと、思いどおりにならない水路の攻防戦を知っているのだろうと、勝手に決めつけたくなってしまう。

 

 

N医師から手紙を受け取ったから、その忠告どおりプールに通うことにしたのか、はじめから自分には水泳をする習慣があり、習慣として重ねられていく日々の狭間にいつのまにか手紙が滑り込んできていたのか、熱せられた頭で何度も繰り返し考えてみるのだけれど、いつも途中で思考の流れは遮断されてしまう。もともと人の言うことをおとなしく聞くような人間ではないから、泳ぐことの前に手紙が来たわけではないのだろう。

――泳げ。日に当たれ。話し相手を見つけろ!

プールの薄汚れた水色の底に揺れる光の網は一瞬たりとも同じ形にとどまらず、その網にときどき、枯れ枝のように力弱くナナフシがからまっていたり、そのほかの小さな名前の分からぬ昆虫が捕らえられていたりするのがゴーグル越しに見える。それらは目に見えるために反射的に不快感を与えるが、ほんとうは目に見えないもののなかにこそ、透明な仮面をつけた不潔な要素がぎっしり詰まっているに違いないのだ。汗と唾液と鼻水、血や垢や痰、あるいは尿が混じっているかもしれない、全体として多少は濁りの膜を漂わせている透きとおった大容量の水。微かに塩素の匂いが鼻をつく。

肺にためた空気を、口腔内に入り込んでくる水と一緒に強く、いや、なるべく時間をかけて弱く水中で吹き出す。吐いた息と、二本の腕が率先して水を叩いて生み出す無数の気泡に全身が包まれ、その間にも水の心地よく柔らかな抵抗のなかを身体は移動しつづける。それから、新しい空気――とはいえ、瞬間的な動作で、それが新しいという考えは持たないまま、ただそこにある次の空気――のひとくちぶんを吸い込んで、血液と細胞を勇気づける作業にひとしきり没頭してから頭をもたげ、腕を揺らして、薄手の軽い上衣を脱ぎ捨てるようにゆらっと浮力を身体から引き剥がす。

 

 

他人が、私の健康状態を気にかけているというのは、考えてみるとあまり納得のいく物語にはならないかもしれない。そもそもそんなことはないのだ。N医師は私のことなどちっともほんとうは知らないと、そう決めつけてしまってもいいのではないか。

午前十時、私はいつも決まったコインロッカーを使う。入り口から、思いのほか広々とした体育館を男女それぞれのために一枚の壁で仕切ったというような空間を左手に進んで、プールへの扉がある近くのロッカーのひとつで(320と番号が振られている)、十日か半月ほど前から、私が来てロッカーの扉を開けると、なかに一通の短い手紙が置かれているということがつづいた。

かならず、私がロッカーを開ける前にそれは用意されていて、まるで、ほんとうに私に読ませるために丁寧に置かれたといった感じで静かに、翳ってひんやりとした狭い空間に存在しているのだった。

その宛先のない手紙――封はされておらず、いつも簡単なメモ用紙のような小さな紙切れが二つにたたまれて、念入りにやはりそれに見合った白い小さな封筒に入れられているだけのメッセージ――を、自分が受け取って読んでもいいものかどうか、私はなかば不安を抱えたままそれに手を伸ばした。ただ、そこにあった紙切れが、そんなはずもないのに、私に向けられて書かれた言葉を内に包んで、目で拾われるのを待っているというような勝手な思い込みにとらえられ、どうしたものか迷ういくらかの時間の脇を、すうっと追い越し、通り過ぎるようにして私はその紙を広げた。

――ここへ。時間の戻らない場所へ。泳ぎ切ることなどできないかもしれない。それでもいい。そこへ、ひと掻きだけ、前進すること。――N.

 

 

誰のものでもなく、誰のものでもないなりに強いて言えば私のものである物語の飛沫が、空中に弾けて日光に焼かれて消えていく。何もかもが輪郭をぼやけさせ、混じりあい、溶け去っていくような暑さは、光さえも霞ませて風景はむしろ彩度を失い、時間はバネを使ったみたいにひと飛びに、失われた現在を跨ぎ越していく。

 

 

誰かが、私以外の誰かがたしかに、私の来る一時間前(市民プールの開場は午前九時だから)にここを訪れて、このロッカーを使うのだ。おそらく、一時間にも満たないいくらかの時間をプールで過ごし、私が来る前にはもう去っていく。夕闇に溶けていく影のように。残響だけをあたりの多湿な木陰や葉の裏のひとつひとつにこびりつかせてどこへともなく消えていくアブラゼミのように。

けっきょくN医師のものにも私のものにもならずに――「誰のもの」という言い方のなんとおかしなことだろうか――、やはりどこへともなく消え去った彼女に対して、何か感情面での見返りを求めるということが、はたして正しかったことなのか、いまとなってはまったく正しくなかったことであると言わざるを得ない。何かを求めていたのはむしろ彼女のほうで、彼女は私の思いなど知る由もなかったわけでもあるし、そもそも私という人間など存在していなかったのだ。

ここにいないまま――つまり不在であるという性質が、まるで彼女の本質ででもあるかのようにして――、彼女は存在しているのだが、それがいったいどういうことなのか私には理解できない。陶器のように冷たい白い肌の甘ったるいにおいと、滑らかな軽やかさで重力をあしらいつづける、それ自体重さの中心点を失っているような肩まで垂れた暗褐色の髪を思い浮かべたらいいのだろうか? それとも、腕を通す袖が探り当てられずに洋服の内側で薄明るい闇と格闘している幼い少女を?

――いまや彼女は死のうとしている。医師として言うのであれば、時間を巻き戻すことはできない、というより、それは科学に反している。発想を転換させなければならない。ぼくは未来を閉ざしたり奪い去ったりした覚えはない。ただ、安っぽい希望なんてものを押しつけたり売りつけたりするつもりもない。彼女は短かった人生を回顧している。彼女の願いの言葉はもはや過去形になってしまった。

あくまでも、私には市民としての権利に加え、無知であるという、これは権利というのではなくひとつの態度、あるいは境遇があって、N医師の患者なのか知らないが、唐突に手紙の中に登場した彼女が誰であるのかをN医師が誰であるのか知らないのと同じように私は知らないので、そのために、私は彼女――(の存在)というより「彼女」という言葉自体に――強く惹かれ、弱くも惹かれた。この弱く惹かれるというのがまたやっかいなものさ、強引でないだけにより一層完治しにくい傷を残すんだ、とN医師が、これは私の勝手な想像のなかで彼が私に苦笑混じりに言ったのだった。ぼくときみは、というより彼と私はそんなはずもないのに、彼女から大切なものを奪い去り、無責任で残酷な仕打ちを彼女に対して遂行したという思いに責めさいなまれていた。

ただ、彼女は声を、その彼女自身の声だけはかろうじて持ちこたえたのではなかっただろうか。だがそれがいったい何の役に立ったろう。

まるで泳ぐこと、日に当たることが死に対抗する唯一の治療法だとでもいうように――それも私たちのではなく彼女の死に対してなのだが――、私たちは泳ぎつづけた。彼女は希望など大事に抱えず、何を待つでもなく、あるいは密かに待ちながら、ただそこでか細く静かに息をしていた。〈明日〉は三人の待ち合わせ場所だった。目を閉じるのが怖ろしかった。

 

 

私がどうして手紙を寄越すのかと、あなたはご質問なさいました。それとも、そんなことがあったような気がするだけかもしれません。N医師のことではなく、ほかならぬあなたのことを何とお呼びしたらよいでしょうか。まるで、市民プールでこっそり私に置き手紙を届けつづけるN医師のように、もうずいぶん前から姿を見せずに、しかし確実に存在している現実のあなたのことを。とはいえ何ともかんとも、あなたはあなたでしかありません。私が私でしかないのと同じことです。普段の日常生活でしたら、何とかかんとかという名前がついていて、愛称や呼び名というようなもので呼ばれたりもするのでしょうが、こうした不思議な物語の内部ではべつだん名前がついていようがいまいが大差はないということですし、とにかくあなたということにします。

手紙を書く理由なんて、たいしたものではありません。ただ、私は文章を書いていないと、これは気持ちの問題ですから、古くからの習慣でもあるし、自分へ向けてではく、読む人を想定して、何かを記していなければ気がすまないだけです。

あのことがあって以来、あなたはどこへ行ってしまったのでしょうか。あんなことがあっても、私にとっては数少ない知人であり、共通の話題というものをもてあそぶことのできる、「友人」のひとりだったのですから。

単刀直入に言って、あなたは誤解していました。それだけはまず、いくつかある事実のうちのひとつであり、それははっきりさせておきたいと思います。だけど、彼女のいないいま、そんな事実にいったいどれだけの価値があるのでしょう。彼女がもはや存在しないということ、これは、あなたにはもちろんおわかりのことでしょうけれど、私たちにとって途方もない損失なのです。どうして彼女は死んでしまったのでしょうか? あなたはそれを私とのことのせいだとでもお考えですか? まさかそんなことはないと思います。彼女はあなたのことを愛していました。愛の深さなんてものは知りませんが、一般的な意味で、女性が男性を愛したりすることがあるというほどの意味で愛していました。いや、彼女にとっては、愛するということはけっして一般的な行為ではありえないし、つねにそれは歪んだ欲望のあらわれであったはすだとあなたなら言うに決まっています。実際、彼女はおまえ(私)のことも愛していたに違いないではないかと。

あの九月の末に私は彼女と数年ぶりに再会し、あなた抜きで私たちは公園でピクニックをしたのをご存知ですね? あなたとはすでに別れ、あなたはアメリカだったかカナダだったか、どこか異国の地に行っているのだと聞かされました。私たちは坂道の途中にある狭いリカーショップで安いワインやチーズを買い込んで公園に行き、湿った芝生の上にレジャーシートをひろげ、そこで何時間か飲んでいるうちに肌寒さを覚えてそこから引き上げたのですが、引き上げる少し前、どんな拍子だったのかいまでは思い出せませんが、彼女は突然私に顔を寄せ唇を合わせたのです。あまりに急なことだったのと、酔っ払っていたので頭がくらくらし、ただ風が冷たくて(もしかしたら小雨が降り出していたのかもしれません)、はやく違う場所へ避難したいと思い、私たちはその場所を去りました。

こんなことを話して何になるのでしょうか。どうでもいいことですね、とくにあなたにとっては。私はあれからずっと考えているのです。なぜ彼女は死んでしまったのか(あるいは、直接的な言い方がお好みでなければ、こう表現したほうがいいでしょうか……どうして彼女は消え去ってしまったのか、と)。突然、あのピクニックから三月ほど経って……。私は、もちろん、彼女から、あなたとの短い結婚生活におけるさまざまな問題点を打ち明けられていました。私は彼女の言葉を信じているし、同時に、あなたがどんな人物だったかも大学の頃からよくわかっていたつもりです。でもけっきょく、人のことなんてわからない。何ひとつ、ちょっとのことも、なんにも他人である私にはわからないのです。ふたりのあいだには、私が存在する余地がなかった。彼女は私を通してあなたに話しかけていたのだし、あなたは私を非難することで、彼女を非難していた。そうして私は消失していったのです。

私は、あなたが殺したといまでも思っています。それは、おそらく間違いないのではないですか? でなければ、彼女は私と死んだはずです。彼女はあなたから、あなたへの愛から逃れたがっていた……。

あれからどうも身体が浮き沈みを繰り返している気がしてどうにもなりません。歩いているときに、ときどきですが、めまいとは違う瞬間的な船酔いのように、吐き気を催す不快な空間の歪みを感じるのです。あなたはいまも生きている。私も生きています。しかしそれが、どうしても、彼女の死の陰の生にしか思えないのです。私たちはおそらく生きていてはいけない。それがわからなければ、あなたはバカですよ、やはり、ほんとうのバカなんだ。私は、これきり、ひとりでやっていきます。私たち三人のそれぞれの孤独は、死よりももっと孤独ではないですか。

 

 

彼女は一言でいえば遊びの達人で、あのころのまだ再開発前の駅周辺には、バラック街のような薄汚く小狭しい建築群に小規模な、それこそ数畳ほどの客間やカウンターが備わっているだけの飲食店がひしめきあっていて、行きつけの店の二階の座敷――中身は最新の若い人間が経営する最新のいわゆる「カフェ」とでもいうべき場所の畳敷きの木造りのにおいに満たされた空間――で昼間から妙な赤いような色合いのカクテルやその他の強い酒を飲みながら、メンソールのきつい煙草をふかして時間を過ごしたり、それに飽きるとべつの店で水煙草というのをやってそれから夜はソウルミュージックなんかを流すバーだとか、こじんまりとしたダンスホールを転々としたものだった。

ときには私の部屋で夕方に、どこかで手に入れたウイスキーの瓶を持ち込んで、やはり煙草を吸ったり、タニア・マリアだとかオリジナル・ラブだとかの音楽や、数年の空白期間に起きたさまざまなこと、私の書いていた文章に登場するロッコという名の少女(子どものころに読んだ『いたずらラッコのロッコ』という本から名前をとったのだ)だのの話といったものをして高揚感に浸っている私に向かって、今日はわたしと寝なくていいの? などと急に話題を変えるので、私は思わず神妙な、というより内心、にわかに後悔の念にかられはじめ、というのも、彼女と愛しあいたかったのは当たり前のことだったから、その時間をバカげたおしゃべりで削ってしまったことにいまさらながら腹が立ち、それならこれから急いで服を脱がせあおうという気を起こすのだったが、その間にも、なんだか彼女に言われたからそうしているみたいな感じを自分が発しているのではないかと気になってしまい、しかし一度火をつけた欲望は灰皿のなかの煙草のように簡単に煙に変わってしまうわけでもなく、その微妙な気持ちの変化の加減もすべて酒の酔いのせいにしてうやむやにするしかできず、私は人形になってしまったみたいな感覚で、自分の情熱と少し離れたところから彼女を抱いたりしたものだ。

はじめから彼女とそうするつもりだったのに、それまでの時間をできるかぎり長く引き延ばすことで、抱きあう瞬間の快楽を最大限に高めてみたいという私の願望も、そんな繊細さなど微塵も気にせず臆せず直球に言葉を投げかける彼女に打ち砕かれてしまうと、彼女に対する不思議な怒りと、愛おしさの入り混じった、彩度ばかりが強くなだらかさを欠いた見苦しい野性的衝動と化して私を突き動かすのだった。

暗くなりかけるころ、私たちは服を身につけふたたび外出し、私は酒を飲みながらサニーデイ・サービスの歌を口ずさみ、街への坂道を歩いて、またそこにいてもいいと思えるような場所をもとめてさまよいつづけた。

私はそのころフイルムカメラに凝っていて、歩くときはつねにキヤノンのAE―1という、これは私が生まれたときに父が買ったものらしいが、実家でしまい込まれていたものをひっぱり出してもう何年も使い込んでいた。シャッター音が鋭く軋んだようにやけに下品に響くため、女にレンズを向けるのには適していなかったかもしれないが、彼女はようするに街の風景の一部である――あるいは一部分でしかない――という認識に依拠して、少し離れたところからだとかガラスなどの障害物越しの地点から写真に写し込むぶんには問題なさそうだった。そこでは彼女はおどけたミーアキャットのように、いつでも首を長く伸ばして目をぱちくりさせて、街のどこか片隅を、私のレンズを、私のいない時間を、見つめようとしている。

会えないときがつづくと、Tu me manquesと彼女はメッセージを送ってきたものだ。本音を遊び心の皮に包んで伝えたいときの暗号めいた言い回しとして、彼女はときどき、というより頻繁にフランス語を用い、私に辞書を引かせる苦労をさせるのだった。そうして私たちは言語の境界をさまよっていたのだし、再会前と再会後、あるいは学生時代という時間の混ざりあってしまった境界の波に溺れかけていて、私はといえば、しだいに自分が誰であるかという確信を失っていった。

彼女はたいてい、酔いはじめると恋人の話をしだすのだけれど、私にはいまいち彼女と彼女の恋人との関係がうまくつかめなかったし、ときには彼女と抱きあっている最中に恋人から電話がかかってきたりする始末だったのだが、私はそれをなんとなく悪いことだと感じていたにもかかわらず、誰に対して悪いことなのかまったくわからずにいた。

――彼女は死のうとしている。泳げ、日に当たれ。話し相手を見つけるんだ!

とにかく、私は、いまではそれがはっきりするのだが、暗い場所から明るい場所へ自分の身を移したかったということなのだ。あまりに長いこと、夕方から夜、そして明け方までの時間帯を活動の、あるいは非活動のために割り当てていたので、もうそれに耐えられないというところまできていたのだ。こんなにも自分の身体が太陽をもとめ、夏を懇願し、生命を許諾している。これは輝かしいことだ。あなたも、N医師も、私も、彼女の死を必要としていたのだ。誰が彼女の命を奪ったかにかかわらず、それは養分となり、私たちはふたたび太陽を目にし、水しぶきを飛び散らせ、便りを届けさせる。

 

 

もうここには存在していない何者か、まさにいま、現在進行形で存在しなくなりつつある何者かに思いを馳せるという殊勝なふるまいを通じて、私たちはかろうじて狂気の喫水を一定水準以下に保っているということなのか。それとも、私たちが目にしているこの世界は、すでに、どこもかしこも亡霊どもがまるではじめからそこらに存在していたかのように実体化して幅をきかせており、私たちはありもしない希望のあぶくを全身に浴びせられて浮かれ踊っている狂気のなかにいるのだろうか。

生涯会うことのないかもしれないN医師からの紙切れが、実際にこうして「宛名なしに」存在しているのは確かであるとしても、彼がほんとうに――もし存在しているのなら市民権を有した者として存在しているはずだろうけれど――、私のことを知らない人間なのかどうかはわからない。避けようと思えば避けられることなのに、決まってその時間のそのロッカーを開けてしまうのはなぜなのだろう。ひとがみれば、ただの「ゴミ」にすぎないかもしれない紙切れを、濡れた手で掴むときに覚える一瞬のためらいは何を意味するのだろう。私は自分がN医師になり紙切れをそっと置き残すところを想像してみる。それをはじめに手にするのは、まず間違いなく男性だ。自分と同じような日に、自分と同じように市民プールへ泳ぎに来るひとりの男。少し驚いたような顔。ついで、食い入るように眉を寄せて言葉を目で追ってゆく。私は彼女のことを考える。その男が知りうることのない、私の患者でもあり友人でもあった彼女のことを。そして、ひとの死というものについて、まったく想像力を動かすことのできないつまらぬひとりの市民のことを考えて、腹を立て、メモ書きを丸めてポケットに突っ込み、サンダルを履いて照りつける日光のなかへ歩いていく。

すれ違うようにして、ひとりの若い男がプールの券売機のほうへ向かっていく。振り返ってみるまでもなく、彼は〈市民百五十円〉のボタンを押すに決まっている。自分はこの市の市民であるという顔をしている。

建物の脇の奥まったところで、おじさんが何かを燃やしているのが目に入った。自分でもどうしてそうしたのかわからないが、私は彼のほうへ近づいていき、声をかけた。ライターや着火器具などに頼るまでもなく、直射日光のエネルギーがその場所に火をつけたのではないかというくらいの暑さだった。火加減を気にするように地面を見つめたまま、誰もやんないだろ、とおじさんが言った。この時期になるとさ、ほら、そこらじゅうでひっくり返ってるんだ。なかには、轢かれたかしてぺちゃんこのもあるしさ。べつに燃やさなくても、捨ててしまえばいいんじゃないですか? あんた、ビニール袋いっぱいの蝉の死骸を見たことあるか。ひとつひとつ地面からすくったり剥がしたりして集めたんだ。だってかわいそうだろ。干からびてゴミみたいに転がったまんまでさ。あんた、死んだ人間をゴミ箱に捨てやしないだろう。同じことだよ。こいつらだって生きてたに違いないんだ。誰かがやらなけりゃならない。そんなこと、誰も思っちゃいねえさ。みんな、あ、蝉が死んでらとしか思わない。あんただってそうだろう? それが普通だし、それでかまわない。だけど、おれは蝉が、ちょっとかわいそうでね。それまでてめえみたいに生きてたもんが、ああ蝉かあとしか思われない。だって不必要だからさ。蝉なんててめえらの人生に不必要なんだ。そうだろ? でも、こいつらも生きてたんだよ。だからね、誰ひとり、そんなことやろうなんて考えもつかないことは、おれはやってみることにしてるんだ。事務方にはやめてくれって言われてんだけどね……。

 

 

私は大きくのけぞって、鼻と口から空気を吸い込み、背中の内側に生命にとって重要な何かが充溢していくのを感じて息を喘がせる。彼女にはもうそれを感じることはできない。背中に宿った電気的なくすぶり、それはやがて羞恥そのものであるかのように私の皮膚を不快な手ざわりで撫でまわし、私はここに存在していることを恥であると、恥として感じなければならないと感じる。日の滲んでいく水中で、光の網がゆらめき、私の網膜は水に溺れ、行く場所を見失い、プールは彼女の声に満ちた巨大な混迷となって、私をノイズとして弾きだそうとしている。私の側面でいつまでも水と空気の不確かな境界がもつれあい、絡まりあってどちらともつかない中間地帯をつくりだし、そのただなかを運ばれていくのは羽を閉じた蝶のように頼りないヨットかもしれず、横風に火照った額をさらしながらこうして浮き沈みを繰り返し、かたわらには水と空気の曖昧な境界が上がり下がりして私を沈ませつつ浮かばせて、南極の氷が溶けることでまた少し水位が上がりもするけれど、やがて私は喫水線そのものとなり、彼女の可憐な夢の途中で急展開に揺すぶられ、眩しさのなか、傾斜面を転げ落ちる、慌てふためいて加速して、もう何にも浸らず、漂うことなく、転げ落ちていくあいだのどこかの時点で思いがけず彼女の腕をつかんだ――すり抜けて、遠のいて、あらかじめ決められたとおりに進行した芝居だったかのように、少し誘うような指のしぐさの残像にぶれて。

 

 

それはたしかにそこにあった。しかし幻影のようにやがて遠ざかり、私はふたたびそれをもとめる。それがどんな感触だったかも思い出せずに。

2019年9月9日公開

© 2019 長崎 朝

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