1998年の武田修宏

春風亭どれみ

小説

35,640文字

ワールドカップが来るたびに私がやってきます……ワールドカップが来るたびに私がやってきます……

 

1

 

響き渡るがなり声。傾いだ印影。無機質なビル群の間に溶けながら沈んでいく西陽。

さしずめ都市公団が分譲したマンションといったネーミングセンスのビルディングの低層階、そのうちの曇った窓から、中西清和は幕張新都心の景色を眺めていた。新都心のイノベーション本部という体裁の良い三字熟語とカタカナ語に彩られた実質のバックアッパー、控えメンバーたちが集められたオフィスは、彼の実家からもほどよく近く、中西は三十路にして、はやくも出戻り実家暮らし組の分際になっていた。

「今日はプレミアムフライデーだから、はやくあがれ!」

いつも余裕のない上司が金切り声をあげて叫んだ。残業代の数字、コピー用紙1枚分の経費、余計な数字で突っつかれることを彼は何より嫌っていた。おまけに今日は部署全員出動の予定がつっかえていて、それがさらに彼をせっつかせていた。その予定のせいで今日の部署の人間は中西や上司も含め、皆、気もそぞろ。声には出さないが、型の古いノートパソコンと睨めっこをしている昼職よりも遥かに緊張感の必要な任務であると認識していた。

中西たちは過当競争に晒されない身分であるかわりに、妬み、嫉み、やっかみ、ゴマすり、カースワードの遣い方。そう言ったモノが己の月給と出世に直結する鉄のカーテンの向こう側の住人でもあった。宦官というコンサバ、イノベーションの無い者同士のマウンティング。部署そのものが出来の悪い皮肉のようであり、彼らの行うマウンティングはそれすなわち、パワハラとセクハラのチキンレースでもあったので、情報を取り扱う事業に携わっていながら、グラスノスチは遠かった。

彼らは皆、「おもてなし」を控えていた。

半官半民、第三のセクターに押し込められたなんちゃってビューロクラットたちは、市井とSNSの一部では炎上芸人と揶揄されるとあるIT企業の創業者を煽て、図に乗らせ、機嫌よく帰して、そのブリーフケースに書類をねじ込むという任務が課せられていた。彼は今、とあるベンチャー企業の雇われCEOという身分になっていたが、そのベンチャー企業はまるで暴力団のフロントオフィスのようなベンチャーの名を騙ったお抱え企業であり、性質の悪いことにそのお抱え企業のCEOという肩書が、中西たちの実務に直接的な影響を及ぼす会議の役員という立場にこの男を潜り込ませていた。

彼は明らかに権力と愉悦と海綿体が相互乗り入れしているような人間であったが、その権力に付随して回る既存のハイカルチャーというものを著しく嫌っていた。そして、その偏った嗜好こそがイノベーションであると信じていた。中西の上司は、宴席に赤坂の料亭を苦心して抑えていたが、CEOは直前になってそれを「キャンセルしろ」と、突っぱねた。そして、顧客を満足させる意識が足りなく、その態度はウェブ上のグルメガイドの星をアテに店を探す旅行者と変わらない、サービスとしては甚だ酷い怠慢であると、電話口から上司を詰った。

その為、彼のフェイスブックのページを中西や若い女性社員である早乙女はフォローし、彼の趣向を探る仕事が増えた。彼は畏まったホテルのレストランよりも好んでダイニングバーのような店に出入りしていることがすぐに分かった。

中西はやたらと度数の高いお酒を出すスポーツバーが西葛西に一軒あることを知っていたので、そこを薦めた。その店は大学生が合コンに使うような、敷居の低い店である為、典型的な宦官の性格をしていた上司は、経費にその店の名前が記されることに難色を示したが、中西は、

「ひねくれ者のCEOのような人間なら、これくらい極端な方が喜びますよ」

と、軽く言い放った。事実、そこは、前頭葉の活動をただただ濫費することだけに明け暮れていた大学生当時の中西とその連れたちが根城にしていたバーだった。そこで屯していた仲間には、就活に失敗した者、むしろ人一倍図に乗っていながらもその後に精神を病んだと風の噂でしか名前があがらなくなった者なども含まれていた。つい最近、とはいってもちょうど一年ほど前に、中西は当時の仲間と久々に集まったが、そこで繰り広げられる馬鹿話はどれもくたびれ、錆がついていたモノばかりで、彼は灰色の気持ちになったのを思い出した。

 

「中西はいいだろ、それでも安定した世界にいるんだから。よっ、法政の星」

「けど、うちは共産主義だからな。その分、自由はないし、ババを押し付け合うこと自体が仕事になっている」

「平和な証拠じゃねえか。うちなんかファシズムだ。人格どころか、人命そのものの重さもコピー機一台よりも軽い世界よ。維持費と効率を考えれば、従業員の方がよっぽど劣っているんだと」

「そりゃあ、資本が無きゃ、資本主義はできねえよ。別のイデオロギー……ならまだましだ。カルトが蔓延るしかねえからな」

そう吐き捨てて、管を巻く男は、就活を終えた時点では有頂天になっていた男。中西のことなど、予め配られてきた配牌の「中」とか「西」ですぐ鳴いて、後はツモをひたすら待つようなつまらない麻雀そのもののような男だと吐いて捨てていた。けれども、そのような横柄さを晒し、卒業を間近にして、仲間内での好感度を少し下げたような男の傲慢でさえも、キャピタルゲインには程遠かったようだった。彼も所詮は中西と一緒に、不平不満を肴に駄弁ることもそれなりに楽しいと感じてしまう人並みな男だったのだ。

「たとえ親であっても、会社の毒と思えば微笑んで殺せ! わ、我々はこれより、過去を切り捨てるゥ! 泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだー。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるから、からだ……」

大学時分から一番酒に弱かった、頬のこけたJINS眼鏡の男がいきなり捲し立てて笑った。アルコールとストレスのちゃんぽんのせいで相当に悪酔いしているようだった。

「それ、小学生の時、映像の世紀で見させられたなあ。本当に性質の悪い冗談だよ」

「まったくだ、法人ってやつは、とんだサイコパスだ」

中西はそう言ったっきり、まつ毛に目ヤニと涙の粒を付けながら、眠りこけてしまった眼鏡の向う脛を、半笑いを浮かべながら、蹴り上げた。いつも鳥瞰的な物言いで、人を品定めばかりする高慢ちきなかつての有頂天男はというと、その発言を聞いても、困ったように笑いながらウォッカベースのカクテルを啜り、そして、親の仇のようにピスタチオを齧り続けるばかりで、どうにも面白くない男に成り下がっていたのだった。

 

――この世界は常軌を逸するほどに入れ込める対象を見つけられないものにはとても平等だ。

 

中西にはかねてからそのような臆病でニヒルな持論があった。

人間的な感受性、心身における健康、そして単純に経済的な余裕といったものをポイント化して、パラメータに割り振るだけであり、従業員の夢の中では何度も殺される厭味な上司も、いつ見てもつまらなさそうにしている取引先のお茶酌みさんも、彼の眼にはそのポイント配分が少し違うだけの類型としてしかとらえられなかった。

(だから今、俺の目の前で良識を疑うような武勇伝を語っているベンチャーな性分のCだのEだのOを名乗るこの男も俺と同類。そう同類のはずなのだ)

中西は伏し目がちにCEOを覗いた。中西の脳裏に映ったCEOの横顔は王様ゲームに興じる大学生にほうれい線とカラスの足跡をつぎ足しただけのよく老けた若造の顔、そのもののように映っていた。

「だから、そういう官僚的な態度だから、アンタらの仕事は一事が万事、全部ダメなんだよ、わかるかなあ」

「はあ、重々承知しておりまして……」

瓶のラベルはキチンと上にして、諂いながら上司は彼のコップにビールを注いでいた。スラックスの裾を捲り、ジャケットの下のTシャツにはプリントアウトされた水着姿のケイト・モスがチラリと顔を覗かせているというような悪趣味なファッション。不真面目な運動部員のメンタリティが抜けきらない全力少年とやらを自称する男は、注がれた生ビールを一口で胃の中に流し込むと、

「やっぱり、オーストラリアで飲んだペールエールスタイルののどごしの方が俺は好きだねえ」

と、バッサリ切り捨ててみせた。それは上司が妻に給料日にしか飲むことを許してもらえないサッポロの黒ラベルだった。

そもそも発泡酒すらまともに買えない中西はというと、「維新志士を名乗りながらも、巷間では料亭での狼藉しか伝わらなかった大半の不逞浪士もこんなような奴だったんだろうなあ」などと一人、合点しているのを悟られないように作り笑顔に努めているのだった。スマイル、ひたむきにスマイル。笑うだけならタダでも出来る。あらゆる従業員はサービス業者だ。一人称は「俺」の中西清和も「僕」なのだ。たとえ〇円でもメニュー表に値段をつけるのもおこがましく、それは予め彼らに搭載されているべきプログラムだった。

「ハア、しけたゴマすり笑いしかないなあ、ここは。笑顔が素敵って褒められるのは特別な人間だけなんだよ。肝に銘じろ。だいたい、どいつもこいつも若い時、馬鹿の一つもしたことなさそうな顔ばかりだな……って、オイ、そっちへ行くんじゃねえよ、チビ」

ベンチャーのCEOは、宴席に三歳ほどのご子息を連れてきていた。とても素晴らしい情操教育だ。成金の息子ではあるが、彼の妻も、夫同様、プチブルな趣味は持ち合わせていないようでミキハウスの服は身に着けていなかった。しかし、既に彼の前髪には既に整髪料がべっとりと付けられていた。

中西にとって、特別な人間な笑顔は二十年近く前のオリンピックで高橋尚子がしてみせた金メダルを齧りながらのあの笑顔だった。読売、朝日、毎日、産経の号外から、くたびれた中年が眠りながら広げる夕刊フジまでの紙面に、ナンバーのスペシャルイシューといったようなあらゆる誌面において、彼女の笑顔は光り輝いていた。VHSで筋肉番付を撮るついでに映りこんだ五分ニュースやISDNから送られてくる画素数の低い画面にまでそれはあったはずだが、かえって、もうそれは失われた情報と化していた。

兎にも角にも、2000年の高橋尚子はそれだけ革命的だった。それは中西が中学にあがると、周回遅れがデフォルトながらもトラックを駆けることに明け暮れていた学生ランナーになっていたから余計にそう思っていたのかもしれない。サングラスを投げる仕草は、日の暮れた後の自主練習中に何度も真似をした。

けれども、中西は結局最後までトラックのゴールラインで笑顔を見せることはできなかったし、そこで濫費された青春のエネルギーで稼いだ金はやはり0円、1サトシ程度のビットコインすら採掘できない。影響を与えたことといえば、当時の駅伝での活躍を引き摺ってそのままのちのち卒業する大学まで、進路を決めてしまったことくらいか。大学で陸上をする気など微塵もなかったくせにである。尤も、それはまた高橋尚子とは別のランナーに憧れてのことだったが。

大学デビューに金髪を選んだのも同じ理由だ。ありとあらゆる若者は当然として、海砂利水魚の上田晋也から千葉ロッテの初芝清まで金髪にしていた時代の中で、彼は最も輝いて映った金髪のランナーだったが、それでも勝負の神様の名を借りた世間は、彼の笑顔でメディアを埋め尽くすことを良しとせず、応援もしなかった。

「俺、これでも学生時代、金髪だったんですよ」

ベンチャー企業のCEOに頭を叩かれる為に、中西は彼の前に身を乗り出した。その時、後輩の早乙女が焼いていたチーズと明太子が絡んだ生焼けの鉄板焼きの生地がYシャツの裾に付いたが、気にしない。当惑して、口を抑える早乙女は、学生時代手芸部という部活の部長だったらしい。そんな早乙女も含め、俺は背中で訴えかけようとしたのだった。これが持たざる者、イノベーションの無い者が日銭を稼ぐ道であり、半ば存在意義なのだと。

「マジかよ、道理で。三十路なんだっけ、にしては生え際がヤベえなって思ったのよ」

CEOは途端に上機嫌になり、歯を剥き出しにして破顔一笑。吉本のお笑い芸人をお手本にしたような大仰なジェスチャーを交えて、手を叩き、腹を抱え、転げまわってみせた。おどけた表情で額の生え際を弄ってみせると、彼はお盆の上のへらを中西の額に押し当てた。金属から伝わる熱は、おたふくかぜの幼児の肌くらいの熱さであったが、中西はさも火傷をしたかのようなリアクションをとった。CEOは満足して、そのへらでそのまま焼けた鉄板焼きを掬って、そのまま食べた。まるでチンパンジーのようだった。

「これがエコノミックアニマルの末裔か」

と、中西は思った。中西の行動は、このエコノミックアニマルとそのジュニアを満足させることが、この宴席での最大の目的であると、僕達に再認識させることとなったのだった。

いつも神経質で気位の高い上司は、CEOの息子にむんずとその脂ぎった顔を鷲掴みにされると、無慈悲に白髪の交じった鼻毛を何本か抜かれた。息子を注意するでもなく、その悶着を愉悦の表情でニヤニヤと眺めていたCEOは「からの?」と、中西の上司に圧をかけた。上司はゴクリと生唾を呑むと、今までチビチビと舐めるように味わって飲んでいた黒ラベルの残ったジョッキに抜かれた鼻毛を散りばめさせ、一思いにそれを飲み干してみせた。脳内の血管にも、十二分にアルコールが回り始めていたCEOはさらに声を荒げながら馬鹿笑いした。

部署はたちまち、裸の王様を笑わせる為の出し物大会と化した。素人の芸はコントやものまねであるよりも、ポルノ紛いの一発芸やストリップであることが好まれた。猥雑であるという嘲笑が一番、手っ取り早かった。

傍目から、敬意など決して受けることのない、生きる為に演じる雌伏と蹂躙のパロディをみなが演じている最中、個室の向こうのカウンターに設置されている大きなモニターがサッカーの試合を映し出しているのが中西の目に映った。日の丸を背負った代表選手がワールドカップの最終予選を戦っている。青のレプリカユニフォームを着た若い男女が何やら盛り上がっている。中田英寿に顔の良く似た新鋭がどうやら追加点を決めたようだった。

「もうこれは、決まったな」

「井手口、これで23人のメンバー争いに食い込んだね」

「ガンバでもあのヤットから、レギュラー奪ったからな」

最終予選は終わっていないうちから、もう誰をロシアに連れて行くべきなのか、井戸端采配に話題は既に移りつつもあった。

「そうか、今日は代表戦か。しかし、盛り上がらねえなあ。それだけ当たり前になったってことだけどよ。ドーハも、ジョホールバルも俺は知っているから、何かなあ」

中西の頭に空っぽのジョッキを乗っけながら、CEOが個室から身を乗り出しながら、呟いた。そして、代表のユニフォームはダサいと軽口を叩かれながらも、その愚直な情熱が現れたような炎をあしらったあのユニフォームが一番好きだったとも、言った。

中西は今まで、暴力欲と性欲の為に少しばかり悪知恵のついたチンパンジーにしかみえなかったこの男が少しばかり、人間のように見えた気がした。そういえば、昔サッカーをやっていたような、そんな雰囲気を醸し出している。そして、中西は彼の外見がその成金趣味のファッションまで含めて一人の英雄、垢抜けない炎の意匠をあしらった青きユニフォームを着ている姿を見ることができたらどんなによかっただろうかと、ふとした時に今でも思う元サッカー選手に瓜二つであることに気付いた。

「そういえば、武田に似てますよね。やっぱ、ある世代にとってはヒーローなんでしょうか、今でも」

しかし、CEOの態度は素っ気ないものだった。

「武田ァ、ヴェルディの? カズならまだしも武田じゃなあ。百歩譲っても、城だよ。お前、J2降格な」

中西と彼の温度差は、ジョッキの中の生ビールと、ゆがいた枝豆くらいに大きく違っていた。中西は決して冗談のつもりで呟いたわけではなかったし、自分自身でも少数派であると自覚していながら、中西にとって武田修宏の身に着けているユニフォームの色は緑と白の光沢とグローバル企業のスポンサーに包まれたそれではなく、水に浸した菜の花のような色をした薄暗い黄色のユニフォームであり、彼はそのユニフォームをさらに泥で汚しながらボールを追いかける孤高の英雄であった。

それは、Jリーグバブルの狂乱をさも嬉しそうに話したり、誰もが認める太陽的なヒーローである中山雅史と己を比較して、「ウサギと亀」だと自嘲したりするバラエティ番組のピエロ的役割でバラエティのオファーを受けるタレントの姿とは一番かけ離れたものだった。少しは当時のサッカーに事情に明るいようにも思えたCEOにとっても、彼は世間大半のイメージそのものであったらしかった。

「少し面白くない」と感じたのか、CEOは事の顛末など何も聞いておらず、宴席のメンバーの為にせっせと豚の内臓を小皿に取り分けていた早乙女に近づいて、

「そういえば、アンタは野人岡野に似てるよなあ。でも、無駄に乳でかいってのがな、ウケるわ。巨乳岡野。イエローカードな!」

と、罵った。やはりこの男はチンパンジーだった。彼に少しでも会話を持ちかけようとした己を中西は呪った。

しかし、当の早乙女は幸か不幸か、そもそも弱小レッズ時代を支えた岡野の存在を知らず、「ヤジン」がどの漢字で変換されるのかも分からないようで、キョトンとした顔をするばかりであったし、罵ったCEOは、簡易的なマウンティングで機嫌を回復させたのか、誰も口をつけていなかったビールジョッキを見つけるや否や、それをグビグビと一気飲みして高笑いをしてみせていた。脂身由来でない胃のムカつきをこの時に覚えたのは中西ただ一人であり、王様の機嫌が損なわれていないことが判明した以上、この瞬間は、ハイライトではスルーされて然るべき、案件でしかなかった。それは中西も理解していた。

(それに、俺の苛立ちは義憤なんかじゃない)

中西は自分自身を、今さらセクハラに眉を顰めるようなできた人間ではないし、そういう正義感をむしろ鼻で笑うような、倫理で飯は食えないと腐す類の人間であると、認めていた。後輩として、チームの一員として、能力が足りない、足を引っ張っていると判断した時には、説教と称して、彼女を不機嫌の腹いせ、スケープゴートの的にしたことさえあり、そのことに対して、罪悪感を持てるような器は中西にそもそもないのだ。

中西の苛立ちには免罪符になるものが何一つなかった。彼は自分自身より、肩書が上の人間という姿を借りた権力がある以上、己の機嫌など己自身で収めなければならなかった。それもまた、従業員でしかない彼の日常業務の範疇だった。

「すいやせーん、ちょっと、これ、吸ってきます」

中西は人差し指と中指でシガレットを挟むジェスチャーを上司たちに見せてから、背中を丸めて外に出た。晴れ間の極端に少ない晩夏の曇り空は、思った以上に肌寒く、風が吹くと、ワイシャツ1枚だとぶるるっと身震いするほどだった。

「気温、いくつだよ……これ」

中西が華為のスマホを取り出すと、素性の知れないアニメアイコンの男が中西のツイッターのタイムライン上で、現在浪人状態の鈴木隆行が冬に引退試合を行うかもしれないという眉唾物の情報を垂れ流していた。

「武田に鈴木隆行か……」

思春期を迎え、ニキビ面と極端に大きい喉仏を携えながら、がむしゃらに走り続けていた中学生より前の記憶など、中西はごみ箱に捨てたつもりでいた。だが、野放図な力によってごみ箱は倒れると、彼は抹消していたはずのそれ以前の記憶を見つめずにはいられなかった。学生ランナーになる前の彼はサッカー少年だった。それも冠に「とりあえず」、「なんちゃって」、「へなちょこ」とでもつくような。

馬鹿を進んでやる為の景気づけに少しばかり飲み過ぎたのだろうか、怒りでも、情けなさでもない、何か名状しがたいくすんだ感情が中西を乱暴に掴んで揺さぶった。そして、たった今、手の甲で拭った涙はその揺れに目を回して、不意に零れたものだ。そうに違いない。なんちゃってサッカー少年であることを思い出すのも、へなちょこサッカー少年でしかなかったことも、真っ暗なスマホの画面越しに映る今の中西には他愛ない思い出のなりそこないでしかなかった。ただ一つだけ、彼が本当に抹消したがっていた記憶も転がりでてしまったのだった。

中西清和は「泣き虫サッカー少年」だった。

 

2

 

春が来たというのも暦の上での話。近隣公園と称されている児童たちの球技の練習場の芝草にはまだ霜が降りる。そして、下総台地に吹き付ける北風は痛く冷たかった。

子どもは風の子、そんな中でも半袖半ズボンでサッカーの練習をすることこそがあるべき姿であると直接、明言せずとも大人たちは彼らに期待をしていた。外で無邪気に遊ぶ少年の姿と清楚な制服姿で控えめに笑う女子高生の姿はいつだって写真やイラストの世界で大人気なのが、それを何より表している。

中西清和、樋口智史、ブルーノ・加藤・アンドラーデ・リマの三人は地元の少年サッカークラブに所属する小学4年生の仲良し三人組であり、三人とも揃って試合の際は、ママさんたちからの黄色い歓声をベンチから受け止めることが常だった。中西以外の二人は早生まれということもあってか、背の順でも前から数える方が皆早く、貧弱なチワワのような彼らの足を覆う脛当てはひどく大きな風に映った。

中西が力いっぱい蹴り上げても、ベコベコのモルテン・タンゴの四号球はサッカーゲームのエキサイトステージのように跳ね上げるようにゴールネットに突き刺さることはなく、樋口の覚束ない左足の腿にあたって、てんてんと転がるばかり。加藤・アンドラーデ・リマはその日も何もない芝生の上ですっ転んで、擦り傷を作っていた。

彼の場合は、余計に不幸だった。その呂比須ワグナーやラモス瑠偉を思い出させるような奇抜な名前、何もしなくても日に焼ける浅黒い肌と団子っ鼻、そして、歌手の久保田利伸のようなパーマがかかった髪型で勝手に周囲の期待値があがる分、中西と樋口と同じC組のへなちょこ少年サッカー選手であることは、それだけで悪目立ちし、その存在自体がからかいの的となっていた。

レギュラー格の選手の誰がいったか、ベンチにいるから「ベンチーニョ」というあだ名は、サッカークラブとは縁もゆかりもない学校のクラスの女子の間にも定着し、教育実習の大学生がうっかり「ベンチーニョ君」と言って、クラス中を爆笑の渦に巻き込んだ事件などはSNSの発達した現代ならば、モーメントとして取り上げられて、千を超えるリツイートを稼ぐ案件になっていたかもしれない。

彼らもサッカー自体は嫌いじゃなかった。しかし、全員が羊のように内気で、傷つきやすく、その上、自分の神経がプレステのコントローラのように高機能でないことにもどかしさを感じていた彼らの放課後自主練習が30分ともたないことは致し方がないことだった。

駆け足をやめると、じゅくじゅくとリンパ液が滴る膝小僧に容赦なく吹き付ける北風が途端に凶暴に思えたのか、ベンチーニョの瞬きの数がにわかに増えだした。彼は、少しでも気を緩めると溢れ出てしまいそうな涙を必死に堪えているだと、中西は気付いた。

「もうやめよう。暗くなってきたし、僕、寒くなって来た。ねえ、ベンチーニョも樋口君もいいでしょ?」

ベンチーニョはコクリと頷いた。三人の中では、意地っ張りで相対的にまだ負けん気も人並みの少年レベルにはあった樋口はというと、内心では真っ先に練習に飽き、はやくストーブの前でテレビゲームをやりたがっていたのだが、自身が言い出しっぺである以上、素直には中西の提案に従おうとしなかった。「やだ」だの、「えー」だの、ぼやきながら、心が離れたサッカーボールをつま先でこねくり回し続けていた。虚弱児ながら、ボールを追いかけていた時には忘れていた肌寒さが、汗が冷えるのとともに三人にも降りかかる。くだらなくもねちっこい険悪が灯りに照らされ、漂い始め出す。中西はそれに耐えられなくなって、とうとう樋口に打ち明けた。

「僕、樋口君んちで、ゲームやりたいな。あのプロレスの」

それは樋口を必ず仕留められる殺し文句だった。彼は1998年になっても、スーパーファミコンしか買ってもらえていなかった。もっと厳密に言うならば、彼の家にあるテレビゲームソフトはどれ一つとして、彼の誕生日やクリスマスにやってきたものではなかった。それは、既に就職し、この土地、団地を去った歳の離れた彼の兄が、高校時分、アルバイトをして貯めて買った代物、昭和の中坊の世界を経験していたその兄の趣味を色濃く受け継いだおさがり品だった。そして、それはカクカクしたポリゴンとぶるぶる振動するコントローラに親しんだ大概の同世代の子どもたちを満足させる作品たり得なかった。樋口は、ポケモンや、パワプロや、64の007の話に樋口は付いていけていなかったし、日頃、ぷよぷよSUNのパッケージを見ては、「オタク臭い」とそのヤングアダルト的なキャラクターを指差してはつっかかったが、スーファミで何年遅れかのぷよぷよ通を中古で購入しては、「あんまりおもしろくないのに」とぼやいていたのを中西もベンチーニョも当然のように知っていた。そして、SUNでは自プレーヤーキャラクターとして選択できる金髪碧眼のウィッチというキャラクターを通では選べないことに密かに不満を抱いていることを知っていても知らないふりをしてあげていた。つまりは、彼は自分の知っているゲームの話を、空間を、友だちと共有することに飢えていたのだ。それを知っていながら、本当はさして興味も湧かないスーファミのプロレスゲームをやりたいのだと、主張することに中西は後ろめたさと自己嫌悪を覚えた。

おはぎみたいな野良猫がシャラシャラ音を立てながら、街路樹の陰に身を隠す。近隣公園のすぐ隣の2号棟の角部屋から、甘いにんじん、付け合せの煮魚、そしてシチューの匂いがする。これから、樋口の家に遊びに行くのは、常識で考えるならば、家の人に失礼なのかもしれないが、彼は鍵っ子なのだ。低学年の時の彼は、サヨナラすると学童保育の施設へと大きなランドセルを背負いながら、消えていったチビだった。この光景こそが彼らの全てだった。サッカーが下手なことに悩み、テレビゲームへの期待に胸を躍らせ、まだ誰も恋したこともなく、そして、父母、祖父母まで含めて、どの子どもたちも今生の別れというものを経験していなかった。ただ漠然とまだ何も始まっていないに等しい人生に、若干怯えていた。どれだけ世界が激しく動いていても、事件に人生が掻き乱された人の咆哮や咽び泣きがあっても、この空の下で彼らの心にあるのは、それだけだった。

彼らは新聞などスポーツ欄とテレビのラテ欄しか、読んでいなかったし、空爆によって瓦礫になる街や顔に傷を負った兵士の姿がニュースから流れる度に見たくないとチャンネルを変えていた。そのニュースはリアルタイムでも、オンデマンドではなかった。

9000キロメートル離れた田舎町で見知らぬ腕と牙と性器によって、報道も憚られるほどに嬲り者にされ、二つの唇から血を流し、嗚咽する少女の存在への想像力もなかった。中西たちにそれが出来るはずもなかった。小学生が学習として歴史に触れるのは六年生。もう少し先の話だった。ちょうど1年後、映像として民族浄化や革命の虐殺に触れ、樋口が教室で嘔吐することになるのだが、そんなことはこの時点の彼はまだ知る由もなかった。星の数ほどの命を奪ったポル・ポトが後、三ヶ月そこらで自分自身も死ぬのだと、おそらく知らなかったことと、同じように。

 

それはそれとして、樋口の操るグレート司馬はめちゃくちゃ強かった。

ゲームキャラクターグレート司馬のモデルは、デザイナーの描く几帳面なドット画から、誰でも分かるようになっていた。赤いパンツに年相応の融解した胸筋、盲腸の患者のような凹んだお腹、しっぺ、デコピン、馬場チョップのジャイアント馬場だ。中西もベンチーニョも、このコントの中の小学生のような髪型をした大男のお爺さんのことを『SHOW by ショーバイ』などのバラエティ番組で知っていた。もしかしたら、『マジカル頭脳パワー』でも見たことがあるかもしれない。そのおっとりした大男は、年の功という慣用句とは裏腹に、朴訥とした顔でテレビだというのにいつもうつらうつらしていて、たまに口を開けば、小学生でも分かるような問題を間違え、笑いを誘っていた。そしてそれを福澤朗や野沢直子にからかわれても、おっとり笑っているような人だった。とても彼が、並み居る屈強なレスラーをなぎ倒す姿というのは、中西には想像できなかった。

しかし、青春期をプロレスに捧げた兄を持つ樋口はその薫陶を受けた敬虔な馬場信者であった。

「馬場さんはな、本当は最強なんだぞ。三沢も、小橋も、高山もみんな馬場さんを尊敬しているんだ。団体が違うから戦わないけど、きっと、ムタや小川直也よりも強い」

そう言ってはばからなかったが、あいにく、90年代中ごろからはプロレス自体がゴールデンの地位を追われ、まるでワンダフル枠のアニメのように深夜帯で、一部のファンの間の会話の添え物、そのような存在に成り下がっていた。小学生の文化の中に彼らの戦いぶりはもうなかった。中西も、ベンチーニョもいくら自分が熱っぽく語っても、今一つピンと来ていないことを悟ったのか、暫くすると、樋口は観念したように、呟いた。

「……だから、アンディ・フグよりも強い」

その言葉で中西は初めて、彼がとんでもない論をぶち上げていることに気付いた。アンディ・フグこそ小学生にとって、最強の男の象徴だった。青い目をした侍と呼ばれたその男は、人懐っこいキャラクターと、力強く踵を振り下ろして、どんな強敵も打ち破っていくヒーローそのものだった。そして、平成が始まった頃からの人気に陰りが見え始めていた角界の大横綱、貴乃花から、最強の名を奪取したのだった。

「第一、アンディ・フグの踵落としも馬場さんには届かない」

「それはおかしいよ。アンディ・フグは踵落としだけじゃないんだよ。ベルちゃんを仕留めた回転しながらのローキックやキレのあるパンチもある。隙がないよ」

お国柄、フランシスコ・フィリオというデビュー戦でそのアンディ・フグに勝利してデビューした空手家を贔屓にしていたベンチーニョでさえも、アンディ・フグの強さは微塵も疑っていなかった。

中西も、ベンチーニョも、教室で取っ組み合いの喧嘩などしたことがなく、女子に対しても一度も「ブス」と罵ったりしたことがないようなハト派の少年たちであったが、それでもスポーツ中継には男の子らしく齧りつき、それが好きかどうかなど疑ったこともなかった。事実、スポーツの試合は、ジャンルを問わず、どれもワクワクし、たいへんエキサイティングだった。そういうものだった。だが同時に中西は、スポーツはおろか、今のようにテレビゲームでさえも実際に自分が身体や指を動かすよりも、誰かが勝負しているのを見て、応援する方が、内心では好きだと薄々思ってもいた。なので、自然とスーファミのプロレスは、樋口対ベンチーニョの時間無制限マッチとなり、結果はいつも、指の捌き方を熟知している樋口の圧勝に終わった。それは当然のことであり、その結果にベンチーニョが面白く思っていないこともまた、当然だった。

「ベンチーニョも頑張ろっ。次、勝とうよ。ねえ、K1ファイターって、このゲームにはいないの?」

中西はベンチーニョにそう言って励ました。

「もういい。……つまんないよ、これ。嘘だもん、馬場だってホントは弱いもん」

だが、ベンチーニョはそう言ったきり、ぷいと顔を背けて拗ねてしまった。歳の子の一人っ子で、父からも母からも溺愛されて育った彼は、高学年の男子ながら、そういった幼稚さを恥じないところがあった。

「自分が弱いだけなのに、馬場さんが弱いとか、八つ当たりするなよ、ベンチーニョの、バカ、泣き虫!」

樋口は拗ねて、自分の方に顔を向けようとしないベンチーニョに馬乗りになった。そして、「これでも、馬場さんは弱いのか、言えよ」と、言いながら、短い足を、ベンチーニョの身体に絡ませ、顔を脇に抱えながら、締め上げた。小柄な彼が「ジャイアントSTFだ」などといいながら、ベンチーニョの関節にうまく届かない分、あまり痛くなさそうな関節技を仕掛けているのは、ご愛嬌でしかなかったが、それでも、カーペットに先ほどのサッカーで擦りむいた傷が触れ、沁みることに耐えかねて、ベンチーニョはポロポロと泣き出した。その姿を見た樋口は、

「船木ィー! 船木ィー!」

おどけてスキージャンプの原田雅彦の真似をして、ベンチーニョをからかった。

泣きじゃくりながら、チームメイトの名前を呼ぶこのラージヒル団体金メダリストの真似は、団体ラージヒルの決勝が終わったその直後から、地面に片膝を付くビスマルクとともに小学生たちのものまねの定番となっていた。

それだけ大の大人がテレビで泣きじゃくる姿は子どもたちには印象的だった。中西は、大人は泣かないものだと思っていた。一度しか参列したことのないお葬式ですら、泣いている大人は誰もいなかった。人が死んだというのに、「これだけ生きたら大往生だよ」とお酒とともに思い出話に花を咲かせていた。母は、「赤ん坊の時に一度、抱っこしてもらったのよ」と、中西に言ったが、遺影に写る老人は歴史の教科書の中の人のように思えた。そんな大人しかみたことがなかったのに、猛吹雪の中、スポーツに挑んで、大の大人が泣きじゃくっている。それが不思議でならなかった。

しかし、そんな子どもたちの残酷な疑問と嘲笑も仕方のないことだった。中西たちならずとも、子どもたちにとって、冬季五輪とは長野だけだった。見ていた子もいたかもしれないし、物覚えの良い子もいたのかもしれないが、リレハンメルの彼の失敗とバッシング、自責の念と絡めて、彼のK点越えの号泣を考える子など、誰もいなかったのだ。皆、長野の一回目のジャンプで失敗した後、二回目で挽回して、それで後はチームメイトに全てを託して、そして泣く、そんな大人なのに泣き虫なおかしな人としてでしか、彼のことを捉えられなかった。

「もうやめなよ、二人とも。一旦、ゲームやめよう」

中西は二人を宥めすかしながら、テレビのリモコンで、テレビのモードを切り替えた。ちょうど夕方のニュースの時間だった。もう少ししたら、流石に帰らなければならない。

タイムリーにニュースの特集は開幕を控えるJリーグだった。ヴェルディ、マリノスから主役の座を奪っていた鹿島アントラーズと、ジュビロ磐田のスター軍団たちに時間が割かれ、前年に健闘し、優勝候補の一角となっていた横浜フリューゲルスや柏レイソルにもスポットがあたる。漫画の主人公のような這い上がり方で日本代表の初ワールドカップの原動力となった中山雅史や山口基弘、期待のニューヒーロー候補として柳沢敦や明神智和のインタビューが放映される。通年ならそこで、特集は終りであったが、今年は少し様相が違った。

「次は生き残りをかけたチームたちです」

キャスターの物騒なコメントとともに、比較的にJリーグ歴の浅い新米チームたちがピックアップされ始めた。Jリーグブーム後の新米チームたちは、哀しいかなトップクラスの選手を集めきれず、どこもかしこも層が薄く、はっきり言って実力不足だった。

その新米チームたちがやっとの思いでJリーグという栄えあるカテゴリの末席に座れたというのに、どうやら来年からJリーグは一部と二部に別れてしまうらしかった。そして、その中で何チームかが来年発足する二部リーグスタートとなってしまう可能性がある。1998年のJリーグを毎試合トーナメントのような気持ちで戦わなければならないことになる新米チームたちに中西たちが物心ついた頃から親しみのあるチームの名前がまじっていることに三人は目を疑った。

ジェフユナイテッド市原。一チームしかないプロ野球チームと違って、市原と柏、千葉県に2チームあるJリーグチームに対して、千葉の子どもたちはとてもシビアな目を向けていた。特に中西たちの団地は、ちょうど市原と柏の中間にあった。なので、端的に言えば、強い方が応援された。どちらも不甲斐ない成績の時は、時の強豪チームにパイを奪われることさえあった。そしてこの頃、ジェフ市原はというと、完全に後発組であり、成長著しい柏レイソルの後塵を拝していた。弱い方の千葉と子どもたちに揶揄されていた。そんなチームが聞いたこともないような恐怖にさらされようとしていた。「弱い、弱い」と小ばかにしていたが、その事実が、三人には、ショックでならなかった。

そもそも二部がこれから、どう取り扱われるのか、完全に未知数だった。二部の選手もプロ選手として、巷間は認めてくれるのだろうか、テレビや新聞で取り上げてくれるのだろうか、JFLに実質、逆戻りしてしまうのではないか。

そんなジェフを救うべく、古巣であった京都パープルサンガ、そして、ヴェルディ川崎を蹴って、元日本代表の武田修宏が入団したとして、その入団会見の映像を大々的に取り上げたのだった。

「ジェフ、注目されてるね」

中西がそう切り出すと、

「名誉なんだか、不名誉なんだか」

「ねえ、武田って凄いのかな。前はどこにいたんだっけ?」

喧嘩していた樋口とベンチーニョも先ほどのことなどすっかり忘れたように、テレビに映った情報で、未知なる新戦力がジェフに何をもたらすのかを語り合いだした。日の丸のアップリケを付けた青のユニフォームに身を包む武田の姿を中西たちは誰も知らなかったが、ジェフを救いたい、そして、自身もワールドカップに出たいと言ってはばからない武田に期待と困惑の入り混じった視線を投げるしかなかった。幸いにして、中西たちは何故、ゴン中山と同じ年の武田修宏がいくら渇望しても代表に呼ばれることが無くなってしまったのか、知らなかった。ドーハの悲劇の銃爪を引いてしまったのは、紛れもなく彼だったのだ。

「武田とマスロバルって、上手くフィットするかな?」

「ユーゴスラビアは出るみたいだけど、アイツはワールドカップでるの?」

「んー、分からない」

無邪気にどうやらドイツマルクで報酬が支払われているらしい古き善き省エネ型のファンタジスタとさすらいのごっつぁんゴーラーとの相性ははたして合うのかどうかを語り合ううちにいつの間にか、テレビではクレヨンしんちゃんが始まっていた。中西とベンチーニョは急いで荷物を纏めて、樋口に「さよなら、またね」と、言って、玄関の重いドアを開けた。

「一度くらいは、ジェフの試合、見に行こうぜ」

玄関先で樋口は、何気なく呟き、中西とベンチーニョは、それに「んー、そだね」と、空返事をもって、応じたのだった。

 

 

1998年Jリーグファーストステージ開幕戦。早くも「一部死守」をかけて浦和レッズと戦うことになったジェフ市原は、3―2のスコアで敗れた。武田修宏は一時同点に追いつく1ゴールを決めていたが、ちょうどそのこの頃の中西たちの興味は、サッカーのレッドダイヤモンズとの勝負よりも、ポケットビスケッツの新曲『マイ ダイヤモンド』のマスターテープが鉄球によって破壊されたことと、クラッシュバンディクー2の赤いダイヤは如何にして取ることができるのかに傾けられていた。

小学校の最高学年になった中西たちの話題を占めるのは、相変わらず、学校での取りとめもない事件と子どもたちをターゲットに作られた娯楽作品だったが、それでも、彼らなりに子どもじみた感性への離反も感じていた。同じ子どもの為に作られたものであっても、ゲームはしても、アニメはめっきり見なくなっていた。それこそ、クレヨンしんちゃんなどは、放送の度にクラスのお調子者がそのまねをして、先生に叱られたりしていたのだが、アニメの中の彼に妹が出来て、ませた洟垂れ小僧でありながらも、優しい兄の側面、孝行息子の側面を見せだし、エンディングテーマにはしっとりとしたバラードとともに、核家族の理想像のような模範的で感傷的な映像が流れ始めるようになると、少年たちはより過激でインモラルな大人による悪ふざけと、嫌がらせじみた嘲笑を愛するようになった。笑いと美徳はコミュニティの中の力関係で決まるものであったから、中西たちも自然とそういうものの方が面白いのだと、疑いもせず、思うようになっていた。

しかし、そんなチンケなこだわりによる変化など、同時期の女子の経験しているドラスティックな変化の前では、微々たる誤差に過ぎなかった。今まで意識していなかった臓器の重さに気付き、キャミソールの下に身につける物も変わる。必要に迫られた変化を彼女たちはいち早く経験していることに中西たちは気が付くはずもなかった。

中西にとっての迫られた必要。すなわち、後の中西の「弊社」に代表される組織、上司、肉親の老後への配慮といった社会の横貌は、まだ15秒CMのようにでしか、彼の前に姿を現さなかったからである。別にブリーフをボクサーパンツにしたいというチョイスの変化など、それこそ毛も生えそろわないレベルのチンケなこだわり以上の意味はないのであった。

武田修宏も下着にはこだわりがあるらしかった。

雑誌の取材で彼は身体にフィットするワコールの男性用下着について軽く触れていた。彼は陰毛の生えそろった成人男性であり、そして、何より身体、特に下半身の可動域を資本とする職を全うする身であるので、そのこだわりは中西のものよりも、幾分かの必要性はあるかもしれないが、それもどこまで必需であったかは分からなかった。ジェフの成績は成田山新勝寺や印旛沼の上空を飛び交う全日空機のように低空飛行であったが、武田はその中で、「嬉しい誤算」と言われるほど順調に得点を重ねた。代表で頭角を現し、強豪マリノスに引き抜かれたかつてのジェフのエースストライカー城彰二よりも得点ランキングの上位にいる。そのことにようやく気付いた樋口が、

「武田って、ホントにフランス行きを目指しているんじゃねえの」

と言って、朝日新聞のスポーツ欄の切り抜きを広げた。しかし、ベンチーニョの返事はつれなかった。

「城より点を決めていても、見てよ。得点ランキングの日本人フォワード。ゴンでしょ、森島をミッドフィルダー扱いにしたとしても、呂比須がいるし、この前、代表でゴールを決めた野人岡野と、後、カズがいるじゃん。ゴンくらい点を決めないと、武田は代表に選ばれないよ。ジェフから選ばれるのはたぶん、中西……」

そこまで言うと、ベンチーニョは「しまった」という表情をして、出かかった言葉を引っ込めた。

弱小ジェフには一人代表クラスのディフェンダーがいた。中西永輔。センターバックもサイドバックも器用にこなす上、マンマークのしつこさには定評があった。その彼は日本代表監督の岡ちゃんこと岡田武史の秘蔵っ子でもあった。実は岡田監督自身が、現役時代、ジェフの母体である古河電工のストッパーであり、Jリーグが発足してからはジェフで中西永輔を一人前のストッパーに育て上げたという師弟関係があった。そんなジェフの数少ない誇りはたまたま中西と同じ姓を持っているというのは、中西にとって、自慢でもなくむしろ、コンプレックスの種でもあった。

千葉の少年サッカーチームらしく、中西たちの所属するチームのユニフォームはイエローだった。そして、殆ど相手にされることのないチームのコーチからは、サイドバックを命じられていた。しかし、まともにヘディングもセンタリングも出来ない中西にポジションもへったくれもなかった。ただベンチを延々と温めるだけの中西たちにも、大会のパンフレットの選手名簿の欄、北総SCのCチームの控え選手にも形だけのポジション表記が必要だった。それだけなのである。Cチームのレギュラーが怪我をしたり、大差で負けていたりしてやむを得ず、ウォーミングアップを指示され、交代表を副審に渡して、すごすごピッチに迷い込んだ時も、

「とりあえず、ボールを追いかけて走り回っていろ」

という指示しか与えられなかった。それはもはや、サッカーでも何でもなく、ゴールのない持久走に過ぎなかった。

そんな貧相な男なのに、Cチームの控えなのに、黄色いユニフォームを着た「中西」という名のディフェンダーであるというだけで、ピッチの外が少しだけざわめく。その瞬間が中西には嫌だったのだ。なので彼は、ただでさえの風貌をしている上に、不幸にもブラジル代表とも同じカラーであるイエローのユニフォーム、そして、仲間内から「ベンチーニョ」と呼ばれ、同じような思いをしている二人の間で、この二選手の話題は出さないようにという、樋口にも知られていない秘密の協定を結んでいたのだった。ベンチーニョは柏レイソルの助っ人外国人の名前でもあるのだ。

それにしても、不甲斐ないのは柏レイソルだった。下馬評では、優勝候補の一角と目されていたのにもかかわらず、このチームはジェフと同じような位置を彷徨っていた。躍動感あふれる若い攻撃力を持っていたチームには、残念ながら鉄壁の守備陣とそのディフェンスラインを統率するキャプテンシーが欠けていた。

不甲斐ない千葉のサッカーチームを尻目に、春先、数年ぶりの快進撃を見せていたのが、千葉マリンスタジアムをホームに構えるプロ野球球団千葉ロッテマリーンズだった。1995年の秋から尻上がりに調子を上げ、Aクラスに入った際に躍動した若武者たちはちょうど脂の乗った肉体のピークに差し掛かっていた。少年たちには親と同い年くらいに見えた老け顔の大砲初芝清やゴーグルで素顔を隠したピッチングサイボーグのような小宮山悟、そして、代名詞のいらないスターであるイチローが最大のライバルであると認めた魂のエースジョニー黒木らが期待通りの仕事をし、スタジアムに臨む海岸通りでは、気の早い「優勝待望論」がちらほらささやかれたりもしていた。子どもたちはとても残酷なので、武田修宏よりも、若く華のあるジョニー黒木に魅せられたのだった。

中西らに限らず、サッカー少年たちもとりわけ、レイソルやジェフよりも千葉ロッテの話を多くした。尤も、彼らの心のうちにあるのは、デイビッド・ベッカムやロナウドであり、彼ら以外が日常会話に現れる条件は流行っているか否か、勢いがあるか否か、至極ミーハーなものでしかなかったが、時流を読むのにはやいうちから長けていたクラス一、声の大きい者、足の速い者、皆の知らぬところで同級生の身体を触っている者の眼鏡にもジョニー黒木のスター性は適っていたようだった。校舎の周りをうろつき、クラスの女子たちから認知され始めた真っ黒い野良猫も、はじめ「おはぎ」と呼ばれていたにもかかわらず、次第にその名前を「ジョニー」へと改名していったのだった。

黒猫のジョニーの登場は、中西たちの日常をほんの少しだけ変化させた。と言っても、中西自身には何の変化もなかった。日頃、中西たち三人組の中でいつもしんがりにいて、おどおどしていたベンチーニョが座っているだけで、自分たちよりも背の高いクラスの女子たちの輪ができることがちらほら増えて来たのだ。彼はサッカーも、持久走も、国語の現代文も不得手な少年であったが、彼の母が趣味で自治体のフリーマーケットに手作りのぬいぐるみやアクセサリーを出展するのを見て、そして時折、手伝っていたせいか、自身も小物を作る才能があったようだった。珍しく人ごみの中にいる浅黒いだんご鼻の少年の手に、北総SCチーム全員が、少年サッカーの大会に出場した時に、参加賞としてもらったミサンガがあることに中西は気付いた。ベンチーニョはそれをジョニーのもちっとした顎にすっぽりフィットしそうな首輪に作り替えていた。ジョニーということで、首輪の鈴のかわりにワンポイントとして、ジョニー黒木のピンバッジがあしらわれていた。

「ミサンガに野球ボールのピンバッジつけるって、冒涜じゃねえの?」

そう吐き捨てた樋口は、ベンチーニョの周りにコードが増えることによって、自らのコミュニティが混線することを察したのか、中西やベンチーニョがギリギリ分かる範囲で憮然とした顔をしてみせていた。中西は樋口を宥めなければならないとも思っていたが、その人だかりを遠巻きに見ている普段、中西たちの名前など呼んだこともないような北総SCのレギュラー格のクラスメイトの一人が、

「なんだよ、アイツ。オカマ野郎が」

と、目に見えて不機嫌そうに呟いたことに気が気でなかったのである。中西たちは、歓声は浴びてみたい欲求がないこともなかったが、それ以上に時の権力に目を付けられてスケープゴートにされることを恐れているような、社会の縮図である学校には履いて捨てるほど存在する凡庸な男児集団の一組でしかなかった。

なので、たとえ一時的なブームであっても、彼らの神経を逆撫でさせるような目で見られることは災いの種でしかなかったのだった。

中西はベンチーニョには悪いと思いながらも、このブームが一週間、できることならば、三日で終わってくれたらよいと願ったのだった。

 

中西の願望に近い予想は虚しく裏切られた。ゴールデンウィークが終わり、気の早い梅雨前線が梨の果樹園と落花生畑以外特に何もない中西たちの団地周辺に訪れるころになっても、ベンチーニョはジョニーに着せるチョッキなどの新作を定期的に発表しては、その都度、ちやほやされていた。そして、気が付けば、小学5年生の1学期が間もなく終わろうとしていたのだった。その間に、ローカルなスターを脱しきれていなかったジョニー黒木自身は、とうとう全国的なスターとなっていた。そして、それは少し意外な形でだった。

春先、ファンに優勝を期待させるほどだった千葉ロッテマリーンズの一寸先は闇だった。崖から転落するように連敗を重ねだしたのだ。はじめのうちは、「今年もやはりか」と野球ファンの間だけで話題になった話題も連敗を15、16と重ねるうちにそのニュースは瞬く間に日本列島の注目行事となってしまった。NPBの連敗記録。それは、長いプロ野球の歴史の中で62年間も更新されなかった記録であり、それまで記録を保持していたらしい大東京軍というチームは、誰も聞いたことがなく、そのことがまた、事態の希少性を煽っていた。悔しさの中、闘った選手たちも湾岸にあったとされる木造球場にかけよったどれだけいたか定かでない物好きなファンも、おそらくその殆どは、サイレンの響きの後の弾丸の雨、もしくは、南方のジャングルの中で蛆やコレラウイルスによって、身体中穴だらけにされて、何も伝えることなく魂を永遠に霧散させてしまったのだろう。このチームが連敗記録を樹立した時のスコアや試合経過を語れるものは少ない。

それとは反して、千葉ロッテマリーンズが連敗記録を樹立してしまった試合は、悲劇の試合として、全国各地の職場や学校の間で語り草となっていた。エースである黒木の気迫のピッチング、イチローを空振りにとって吠える男の顔は瞬く間に世間に認知された。最後の最後、完投目前にして、力尽きマウンドに蹲って泣き崩れた姿も。

この悲劇のヒーローの名をもらった黒猫もますますクラスの間で認知される存在となっていた。ジョニーが蹲る度に、日頃、野球の話題などしたこともなかったような小太りで内気なオーバーオールの女子までもが、「やっぱりジョニーに似ている」と言いながら、猫を撫でた。

その間には、日本代表が初めてのワールドカップに出場したという歴史的な瞬間もあったにも関わらず、このワールドカップの話題は一部のサッカーに詳しいサッカー経験者たちがジダンのマルセイユルーレットの美しさを語り、昼休みに真似っこに興ずる以外は、校舎に然したるブームを巻き起こしはしなかった。ベルマーレ平塚の7番やジュビロ磐田の9番が意地を見せた以外は、見せ場を作ることが出来なかった。結果として、日本代表への期待が先走りしすぎて、彼らは勝手に失望されてしまっていた。ジョホールバルの時には、あれだけ騒がれた岡野雅之の名前も、フランスのピッチの上では、30分ほどしか、実況されず、特に日本サッカー界の顔ともいうべきカズ、三浦和良のポジションに入りながら、得点もアシストも挙げることが出来なかった城彰二に対するバッシングは想像を絶した。テレビ越しに映るその光景は、中西ら、子どもの眼にはキツ過ぎる毒でしかなかった。

彼はジェフを捨てた男である。彼が代表に選ばれた時、中西たちは「何故、武田よりもゴール数の少ない城なんだ」と不平を口々にしていた。それでも、かつて胸にソニック・ザ・ヘッジホッグのアップリケをあしらったユニフォーム姿で、ジェフを牽引したエースが冷水と罵声を浴びせられながらも、寡黙でいる背中を見るのが、耐えられなかった。彼は泣いていなかった。泣くことも許されていなかった。

けれども、どこにでもいる泣き虫の少年でしかない中西は、何故ジョニー黒木は泣くことが許され、城彰二が許されなかったのか。それが分からなかった。その日本代表の姿を武田修宏はどこで見ていたのか、そもそも見ていたのか。そして、それでもフランスの土を踏んで人生が変わった代表メンバーと帰国後にマッチアップした時、何を感じたのか、そのことがよぎっても、中西は何も答えが出なかった。

「ワールドカップのガイドブックには、アルゼンチン以外、初出場のチームしかいないから、チャンスって書いてあったのにね」

「あのボバンってACミランの10番だったらしいよ。そんなのがいるのが、なんで初出場なんだろうね、詐欺だよ。やっぱり、中田やゴンだけじゃどうしようもないよね」

「マスロバルも結局、出られなかったみたいだね。ピクシーはユーゴから出たみたいだけど。……けどなんで、こんな真夏に持久走の授業をやるのかね、うちの先生は。定年間近で今のスポーツ科学のことなんかまるで知らない戦中派だって、上級生が噂してた」

苦痛と疲労を訴えながらも、樋口の減らず口が止むことはなかった。樋口の背中にすがるようにしてペタペタと走るベンチーニョにはもう声を発する余裕もないようなので、引きつるように頷くばかりのベンチーニョをチラチラと見ながら、樋口の会話の相手をするのは、

体育行事に対してだけは随分、気の早い中西たちの小学校では夏のうちからもう、秋のマラソン大会に向けての練習が、水泳の授業と並行して行われていた。

体操着に爽やかでない汗がまとわりつく、不快指数の高い授業であっても、人目のつかない校舎の外周を談笑しながら、走る授業のことを中西はそれほど嫌いでもないと感じていた。ベンチーニョほど、走ることで呼吸が苦しくなるわけではないことに中西は今年の授業から何となく察し始めていた。そうなると、ミスキックやミスショットによって、白線の外側にボールが跳ねた時に受ける、無邪気を謳う残酷な視線がない分、気楽であるとさえ感じていたし、走れば走るだけ、塗りつぶすマスが増えていくプリントにやまぶき色の色鉛筆を走らせる瞬間はまんざらでもなかった。

「今度、3000メートルのタイムを計るみたいだけど、やってられないよな。ベンチーニョもいることだし、こうしてまったり今日みたいにして走っていようぜ」

「そうだね」

中西はそう首肯しながらも、心にはやまぶき色の色鉛筆が転がっていた。

「早く帰って、ベンチーニョんちでプレステしたいよな」

「F1のやつやりたいよね。今度は僕がハッキネンね。ベンチーニョはやっぱりいつもバリチェロ選んでいるよね」

心ここにあらずだった中西は返答を誤った。樋口の時化た顔を見て、中西はようやく正しい回答を付けたしたのだった。

「プレステの方がかっけー。セガなんて、だっせーよな」

中西たちもまた、クラスの中央でマウントをとる足の速い少年たちと同様、カッコいいダサいという基準に善悪の判断を支配されていた。クールかどうか、カリスマかどうか、ヨメガのステルスブレインみたいなスケルトンデザインであれば、なおよかった。

イチローと同じ枠組みにいるジョニー黒木は涙さえもクールであり、原田雅彦のそれとは違った。たとえ、原田が冬の澄んだ大空に翼を授かったかのように羽ばたいていたとしてもだった。彼らの目にはまだ、泥臭い蓮の花のような物や者に対する審美眼は備わっていなかったのだ。颯爽と結果を残す英雄以外は認めなかった。生まれ育った街がマシンガンとレイプの火薬と体液の臭いでむせ返りそうになっている中、いつか人を守れるようにと、黙々とトレーニングや勉学に励む者など、居たとしても存在していないような者でしかなかった。中西はクラスを牛耳る少年たちに武田修宏のことをどう思うか、尋ねるのは怖くてとても出来るものではなかった。

イチローや中山雅史、アンディ・フグは手放しで称賛され、城彰二や貴乃花は審議されていた。雌伏と力は無関係であると信じられていたからだ。そして、原田雅彦やジャイアント馬場や湯川英一はからかいの的として繰り返しものまねされ、そして、アスリートでもないのに人前で涙を流す野澤正一などは子どもたちの前では、存在すら抹消されていた。ニュース番組が始まると、リビングを離れる少年たちの前では、ブッチホンも、山一證券も、ビッグローブの検索窓の下で永遠にクリックされることのない青文字でしかなかったのだった。

電話回線づてにカクカクとダウンロードされるページのデザインは重く、ごてっとしていた。

 

 

マラソン大会当日まで指折り数えられるほどになった頃には、中西たちの周りでも小さな事件がいくつか起こっていた。その一つとして、黒猫のジョニーが忽然と姿を消してしまったことがあった。

そのことに対して、クラスを牛耳っていた一人の男子児童が、

「車に轢かれて死んじまったんじゃねえの」

と、吐き捨て、その言葉の刃に一人の大人しい女子がしくしくと泣き始めてしまったのだった。女子を泣かせたことによって、彼はクラスの半分から糾弾され、そしてもう半分からは、過当な反応の被害者であると擁護された。クラスは男子と女子との間に亀裂が入ったようなものになっており、担任はそれを黙殺し続けた。そして、どんな争いにもコミュニティとは反対のアイデンティティを持つ人物がいるもので、ジョニーと厚い関係にあったベンチーニョはまさにその該当者だった。

そして、もう一つはジェフがぱったりと勝てなくなった。レイソルには地力の差を見せつけられ、みるみるうちに勝ち点と順位を離されていった。そして、その一番の原因として、武田修宏のゴールラッシュがぱったりと止んだことがサッカー雑誌で取り上げられた。記事の筆者は、体力の衰えから来るスタミナ不足、そして、モチベーションの低下を指摘していた。このままでは、ジェフは今あるJリーグの枠から転落し、未知の世界に放り出されることになってしまう。それでも、子どもたちの世界では、中西たちのような一部の物好きを除いて、ジェフの危機は大きな話題にはならなかった。彼らの話題の真ん中には、千葉とは湾と海ほたるを挟んで向かい側に居を構える二つの横浜のスポーツチームがあった。一つはジョニー黒木にかわって彼らの話題の中心になった大魔神佐々木を擁する横浜ベイスターズ。そしてもう一つは、横浜マリノスに吸収、そして消滅することになるという報道がすっぱ抜かれた横浜フリューゲルスであった。

「城彰二と山口素弘が、川口能活と楢崎正剛が、チームメイトになるんだね」

などと言おうものなら、クラスの男子中から、その人間は白眼視されることとなる。それは、野良猫が車に轢かれて死んだと吹聴することよりも男子たちにとっては、遥かに不謹慎で不用意な発言だった。数多くのスターとスター候補生を擁する横浜フリューゲルスは、彼らにとって、守るべき、ダサくないチームだった。

事実、ジョニー黒木にかわって悲劇の主人公となった横浜フリューゲルスのイレブンは、漫画のような美しいストーリーを紡ぎだすことになる。スクープ記事の後の最初の試合、フラッシュ光線と呻き声のようなノイズに包まれた横浜国際総合競技場でいきなりセレッソ大阪を7‐0で破り、世間に存続をアピールした。昔からゾーンプレスなど、新しい試みでJリーグを沸かせるこのチームは、海外チーム顔負けのポゼッションフットボールを敢行し、フォワードの吉田孝行であろうと、リベロの薩川了洋であろうと、前も後ろも関係なく、小気味の良いショートパスが放たれ、パスの組み合わせの数だけ、まるでインターネットのハイパーリンクのように、無限に戦術が生まれていき、スタジアムのファンを沸かせた。ジェフでは太刀打ちできないほどスペクタクルなそのサッカーは、とても消滅する運命が定められているものには思えなかった。

ミーハーな北総SCの指導者も早速、このスタイルの自身のチームに取り入れ、幼い選手たちにピッチを支配するシステムの体現を課した。Bチーム、Cチームもトップチームの哲学はコピーしなければならなかったので、今までサイドバックとしてひたすボールを追いかけていた中西であっても、正確なパスをするスキルを会得することがノルマとなった。それは名ばかりフォワードとして、ゴール前で運よくボールが転がって来るのをひたすら待っていたベンチーニョや、樋口も同様であった。特に足のサイズが二二センチメートルしかなく、インサイドキックでさえも的として、不安定にならざるを得ないベンチーニョは、他の選手よりもパス技術に劣ることが浮き彫りになってしまった。

Bチームとの練習試合にて、事件は起きた。

この試合は、パス回しの徹底を意識させる為に組まれた試合なので、試合中であっても、常にコーチが選手に対し、耐えず指示を飛ばし続けるせわしない試合となっていた。力量の差から、ずっとBチームにボールを支配され続けていたCチームイレブンであったが、Bチームの選手が放ったシュートがポストに当たり、この試合では常に誰かの足もとにあり続けたボールは、カンという甲高い金属音とともに、誰もいない明後日の方向に飛んで行った。今まで、上手く出来もしないパス練習を続けさせられた中西にとってそれは、久々にただ走ってボールに向かえばいいシンプルな展開の再来だった。中西は無我夢中で走った。当然のようにBチームのボランチも中西のもとに迫ってきたが、中西はそのマークを振り切った。意外な手ごたえ。達成感。そんなことを中西は、初めて体験したのだった。

「中西、前線にパスしろ!」

白線の外から、コーチのがなり声が響いた。いつもならば、そこで委縮していた中西であったが、競り勝った時に芽生えた昂揚感と全能感が緊張をいくらか緩和してくれたようだった。中西は瞳の端っこで手を挙げる樋口の黄色いビブスを捉えることが出来た。そして、彼の方に向かって、思いっきりボールを蹴り上げた。中西のキック力の無さがかえって功を奏したのか、グラウンダーのボールは樋口の足もとにすっぽりと収まる。無事、何事も咎められることなく、中西は一仕事を終えた。

「樋口、ベンチーニョに出せ!」

樋口は言われるがままに、ベンチーニョにパスを出した。てんてんと跳ねたボールは、ベンチーニョのマークに付いていた相手ディフェンダーの股の間を抜けて、ベンチーニョの太ももに飛びついた。ベンチーニョがトラップしたボールは、彼の言うことを聞かずに逃げるように反対のサイドに転がろうとしたが、ベンチーニョは必死でそれに追いついた。ディフェンダーは誰もおらず、少しゴールとは距離が離れてはいるが、シュートを打つことも出来る。名ばかりであったフォワードという彼の肩書が、職務にかわるチャンス。Cチームのイレブンのムードが珍しく上がった。当然、ベンチーニョもゴールに向かって、ボールを蹴りだそうとしたが、コーチは、

「形が悪いから、一旦、司令塔に落として、形を作れ!」

と、バックパスすることを要求した。突然の指令にベンチーニョの口はアワアワとおぼつかなくなり、自信のないバックパスは、綺麗に相手チームの足もとに渡っていった。

「ベンチーニョ、サンキュー。オカマ野郎」

幸運にボールを取り戻したBチーム選手陣のパスワークは編み物を編むように性格で、折り紙でも折るかのように、ピシリとゴールネットに綺麗な線を描いておさまった。そして、ホイッスルが鳴った。力関係通り、Cチームは見せ場を作ることなく敗戦した。それはいつものことであったが、今日ばかりはなまじ昇華されることがなくなった昂揚感が揺蕩っていたので、彼らの顔はみな、ご機嫌の晩酌中に会社から電話が入った時のしがないサラリーマンの顔のようになっていた。それこそ彼らの父親、そっくりの顔に違いなかった。

 

「ベンチーニョ、なんだあの気の抜けたパスは。真面目にやってるのか!?」

試合後のミーティングは、手帳サイズのホワイトボードに磁石をガチガチとぶつけながら、苛立ちを露わにするコーチを中心としたベンチーニョ糾弾会と化していた。

北総SCを構成するメンバーの多くが、中西の小学校の生徒であったこともあり、クラス内でのベンチーニョの立ち位置を日ごろから、よく思っていない生徒も少なからずおり、泥仕合ですらないリンチさながらの様相となった。そして、ついにベンチーニョは人目も憚らず、洟を垂らしながら、泣き出してしまった。すすり泣きはみるみるうちに泣きじゃくりにかわり、咽び泣き、号泣へと変わった。そして、それがさらにコーチの逆鱗に触れた。

「それでも男か!? 泣き虫、毛虫は挟んで捨てられるんだぞ」

コーチは自らが望んだ以外の感情が発露されることに甚だ嫌悪感を抱く人間だった。コーチの言うことには大きな返事で答えて、どんなに罵倒されても、感謝し、慕い、そして、結果を残す小さなアスリートであることが求められたし、そうでない子どもには価値を感じていなかった。彼自身の子どもにも、息子には水泳、娘にはピアノと、それぞれ、スパルタな塾に放り込んでいるという噂を中西も耳にしたことがあった。

何しろコーチ自身も普段は、会社という組織の中で、しかるべき肩書を持つ人間として振る舞っていた。平社員は平社員として、主任は主任として、課長は課長として、取締役は取締役としての人格が付与されていて、人間はそれにふさわしい人格を演じなければいけないものであるということを信じて疑わなかった。

「……けど、ロッテのジョニーは、泣いても捨てられなかったです」

中西は恐る恐るコーチに尋ねた。それは質問であったが、コーチには分をわきまえない嵩にかかった箴言もどきに聞こえたようで、中西に唾のシャワーを浴びせながら、

「あれは球界のエースだったからだ。そこらの二軍選手がそんなことをしたら、即日、クビだ。俺ならメガホンを投げつける。違うか、ああ!?」

と、怒鳴りつけた。

「……違いません」

中西の同意は決して強制ではなかった。自らの意思で同意した。そうでなければならなかった。まだ血が下がりきらないコーチは、中西たちが普段、テレビゲームに興ずることに対しても、苦言を呈して、

「あれは、もやしっ子がやるものだ」

と、切り捨てた。Cチームの選手などがサッカー以外の趣味を持つことなど、畏れ多いと、言わんばかりの態度だった。彼は日頃から、人格の矩は出世によって、幅と広さが初めて増すものであるという持論を持っていたのだ。事実、「立身出世は男子の本懐。お前らにとってはそれがスタメンであり、県選抜のトレセンに行くことだ」と、Aチームの男児たちには、公言して憚らなかった。指導者は教員免許を持っているわけでもなく、当然、教育委員会や自治体の眼などを気にする必要もなかった課外のクラブ活動は、カルト思想の無法地帯であった。

「もういい。どけっ!」

コーチはそう言って、人権のないBチームとCチームの子どもたちを追い払い、レギュラーたちにその場を恩着せがましく授けたのだった。威雄という四股名のような名前を持った中年男は、皮肉めいた意味で名を体現した振る舞いを完遂したのだった。彼らが憧れるJリーガーたちがごく一部の開拓者たちを除いてまだ雲の上の存在であると、諦念していたアルゼンチンのストライカー、ガブリエル・バティストゥータなどは、クラブに帰るともやしっ子たちのアイドルであるマリオやピカチュウなどを輩出した任天堂のロゴを胸に掲げてプレイしていたものだが、彼に言わせれば、それは矛盾でもなんでもなかった。おそらくガブリエル・バティストゥータが一言、好意的にぷよぷよやサクラ大戦のオタクめいたキャラクターを好意的に語れば、たちまち、彼らも「何だか分からないけれど良いもの」として、それらを慈しむに違いなかった。

もやしっ子たちは、遠慮して、ボールを蹴り合うことに喜びを見出さねばならない。それだけであり、遠慮とは、スケープゴートを受け入れることまで含めて、初めて、遠慮といえるものなのは、水の中、草の中から火を見るよりも明白なことだった。

 

そして、もう一つ、火を見るより、明らかなことがあった。

ジェフのチームの実力と魅力は、ファンでなければ、強豪の柏レイソルや横浜マリノス、そして、美しく散ること余儀なくされていた横浜フリューゲルスよりも乏しく見え、いわんや、Jリーグの覇者を争う鹿島アントラーズやジュビロ磐田の足もとにも及ばないということだ。中山雅史や名波浩、名良橋晃や相馬直樹のような代表のスターを揃えた鹿島と磐田による頂上決戦の二日前、ジェフユナイテッド市原は、二年前のJリーグ参入以来、数々のワースト記録を打ち立ててしまうような弱小チームであったアビスパ福岡と、生き残りをかけたプレーオフをひっそりと戦うことになっていた。アビスパ福岡は川崎フロンターレなどというヴェルディでもないのに川崎を名乗る天皇杯でしかお目にかかれないような得体の知れないチームに辛勝した末にジェフとホーム&アウェーで戦うことになっており、一戦目の博多の森では、マスロバルのコーナーキックからゴール前に放り込まれた球を武田修宏が頭で押し込むゴールにより勝利。有利な形で11月26日を迎えることになっていた。やはりジェフは武田修宏のチームだった。

中西と樋口とベンチーニョは、試合のキックオフまであと一時間に迫っていたジェフのホームスタジアムである市原臨海競技場のメインスタンドでローソンのからあげ君を頬張っていた。森高千里のくすぐったくなる歌声にのせて爽やかな二世俳優高島政伸が紹介するには、今やコンビニエンスストアでは、本やCD、そして、新聞屋に頼まずとも、今日の試合のチケットでさえも注文できる総合施設へと変貌したとのことではある。その中枢を担うマシンの名はロッピーというらしい。競技場のタッチエンドの向こうでも広告が打たれていた。だが、中西たちのような子どもや、引率する樋口の親の間でさえも、小銭とせいぜい一枚か二枚の夏目漱石を裸のまま握りしめて、おやつやスナック、おにぎりを買う為に存在する駄菓子屋か酒屋に毛が生えたような存在でしかなかった。

そして、辿り着いた市原臨海競技場も、中西たちがサッカーの大会で使用するような市が運営する陸上競技場と殆ど大差がない簡素なスタジアムだった。むしろ、なまじ年季が入っている分、ところどころが潮風に晒されて錆びていた。陽の沈みかけたスタンドには幌のように心もとない屋根しかなく、吹き付ける風によって肌寒い。そして、トイレから帰って来た樋口はコンビニで買ってきたカールに手を伸ばそうとしなかった。なんでも和式トイレの陶器の縁に、水垢とも人の便ともつかないものがびっちりと撫でつけられ、おまけに洗面所の蛇口を捻ってもチョロチョロと老人の尿漏れのようにしか水が落ちない、不衛生極まりない環境に立ち入り、すっかり、カールを摘まむ気持ちも折れてしまったとのことだった。まだ日々更新される環境に対する情報を中西たちのような一般市民が得る方法は、誰かの犠牲による口コミしかない極めて原始的な世界にあった。ビッグローブの検索窓からスタジアムの名前を打ち込んでも、管理施設の公式ホームページによる収容人数から競技場の直径、そのようなものしか出て来ず、ロボット型の検索エンジンなどというものが海の向こうで産声をあげていたのだとしても、日本語で語りかけてくれなければ、存在していないも同然であり、そう思い、振る舞うことがまだ辛うじて許されていた。

「僕、コンビニのトイレに寄ってきて正解だったなあ」

ベンチーニョは、透明な小袋に入った爪楊枝を歯で器用に開けて、からあげ君を突きながら言った。

「東京トイレマップにはマリンスタジアムのページはあるのにね。こここそ必要なんじゃない」

ウィキペディアなんてものすらない脆弱なドットコムの世界で、千葉マリンスタジアムについて尋ねると、物好きな個人が日本中の公衆便所を撮影するという悪趣味極まりないサイトが公式ページの次に出てくる。そんな狂った時代でもあった。

ピッチの脇、陸上トラックの上のボードの上に今日のスタメンが発表されていく。

「ディフェンダー、中西永輔ェ!」

中西永輔の名前がボードに掲げられると、ゴール裏のサポーターが太鼓を打ち鳴らし、コールを始めた。黄色と緑のジェフの大きなフラッグがリズムに合わせて揺れる。自分自身の同じ名前を持つ人間が名前を呼ばれるだけで、人の群れが活気付く。その光景を遠巻きのメインスタンドから見た瞬間、むずむずっと中西の背中が痙攣した。

そして、武田修宏の名前が呼ばれると、黄色い影でまばらな市原臨海競技場の客席のボルテージは、まばらなりに最高潮に達した。

「ツートップ、武田と組むのは誰かな?」

「廣山じゃないかな、たぶんだけど」

しかし、武田修宏とコンビを組む今日の相棒には、聞き慣れない名前がコールされた。

「フォワード、鈴木隆行ィ!」

まばらな歓声と拍手が鳴った。中西たちの中で彼の存在を知る者は誰もいなかった。樋口が持参していた日刊スポーツの選手名鑑にもその名前は見当たらない。なんでもシーズン終盤に鹿島アントラーズからレンタルで連れてきた選手なのだそうだ。去年はブラジルで武者修行をしており、殆どJリーグの試合には出たことはない。けれども、ジェフに来てからは、実は何試合かは出させてもらっているのだが、まだ一度もゴールを決めたこともないペーペーの22歳なのだということを斜め前に座る中年夫婦を雑談が教えてくれたのだった。コアなファンであっても、歴史の蓄積が薄いことがかえって幸いして、ここにはマリンスタジアムのように、「今日の先発は木樽かな?」などと、面倒なことを言う者もいない。

「そんな選手をこの大事な試合のスタメンにしていいのかね」

「凄いプレッシャーなんだろうね……」

ベンチーニョに至っては、既にこの見ず知らずの長髪の青年に同情にも近い眼差しを送っていた。ブラジルの空気を吸ってきても、全員が全員、カズのようになれるわけではないのだ。そんな心配をよそに両チームの選手は記念撮影を終え、円陣を組む。そして、中西の口に最後のからあげ君が放り込まれると同時に、キックオフを報せるホイッスルが場内に響いた。

ゲームはお互いにチャンスを掴みきれないまま、前半を終えようとしていた。その中で、武田修宏は何本もシュートを放ち、惜しい展開を演出。その泥臭くボールに食らいつく姿は、中西たちの歓声を引きだしていた。

「今の惜しかったな!」

「やっぱり、武田とマスロバルのラインはジェフの強みだよ」

ロスタイムに入った試合を尻目に、ハーフタイム中には、混みあうことが予想される異臭漂うトイレに奪われる時間を少しでもなくす為に、フライングで席を立つ人もちらほら見え始める最中、アビスパ福岡のディフェンダーの甘いクリアボールは、黄色いユニフォームの方へと飛んで行った。何の苦労もなくボールを奪ったジェフは、ぽっかりとエアポケットのようになっていた前線の右隅へとボールを送る。そこにするするとこの試合でこれまで目立った動きをしてこなかった鈴木隆行が入っていった。それに気が付いたアビスパのディフェンダー陣は、鈴木隆行のもとに慌てて駆け寄ったが、そこからの鈴木隆行の姿に中西たちは目を疑った。

鈴木隆行は、赤子の手を捻るかのように、ディフェンダーを一人、また一人と難なく交わしていき、ドリブルをしながら、三人のマークを振り払って、そして、殆どキーパーの目前までボールを持って行き、ゴールネットを揺らせてみせた。彼は50分近く膠着が続いていた試合を一人で、たった5秒ほどで、打開してみせたのだった。

あまりのあっけなさにベンチーニョは持っていたカールを落とした。カッコいいゴールだとか、技ありだとか、そんなことを思わせる余裕すら与えない。そんな圧倒がピッチを支配していた。

「あんな選手がジェフに居たんだ」

「足、速かったね」

中西は自分の視線がサッカーを見ているというのに、その時、ボールを追っていないことに暫くの余韻の後に気が付いた。ただ長髪を振り乱して、一人の若い男が後続を振り切って駆け抜けていく。その姿だけをじっと見ていたことに。

「凄いね、僕、サッカー、辞めようかな」

ベンチーニョがポツリと呟いた。彼も鈴木隆行のゴールシーンを見ていた。試合中は、ジェフに、武田に一番、熱心に声援を送っていた。しかし、彼はゴールシーンを見て、圧倒された。そして、サッカーをきっぱり諦めることにした。その矛盾しかない思考を中西は、すんなりと受け入れるしかなかったし、ベンチーニョが言わなければ、自分自身が試合中のどこかで口にしていたかもしれない言葉だった。ただ、小学生のうち続けていたクラブ活動を最後の一年間を前にして断つ。その労力までは中西とおそらく樋口には湧かず、逆に、ベンチーニョにはそれがあった。ただそれだけのことだった。

「ジェフ、勝てるといいね」

憑き物が落ちたように、自然と顔が綻んだベンチーニョは、その後も一番、試合を純粋に楽しんで観戦していた。それが中西にとって、最後のサッカー観戦であり、そして、ベンチーニョについて思い出せる最後の想い出となった。

 

 

「ダセえこと、思い出しちまったなあ……」

中西はスポーツバーのある雑居ビルの中二階で白い息を吐きながら、呟いた。クラブの仲間であるという括りが外れたベンチーニョとも樋口とも、その後は何となく疎遠になってしまった。樋口とはクラスが違ってしまったし、ベンチーニョは小学生最後の1年間を「泣き虫毛虫」として過ごし、地元の公立中学校には、進まなかった。まだ小学生にメールアドレス、まして、SNSのアカウントなど常識外れだった時代だ。彼らが今、どこで何をしているのか、さっぱり分からない。ひょっとしたら、ベンチーニョは日本にすらいない可能性すらあった。どこか遠い地球の裏側で、サッカーの苦手なブラジル人として生きているやもしれないのだから。中西にとっても、小学校最後の1年間のサッカー人生は、敗色が決まった後のロスタイムでしかなかった。

ジェフユナイテッド市原がJ1に無事、残留を決めたことは殆どニュースにもならず、その頃のサッカーといえば、横浜フリューゲルス天皇杯優勝という美しい物語の結末の話題で持ちきりとなっていた。二度とピッチで見ることのできない白と青のユニフォームに身を包んだ彼らはチャンピオンになったまま姿を消して、人々の心の中に永遠に残り続けた。美談となった。準々決勝では強豪ジュビロにも解消し、その試合、ピッチでキャプテンの山口素弘がジュビロの中山雅史から、

「最後まで行けよ」

という言葉を託されたなどというエピソードは上質な漫画が一本出来上がりそうなものであった。そして、準決勝ではチャンピオンの鹿島アントラーズを、1999年元日の決勝では清水エスパルスを2‐1で下し、全国から国立競技場に集まった五万人の観衆とテレビの前の何百万人もの視聴者の前で美しいクライマックスを演じてみせたのだった。ジェフは1998年のうちにノンプロの本田技研に敗北を喫したので、その物語に絡むことすら許されなかった。

「私たちは決して忘れないでしょう。横浜フリューゲルスという、非常に強いチームがあったことを。東京国立競技場、空はまだ横浜フリューゲルスのブルーに染まっています」

実況の山本浩がしみじみと語りかけるようにアナウンスする中、山口素弘が盟友であった薩川了洋と肩を組み、勝利の杯にキスをした。高橋尚子がシドニーの表彰台の上で、金メダルにしてみせた一年も前のことだった。山口素弘は翌年も、名古屋グランパスエイトの選手として、同チームに移籍した楢崎正剛とともに、この舞台に帰ってくるようになり、薩川了洋はというと、その守備力を買われて、柏レイソルに移籍、同じく経営難に陥っていたベルマーレ平塚から獲得した洪明甫とともに、レイソルの初のタイトル奪取に貢献することとなる。

祖父母の家で、御雑煮を食べ過ぎて横になりながら、その結末を見届けた中西は、気まぐれを装いながら、指先を一つ、二つ、動かして、空の色まで自分の物にしてしまった主役たちから目を背けた。民放のテレビ番組では、東野幸治の愛車を山田花子が暴走運転で破壊して、スタジオの馬鹿笑いを誘っていた。ワイプで抜かれた車好きの所ジョージはその光景を困り笑いとともに見届けていた。

チャンネルを回す度に人々のアクション、リアクション、オーバーアクションが明滅していった。狂喜乱舞、悲喜交々の熱に満ち満ちた缶詰を開けては閉め、つまみ食いしては、また箸を休めるように、中西はそれを消極的に貪った。ポケビとブラビの夢の競演に齧りついて見ていたくせに、まだ国民の半分が見ていた紅白歌合戦のことを、宇多田ヒカルが出ないというだけで何だか古びた歌謡曲ショーのように思えて、中西にニヒルな気持ちが芽生えた。

天皇杯の感動も中西には年末から続く、感動興行の一環。いわゆる一つのジャンボリーだった。そして、その一環のうち、ひそかに元日の翌日、1月2日から行われる箱根路をランナーが駆け抜ける様を一番楽しみにしている自分自身がいることに中西は気付いたのだった。

 

(それからは今思えば、洪水で流されるようにあっという間に思えるな……)

時の流れがそこから、はやくなった気がする。中西はウエストのメンソールの先っちょにジッポのライターで火を灯した。煙草を吸うことと深呼吸をすることは同義だった。

横になって見ていた箱根駅伝で金髪どころかオレンジの髪を振り乱して颯爽と車を追い越していくランナーに目が留まった。中学ではサッカー部でなく、陸上部を選んだ。その為、ポゼッションフットボールの体現者としてダサいはずのドリームキャストのユニフォームを纏った無敵艦隊が世界を席巻していることも人並みにしか知らず、地元日本で開催されたワールドカップで鈴木隆行が、下手くそのシンデレラボーイが魅せた泥臭くも歴史に残るゴールとして、語り継がれていくことになるのに虚無感を抱いた。鈴木隆行でさえ、下手くそで泥臭い世界なのだ。ジェフにやっとやってきた春は短く、サラエボからやって来た老指導者によってもたらされたが、その頃には既に本拠地を市原から千葉に移していた。同じ頃、千葉ロッテマリーンズになってから初めてのリーグ優勝と日本一が成し遂げられ、ジョニー黒木も、初芝清も勝利の美酒を浴び、酔っていたが、その顔にはほうれい線が刻み込まれ、彼らから生まれるミットに収まる音も、バットから響く音も、弱弱しくもう面影なんてなかったのだった。その報せを第三セクターの葬儀場で受け取った中西は、かつて、ベンチーニョの涙に誘われるだけでも、心酔していたアンディ・フグどころかあまり馴染みのなかったジャイアント馬場の訃報であっても、流せていた涙が、祖父の死でさえももう流れなくなっていることに自己嫌悪しながら、電子レンジのように安い音とともに祖父の骨が焼きあがるのを見届けていた。母にはもう親と言う存在がいない。だんだんと固有名詞が鬱陶しくなっていた。

その間、貴乃花は英雄になったり、狂人として気味悪がられたり忙しく、いつ引退したかも分からない武田修宏は、箸休めに小ばかにされるピエロを演じて見たりしては、司会者のお笑い芸人に頭を叩かれて、ヘラヘラしていた。碧い眼をしたスラブ系の美女を軽率に口説いては彼女が1998年生まれだと明かされ、年の差に照れ笑いし、場も濁していた。全ては流れるように、GIF動画のように、スクロールされていった。

(この前も、下着にこだわりがあるとか確か言っていたなあ……サッカーは関係なかったんだな)

身体の孔から煙草の煙がいがらっぽく抜けると、人ではなく喉の潤いが恋しくなる。中折れしたシガレットを携帯灰皿にねじ込むと、中西は蹴るようにして階段を降りていった。雑居ビルのすすけた玄関の向こうにサントリーの自販機が2台並んで月明かりにふんわり照らされて浮かぶのが見えた。

古い型の自販機だ。交通系の電子マネーはどうやら使えないらしい。中西は舌打ちをして、財布を開いた。ロクな硬貨すらない。アルミニウムと稲穂と歯車の穴あき銭しか見当たらない。仕方なしに野口英世を自販機に差し込もうとして、二、三回、蓋に鬱陶しく阻まれる。無意識のうちに舌が再び鳴る。中西は首を振って、

「いけねえ、CEOみたいな進んだ方は今日日現金を考えもなしに使い続ける奴は非国民だとさえ言って、目を三角にするが、俺はそれでも、政治家じゃなくて、ペンを執った人間が刷られたこの国の紙幣も嫌いじゃないんだ」

ふうと息を細長く吐くと、にんじんに駄々っ子をする洟垂れのような自販機も、千円札を受け入れた。紙幣とともに消えゆく運命の7セグメントディスプレイが四ケタの数字を表示する。伊右衛門のミニペットの隣にBOSSのパッケージが見えた。

「¥110」

1本買えば、押しつけがましい数の硬貨がジャラジャラと小さな釣り銭口からこぼれる。決まりきったことだった。0を積み重ねるのが好きな男ほど、この物理的な蓄積を嫌う矛盾。つまらない麻雀のような男であっても、今まで牌を拾う度にため息を付いたり、泣きたくても哭けなかったりした過去もあるのもまた矛盾だった。つまらないとは何なのか。

立身出世は男子の本懐、男は涙を見せずに背中で語れ。そんな言葉は世紀を跨ぐうちに風化していったかわりに、その粉はこの国でセックスにかかわらず被るようになった。特別、意思がなければ、俺たちは皆、エントロピーのトラッシュを吸い込む為に生きるルンバだ。あの早乙女でさえ、花のように扱われながら、どこかで梯子を外されて同じ土俵に立たされたこともあるのだろうか。

中西は無意識ぶってボタンを二度押した。鈍い音を立てて、黒い缶がぶつかり、しどけなく落ちる。中西は左手と右手に平等の使役を課した。両の掌の熱い皮にも、同じようにジンと熱が伝わる。すぐにぬるくなる一瞬の熱だ。

「……つまらねえなあ、今度、サッカーでも見に行くか」

天皇杯でも見に行こうか。レイソルは準決勝までまだ残っているらしいが、ジェフは既に9月中に敗退したらしかった。華為のスマホに映し出される名前は馴染みのない名前ばかりだった。

「はあ、武田修宏に鈴木隆行は今のジェフには居ないものかねえ」

そうため息をつく、中西の姿は、かつて千葉マリンスタジアムの内野自由席に必ず一人はいた、電光掲示板を見ては、「あれ、リー兄弟は?」とおどける厄介な老害の姿、そのものだった。

2018年8月8日公開

© 2018 春風亭どれみ

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