大韓民国の慶尚北道聞慶市に所在する朴烈義士記念館より、ハングル訳「朴烈・金子文子裁判記録」が今年に入り発刊された。朴烈と金子文子の繋がりは今も日本と朝鮮半島を結び付けている。

朴烈とその愛人である金子文子は、大正時代に活動した無政府主義者である。朴烈は朝鮮が日本に併合されて以後の朝鮮人として大日本帝国による搾取に苦しみながら、また金子文子は下層階級において苦しみながら生き抜いた経歴を持ち、無政府主義者の会合において出会って以来親交を深めた。金子文子は両親の不和により朝鮮にいた親類に預けられた経験もあり、その際に家族からの虐待や日本人地主の横暴を見ていた経験から、朝鮮人に対して対等に接することができた。その後、二人は対等な関係で恋愛する契約を結び、植民地主義・女性に対する抑圧・天皇制などに対する抵抗を行った。「黒涛」「太い鮮人」などの冊子も発刊し、朝鮮人労働者に対する虐待などを取材し記事にするなどして、日本政府に迎合しない朝鮮人社会や無政府主義者の間で一目置かれ続けた。しかし1923年9月1日の関東大震災後、皇族殺害を企てたとして証拠もないまま逮捕され、大逆罪により死刑判決が下った後、「天皇の慈悲」を演出した無期懲役に減刑された。金子文子は「何が私をこうさせたか」という獄中手記を書き天皇制と社会に対する反感を綴ったのち、1926年に獄中で自殺した。朴烈は転向や終戦による釈放、朝鮮戦争などを経て1974年に北朝鮮で死亡した。

日本においては、瀬戸内晴美(寂聴)の小説「余白の春」で金子文子が主人公となり、また松本清張が「昭和史発掘」で朴烈事件に触れるなどしているが、大々的に二人の事績が触れられる機会は少ない。韓国では近年、2012年には朴烈義士記念館が開館し、2017年には朴烈と金子文子の関係を描いた映画「朴烈 植民地からのアナキスト」(박열 Anarchist from Colony)が大ヒットするなど、二人の関係と事績が改めて注目されていた。そしてこの度、二人を良く理解するための資料として、ハングル訳「朴烈・金子文子裁判記録」が発刊された。元々日本の官憲が編纂し、日本に於ては黒色戦線社やみすず書房の「続・現代史資料3アナーキズム」などから発刊されていたが、ハングルで分かりやすく編集された記録は未だ無かったようである。しかし2018年に入り今回の発刊が行われ、韓国においてもより二人の戦いが一般の人々に触れやすくなった。

朴烈義士記念館の記事によると「日本植民地時代の独立運動家の新聞のプロセスがそのまま含まれている裁判記録物が完全に残っている場合が多くない上、朴烈の裁判の過程で残した論文形式の獄中手記、金子文子の「検案書」など、二人の関係資料が最大限に収録されており朴烈と金子文子の抵抗精神を理解するために多くの助けになる」としている。これを機に、朴烈と金子文子の事績が改めて注目されそうだ。

 

筆者も、朴烈・金子文子の冊子「太い鮮人」(不逞鮮人という差別語にカケたもの)に影響を受け、ブログの名前を「太い混血」にするなど、時代と「国」を超え共に戦ったこの両名に少なからず影響を受けている。筆者としても、これからの両名の再評価に注目していきたい。