ここのふたり

わに

小説

10,574文字

2016年織田作之助青春賞 三次選考まで残りました
昔から知ってた人が全然違う人になっておまけに死刑になってた話

 次の駅だから、と聞いてからもう五分くらい過ぎた。私はスピードを変えぬままずるずると走り続ける電車の中で、隣の少年のほうには顔を向けず、ただ車窓の向こうで雑草が風になびいているのをずっと見ていた。乗ったことも聞いたこともない田舎の単線電車は、やたら駅同士の距離が遠いくせに速度はずいぶんのんびりしている。暑いなあ。私は堅い制服の袖をぎゅう、と肘のあたりまで雑に捲り上げる。毎年、ようやくきたと思う頃にはもう夏は盛りを迎えていた。

「あっつー」

 右隣で少年が小さく呟く。振り向けば、だらん、と手すりに寄りかかり、金属の冷たい部分に手のひらやら腕やらを押し付けているみたいだった。その仕草からは確かに中高生のような幼い匂いがする。けれど、実のところ少年は、少年ではないのだった。

「朝生さん」

 二両編成の電車は、たまに驚いたようにがたん、と大きく揺れる。身構えていないと座席から跳ね出してしまいそうになるくらい。

「その呼び方やめてくださいって言ったのに」

 私のほうを見ることもせず、少年は口をとがらせる。朝生じゃなくて篠田ってさあ、昔みたいに言ってくださいよ。そう言って足先をばたばたさせた。私が何か返事をする前に、電車はトンネルに入って、途端に視界は真っ暗になる。

 篠田は中学時代、そこそこ仲のいい後輩だった。

 私の通っていた中学校には弓道部があって、なかなか大所帯の伝統ある部活だった。あのあたりの地域で弓道部があったのは一校しかなかったから、顧問の先生はうちの中学の生徒ではなくても、弓道を習いたい中学生には喜んで門戸を開いていた。私の代には五人、篠田の代には八人の「学外部員」が在籍していて、篠田は学外部員の一人だった。

 学外部員がいったいどの中学の生徒なのか、私は知ろうとはしなかった。顧問の先生は学内と学外で差別をするなんて意地悪なことをする人ではなかったし、学内と学外の生徒比はいつも五分五分だったから、特別珍しいわけでもなかった。

 あれから二十年弱の時が経って、私は、当時の彼をとりまいていた尋常でない状況を初めて知って、あのとき聞いていれば何かが変わっただろうかと息が詰まった。いや、聞いたとしても当時の彼はきっと、上手に嘘をついて私たちを撒いただろう。

 電車があまりにゆっくり進むせいか、トンネルに入っても耳がキーンとならない。等間隔に設置された蛍光灯にふわん、とくっつくホコリの形までちゃんと観察できるくらいに電車はのろまだった。またがたん、とおしりが跳ねる。

「朝生さん、次の駅ってあとどれくらいなんですか」

 朝生さんはあまり考えもせず答える。

「もうすぐですよ」

「もうすぐって言ってからもう五分経ちましたけど」

「五分ももうすぐみたいなもんじゃんー」

 暑さで半分溶けたような声が聞こえてきて、その声に反応するみたいに背中を汗が流れた。私はついに耐えられなくなって制服の上着を脱ぐ。別にこの格好も強制ではなくて、もちろん夏服だって支給されているけれど、上着のない自分の姿はどうしてもみすぼらしく見えてしまうので無理やりジャケットを着込んでいた。普段からこうやって誰かに付き添ってうろうろするだけの仕事をしていると、外見ぐらいかっちりしていないと自分が刑務官であることを忘れてしまいそうになるのだった。

 私の仕事は、仮釈放となる受刑者の管理と、身辺整理のために一時釈放となる死刑囚の護衛や監視だった。その名を「釈放管理官」という。

 つい二十年ほど前まで、死刑執行の知らせは当日の朝に行われていた。執行日を事前に知ってしまうことで、死刑囚が脱走したり自殺したりする事例が相次いでいたからだ。ただ、今となっては、そもそも死刑判決を受ける被告人が減ったことや、死刑囚への精神治療研究が功を奏したこともあって、その必要はないのではないかという声が高まった。そうした動きの中で新しく、「一時釈放」という措置が生まれた。

 死刑囚たちは刑の執行を受けるにあたり、執行一ヶ月前までのあいだ、「身辺整理の目的のみ」という制限付きではあったが、釈放を許されることになった。その際に彼らを保護監督するのが私たちの役目である。刑務官になってからすぐにこの業務に就き、日々粛々と死ぬ準備をする彼らを監視し続けて、もう七年の時が経とうとしていた。

 私の身構えた格好とは対照的に、朝生さんは白地に紺の細いボーダーが入ったくったりとしたTシャツと、細身のジーンズを履いている。こんなに簡単なファッションがとても様になっている少年を、私はもう一度よく見て、目をつぶる。篠田はもっと均整のとれていないスタイルだったような気がするな。全身を整形して逃亡していたと担当検事から聞いてはいたけれど、これはもう整形どころの話ではないんじゃないだろうか。

 そんなことを考えているうちに電車が止まる。ぷし、と、缶ビールを開ける音をもっと情けなくしたような停止音がして、電車の両扉の隙間がゆるむ。朝生さんは勝手知ったる地元民の風情で右側の扉を引き開けた。この電車には開閉ボタンすらない。

「入るかなあ」

 朝生さんはこの町の景色を懐かしがるでもなく、淡々と歩いていく。私は上着を右腕に抱えたまま彼の後ろをついていった。風のない昼下がり、言われなくても健康を害すると分かる強さの太陽光線がダイレクトに全身を焼いてくる。

「何がですか?」

「今から取りに行くやつ、今更だけど棺にちゃんと入るのかなあ、と思って」

「そんなに大きいんですか」ぬいぐるみ、と言いながら、上着を左手に持ちかえる。上着を抱えていた右腕はすでに汗でじっとりと湿っていた。うーん、どうだっけなあ、と返事する朝生さんは私のほうを向かない。

 朝生さんは、一ヶ月後、死ぬ。当然の報いだ、彼は大量殺人者なのだから。彼が実際に手をかけたのは一人だけであったけれど、彼の元で無数の殺人者が匿われ、命を守られた。彼が上手に匿わなければもっと被害者は減ったことだろう。三桁に上った災害レベルの死者数は、彼の保護なしには現実化しなかったはずなのだ。ここ数年、死刑判決を頑なに拒んでいた裁判官たちにも、さすがに彼を逃すわけにはいかないと思わせたほど、彼はありえない犯罪をやってのけた。

 昨今、次第に増えていく死刑廃止国の無言の圧力で、日本の死刑判決も減少の一途をたどっていた。私が生まれた頃までは、年に十人以上の被告人へ死刑判決が下るのは不思議なことではなかったけれど、今ではそれが嘘のように、ここ五年間に至ってはほんの一例も死刑判決は下されていなかったのだ。しかし、そんな時代に朝生さんは、死刑を受けた。それが意味するところは非常に明確だった。

 裁判の最終日、判決文を読み上げる裁判長を見上げて、朝生さんは後頭部を右手で掻いていた。そしてその手を握り、慣れた手つきで軽く、コツンと殴った。被告人席の背後で待機していた私は、その一連の行為の意味のわからなさに、それでも、何かがあるような気がした。

 玄関扉を開けると部屋の中はしんみりと暗くて、わずかに閉じきっていないカーテンの隙間から真っ白な光が一本、床に線を引くようにして入り込んでいる以外には具体的な形をとらえることができなかった。現場検証として散々他人に入り込まれ調べ尽くされたこの古びた家を、私は何度も映像で見ていた。朝生さんが父親を殺した殺人現場として。

「なんかホコリくさいですね」

 安っぽいスニーカーを玄関で脱ぎ散らかして、とす、とす、と、靴下でフローリングの床を柔らかく叩きながら、そのままリビングのほうへ行ってしまう。私はついていく必要もなく玄関を開け放ったまま入り口で突っ立っている。この町には音がないなあ、と、さっき歩いてきたアパートの廊下、階段と、その向こうに広がるすかすかの住宅街を見下ろしながらぼんやり思う。ひとつひとつの音は鳴ったそのあとも余韻のようなものを残してしばらく香っている。今だって、朝生さんの何気ない足音がまだ耳に残っていた。その音をかき消す次の音がいつまでたってもやってこないせいだ。

 そうして私がなにを見るともなく外の景色を眺めていると、部屋の向こうからくぐもった笑い声が聞こえたあと、「いやちょっとこれは、さすがに」とひとりごちながら朝生さんが戻ってきた。大きい枕ほどのぬいぐるみを、両腕で抱えるようにして持っている。

「それですか、ぬいぐるみ」

「これです」

 さすがにダメですよね。これ。と、朝生さんは言って、ぬいぐるみの頭をぽんぽんと二度叩く。目に見えないちいさなホコリが舞ったのか、二人は同時にくしゃみをする。

 朝生健介は専門学校を卒業後、看護師として地元の病院で働いていたらしい。いや、そのころはまだ篠田爽平だったのか。とにかく彼ははじめから犯罪者の保護をしていたわけではなかった。きっかけがなければ今でも彼は看護師だったのだろうと思う。

 生まれつき、人を世話せざるをえない状況に陥ることが多かったのだという。そして彼自身、人に尽くしたり世話を焼いたりすることは全く苦ではなかった。むしろ自分にしか救えないような人間を救うことが、自分に課された使命であると感じていた。

 はじめから犯罪者を匿うつもりではなかった。匿った人間が、なぜか事件を起こしていくのだという。ある人は依存症に拍車がかかって金銭トラブルを起こし、またある人は昔の恋人をつけまわして警察にマークされ、…最初に殺人を犯した者に至っては、大きな詐欺グループの一端を担う男だったが、朝生さんと出会ったその時点ではただの無職の貧乏人だった。古い友人なのだと朝生さんは言ったけれど、それが嘘であることはすでに公に立証されていた。

 一人目の「未来の犯罪者」が彼と接触したのは、旅行先の仙台であったという。道に迷った朝生さんが声をかけたのがその人だった。その人は、当時はとても優しく、彼を道案内しがてら一緒に観光地を回ったらしい。丸二日をほとんど共にした彼らは旅行の終わりと共に、一度はただの他人に戻ったが、偶然、彼の地元で再会してしまう。

 そこからは地獄だ。彼の度を過ぎた世話焼きが、すべて裏目に出る。職を失った直後だったその知り合いを家に居候させたのが始まりで、その状況に慣れきった朝生さんとその知り合いは、状況を好転させることもなく次々に同じような境遇の人間を呼び寄せていく。どこにいってもうまくいかなかったその人たちは、どうしてだか朝生さんとはうまくやれた。朝生さんが無意識のうちに、人の挙動から相手の心理を敏感に読み取って、彼らを傷つけないように振舞っていたからである。そして彼は自覚もないまま、その危うい集団の数を日に日に増やしていった。

「いや、」私は顔の前で右手を振ってホコリを追っ払いながら言う。「多分入りますよ。他にも色々入れたいって言うんなら話は変わりますけど」

 うーん、と朝生さんは少しだけ考えるようなそぶりを見せたあと、別にないですね、と言いながらぬいぐるみを脇に置いて右足をサンダルに通した。左足も履いてから、ああでも燃えきらなかったらどうしましょう、と顔を上げてこちらを向いた。

「なんとかなるんじゃないですか」

「そうですかね…。中野さんたちにこれ以上迷惑かけられないからなあ」

 そう言ってぬいぐるみを撫でる。中野さん、というのは、朝生さんが唯一まともに「助けた」相手であり、彼の身元引受人である夫妻のことだ。

「大丈夫ですよ」

 私が燃やすわけでもないのにそう言って、玄関扉を大きく開く。蝶番が、ギッ、と変な音を立てた。

 目的を果たせば帰るだけだ。まっすぐに道を引き返して、電車に揺られ、その単線を降りてからは、覆面パトカーに乗って刑務所まで戻る。舎房着に着替えた朝生さんは、私にさっきまで着ていたTシャツとジーンズを手渡してくる。どちらも綺麗に畳まれていて、刑務所暮らしがもう板についていることが分かる。「今日もわざわざありがとうございました」と頭を下げた朝生さんのことを、篠田と呼ぶことは、やっぱりできない。

 朝生さんの場合、死刑が言い渡されて五日後には、もう七ヶ月後の死刑執行日が本人まで知らされていた。この刑務所の釈放管理官である私が、一枚の紙に綴られたその知らせを、面接室にやってきた朝生さんに手渡したのだ。今でも覚えている。

「僕、ほんとは篠田っていうんです。篠田爽平」

 覚えてますか、喜立先輩? 簡素な椅子に浅く腰掛けた朝生さんは、一瞬だけ目を合わせたかと思えばすぐにそらして、渡された紙に視線を落とすでもなく俯いた。しばしの沈黙のあと、私は

「知っていますよ」

 とだけ答えて、そこからは一切の私語もないまま、一時釈放の説明だけを一方的に喋って終わった。朝生健介という名は、彼が逃亡中に使用した偽名であり、本名は篠田爽平であるということなど、テレビのニュース番組からですら得られる情報だった。

 それでも私は、本人の口からその事実が発せられたことにひどく堪えたのだった。とっくに結婚して姓を変えていたせいもあって、旧姓である「きのだち」の響きが、まるで当時のことを思い起こさせるがごとく胸を打った。そして、私が喜立だったころ、彼が篠田だったころ、私たちが中学生だったころ、毎日のように同じ場所で息をしていたということが、嬉しいとも悲しいともつかない不思議な気持ちを伴って心の奥底から浮かび上がってくる。さっき目の前にいた、あの少年の姿とはまったく重なることのない彼の形を、思い出の中でおぼろげに捉えながら、わかっていたはずの事実を、それでも新鮮にショックだと思った。

 あの少年はどこから見たって、何ひとつとして、篠田ではなかった。それでも、彼は篠田なのだった。

 次の日、面会を終えた中野夫妻が部屋から出てくるのを待って、私は袋に入れておいた朝生さんの服を彼らに手渡した。香菜子さんはご苦労様です、と言って両手でそれを受け取ると、大きなトートバックにしまい込んだ。そして世間話でも始めるみたいに、

「あと、一回ですか」と言った。

 それが面会の回数のことだと受け取った私は、いえ、希望すればもう少し面会できると思いますが、と言ったけれど、彼女は薄く笑って、いえいえ面会じゃなくて。あなたに会うのが。と丁寧に訂正した。確かに、朝生さんの一時釈放は来週末で最後だ。そのあとは、死刑囚用の別の房へ隔離され、執行を静かに待つだけの日々がやってくる。

「今でも信じられないんですよ」トートを肩にかけ直して、その持ち手をぎゅっと握りしめながら彼女は続ける。「あんなにいい人が、あんなことするなんてね」

 私は彼らの顔を直視できなくて斜め下に視線を移した。どんなにいい人だろうがそれは人の一面に過ぎないのだ。ただ、それだけで片付けられない気持ちがあるのだということを、私は知っている。

 自制するように浅い深呼吸をする香菜子さんの代わりに、次は史郎さんが話しだす。

「彼、四国で捕まったんでしたよね。おじいさんの地元だったかなにかで、お父様と暮らしてたとか。あの、亡くなった方」

「はい。中野さんたちとお別れになってからすぐ引っ越したとの記録があります」

「そう」

 史郎さんは一度深く目を閉じて、開く。

「別れの挨拶をしに来たんですよ。朝生さん。ちょっと仕事の関係で、引っ越さなくちゃなんないんですって、わざわざもう一年も会わなかった私たちに、会いに来て」

「そうだったんですか」

「あの頃はまだ年相応の雰囲気がありましてね。整形? も、そんなにしてなくて。それでね、少しお茶を飲んで話をして、帰り際に、朝生さんが、玄関先で私たちのことを振り返って、『それじゃあ、お元気で』って、言ったんです」

 所内の廊下は冷房もほとんど効いておらず、ありあまる湿気が肌をなめてくる。夏の悪いところだけを詰め込んだみたいな空気だ。

「あのとき、引き止めておけばよかったんでしょうか。でもね。…その言葉がとても力強くて、爽やかで、私たちは、ずっと先の未来で、またこの人と会いたいと思った。そういう輝きを持っていた。だから、なんの疑いもなく送り出したんです」

 私は、見たこともない中途半端な整形状態の朝生さんを、それでも、まるでその場にいたかのようにはっきりと思い浮かべることができた。でもそれは紛うことなく朝生さんの姿であって、まったく、篠田ではなかった。日々、繰り返し、生きていくたびに、彼に出会うたびに、私の中で「朝生さん」と「篠田」はきっぱりと乖離していく。擦り合わせようとするたびに、触れたところからぼろぼろと壊れていく。篠田なんて、本当に存在していたのだろうか。私は、二十年近く前の古びた、と同時に一番色鮮やかであったその時代に映っていた彼の姿をもはや信じられなくなっている。それでも彼は、篠田って呼んでくださいよ、と、私に頼み続ける。

 最後の日は雨だった。

 ワイパーが忙しそうに右へ左へと走っている。朝生さんは助手席で小さなあくびしてから、窓の縁に肘をひっかけて頬杖をついた。

「ぬいぐるみ、今どこにあるんですか」

「ちゃんと保管されてますよ。どことは言えないですけど」

 先週取りに行ったあの大きなぬいぐるみは、担当者に頼んで死刑囚の房にある倉庫の一番手前にしまってもらった。そしてあの日を最後に朝生さんの元住まいには、彼の依頼した業者が出入りして荷物という荷物をすべて処分していた。さっき二人で確認しに行ったところ、部屋は綺麗さっぱり、すっからかんの空き家状態になっていた。はは、なんもなーい。と笑った朝生さんの声が、部屋の中で反響するのを、私は黙って聞いていた。彼の刑執行後、このアパートは取り壊される予定になっている。

 最終日ということもあり、彼の意向を汲んで地元を一周してから帰ることが許可された。混んでいる国道をのろのろと走っているのはそのためだった。

「懐かしい」と言ったきり、朝生さんはしばらく黙っている。

 彼がこの土地にいたのは、彼が看護師をしていた二十六歳の頃までだった。それからは、ただ観光地で出会っただけの人間を生活させるために首都圏を離れ、生活させるだけではなく匿うことになり、その人数は増え、匿うことにも限界が来ればとうとう逃げ出して、父親だけを連れて父の故郷へと移り住む。そこで、物心ついたときから虐待を受けていた彼は、何かの拍子に突然ダムが決壊したように感情を暴発させ、父親を殴り殺した。調書にはそう綴られている。

 母親がいないということも、父親から虐待を受けていたということも、私は知らなかった。学外部員として毎日私の通う中学校へやってきていた彼のことを、私はほとんど知らなかった。彼は実のところ、まともに中学校へ通えていなかったのだという。それではどうして、弓道部にだけは欠かさず通ってこれていたのだろう。朝生さんには、聞けない。

 ぼつぼつと、大粒の雨がフロントガラスとボンネットを叩いている。遠くにある信号が青に変わって、先頭の白い車から、ゆっくりと走り出す。やんわりとアクセルを踏んで、目の前の車が右折するのを見送りながら直進した。揺れのない静かな車内で、朝生さんは、いつもよりずっとおとなしい。

 住宅街に入っていく。ぎりぎり車一台がすれ違えるほどの道路を、さっきより速度を落として、遊覧船のようにゆったりと走っていく。もう既にここは母校の学区内だ。ラジオも音楽も、カーナビも起動されていないこの空間には、雨がそこらじゅうを打ち付けて跳ね回る音だけが充満している。通学路である桜並木の大通りへ出ようとしたとき、唐突に朝生さんが口を開いた。

「あの、ぬいぐるみ」

 曲がりきって、徐行からスピードを上げる。私は返事をしない。

「母が生前僕に買い与えた最後のプレゼントだとか言って、父がずっと僕にもたせてたものなんですよ。お守りみたいなものだからって。でもね、ほんとは違った。父が浮気相手に渡し損ねたごみだったんですよ」

 私は返事をしない。

「何考えてたんだろう。渡し損ねたにしても、俺からのプレゼントだって言えばよかったんじゃないかって思いません? …まあ、自分で責任をとらない人だったんで、当たり前っちゃ当たり前なんですけど」

 この大通りをひとつ裏に入ったところに中学校がある。私も十年以上訪れていなかった。きっとすっかり様変わりしているのだろうと思いながら歩道の中学生を横目で見た。

「僕が虐待されてたって、ニュースとかでも言われてるんでしょう」

 道路に視線を戻し、私は落ち着き払って、そうですね、と答える。まるで中学時代に戻って二人で傘をさして歩いているような気分になりかけた。

「父がね、僕を怒るとき、むやみやたらと殴るとかじゃないんですよ。どこの機能が狂ってんだ? ここか? とか言って、僕の頭をぽこぽこ、調子の悪い機械を直そうするみたいに、叩くんです。だから僕はずっと自分がロボットなのかと思ってました。虐待だなんて思ってなかった」

 最後はほんの少しおどけたように、乾いた笑いを含めて言う。校舎の裏門が、見えた。

「だから、あの日も、僕は、自分で頭を叩いてみたんです」

 彼があの日、と曖昧に指した日のことを、私は正確に捉える。

「もしかしたら、今この一撃で、直ってくれるんじゃないかって」

 すべてを諦めて、捨てて、それでも体に染み込んだ最後の記憶が、彼にとっては一番の毒だったのだ。

「でもまあ、何にも変わらず。僕はだめなままでした」

 その語尾が凍えたように震えているのを、激しい雨音がかき消してしまう。私は何と声をかけたらいいのか、わからない。裏門を右に回り、半野外になっている弓道場を目指す。きっと外側からでも見えるはずだ。私は必死になっていた。ここからでは校舎が邪魔をして向こう側が見えない。ジャーッと水たまりを派手に踏んでしまっても、二人は気がつかない。朝生さんは、あれだけ来たがっていた地元の景色を、目をつぶって、見ようとしない。なんとしても彼に弓道場を見せなければいけないと思った。

 左手には途切れることなく、校舎の窓が規則正しく並んでいる。その脇を走りながら、私はその奥を覗き込んだ。

 校舎をひとつ越えた先、プールと倉庫の間、そこに、昔と変わらない形をして、弓道場はあった。雨だからもちろん部員の姿は見当たらないが、トタンで継ぎ足された屋根は驚くことに当時のまま変わっていない。緑のネットだけがやたらと新しく、ぱっきりと側方を覆っていた。校舎に囲まれるようにして立っている不思議な造りのせいで、あまり近くで見ることはできないが、そこには確かにあのときのまま、弓道場があった。私は自分の心臓が早音を打っていることに気がつく。

 思わず、篠田、と、隣の男を呼んだ。

 目が覚めたようにびくっと体を震わせた篠田は、はっとして私と同じほうを向き、それから、ああ、と嘆息した。感動が時差式にやってきたようで、じわりじわりと、篠田は笑む。目元はパッと咲いたように開いて、こみ上げる喜びを処理しきれていない。その口元のぐにゅぐにゅとした感じを見ていたら、ああ思い出した、篠田はこうやって笑っていた。篠田は鳴きかたを知らない鳥みたいに喉のあたりに喜びを詰まらせて、むせる寸前のような姿勢のまま静かに笑っていた。

 それから校舎を一周し、彼の過去の住まいであった跡地に寄ったあと、その近くの公園に少しだけ滞在して、帰路に着いた。弓道場を見つけたあの瞬間からしばらく二人は無言だった。二人の間を突如襲った郷愁と、幻のような喜びの嵐は、その景色が去った後も二人の胸を貫いて、全身を巡っていた。

 帰ってきた頃には時刻はもう午後五時をまわっていた。所内の駐車場に車を止め、キーを抜いて車を降りる。これで最後だ。彼は明日の朝にはもう死刑囚の房へ移っていることだろう。これから一切会うことはない。

 駐車場から玄関先まで、連れ立って歩いていく。雨は少し弱まって、小ぶりのビニール傘でもそこまで濡れることはなかった。

「もう行けないと思ってました」ありがとうございました、と篠田は礼を付け加える。私は、なんと呼ぼうか少し考えてから、朝生さん、と彼を呼ぶ。

「なんですか」

 今なら聞ける気がした。

「中学生のとき、どうして、弓道部には欠かさず来ていたんですか」

 篠田は意外な質問に少し目を開いて、それから気まずそうに瞼を落とす。

「…父が、習わせてくれたんです。小学生のときから。弓道、すごくすごく大好きで、続けたいってお願いしたら、弓道部のこと調べてきてくれて、続けたらいいって」

 それに、と、語尾を足しかけて、篠田は口をつぐむ。なんでしょう、と私が先を促すと、雨で濡れたスニーカーのつま先を二度、とんとん、と無意味に叩いてから、誰も僕のことを知らなかったから、と、さっきより小さな声で言った。私は答える言葉を持たなくて、ただ、うなづいた。

 

 所内の自室に戻って官房着に着替えた篠田は、いつも通り、綺麗に畳まれた衣類を私に差し出す。今まで、ありがとうございました、と言いながら、まるで賞状でも渡すみたいに、両手で丁寧に。それを受け取ってから私はもう一度、朝生さん、と呼ぶ。

「はい」

 彼は、これからの一ヶ月間、死ぬまでの一ヶ月間、やっぱり今までのように、自分をできそこないのロボットに見立てて、直れ直れと叩き続けるのだろうか。それを止めることができないということは、私はよくわかっていた。だからこそ、死ぬのだ。

 私は改めて、篠田に向き直る。正面から彼の顔を見ると、なんだか泣いてしまいそうになる。彼が死ぬのが悲しいのではなかった。きっと、すっかり失せたと思っていた篠田の痕跡が、朝生さんの中にちゃんと息づいていたというその、ひとかけらほどの事実が、私を嬉しくさせて、悲しくさせている。黙ったままの私に、篠田は困ったように笑っている。ああ、この困り方だって篠田だな。私は目をそらさずに、言う。

「篠田、元気でね」

 言ってから、それがひどく馬鹿らしい言葉だと気がつく。それでも、篠田は嬉しそうに笑った。それはポストの中に、親しい友人からの手紙を見つけたかのような、とても個人的で密やかな笑みだった。そして、彼は私の言葉をかみしめるように一度瞬きをしてから、はい、と、少年らしい爽やかな声で答えた。

2018年2月6日公開

© 2018 わに

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