2017年9月17日、ヤクルトスワローズなどで活躍した元プロ野球選手デーブ・ヒルトンが、67歳の若さで逝去した。ヒルトンは、ヤクルトファンである村上春樹が小説を書くきっかけになった選手として知られている。なお、死因はあきらかになっていない。

1950年にテキサス州で生まれたヒルトンは、1971年のMLBドラフトで全体1位指名を受けた内野手だ。即戦力として期待されサンディエゴ・パドレスと契約したが、残念ながらなかなか芽が出ることはなく、メジャーでの実働はわずか4年161試合に留まった。アメリカではけっして活躍したとはいえない選手だった。

しかし転機は1978年の春に訪れる。ほかの外国人内野手と契約内定していたはずのヤクルトスワローズが、その選手からドタキャンをくらったために緊急で入団テストを実施したのだ。ヒルトンはそのテストを受けると見事合格。広岡達朗監督のもと主に1番セカンドで起用され、打率.317、19本塁打、76打点、OPS.890を記録する活躍を見せた。球団創設29年目での初優勝・初日本一に大きく貢献し、同年のベストナイン(二塁手部門)にも選出されている。

そんなヒルトンの日本球界初打席を神宮球場の外野席から観戦していたのが、当時29歳の村上春樹だった。1978年の開幕戦・対広島カープの1回裏、1番ショートで先発していたヒルトンは前年の最多勝投手である高橋里志から先頭打者ツーベースを放つ。その快音を聞いた瞬間、「空から何かが静かに舞い降りてきて」「『そうだ、小説を書いてみよう』と思い立った」のだと村上春樹はエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』に記している。

そうして執筆されたのがデビュー作『風の歌を聴け』であることは、ハルキストにとってはもはや常識だろう。もしあの日ヒルトンがツーベースを放っていなかったら、世界的な名声を得る小説家・村上春樹はこの世に存在していなかったかもしれない。

ヒルトンはその後も日本球界でプレイしたが、1年目ほどの活躍を見せることはなく、3年目の5月に途中帰国した。「1年だけ活躍した助っ人」の典型といえる成績ではあったものの、記録より記憶に残る外国人選手といえるのではないだろうか。