丘のうえの遺跡公園

手嶋淳

小説

6,844文字

彼らは、一体どうなっちゃったんだろう……? ぼくは、丘のうえの遺跡を前に、謎の失踪を遂げたらしい古代の一家族の話にひっかかりまくる。

ごく近所の遺跡記念公園へ歩いて行ってみることにした。なんの変哲もない平凡なこの町に、思いがけないことに古代の遺跡なんかがある。引っ越してきた当初から知ってはいたけど、行ってみようと思い立つことは一度もなかった。その日、いつも素通りの電信柱の案内看板『遺跡公園はコチラ』になぜか目に留まって、家に戻ってもこれと言ってやることがないことだし、ぼくたちはただ何となく足を向けることにした。

鎌倉街道の交差点を渡って、団地を抜ける。ダイハツのムーブが停まる駐車場の脇、ばあさんがシャベル片手に立っている。鉢の植え替えをしていてひと段落ついたといった様子のそのばあさんがウーンと声を漏らして腰を伸ばしたはずみに、目が合った。表情をほころばせて、ぼくたちに話しかけてきた。ああ、公園ね。なんだかあるみたいだけど。昔のあれ、おうちがあるんでしょ。でも、上でしょ、歩いていくのはちょっと大変よ。バスじゃない? あたしなんかほら、膝が痛いから。ふっははは……。お散歩がてらいいね、天気もいいから。

「えっ。あんまり大変なら途中で引き返そう」と桃がぼくに言うと、ばあさんも、それがいいという風に頷き、日に手をかざし、渋い目つきになって鉢に視線を戻した。ぼくたちもまた、歩みを運ぶことにした。

あれこれ喋っていたらとっとと着くものだと言わんばかりに日常の細かな諸々を披露し合いつつ、坂道を果敢に進む我々。勾配を利用して建てられた民家から枝が覆いかぶさり狭い坂道はやがてひんやりした葉漏れ日のトンネルとなる。

勾配がきつくなってくるのだが、幸いなことにほとんど絶え間なく海風が吹いていて、汗をにじませるということもなく、至って元気に歩みを進める。車一台通れるか通れないかの狭い坂道から、摩耗してくたびれてがたがたになった石階段に差し掛かる。湿った石階段には季節の忘れもののような枯れ枝や木の実がひとかたまりの土くずとなって、冷たく隅に固まっている。

手すりを支えにその急勾配を上りきったとき、足元から一段と力強く風が吹きあがるのを感じた。そこでぼくたちは初めて振り返った。視界が大いに広がっていた。海藻のように揺れなびく、えのころ草。その向こう、湾岸のビル群を遠く見渡しても、大して感慨が沸かない。それよりも、丘から丘へと、そして海の方までびっしり広がる家屋の過密が圧巻だった。ベイエリアに至るまで無数のやわらかな起伏を見せる、横浜。随分と高いところまで来ていた。

広い空に散らばる雲、なんと柔らかく心地いいこと。

「三殿台遺跡公園はコチラ」との大きな看板に従い、ゲートに至る最後の階段に足をかける。脇の児童公園では、小さい子どもたちが滑り台の隣でしゃがみ込んで夢中に遊んでいる。何をしているのか、傍から見ても想像がつかないその群れを素通りする。花がそこここに咲いているのが、赤、青、黄、ピンク、パープルと色鮮やかだ。見上げると造成された崖のうえにフェンスがあり整然と大樹が植えられていて、その向こうがどうなっているのか、見て確認することはできない。が、遺跡公園が広がっているのだろうと分かった。

ぼくたちは徐行するバスとすれ違い、フェンス沿いの路地を歩いて、入り口を探した。ぐるりとフェンスを回って正門のゲートに到着したのが、夕方の四時。まだまだ、軟らかな日差しが空を包んでいた。鳥が数羽舞う明るい夕景のなか、鉄門は堅く閉じられていた。閉館は、四時。案内板を目の前に落ち込みを隠しきれずうなだれていると、桃は「残念だったね」と大して残念じゃなさそうに公園に背を向けて、眼下の町々に向かって背伸びした。「ああ! だいぶ日もかげってきたかな!」桃はたっぷり散歩ができて、それでよかったのだろう。

 

――それならそれでよかったのだが、ぼくはこのルートが気に入った。そして遺跡のことも、ちょっと興味を抱き始めていた。翌日、再び遺跡記念公園を目指すことにした。桃は大学の用事があって行けないと言うのだが、そもそも昨日の今日でもう一度上る気持ちはさらさら分からないしめんどくさいし、といった感じだ。窓の外を見れば、前日とはうってかわって、天候はゆるやかに崩れていたのだった。ささやきかわすかのような小雨のなか、ぼくは一人で同じルートを辿った。

見覚えのある道々を進み、今度はあっさりと到着した。前日には堅く閉じられていた鉄門はレールのうえに引かれておらず、傘を差したままに、そのまま園内へ進み入った。声なき声に招き入れられるかのように、吸い込まれるかのように、敷地内へ歩みを進めた。あれ、入場無料か。入って四、五歩くらいで気がついた。吸い込まれたかのような気分になったのは、何のことはなく、それだけのことだ。

目の前に広がりゆく、開放的な芝生。昨日のような天気ならば駆けまわる家族連れや昼寝する老人の姿でも目に入りそうなものだが、人影はない。雨は誰もいない芝のうえに静かに降り続ける。復元した竪穴住居と発掘当時の掘り跡も、静かにただ濡れている。竪穴住居の中に入ってみたり、方々の景色を眺めたりして敷地内を散策してから、入り口脇の展示館に足を踏み入れるべく、そちらに向かった。傘をたたんでいると、いつの間にか一人の老人がぼくの脇に立っている。ずいぶんと痩せていて骨格標本がボーダーのシャツをラフに着こなしている、という印象なのだが、その目が何より特徴的だった。精彩を湛えたとび色の瞳。老人の風貌に色々と気を取られていると、これと言った合図もなく彼は語り始めた。見ると、胸にボランティア員のバッジをつけている。この記念館の解説員のようだ。

 

三殿台遺跡のまとまった発掘調査が行われたのは半世紀前。発掘のきっかけはこの丘の小学校の校地拡張だった。当時の日本は子どもの数が多く、五十人学級もざらである。丘のうえの滝頭小学校岡村分校もまた、教場を増やすことになる。この建て増し工事を機会に遺跡調査が行われたのだ。老人は、そんな内容の話を始め、ゆっくりと発掘の歴史を語り進める。団塊の世代、高度成長期、といった言葉を散りばめながら。

1961年の夏。横浜市立大学や国学院大学の学生が小学校に宿泊して調査に当たった。一般人のボランティアたちも数多く参加したという。一気呵成にブラッシすること、一夏。遺跡は数ヶ月後には埋め返される前提のうえで、あくまで期間限定で解体されていった。

掘り返され、持ち出され、そうして生活跡は再び埋葬される。掘り出されるべきものがまだ眠っているかもしれない。各地の発掘結果と照応されるべきものが残されているのかもしれない。しかし、今はとにかく小学校の下で沈黙している。

その限りにおいて、この独立丘の歴史は詳らかになる。大まかに言って、数百年続いては数千年の空白期間を経る、といった断続的なものだった。縄文前期、縄文後期、弥生、古墳それぞれ開かれては閉じゆく丘の歴史。いずれの時代も、ほんの数世帯で生活していた。何世代かがそれを継承しては、移住なのか病気なのか、なんらかの事情で、そのたびに姿を消す。人間の気配のない時間を経たあるふとした季節に、好奇心に満ちた採集民に見出されて、再び集住が始まるのだった。

「ここはムラができるべき場所やったんやなあ。誰に言われずとも長居したくなる場所、というものがあるんですねえ」

老人は頷く。そもそも縄文時代の遺跡は台地や丘のうえに多く見られるということらしい。

貝塚の方へとぼくを誘導し、次の説明へと移る老人。発掘された貝殻は、シジミやハマグリやカキを上回って、その六割はハイガイという二枚貝だった。ハイガイは現在東京湾ではほとんど見られない。九州やそれ以南の貝らしい。貝塚からそんなハイガイが大量に見つかったということは、縄文時代の日本列島が今よりももっと温暖であったということから考えても納得がいく。その頃、海面が六メートル高かった。だから、この丘のふもとにまで、すぐ間近に、海は迫っていた。老婆が鉢植えをしていた付近で小魚が群れて泳いでいたのか。ぼくの住まいが確か海抜六メートル弱くらいだった。玄関の扉を開けると波がくるぶしまで押し寄せてきて、ぼくは、磯辺をさらさらと歩いて出かけることになる。三殿台の縄文人たちの見た見晴らしは、現在とは大きく異なった。岬の突端に住まいを構えていて、海岸近くに点在する数々の集落を睥睨していたのだ。

一つ語り聞かせては、歩みを進める。盛り土遺構の展示コーナーを横切って、立ち止まる老人。話し慣れているのだろう、いちいちコンパクトにまとまった分かりやすい話を聞かせてくれる。縄文時代のとある住居の出土当時のパネル写真を前に、彼はぴたりと立ち止まった。「306‐C」と採番されているらしいその住居跡、別段これと言った変わり映えはないようにしか思えない。

「306‐Cだけは、床面からまとまって壺が見つかったんだよ。壺は、積もっていった土の重みで割れていた。家財一式がきれいに出土したということだね。どういうことか分かる?」

「えっと……それはよくあることではないんですか?」

「一式がそのまま残っているということは、ある一つの屋根の下だけ、生活がぴたりと途切れたということ」

「引っ越しか何かじゃないんかな?」

「いや、そういうことでもないんだよ。引っ越しなら、壺や甑などは持ち出すか、でなければ、ご近所さんが再利用するはず。一つの住居のみ、ぷつりと生活が途絶えてしまった説明をしなきゃならない。そして、住民を失ったその住居に誰も近づこうとしなかった理由は、いったい、何だったのか」

「今で言うなら、そんな住居は親類がさっさと取り壊しにかかって駐車場にでもなるんかなあ」

「まあ、そうです」

「うーん。普通に生活していて、唐突に生活が終わって、土が積もっていったってことか。なんなんですか?」

「禁忌を犯したか何かではないかな。夜逃げか。一家追放か。そうやって、そのままうち捨てられる理由があったんじゃないかな」

老人は「想像に過ぎないけれどね」と律儀に言う。集住しては解散してきた丘にふさわしいと言える、謎の断絶を果たした306‐C。

「あるいは、子どもが産まれなくなって衰退していって途絶えてしまう、最後の一軒だったとか」

「どうだろう。結局、こればっかりは、何が出土しようとも説明がつかないだろうね。何が起こったか、もう永遠に誰も分からないよ、きっと」

「そうですね。証言でもあればね、事情が分かるだろうけど、確かに今となっては分かりようもないか」

丘の遺跡群は、様々な想像を伴ってぼくのなかに留まっていく。たった一人の語り部によって語られた、たった数世帯の生活模様。それは、威光を示す遺物とは対極にあるなにか、と言える痕跡。観光地で見かける都跡や城趾に感じる印象は、公の物柄・事柄の物質感だ。それらは、その時代、その場所に、確かに在った印象を受ける。それだけの存在感を放っている。しかし、丘の生活跡には、その点がすっかり抜け落ちている。訪れたときに感じるのは、もっとひっそりとした印象。つまり、「生活」は、在ったのではなく、成り立っていただけ。そういう言い方がふさわしいのではないか。「確かに存在したんだよ」と頑なに主張する遺跡があるならば、それとは逆に、「確かに存在を終えたんだよ」と語りかける遺跡もあるもんだ。

老人は306‐Cで一通りの説明を終え、ゆっくりしていってくださいね、と告げて事務所に引き下がった。言われなくてももうしばらくいるつもりだった。じっくりと、今度は一人で眺めて歩いた。さほど数があるわけではない展示、三巡はしていただろうか。満足してもう帰ろうかと考えつつ歩いていたら、はたと思った。成り立っていたに過ぎない誰かの生活を覗き見るぼくの視線は、調子をこいたよこしまな視線だったのではないか。礼節を欠いているのではないか。

自分のことを振り返ると、ぼくは、ぼく自身をある実体としてとらえようと願っていると言える。ぼくも桃も、みんな実体であってほしいと紛れもなく思っている。人と生き、人に触れ、ときに人を避ける。それは、ぼく自身を実体として成り立たせるため。ぼくのイメージするぼくという実体を連続させていくために、そのためにこそ、ときに無様に舞い踊っている。怒って、笑って、泣いて。「成り立っていたに過ぎないんだね。解体すべき存在なんだよ」そんな物知り顔の外野の声はうるさい。結んで解けて、そして気の遠くなる時間にさらされる人間生活と、その終わり。そんな事実を、我が身に引き付けることは空恐ろしい。勘弁してほしい。でもそれと同等の無神経な視線を、ぼくは展示物に這わせている。そんなことを思い、顔を上げて視線をさまよわせた。

二つの扉の向こう、事務所の奥の机の辺り、マグカップ片手にぼんやりと来客を待つ老人の姿。それはもはや、どこにでもいる没個性的老体だった。誰もいない部屋で、一人でのんびり暖かい飲み物を味わっている彼のやけにひっそりとした佇まいは、ぼくの垂れ流れがちな想像力を妙に刺激する。……ひょっとすると、あの老人も感じていたのかもしれないな。物見し、解釈し、解説するボランティアのあの老人こそが、物見の礼儀をずっと強く意識していたのかもしれないな。

ぼくはそんなふうに、くどくどと考えを進めた。……「想像に過ぎない」との断りを一言差し挟むのは、古代人に対してのせめてもの申し開きだったのかもしれない。老人は説明のたびごとに、繰り返した。律儀なリフレイン「想像に過ぎない」は、史事の客観性へ向けた担保、だけではなかろう。覗き見ちゃいけなかったかな、との配慮もあったんじゃないか――。

ぼくは自販機で買ったお茶を飲み干して大きなゴミ箱に放り捨ててから公園をあとにすることにし、傘を開いた。振り返ると、事務所に老人の姿はない。いつの間にかどこかの中学生二人に解説を始めていた。雨の日だというのに、社会科見学に訪れていた女生徒たちは、透明の傘を差したままに熱心にメモをとっている。ぼくは傘のうえに落ちてくる雨の音を聞きながら、鉄門を通過した。乳色の霧に包まれた丘は、まるで天空の庭のようだ。そして、そこは、いつもの町の延長。大きく深呼吸し、ぼくは丘を下り始めた。歩きながらも、ある反駁が急激に大きく大きく膨らんで、押し寄せてくるのを感じた。

――痛みの記憶がもはや痛くないように、悲しみの記憶がやがては悲しくないように、解体して霧消した思い出もまた、実体の手触りを失ってしまっている。ぼくも触れることができない。老人も触れることができない。発掘に携わったボランティアの主婦や学生たちも触れることはできない。それと同様、当の306‐Cの住民も、触れることができない。解体してしまっている以上、各々の人にとって、等しく距離を持ってしまった。ならば、所有者を失ったと言ってもいいその記憶は、もはや誰が思い出しても正誤の差別はないのではないだろうか。

声を大にして言うわけにはいかないが、ぼくたちの思い出、とそれを呼ぶことができるのではないか。

「何者かでなければならない、そのように記憶されたくはない、ぼくとはこのような一つの事実であり実体である、思い出してくれ、そして思い出すときはこのように思い出してくれ」と頑なに主張する記憶の門番は、どこを探しても、もう姿を消していた。ならばこそ、残されるのはただの自由。自由に思い出される痛みであり、自由に思い出される喜びであり、自由に思い出される人生だ。よこしまな視線を遣るのも自由。妨げる者はもういない。尖った目で監視する門番などどこにもいない。しかし老人は、その自由を、ただ慎重に享受していたのではないだろうか。「想像に過ぎない」のリフレインは、その慎重さの表れだったのではないか。

彼は、思い出の守衛(不在・非番の門番)に礼を尽くしたかったのか。はたまた、「ぼくたちの思い出そのもの」に、リスペクトをもって接したかったのか――。

 

ふわふわ漂ってくる匂いを嗅ぎながら、ぼくは雨の住宅街を抜けた。雨と生姜焼きか何かの匂いが混じりあった、夕餉の気配。海抜六メートルのぼくたちの日常。ふんっ。なんだかこんなあやふやな散歩を、大学生の頃から当てもなくあの町この町でうろちょろと繰り返してきたな。と思っていたら、交差点の信号が青から赤に変わった。この足でスーパーで買い物をしようと思ってポケットに手を入れたとき、あっ。と気がついた。財布がない。ぼくはポケットのなかをしばらくまさぐった。しょうがない。それはそうと、そうだ。さっきの遺跡公園、入園料がタダでよかった。

裸のカギ。三殿台遺跡のパンフレット。しっとりと雨に湿った横浜歴史博物館のチラシ。それと、ぼくたちの思い出への招待券(の半券)。ポケットに押し込まれている諸々を、部屋に帰ったらテーブルの上に並べてみよう。

2014年7月2日公開

© 2014 手嶋淳

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