グランド・ファッキン・レイルロード(14)

グランド・ファッキン・レイルロード(第14話)

佐川恭一

小説

3,371文字

有村架純かく語りき。

「お兄ちゃん、遅いね」

とっくに冷めてるっぽい味噌汁と黒々した唐揚げをなんとなく交互に見ながら、わたしは小さな声でぼそりとお母さんに言った。「そうだねえ」とだけ答えて視線を動かそうともしない五十過ぎのこのオバハンはいつも訳のわからない難しそうな本をこれ見よがしに読んでいて、わたしやお兄ちゃんの方にはほとんど興味がないように見える。本の中の無機質な文字の方が生きていて、わたしやお兄ちゃんやお父さんや毎日の料理や洗濯や食器洗いやアイロンがけの方が死んでいるのだ、コイツの中では。たぶん頭狂ってる。何か変な薬とかも飲んでるし。本人は血圧の薬とか言ってるけどパキシルとワイパックスだった。心の風邪自慢のクラスメイトがお弁当の後に飲んでるのとまったく同じやつだ。心の風邪自慢のクラスメイトは薬の量が増えたとか強くなったとか、今にも死にそうなくらい辛そうな顔をしながら、でもそんな自分大好きみたいな感じで、暴力的な世界に耐えられないあまりにも脆くて純粋で特別な私サイコーみたいな自慢っぽい気持ちが透けて見える感じで話しかけてくるからぜんぜん相談に乗る気にもなれないし、あんまり好きじゃない。それと同じようにって言ったら変っていうかちょっと違うけど、やっぱりお母さんのこともあんまり好きじゃない。

お父さんは自分の部屋にこもって、見たこともない大勢の相手に競馬ゲームやスロットのプレイ動画? みたいなのを配信して大騒ぎしている。毎日のことだ。インターネット上ではかなり人気があるらしく、「永井浩二」で検索すると数え切れないほどたくさんの動画がヒットするし、信者からビールやゲームソフトなんかの差し入れが頻繁に届くし、配信にかかる費用をまかなうため、という口実で開設した募金用口座にはわりとお金が入ってくるみたいだ。そんなところにお金を入れちゃうやつの気がマジで知れない。黒柳徹子のユニセフ募金口座にお金を入れた方が世のため人のためになることは確実なのに。なんでこんなクズにお金をくれるんだろう? アフリカは自分の人生に関係ないけどお父さんは自分を愉しませてくれるから? フィリピンの災害は見えないけどお父さんは見えるから? シリアの人が何千人死んでも悲しくないけどお父さんの配信が見られないと悲しいから? そんな現実の世界に目を閉ざして自分の口座に金をかき集め、スロットやキャバクラに意気揚々と出かけるお父さん……そしてそれは次の配信のネタとなる。ほんとに乞食みたいなやつだ。わたしはキチガイと乞食のあいのこなのだ。愛の子? 合いの子? 間の子? とにかくろくな血統ではない。お兄ちゃんの帰りがどうとか大学受験の結果がどうとか、あのオッサンもたぶんそういう次元で生きていない。

お兄ちゃんのことは好きだった。小さい頃、近所の公園で仲間はずれにされて泣いていたわたしを助けて自分のことなんて顧みずにみんなを怒ってくれたし、勉強がわからなくて困っていたらいつも思わず抱きつきたくなるほどわかりやすく教えてくれたし、親戚の家に連れ出されて話についていけずに退屈していたら、わたしにも興味の持てるような面白い話をして笑わせてくれた。わたしはお兄ちゃんのことが好きだった。わたしはその頃のことを、その頃のお兄ちゃんのひとつひとつを思い返して、まるでおばあさんになったみたいにゆっくりと懐かしんで、胸のところが温かいようなかゆいような、妙な快感にぷるぷると震えるのを感じるのが好きだった。

お兄ちゃんは中学校に入ると変わってしまった。勉強しかしなくなったし、わたしともほとんどしゃべらなくなった。わたしが「勉強教えて」と言っても自分の勉強があるから無理だと怒鳴るようになった。定期テストや模擬試験の結果発表があるたびに狂ったみたいに叫んで喜んだり泣き喚いて落ち込んだりして、わたしにはどうしてお兄ちゃんがそんな風になってしまったのかわからなかった。高校に入るとそれはもっとひどくなった。お風呂の中に歴史用語だか英熟語だかを貼り付けてお経みたいに変な発音で唱えていたし、ご飯を食べながらイヤホンを突っ込んで英語のリスニング問題を聴きつつ数学の問題を凄い筆圧で何問も解いていたし、朝に部屋をのぞいてみたら勉強机に座ってシャーペンを握ったままヨダレを垂らして気絶していることもあった。勉強キチガイ。偏差値乞食。まさにあの両親の子! あの強くて優しくて楽しかったお兄ちゃんはいなくなった。わたしの記憶の中にだけお兄ちゃんはいて、お兄ちゃんは死んだ。

もう二年くらいお兄ちゃんとは口をきいていない。

でも、お兄ちゃんの頭がいくらイカれていても、受験が終わったらすっかり元に戻るんじゃないかという期待もわたしの中にはある。かなりある。確かにまたお兄ちゃんは何かの試験を目指し始めるかもしれない。でも東大に受かりさえすれば、あの狂った状態には一区切りがついて、視野も広がって、また穏やかで強くて優しくて賢いお兄ちゃんに戻って、わたしに楽しい話をしてくれたり勉強教えてくれたりしちゃったりなんかして、あの両親の遺伝子なんかぷっと吹き飛ばして、素敵なご兄妹ですね、仲の良いご兄妹ですね、なんて言われまくっていたあの頃に戻れるかもしれない。だから今日の合格発表のことは密かに楽しみにしていたのだ。でももう九時五十分。この帰りの遅さは死亡フラグなのか? だとしたら、もしお兄ちゃんが落ちているとしたなら、あんなキチガイみたいに勉強しまくった人がアッサリ落ちているとしたなら……東大っていうのはマジキチの巣窟だ。絶対近寄りたくない。吐き気がする!

わたしは高一だけど周りに東大目指してる人はいない。馬鹿高だからだ。でもクラスメイトはいいやつばっかりだしジャニーズの書類選考に通ったことがあるかっこいい奴もいるし芸能事務所に所属してるかわいい子もいるし一年生でインターハイに出ちゃうような爽やかスポーツマンも何人かいるしわりと賢くて地方国立目指そうかなみたいなインテリ風の優男も少数だけどいる。わたしのクラスには人間的な匂いがたちこめていてそれはわたしの家からほとんど失われてしまった匂いだ。お兄ちゃんやお母さんみたいなキチガイもお父さんみたいな乞食も教室にはいない。それともまだ未分化なだけ? わからない。未分化とか言っちゃって、わたしは生物を取っている。いつも三十点くらいだけど。まあ生物だけじゃなくて、全部三十点くらいだけど。

どうやら『ハイデガー入門』という本を読み終えたお母さんはすっくと立ち上がり、お風呂にお湯をため始めた。お母さんはお湯のたまるところを見つめるのがすごく好きみたいで、いつもお風呂にザドドドドと突き刺さる水とか、その飛沫とか波紋とか、たくさん出てくる細かい泡とかをぼうっと見つめている、

歳をとって大きくなった、全然セクシーじゃないお尻をぷりぷり突き出して座り込み、浴槽に顔を突っ込んでいるお母さんを見ること。それは私の日課みたいになっている。見たくないはずなのに、そんなお母さんをわたしはなぜかガン見してしまう。そうして毎日襲ってくる、いつか自分もこんな風になってしまうんじゃないか、という凄まじい恐怖。でもその恐怖がちょっとだけ快感だったりもして……

何と言っても、キチガイと乞食のあいのこだからなわたし。

これからの長い人生、まっとうに生きていけるのだろうか?

時計を見るともう十時を過ぎている。

軽快な電子音がなる。

 

お風呂がたまりました。

給湯栓をしめてください。

 

蛇口をきゅっとしめるお母さんを見届けてから、わたしは自分の部屋に戻る。

Seventeen。くまのプーさんのぬいぐるみ。ヴィヴィアンウエストウッドの財布。三十点の答案用紙。坂道のアポロン。イーストボーイのスクールバッグ。一度も開いていない英単語ターゲット1900。マリークワントの化粧ポーチ。君に届け。Hey! Say! JUMPのカレンダー。生徒手帳に挟んである彼氏とのプリクラ。Ranzuki。のだめカンタービレ。もう半年続いてる友達との交換日記。キティちゃんの置き時計。ハート柄の安いパイプベッド。ピンクの水玉模様のお布団。

わたしの部屋にはまだちょっとだけ人間的な匂いが残っている、と思う。

 

第十四章・完

2015年7月18日公開

作品集『グランド・ファッキン・レイルロード』第14話 (全17話)

© 2015 佐川恭一

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