いっしょにあるこう

紙上大兄皇子

小説

8,047文字

近未来を思わせる谷底の世界で、「二番目の息子」は声高に叫ぶ。噂が蔓延しないためにも、父の身体が腐る前に葬ってやらねばならない。

風が吹いたことのない谷涯(たにはて)の街を少年は走る。

 

道を曲ろうとすると、空気がドンとぶつかって、肺が膨らむ。ギリギリ通れるぐらい細い道では、空気も余計に硬くって、押し返されたり、頑固だったり。全速力で折れ曲がろうとすれば、気管がパンクして、ため息をつくことになるだろう。苦しいよ、もう1101回も路地を折れ曲がっている。

でも、行かなければ、噂で黒く染まってしまう。急がなくちゃ。

 

チチマチロと呼ばれるほど細い道があった。この路で女とすれ違えば胸を触れる、そう考えた色狂いが名づけた。乳を待つ路だ。ぼくは漢字をよく知っている、漢字は昔「真名(マナ)」と呼ばれたほんとうの字だ。そして、ぼくはこんなことも知っている。けれど、女はここを通らない、空気がパンパンに張っているからだ。強くそっと入らないと空気が割れてしまう。

二番目の息子は身体を横向きに薄くして、指をさしこむ。ささくれが引っかかって、プスッと割れた。ヤバい。ぽんぽんと連鎖して、チチマチロの空気がほとんどなくなった。

空気の少ない谷涯では、立派な犯罪だ。罪を問われるより先に、足へ力を込める。空気の弾けたチチマチロは清々しく迎えてくれる。

早く伝えなければ。走り続けて切れた息は、虹色の湯気となって谷涯を満たす空へ昇っていく。満たす空はその虹を飲み込んで、真っ黒い顔で微笑む。

 

逃げ出すための非常口を逆に入って、七十二階建てのマンションに昇っていく。もっと高いところがあると忠告する歩行者もいたが、そういう猿は決まってフカシだ。

谷涯に言葉を満たすには、七十二階まで昇れば充分なのだ。それより上の階にいる猿たちは、噂を信じない、歩行者じゃないんだから。彼らが信じている言葉は、0と1だけだ。

 

七十二階まで駆け昇ると、踊り場の手すりから上に跳んで、屋上に捕まった。誰も出ることがなく、ただ大人たちから見下ろされるだけの屋上には、猿たちの呪詛が吹き溜まって、大きな渦になっていた。間違って巻き込まれないよう、優しい言葉をかける。渦はぐるぐると悶えてから、しぼんだ。

二番目の息子は助走を取って、息を吸い込む。

「鬼はまだ来ないぞ!」

音は満ちる空へと染みていく。だが、すぐにバラけてしまい、「な」や「だ」が崩れ落ちていく。せめて猿どもに当たらなければ、と下を眺める。谷底に蠢く猿はいない。ただ歩行者の気配だけがある。

「鬼はまだ来ないぞ!」

幾つもの叫びをばら撒いて、噂が落ち着くのを待つ。鍋を眺める料理人がするように、両手を腰のうしろに当てて、前に屈む。街路からは不在の気配が立ち昇って、寂れた街の匂いになるけれど、実際はたくさんの歩行者が潜んでいるはずだ。歩行者じゃない猿は、数が少ない。歩行者たちは崩れかけた木枠の中で、噂が来るのを待ち構えて、牙を濡らしている。

 

噂を待ちすぎると、長い牙が生えるという。そういう猿を見たことがあるけれど、別に噂を待ったからじゃない。噂が待ち遠しくなった猿は、飢えて追いつめられた猿で、痩せるからだ。どんどん痩せて歯茎も痩せる。その歯茎さえなくなって、ついに歯が出てくる。特に犬歯が牙に見える。

二番目の息子が叫んだ言葉の余韻は谷涯にピンと張り詰めて、虫取り網のようになった。ひとまず、噂は来ない。

「よう、二番目の息子」

七十二階建てのマンションから駆け降りた途端、声をかけられた。どこの猿だと思って見たら、歯抜けの町会長だった。いやに朱いピンクの歯茎を剥き出して、ニヤニヤ笑っている。

「どこに駆けてくんだよ。おまえ、今、噂を殺していたんだろ?」

聞かれたか。嫌な奴、と思いながら頷くと、「ダメだよ、それじゃあ!」という言葉が宙に弾けた。

「おまえの言葉が聞こえたら、猿どもは噂が殺されたんだな、って思うもの。そう思われちゃあ、噂は死なねえよ」

「じゃあ、もう一回殺さなきゃダメなの?」

「やめとけ! 殺すチャンスは一回こっきりなんだ。どうせ、おまえみたいな小猿の立てた噂なんて、どうってことないよ! 大した毒にもなりゃしない」

「そうなの?」

「そうさ! なんならここで言ってみろよ」

二番目の息子は歯抜けの町会長の耳元で、パパが死んじゃったんだ、と呟いた。歯抜けの町会長はヒャッと叫んでたたらを踏んだ。土埃が舞い上がって、恨み言めいた霧になる。

「おまえ、そんなこと言うなァ! お見送りはしてもらったんだろうな?」

「ダメなんだ。うちなんかには来てくれないよ」

「してもらってないのかよ!」

歯抜けの町会長はそう叫んだきり、よたよたと歩き出した。悪いことをした。黒い言葉の響きが彼を歩行者に変えたのだ。ゆっくりと歩を進めるその目には、0と1しか映らない。

「ぼくはああならないようにしなくちゃな」

歩を緩めてはならない。二番目の息子は駆け出した。そこかしこの路地で空気の気泡にぶつかりながら、谷涯の底を駆けていく。

 

木材が高騰しているという知らせを聞いたのは、もうずいぶん前だ。七十二階より上からひらひらと踊りながら降りてきた紙の切れ端を拾った猿が、木材が高騰しているぞ、高騰だぞ、と触れ回り、気も触れた。知らせが遠くまで広まりすぎて、噂になったからだった。

あれからどれぐらいの時間がたったのか、よくわからない。二番目の息子の歯は、それまでに何本も生え変わっていた。おまじないに放り投げた歯と同じように、木材の値段は上がったり下がったりしただろう。どっちみち、買うのは無理だ。

といっても、谷間には木が生えない。握り合わせれば音の鳴るほど硬い空気は、木が伸びるのを許さない。葉っぱに開いた小さな穴は、どれもこれも猿ぐつわをされてしまい、うまく空気を吸い込めない。

棺桶を作るのには、どれぐらいの材木が必要だろうか。誰もそんなことは知らない。棺桶はいつだって遠くから届けられるだけだ。

もしかしたら、七十二階より上にいる大人なら、知っているかもしれないが、そこまで猿の言葉が届くことはない。呪いの言葉は谷涯に溜まる暗い水になって、少しずつ腐っていく。

――自分で取りに行けばいいよ。

一番目の息子の声が、思いつきのフリをして頭の中に響く。走るんだ、弟。とむらいのための木を探すんだよ。どうせ明けない夜なんだから。走り続ければいつか見つかるよ。

死んだ兄の声が、鳴り止まない音となる。それは血に乗って、全身を巡っていく。

 

森は近くになかった。とても遠くにある。助けがいる。一緒に走ってくれる仲間がいる。

 

虫の屍骸を食べて走る物がある。借りられたら助けになるんじゃないかと、二番目の息子は谷涯を駆け回った。暗い戸を開いて押し入り、歩行者たちの瞳の中に見出した0と1を頼りに、そのありかを探っていく。

役所の歩行者たちの目には、薄曇りの数字がたくさんあって、その中にはほんとうのありかが入っていた。0と1を100101桁まで並べたのが、答えだった。身体の中を、一番目の息子の声が走る。行け、行け、行け……。

「ぼくにはまだ無理だよ」

二番目の息子は目から雫を落とした。そんな遠くまで走り続ければ、体重が111キロは減るだろう。足の裏にだってヒビが入るかもしれない。でも、噂が流れるよりマシだった。パパの死体は、少しでも早く棺桶に詰め込まれたくて、ゆっくりと匂いを放っている。

 

シュラフでパパの死体を包んで、紐で引っ張った。走る速度が落ちる分だけ、苦しくなってくる。空気は遅い者を憎んでいる。喉の奥を引っかかれながら、延々と走る。満たす空は何度か瞬いて、二番目の息子を見下ろしていた。

シュラフがぼろぼろになって、二番目の息子の手も擦り切れた。滴る血を舐めると、金属の匂いが上を満たす。走れ、弟。舌先に声が響く。

 

元貴族はぼろぼろになった二番目の息子を快く迎えてくれた。谷涯のはじっこに住んでいる元貴族は、油の匂いを漂わせながら、太った腹をさすっていた。

「君はその袋を運びたいんだな?」

「はい。でも、お金がないんです」

「いいんだよ、そんなもの! 私は大人たちとは違うんだ。で、それはなんなんだい?」

二番目の息子は首を振った。中身を教えたら、この人も歩行者になっちゃう。その優しさを気遣うように、元貴族は答えをほしがらなかった。

「わかったよ、二番目の息子。それじゃあ、トランクに入れてしまおう」

パパの死体はトランクにすっぽりと納まった。バタンと閉めた上顎には、0002XRAUGAJと書いてある。

「この変なにょろんとした文字はなに?」

「それは2だよ。君の名前にあるのと同じ、1より大きな数さ」

「えっ、ぼくの名前も数が入ってるの?」

「もう使わない数だがね。10と同じ大きさだよ」

二番目の息子は誇らしい気分になった。なんだ、ぼくの方が一番目の息子より偉いんじゃないか。

「それじゃあ、この0002で行けばいいんだね? 走らなくても大丈夫かな?」

「大丈夫。ただ、窓は開けて走るんだ。それで、こうやって喉を開けるんだよ。そうすれば走っているのと同じだからね」

元貴族は口をあんぐり開けながら、空気を吸う真似をした。ぽっかりと開いた喉の奥で、彼の貪慾を示す茜色のひだがふるふると震えている。

「危ない!」

二番目の息子は叫んだ。手本を見せているときに、過失は入り込む。走らないで息を吸おうとしたら、絶望に取り込まれてしまう。

「おっと、危ない。歩行者になってしまうところだった」

元貴族は太った腹を撫でながら、にっこりと笑った。落ちかけた目の中の太陽が、再び輝きだす。

「さあ、これを持って行きなさい。0002はこれを飲んで走るから」

透き通った茶色の水は、虫の屍骸だった。白いタンクの中に入ったまま、ちゃぷちゃぷと鳴いている。

 

パパの死体はどんどん腐っていく。あまり時間がなかった。トランクの隙間から、臭気が這い出て、ゲラゲラと笑っている。

 

0002を踏んづけると、唸った。身体の中に生えている触覚を引っ張ると、ガリガリと呻きながら前に進む。酔うような匂いの屁をひりながら、大気を汚していく。こいつ、のろいな、歩行者じゃないか? そううたぐった瞬間、0002は恐ろしい速度で走り出した。

元貴族に言われたとおり、あんぐりと口を開ける。大気は水菓子みたいに丸まって、喉へ飛び込んでくる。走っているのと変わらないのに、息苦しくならないし、ちっとも疲れない。これならどこまでも走っていけるだろう。七十二階より上に住む大人たちは普段もこうやって寝ているというんだから、楽なもんだ。

0002は手足をもがれた虫みたいな格好で吼えながらも、しっかりと地面を噛んだ。谷涯がゆるゆると続いていく中を、一本の筋となって走る。

「走る……いい言葉だ!」

元貴族がアクセルと呼んでいた足の裏みたいなものに、自分の足の裏をぴったりと合わせて踏み込む。自分以外の誰かが走る速度を盗んでいるような気分だ、それも、とびっきり早い猿以外の誰かを。

 

谷涯の狭隘な底を抜けると、薄茶色がまばらに広がっている。大地の産毛だ。そこでは痩せこけた大きな猫が首に襟巻きをして、野火から逃げ回っていた。でも、野火は薄茶色の絨緞(じゅうたん)を飲みながら、その速度を増していく。ぐんぐん早くなる炎を振り返って、襟巻きをした猫は鳴いた。すんでのところでかわしてはいるけれど、その牙をどんどん尖らしていく。あの猫は逃げ切れないだろう。野火は円を描きながら走っている、すぐに囲い込むだろう。それがわかっていないのか、襟巻きをした猫は走り続けていた。

 

アクセルを踏み続けていると、薄茶色の絨緞が少しずつせり上がってくる。たまにひょろりと突き出たものがある。とむらいをしてもらえなかった猿が、空を求めて突き出す手に似ていた。あれのもっと太いものが木だよ。一番目の息子の声が、血の中を駆けめぐる。

0002と一緒に太い木を求めてさまよった。薄茶色の絨緞は、緑になりかかるかと思うと死んだようになり、諦めようとすると猿の手のような細木を伸ばす。いつまでたっても森は現れなかった。

森という字には、木が11個も入ってる。うん、そうだ。まったくその通りだ。ぼくの名前もそうだ。二という字の上の棒は、死んだ兄だ。上の棒が短いのは、早く死んだからだ。その通りだ、ほんとうによくできている。

 

二番目の息子の手は血の汗をかいていた。輪っかを握っている手がぬるぬると滑る。右手を舐めると鉄の味がした。道がでこぼこしているから、手が切れたんだ。

――あんまり走るのはよくないから、ゆっくり行こう。

パパはそういった途端、歩行者になった。あの声を聞いてしまったんだ。苦しくなると、喉に入りきらなかった硬い空気は耳に漏れ、あの声に変わる。その声にうなずけば、猿は歩行者になるしかない。歩行者になれば、死は遠くない。

二番目の息子は疲れを癒すために爪を齧った。それはすぐになくなってしまった。踏み込むふくらはぎは引きつっている。0002が止まったら、もう走れないかもしれないな。そうしたら、ぼくも歩行者になってしまう、パパもとむらってやれないや。

不安が岩となって立ちはだかり、0002の足をすくった。二番目の息子は墜落して、坂を転げ落ちた。

 

二番目の息子の目は赤く腫れ上がり、身体が粉になりそうな痛みの中に目覚めた。

――いっしょにあるこう。

耳鳴りが聞こえはじめた。ゆっくり眠りに誘うように風が吹きぬける。

アクセルを踏んづけてみたが、0002は置きあがれなかった。トランクからはパパを吐き出している。こいつ、一回倒れたらもう置きあがれないのか。歩行者だ。

ぼくの足はどうだろう。走ってみると、少し痛むだけだった。また紐を持ち、パパを引きずって走り出す。

 

転げ落ちたところは、見晴るかす広さだった。

「森だ!」

二番目の息子の叫び声は、いくらか迷子になったが、すぐに戻ってきた。この広さは凄い。谷涯に住んでいたことがバカバカしくなってくる。あんな狭いところに身を寄せ合って生きるなんて、猿も、歩行者も、七十二階より上にいる大人もバカだ。高いところにいたって同じだ、どの高さにいたって、狭いものは狭いんだから。

走り続けていると、パパの詰まっているシュラフがチャプンと呼びかけた。もう融けはじめている。暑いからだ。ここには満たす空ではない、広がる空だけがあり、そこに輝く星がすべてを焼いている。

遠くに見える緑は、少しずつ近寄ってくる。あの声は鳴りやまない。それどころか、だんだん一番目の息子の声に似てくる。もう少しで、血の中を巡りそうだ。

――いっしょにあるこう。

 

二番目の息子は大きな木へと辿り着いた。いまにも歩行者になりそうだった。気管が空気を拒んでいる、耳の中に空気が漏れつづけている。早くしないと。つるりとした木目にナイフを突き立てても、返事はなかった。木はその日陰を広げて、二番目の息子を抱いているが、棺桶をくれはしない。ただ太陽の熱を盗むだけだ。

――いっしょにあるこう。

声が身体を巡りはじめる。ナイフを握った手の先にまで諦めが行き渡り、かたかたと震えながら紫に染まっていく。ささくれはどんどんひどくなり、その下に見える血管の色も青い。二番目の息子はもう抵抗もできないまま、自分の指を眺めた。いっしょにあるこう。いっしょにあるこう。いっしょに………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 

「まだ症状が出てないな」

薄くあけたまぶたの隙間にかすんでいるのは、黒い髪をした男たちだった。たったいま引き抜いたらしい注射器から針を取り外して、小さな袋にしまっている。

「おい、目が開いたぞ」

「発症したんじゃないか?」

「いや、たぶん違うと思うが……様子を見よう」

「瞳は濁ってないか?」

「少し濁っているが、脳下床にまでは達してないだろう。これぐらいなら、薬で散らせる」

それから前の言葉はうまく聞き取れなかった。難しい言葉ばかりだ。

こいつらは、大人だ。諦めが締め付ける頭でぼんやりと考えた。はじめて見る。きっと、なにかぼくを奴隷みたいなものに変えようとしているんだろう。

「棺桶をください」

二番目の息子は呟いた。大人たちの動きはぴたりと止まる。

「棺桶をください。パパをとむらうんです」

大人たちは少し話し合い、それから、一番勇敢そうな男がシュラフを拾い上げた。

「ひどいな、こりゃ。腐ってる」

「どれどれ……ああ、これはだいぶ経ってるな」

「処置をしなかったのか」

「ふん、まあ猿どものやることだからな」

パパの身体を見るな。二番目の息子は叫んだ、しかしその声は喉の奥で擦り切れて、ふがふがと鳴るだけだ。

 

目が覚めると、誰もいなかった。黄色い生木の棺桶がそばにぽつんとある。

ぼくは歩行者になったのだろうか? 起き上がり、地面を蹴ってみると、タッタタッタと軽快な音がする。前となにも変わらない。ぼくは歩行者じゃない、まだ猿のままだ。二番目の息子はほっとした。

ゆらゆらと身体の奥底にたゆたっている不安定な感覚はそのままにして、棺桶に近寄った。揺らしてみると、ちゃぷんちゃぷんと音がする。誰だかわからないが、棺桶に入れてくれたんだ。

あとは焼くだけだった。野火を使えばいい。たまたま起きているかはわからないけれど、薄茶色の絨緞のところにいけば、どこかにあるだろう。

 

襟巻きをした猫は、まだ逃げ回っていた。野火は大きくなったり小さくなったりしながらも、とても早く走り回っているが、猫はすんでのところでかわしている。

「燃え上がれ!」

二番目の息子はそう叫ぶと、パパの入った棺桶を叩いた。野火はその音につられるようにして、一直線に向ってくる。

野火はいったん目の前で飛び上がると、棺桶の上に降り注いだ。バキバキと音を立てながら、木を屠っていく。すべての火が棺桶にまとわりつき、白い煙を上げた。逃げおおせた猫は、遠くに座り込みながら、ぜえぜえと肩を喘がせていた。

「猫はいいなあ!」

二番目の息子は呟いた。だって、猫は猿と違って、歩行者になる心配がないんだもの。

やがて、野火の上げる煙は真っ黒に変わった。パパの身体が燃え始めているのだ。

「猫はいいなあ!」

二番目の息子はもう一度呟いた。涙がたくさん溢れたが、それは一番目の息子の代わりに流してやった分も含まれていた。

 

すべてが燃えて、野火が居眠りをはじめた。二番目の息子は燃え残った核を探した。親指の爪ぐらいしかない核は、きらきらと光っている。ふっと息を吹きかけてやると、その輝きは増した。さようなら、パパ。二番目の息子はそれを飲み込んだ。

 

近寄ってきた猫はなついてきた。助けてもらったと思っているのだ。

「よし、じゃあ、おまえはぼくの代わりに走るんだ」

猫はゴウと低く唸りながら、頭を下げた。その首に股がり、襟巻きを掴む。金色の襟巻きは野火のせいで少し焼けていたが、まだふっくらとしていた。

猫はタッタタッタと谷涯へ急ぐ。0002には遠く及ばないけれど、かなりの早さだ。

「いいぞ、これなら息を吸うのも楽だ。早く帰れる」

広がる空が何度か目配せをすると、谷涯についた。姿は見えないが、たくさんの歩行者たちが息を殺して窺っているのがわかる。

「ほらいけ、猫!」

二番目の息子は、猫の腹を蹴った。七十二階建てのマンションを駆け上がっていく。階段の隅にいた猿は、キャッと怯えて逃げたけれど、噂を待っているような感じではなかった。

「鬼はもう来ないぞ!」

二番目の息子は屋上に出て叫んだ。谷涯の街はほっとしたのか、静まり返ったままだった。一番目の息子の声も、もう聞こえない。

2007年4月1日公開

© 2007 紙上大兄皇子

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