旅が好きだ。もちろん、世の中の煩わしい様々な束縛から解放される故に。
日本が雪が降ったりして人々がてんやわんやで騒いでいる頃、オレは常夏の国に来ていた。日本で味わう惨めな寒さはここにはない。先月働いた給料のほとんどは旅券代へと消えてしまい、残り手持ちが少なかった。しかし、なんとかなるだろうと思い日本を出てきた。
オレはバンコクの安宿にいた。古く軋んだベッドに腰掛けていた。この宿は百二十バーツ(約三百円)ほどの一番安い部類で、もちろんホットシャワーなんか付いてない。全てが共同だ。オレは朝から部屋にいたが何にもすることが無かった。ずっとタバコを吸いながら物思いに耽っていた。
隣の部屋には変人が住んでいた。国籍がどうも分からない太った若い女だ。話したことはないし話そうとも思わないが、時折そいつの部屋からピーパラピーパラと電子音が聞こえる。フルボリュームだ。これじゃ真剣に考え事なんかできたものじゃない。オレはそいつの部屋との境目になっている壁を叩き怒鳴る。
「頼むから、静かにしてくれよぉ!」
しかたがないのでオレは宿を出て通りを歩き回る事にした。暑い昼下がりだった。通りの隅からは食物と動物の混じった臭酸っぱい匂いがしていて、オレは何度もくしゃみをしていた。
もちろん行くところ、目的なんて無かった。
偉そうにも外国に来てるくせしてオレはする事が皆無だった。する事? する事って何だ? まったく以て無意味な時間が流れている。歩けば歩くほど太陽の暑さで目の前は霞み、足なんか棒のように腰からぶら下がって巧く体を支えて歩いてるみたいだった。もちろん歩いているからには少なからず理由もあった。
バーだ。どこに行っても大抵安く酒が飲める。種類も豊富だ。
オレはぜんまい仕掛けの人形のように行きつけのバーへ向かってスクンビット通りを先へと進むことにした。それにしても昼下がりのバンコクはすべき事がない。あるといったら昼間からバーで酔い潰れたり、誰もいない公園で鳩なんかを見つめていたり、道を歩くかわい子ちゃんのおしりに目が止まり興奮するが結局何もできずにオロオロと呻くような事だけだろう。おそらく他人にはやる事があるはずなのだが、オレの頭の品と質の問題だろうか、考えつきもしなかった。人々はオレの頭を跨いで先に進んでいく。資本主義は恐ろしい。
バンコクの熱風ってのはムカつくほど強烈で、一足を踏むごとに毛穴から汗が吹き出す。大通りには人や、犬や、虫ら、その他ゴミなんかがゴチャゴチャと飛び回っていてまるでジャングルの様だった。今日は、蝿だって飛ぶのを控えているくらいだ。スターバックスを過ぎた辺り(高くて入れない)、歩道の左側にビアガーデンを見つけた。
大勢の間抜けなバカ共が昼間からグデグデとしていた。気分が悪くなってきた。おれはカウンターのある寂れたバーに入りたかった。大勢の人間が入るようなとこはピーチクパーチクうるさくてかなわないし、ビール一杯の質にも疑問を感じる。やはり究極の一杯に賭けたい。南国のビールには氷が必要不可欠だった。氷がビール特有の苦みを消し、液体をギンギンに冷やしてくれる。
おっと、真っ昼間から始末が悪い。オレのアレが立ってしまったようだ。しかしオレは動じなかった。ただ、真っ昼間から股間をおっ立てた状態で町を歩くのはあまり誉められた事でもない。仕方がないので、おれは拳の厚みでカモフラージュするべくポケットに左手を突っ込んだ。
歩いていると、ポリスが前からやって来た。目が血走っている。どうせ賄賂狙いだろう。まったく、くだらない。あのギラギラした太陽のせいだ。そしてオレは握った手を少しだけ膨らませた。ポリスは横を通り過ぎる時、オレの膨らんだ股間を見て目を細めた。
そうして火照った頭で十五分も歩いただろうか、太陽はまだ頭の天辺にいた。ナナにはすでに着いていた。そしておれはまだ苦悶していた、やる事がないという高貴な悩みについて。あと勃起にも。オレは煙草に火をつけバーの中に入っていった。
「あら、久しぶりじゃない! 最近どうしてたの?」前からよく遊んでいたキャットだった。この女はまだ未成年なのだが、すでに立派な一人前のジャンキーになっていた。紙の巻き方も一流だ。
「島に行ってゴロゴロしてたよ。ハッパ吸う以外何にもすることなかったけどね!」
「いいわね、あたしなんて毎日毎日が仕事なのよ」
「どうせ男共の股間に手をやったり、くだらん話してるだけだろ」
「え?」
「いや、冗談ですよ。ビールを頼みます」
「ほんとくだらないこと言う暇だけは持ち合わせてるわよね」女はすらっとした足を組み替え、三角ゾーンがちらりと見えた。俺は後ろに仰け反りそうになった。
とても未成年とは思えない。あのマルクスだっておかしくなるだろう。
「うまいビールをお一つ、、」
「あたしも島に行きたいわ」女はブツクサ言いながらも本来の仕事を全うした。やはりビールは旨かった。黄色い液体が体の隅々まで染み渡った。麦の力が俺の血管をドクドクと脈打たせる。そういや島で飲んだビールも美味かった。オレのコテージの後ろ側に住み着いてた白んぼ爺さんは、ハイネケンのギッシリ詰まったデカい網袋を海に放り込んでいて(もちろん冷やすためだ)、オレは奴の眠った隙によく海に潜って頂戴したものだ。ある時オレがビールをパクる為に開けていた網袋の穴が次第に大きくなってしまい、爺さんが朝起きた頃にはハイネケンが全部沖の方へと流されてしまった事があった。狂った爺さんは海に飛び込んで探しに行ったがそれっきりだった。爺さんもいなくなった。
「今夜ウチに来ない?(マリファナ)あるわよ」女はそっとオレに話し掛けた。大した女だ。
「そりゃいいわ、行くよ」オレはポケットからくしゃくしゃになった百バーツを出しカウンターに置いた。釣りはいらないでしょと、残りを勝手にむしり取っていった。
しばらく経って女と店から出た。空は夕日で真っ赤だった。
しかし、まだ歩くとアレが股の間で勝手に擦れてしまい、感覚を敏感にする。そう、一足一足ごとに息子の巨大化を促進しているようだ。歩き方がぎこちなくなってきた。
「あなた何でそんな歩き方しているの? まるでタコが道を歩いてるみたい」女は心配そうにオレを見た。
「ああ、昨晩デカい蛙に金玉噛まれちまったんでね」
「蛙って噛むのかしらねえ。私の田舎にはそんな蛙いなかったわ」
「都会の蛙は噛むんだよ」
オレは彼女の部屋に行く。そして彼女をベッドに押し倒す。野性の目覚めが軟弱な男を強くするのだ。
スクンビット通りを三ブロックほど歩き、古い町並みを右に曲がり、彼女のアパートに着いた。オレは薄汚れたドアを押して開けた。
男がいた。肩には派手な色のタトゥが彫ってある。先客だと思う。
「あんた、誰だ!」俺は言った。「なんだこいつ! 痩せた犬みたいな奴が来たぞ!」奴も負けじと言い返した。
「二人とも止めなさいよ、くだらない! タロウ、彼は運び屋のレム君よ」キャットが間に入ってきた。
彼はハッパを運んで来てくれたのだ。気に入らない奴だがここは仕方が無い。
「やぁ、きんたま君」俺は挨拶をした。
「誰が金玉だこのやろう」
レムは間違いなくイイ男だった。たぶんここら界隈じゃモテるほうだろう。体を売っててもおかしくはないと、オレは勝手に見た。
しかし、俺とレムはずっと睨み合っていた。基本的に馬が合わないのかもしれない。だがそれもつまらなくなり、俺たちは輪になりジョイントを回し始めた。結局これさえあれば、いつだって仲良くできる。不思議なもんだ。
「ところでタロウ、、、あたし前から聞きたかったんだけどね」キャットがジョイントを吸いながら言った。
「おう、いいぞ」オレもジョイントを吸いながら言った。
素敵なジョイントのお陰で何でも答えられる、パパは何でも知ってる、というアメリカの偉大なる男達になった気がしていた。もちろん勝った方の。
「あんた、なんで、国に帰らないの?」
オレのジョイントの赤く光った先端がオレの腿のうえに落ちた。ジュッっという音がした。
「あちちちち! くそっ、くだらない事を言うのはよしてくれよ、なぁ!」
「でも前から気になってたのよ! あんたずうっといるじゃない」
「いるって? どこにいるんだよ。俺はどこにでもいないぜ!」
「オレもそう思ってた」レムも言った。
「うるさい、お前なんか今日初めて会っただろうがよ」
この時、いくら地に頭が埋もれたような奴らでも、それなりに計画を持って生きているということが分かった。オレはそれ以下ということだ。人間として。生き物として。
「だいたいちょっと待て! おまえらってのはそんな小さな事でぐじょぐじょ言わないお方達だろうがよ、、」オレは焦った。あまりに焦って胃とか腸が逆さになりそうだった。
「タロウさん、、、もう時代が変わったのよ」
タロウさん? 時代が変わった? じゃあオレも一緒に変わんなきゃならんのか? 変わるための第一歩とは? 現状打破だ。扉を打ち破るしかない。昔そう親に教わった。
「分かったよ、オレは今からここを出ていく。いいんだね?売春婦さんに、運び屋さんよぉ!」オレは叫んだ。しかし、誰もオレの事を気に掛けてくれなかった。二人ともアホみたいに口を開けて目の前のテレビにかじりついている。バカたれ共が。
資本主義にどっぷり浸からされて頭の中の軸までしっかりコントロールされちまってるバカ共。
こういう奴らは実によくキレる。ガムを噛んでる音や、なんだかんだで、、
オレはうるさくしないよう静かに部屋のドアを開けて外に出た。扉もそっと。
さてと。どうもオレは時代遅れのピエロとのことだ。確かに滑稽だった。
しかしどうもやるせなかったので、ストリップバーに行った。色とりどりの蝶のような女達が横に上にと踊っていた。オレは無理矢理下から覗こうとしたら運悪く踊り子の黒くて獰猛なゴツいブーツに頭を踏まれてしまい、血を流しながら走って宿に帰った。痛くて情けなくて枕を涙で濡らした。
どこでもそうだが、都市には堕落した魔物が棲んでいる。とにかく気を付けることだ。
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