高橋

テリー

小説

13,322文字

オタクでもなく、普通でもなく、いるのかいないのか、いる価値があ るのか無いのかわからない高橋の日常。

高橋は二階の自分の部屋に戻ると肩にかけていたかばんを二十年来使っている学習机の上におき、それとセットになっている椅子に腰をかける。かばんのファスナーを開け、中から財布、手帳、鍵束、巨大な望遠レンズの付いたデジタルカメラ、カメラの脚立、ペンライト、うちわ、歯ブラシセット、タオル、汗を吸い湿ったTシャツ、プラスチックのメガホン、たすき、写真集二冊、空の弁当箱、空の魔法瓶を取り出す。そして、カメラからメモリーを取り出してパソコンの上に置き、弁当箱と魔法瓶と湿ったTシャツ以外を几帳面に机の引き出しや本棚にしまいなおす。かばんは机の横のフックに引っ掛ける。弁当箱と魔法瓶は一階のキッチンの流しに置いておけば母親が洗ってくれ、明日の朝には新しい弁当と熱い緑茶を用意してくれている。湿ったTシャツは洗濯機の中に入れておけば、これもまた母親が洗濯した後、畳んでベッドに置いておいてくれる。高橋はパソコンとそれに接続されているプリンターの電源をいれ、さきほどのメモリーを差し込む。画面を見ながらメモリーの中に収められている写真を一枚一枚吟味しながらパソコンの中にコピーする。それが終わるとパソコンからメモリーを取り出し、これもまた引き出しの中にしまうと、机の横においてある写真用プリント用紙をプリンターにセットし、パソコンの中に移した写真を一枚一枚プリントしていく。写真が全てプリントし終わるとそれを全て写真の被写体であるアイドル専用のフォトファイルに入れ、今日の日付、コンサート会場の名前、時間を写真の横の余白に書き込んでいく。高橋は立ち上がり、机と反対側の壁の棚に置かれたステレオに電源を入れ、今日のコンサートでも売っていたキャナコ姫のCDをステレオに差し込み再生ボタンを押す。スピーカーから高い歌声がポップな音楽にのせて流れてくる。高橋は机に戻り先ほど作ったアルバムを記憶と重ね合わせながら一枚一枚開いていく。

「L・O・V・E・ラブリーキャナコ」

スピーカーから流れる曲にあわせて、コンサートで声も枯れよと叫んでいた掛け声が自然と口をついて出る。

高橋は最近のアイドルに少し幻滅していた。胸が大きいだけで可愛さのかけらも持っていないアイドルがたいした下積みもなくテレビに頻繁に映ることや、テレビで下品な話をさも嬉しそうに話すアイドルはもはやアイドルとは呼べない。アイドルは清純で可愛らしく、愛すべき存在でなければならない。しかし、高橋は完全にそう思い込んでいるのではない。アイドルも大便や小便をするし、彼氏がいればセックスもするだろう。もしかしたら仕事を取るためにプロデューサーに抱かれることも実際にあるのかもしれない。高橋は現実に本当のアイドルが存在などしないことがわからないほど、アイドルに傾倒しているのではない。そのため応援していたアイドルが何かのきっかけで売れてファンをないがしろにする発言をしたとしても、また売れるために下品なキャラクターになったアイドルを見たとしてもショックをあまり受けなかった。そういうものだということはわかっている。高橋にとってアイドルに必要なことは清純で可愛らしく、愛すべき存在であるという夢をみさせてくれる演技力があることである。つかの間の夢であったとしてもまた、それがアイドルのキャラクター変えによって打ち崩されたとしても、それまで夢を与えてくれていたということが感謝の念として残り、そのアイドルを応援することはなくなっても、嫌いになることはない。ただ、アイドルのコンサートに行き、歌声を聴き、可愛らしい仕草を観て、時に握手をしたときに高橋は妄想の世界に浸り、絶対的な幸福感に浸ることができるのだった。

CDの曲が終わると同時にアルバムの最後のページを閉じる。高橋はアルバムを本棚にしまい、次にステレオからCDを取り出しケースに入れ、棚に戻す。高橋は椅子に座りなおし、パソコンからインターネットで今日コンサートに行ったアイドルのホームページにつなぎ、掲示板のページを開いた。そこにはすでにいくつかの書き込みがあり、中には応援のメッセージや今日のコンサートの感想などに交じり『ブサ』や『死ね』などの誹謗中傷にあたる書き込みもあったが、それはホームページの管理人によって後々削除されることがわかっているので、そういうものは気にしない。

『今日のコンサート行ってきたぜい。もう、さいこー!!キャナコ姫、歌うまくなったんじゃないの。きっとボイストレーニングしてるんだろうなぁ。俺もがんばらなきゃorz』

高橋はこう書き込んでから、他の常連の書き込みを読む。orzというのは人が地面に膝をついてうなだれるように見える文字を組み合わせた記号で、インターネット上ではしばしば使われる。そういった記号は様々なパターンがあり喜びを表現したり、怒りを表現したりと用途別に様々にあるが、高橋はあまり使わない。せいぜい先ほどのorzぐらいだ。あまり使いすぎるとその書き込みを見た誰かにオタクを思われるのが嫌だからだ。高橋は他のファンのように自分はオタクだからと割り切ってなどいない。アイドルは好きだが、過度な幻想を抱いてなどいないし、もしかしたら自分と付き合うことになるかもしれないなどとも考えていない。映画好きが映画を観るようにただアイドルが好きなだけだと自分では思っている。

高橋は掲示板を一通り見終わると、机の引き出しを開きお気に入りのアダルトDVDを取り出し、パソコンに差し込む。パソコンのモニターにイヤフォンのケーブルを差し込み、右耳だけを装着する。これは滅多に部屋には入ってこないが、同居している母親や父親が近付いてきた時の足音をイヤフォンを挿していない左耳で迅速に気付き、アダルトDVDを見ていることを悟られないようにするためだ。高橋はティッシュを四枚取り丁寧に四つ折りにして机の上に置く。アダルトDVDの映像が始まるとお気に入りの場面まで早送りする。ある程度その場面が近づくと早送りをやめ、ズボンをずらし、すでに固くなっている陰茎を右手で握り締めてしごく。お気に入りの場面が近づいてくると右手の動きも早くなり、左手にティッシュを持つ。ちょうどその場面になると陰茎の先をティッシュで押さえ射精する。

アダルトDVDを観るためにはレンタルビデオ屋に行きレンタルするタイプの人間とお店や通販で買うタイプの人間がいるが、高橋は買うタイプだ。レンタルは借りる時と返す時に恥ずかしい思いをするのが嫌だ。通販で買うなら誰とも会わずに済む。それに高橋は気に入ったものをコレクションする性格で、アダルトDVDも例外でなく机の引き出しの中に数十枚のコレクションがキレイに並べられて入っている。両親が引き出しを開けることはないので、引き出しに鍵はかけていない。高橋はナンパもののアダルトDVDが好きで、コレクションは全てそれである。ナンパをしたこともないし、しようとも思わない。もともと女性と話すのは苦手であるし、ナンパのそもそもの目的を思うと、よく恥ずかしげもなくできるものだと思うし、されてついていく女も女だと思っている。しかし、ナンパを実際にできないからこそナンパもののアダルトDVDが好きだし、それは自覚している。

自慰が終わり、萎えた陰茎の先についた精液をティッシュでキレイにぬぐうと、ズボンを穿き、机の上にある棚に置いてあったウェットティッシュを二枚取り出し、丁寧に手を拭く。手を拭き終わると、パソコンからアダルトDVDを取り出し、ケースにしまいなおして引き出しに戻す。高橋は空の弁当箱と空の魔法瓶と湿ったTシャツと寝巻きを持って一階に降り、弁当箱と魔法瓶をキッチンの流しの横に置く。両親は朝が早く、すでにキッチンから離れた寝室で寝ている。

高橋は脱衣所に入ると洗濯機の蓋を開け、持ってきたTシャツを入れる。高橋は着ていた衣服を脱ぐと、脱いだそばから洗濯機のなかに放り込んでいく。着ていたものを全て洗濯機に入れ、素裸になると洗濯機の蓋を閉める。高橋は風呂に入るとまず椅子に座り、シャワーでお湯を出して頭からかぶる。頭をしっかりと濡らしたところでポンプ型のシャンプーを二回押し、出てきたシャンプーを手で泡立ててから頭を洗う。頭を洗い終わると、次に洗顔料を手に取り、泡立ててから顔を洗う。シャワーで顔の泡をしっかりと落とすと手すりに掛けていたシルクの手ぬぐいにボディーソープを泡立て、右足、左足、腹、胸、右肩、右腕、左腕、左肩、背中、右足、左足の指の間の順で洗う。体を一通り洗い流すと、手ぬぐいに付いた石鹸をシャワーの湯でしっかり洗い落としてから、もう一度ボディーソープを手にとって陰部と肛門を直接手で洗い、流す。体を洗い終わるとシャワーを止め、ぬるめの湯が張っている湯船に浸かり、浸かりながら歯を磨く。高橋は一度虫歯を我慢しすぎて、歯医者に行く頃にはその歯が完全に侵されてしまい治療が間に合わず、抜くしかなかったという経験があり、そのことを後悔のしているので、歯を磨くときは一本一本歯医者に習ったとおりにしっかりと磨く。そのおかげで、それ以来一度も虫歯になっていない。

歯を磨き終わり、体が十分に温まったら風呂から上がり、寝巻きを着る。寝巻きは上下ともグレーのスウェットで、上下セットで千五百円のものを二セット買い、洗い替えながら使っている。高橋はキッチンに行くとコップ一杯のトマトジュースを飲み、口をゆすいでからまた二階の自分の部屋にあがる。高橋は次の日の朝からのアルバイトに備えて、机の横のフックにかかっているアルバイトに行く時用のウエストバッグをとり、財布、手帳、鍵束を入れる

高橋は枕元の目覚まし時計をセットすると、部屋の電気のコードを二度引っ張り、豆球だけをつけてベッドに入る。完全に暗くなると逆に寝づらいので、いつも豆球だけはつけたまま眠る。目を閉じると今日のコンサートの光景が思い出される。ステージの上で踊りながら歌うキャナコ姫。曲に合わせてファン独自の振り付けで踊りながら声援を飛ばす高橋。一曲、二曲とステージが進み、勃起とはまた違った性的な快感が高橋の胸で屹立する。高橋が好きな曲が始まり、サビになってくるとキャナコ姫の顔が高橋の目の前で拡大され、高橋と目が合う。高橋のために歌うキャナコ姫に高橋が手を伸ばすとキャナコ姫も手を伸ばし、二人の手が届きそうになる。しかし、触れるか触れないかのところで手が届かない。高橋は必死でキャナコ姫の手に触れようと体を伸ばす。キャナコ姫はいつの間にか手を伸ばすのを止め、踊りながら歌っている。高橋が前に出ようとすると前には他のファンが何重にも壁を作り、高橋の邪魔をする。前にどうやっても進まない。キャナコ姫が待っているのに。僕を待っているのに。

 

高橋が目覚めると、目覚ましが鳴る数分前だった。高橋はベッドの中から目覚ましのスイッチに手を伸ばし、ジリと鳴ると同時にスイッチを切る。高橋がベッドから降り、寝巻きのまま一階のキッチンに行くとすでに母親が朝食の準備を済ませている。四人がけの四角いダイニングテーブルでは父親が新聞を読みながら朝食のロールパンを食べている。朝食は軽くトーストしたロールパンが二つ、それに付けるイチゴジャム、ベーコンエッグ、レタスのサラダ。高橋は無言のまま父親と斜め向かいの自分の席に座り、用意されていた朝食を食べる。

「コーヒーでいい?」

「うん。」

母親がインスタントコーヒーを淹れ、高橋の食卓に置いて、自分も食卓につく。

「あ、今日も遅くなるから、晩御飯いらないから。」

と父親が言うと、ん。と母親が軽く返事をする。父親は朝食を食べ終わると新聞を閉じ、はい。と高橋に渡す。高橋は新聞を開き、テレビ欄の裏面にある4コマ漫画だけを読むとまた閉じ、母親に渡す。

「じゃあ、そろそろ行ってくる。」

父親がそう言って玄関に行くと母親もそれについていく。父親を見送った母親がキッチンに帰ってくると同時に高橋は朝食を食べ終わると、洗面所に行き、鏡を見ながら念入りに歯を磨く。歯を磨き終わると、洗顔料のチューブを取り、真珠大ほどの洗顔料を左手の手のひらの上に絞りだす。高橋は蛇口を捻り、出てきた水を右手で洗顔料の上に少しかけ、両手で泡立ててから顔を洗う。ひげはほとんど生えてこないので、月に一、二度ほどしか剃らない。洗顔が終わると高橋は二階に戻り、外出着に着替える。ジャストサイズで色落ちしていないジーパン、無地の半そでTシャツを二枚重ね着し、上からチェック柄のネルシャツを着てボタンを下から留めていく。上から二つ目までのボタンは留めない。着替え終わると、昨日のうちに用意していたウエストバッグを腰につける。再びキッチンに降りていき、紙袋に入ったまだ少し温かい弁当と緑茶の入った魔法瓶を持ち、アルバイトに行く。

高橋は今時のオシャレというものに全く興味がないしわからないが、テレビで頭にバンダナを巻いて、腰にナイロンのウエストバッグをつけ、見たままにオタクと言われるような服装はしない。ファッション雑誌に載っているような洋服には興味はないが、相手に不快に思われる服装はしないように心がけている。Tシャツを着たときに乳首が浮いてしまうのを防ぐためにいつも二枚重ね着をしている。ウエストバッグも若者に人気のブランドのものを使っている。アイドルのコンサート会場に行った時に周りにいる体から汗の酸い匂いをさせているオタクの同類に思われたくないので、できるだけ清潔にするように心がけている。しかし、コンサートに行くと汗を掻き、周りの匂いがうつるのか、自分から発せられているのか、いつも酸い匂いが高橋を包むのでコンサートが終わったら、その会場のトイレでTシャツを着替える。高橋はそのままで気にもしていない他のオタクの気がしれないと思っている。

高橋は電車で二駅のところにあるアルバイト先の肉まん工場に着くと、従業員用の入り口から中に入り、十メートルほど廊下を進んだ右手にある男性更衣室に入る。高橋専用のロッカーの中に、ハンガーで掛かっている上下とも白の制服に着替え、靴も白いゴム長に履き替える。着替えをしてからタイムカードを押す。高橋の仕事はベルトコンベアに乗って一定のリズムで流れてくる肉まんを手袋をした両手で一つずつ軽く掴み、それと九十度の形に設置されている別のベルトコンベアに乗せるといった単調な仕事で、それが休憩を一時間挟んだ八時間続く。肉まんが二個流れてきたら両手で一つずつ軽く掴み、上半身を捻り、置く。二個流れてきたら両手で一つずつ軽く掴み、また上半身を捻り、置く。たまに形が崩れていたりするものがあれば、足元においてある薄いブルーのプラスチックの箱に捨てる。ずっと一人でする作業なので、同僚と適当に軽口を叩くといったことが苦手な高橋はこのアルバイトを気に入っている。休憩中は他のアルバイトと一緒の席で昼食をとるが自分からはほとんど喋らない。他のアルバイトがコンビニ弁当やパンとペットボトルのお茶で昼食をとっている中、高橋は家から持ってきた弁当を開き、魔法瓶に入っている緑茶を飲む。そのことでこのアルバイトを始めて最初のうちはほかのアルバイトから好奇の目で見られることもあったが、アルバイトの面々があまり代わることのないこの職場では、すでに全員が見慣れてなんとも思われなくなっている。高橋は他のアルバイトから飲みに誘われない。入った当初は何度か誘われていたが、断っているうちに誘われることはなくなった。稀に新人が入った時や、他のアルバイトが辞める時の歓迎会、送別会は断ると角が立つのでよほどの用事、よほどの用事など滅多にないが、それがない限りは行く。

高橋はアルコールを全く受けつけない体質なので、飲み会に行ってもオレンジジュースか烏龍茶を飲む。ビールをコップに一杯ほど呑めば気分が悪くなり、すぐに頭が痛くなる。しかし、酒を飲んで酔っ払い、羽目をはずすことに憧れており、二十代前半の年齢の頃に自宅で毎晩寝る前に酒を飲み、体をアルコールに慣らす練習をしたこともあるが全く効果がなく、今はもう開き直り一切酒を飲むことはない。アルバイトでしか仕事の経験がない高橋はそれでいいと思っている。

高橋がいつもどおりの昼食をとっていると二十数人が働く職場に三人しかいない女性のアルバイトの一人から声をかけられた。

「高橋さん、今日みんなで飲みに行くんですけど行きませんか。」

不意に後ろから声をかけられた高橋が振り向くと、その女性のアルバイトが立っていた。高橋は聞き間違いかと思い、もう一度聞き返す。

「だから、今日みんなで駅前の居酒屋に飲みに行くんですけど、高橋さんも行きませんか。」

「え、誰か辞めるんですか?」

「別に誰かが辞める時だけ飲みにいくわけじゃないですよ。」

「え、だって。」

高橋は母親やよほど慣れ親しんだ女性以外と言葉を交わすことがほとんどないので、突然、しかもほとんど話したことのない女性に話しかけられたことによる緊張と困惑で上手く喋れない。

「お酒飲めないし…」

「そんなの関係ないですよ。」

「だって…」

「いや、何か用事があるなら別に大丈夫ですよ。」

「用事はないけど…」

「じゃあ、いいじゃないですか。今日仕事終わったら駅前集合ですから。」

そう言うと彼女は身を翻し、他のアルバイトを誘う為に声をかけに行った。

高橋はここに入った時の最初の歓迎会には自分が主賓ということもあったので行ったが、それ以降に年配の男性アルバイトや社員に誘われた時は全て断っていた。しかし、今回のように不意に、しかも女性に半ば強引に飲みに誘われ断りきれず了承した形になったことを後悔していた。高橋は自身の人見知りな性格と会話のボキャブラリーの少なさから、例え飲みに行ったところでうまく会話も出来ず、その場の空気を壊すであろうことが容易に想像でき、またそうした後フォローの出来ない自分の性格を十分すぎるほど自覚している。しかし、機会があればそういった自分を変えたいとも思っている。

高橋は昼食を食べ終え、元々ほとんど会話に参加していなかった職場の仲間たちの輪から離れ、男性更衣室に向かう。男性更衣室に入ると誰もおらず、高橋は自分のロッカーを開け、そこに置いてあるウエストバッグの中から二つ折りの財布を取り出し中身を確認する。財布の中には千円札が八枚と小銭が何枚か入っている。いつも歓迎会や送別会が行われる駅前の安居酒屋ではせいぜい一人三千円もかからない。高橋は汗の酸い臭いが漂う更衣室の空気を鼻から吸い込み、口から大きくため息をつく。昨日コンサートに行ったところでもあるし、次の週末にも別の会場でキャナコ姫のコンサートがあり、もちろん行く予定がある。銀行には少しの預金があり、コンサートに行くには結局それを卸さないわけにはいかないが、両親に手取り十四、五万の給料から毎月家賃として三万円渡している。例え三千円ほどの出費でも趣味に使うお金が減るのは惜しい。高橋が今日の誘いを断ろうと決めたところで休憩の終わりを示すベルが館内に鳴り響く。

高橋は仕事が終わったら断ろうと考えながら仕事場に戻り、肉まんが二個流れてきたら両手で一つずつ軽く掴み、また上半身を捻り、置く。二個流れてきたら両手で一つずつ軽く掴み、また上半身を捻り、置く。いつもなら仕事中は頭の中で好きなアイドルの曲を流し、アイドルのその愛らしい仕草や歌声を頭の中で反芻して、単調な作業の時間を埋めていくが、今日はさきほど誘われた女性のアルバイトに断りを言ったときにどういった反応をされるかをずっと考えている。高橋は断った際に相手の機嫌を損ねることを恐れており、その恐れから、そうなった時のことばかりを考えている。用事は無いとすでに言ってしまっているので、急用を思い出したという理由で断ると、嘘だと思われるだろうからそれはできない。金銭的に厳しいということを言ってケチに思われるのは、まだかすかに残っている自尊心がそれを拒む。もし断らずに飲み会に行くとしても、普段なら断るくせに女に声をかけられたら来るのかと他のメンバーに思われることも想像する。とにかく断ろうと思っていたが、誘ってくれた女性の強引な誘いを断ることができずに、結局飲み会に行くことになる。居酒屋に入るとすでに他のメンバーはそろっており、声をかけられ席につく。隣には声をかけてきた彼女が座る。

「高橋さん来てくれたんですね。」

「いや、まあ。」

「よかった。来てくれないと思ってましたよ。」

「うん。たまにはいいかなと思って。」

飲み会で高橋は珍しく流暢に話すことができ、

「高橋さんって面白いですね。」

などとも言われる。

飲み会が終わり、いったん外に出ると何人かが帰り、残りはカラオケに行くという話になり彼女からまた誘われる。いつになく気分が高揚している高橋はそれに行くことに決める。

高橋はカラオケで流行の曲ではないが上手く歌える自信がある歌を何曲か歌い、意外と上手いと周りに褒められますます調子に乗る。カラオケが終わると各々電車で、自転車で帰途に着くが高橋と彼女は駅前から少し歩いたところにある煌々と明るく光る看板のラブホテルの一室にいる。

「いいんですか。」

「嫌なんですか。」

「いや、そういうわけじゃないけど。」

「じゃ、いいじゃないですか。」

若く、性に開放的な彼女が高橋のネルシャツのボタンを外していく。高橋はとまどいながらもその手を目で追う。高橋は意を決し、彼女の肩を掴む。その肩ははきはきとしたものいいする彼女のイメージとは違い、華奢で細い。高橋は彼女を引き寄せるようにキスをする。

 

高橋が仕事を終える十分きっかり前に交代のアルバイトが高橋の右隣に来ている。高橋はそれに気付くと、もうそんな時間かと思いタイミングを見計らってそのアルバイトに場所を譲り、仕事を終える。高橋は妄想により勃起しているが、それを下着のゴムに挟み自分の下腹部にぴったりとくっつけ、また制服の上着の裾はズボンの外に出ており、長さが股間のあたりまであるのでそれをめくらない限り第三者に股間の膨らみを気付かれることはない。いつもなら高橋はそのまま男性更衣室に戻り、着替えて帰るが、すぐには勃起がおさまらないので休憩室に戻り、温かい缶コーヒーを買い、冷ましながら飲む。飲みながら断りをどういれようかと考えるがさきほどの妄想がそうするのを躊躇わせる。高橋がなんと言って断ればよいかと考えているといつのまにか勃起も収まっている。高橋はすでに手の中で冷めてしまったコーヒーを飲みきり、男性更衣室に向かう。男性更衣室に戻りタイムカードを押すと他のアルバイト達はもうほとんど着替え終わり、駅前集合な、と声を掛け合いながらそこを出て行く。高橋は急がずにいつもどおり着替える。高橋は他のアルバイト達が先に駅前の居酒屋に入り、まとまりもあまりない集団であることから、全員がそろうのを待たず順に飲み始めることを知っているので、そのまま顔も出さずに帰ってもばれないであろうとも思うが、後日、来なかったことを責められるかもしれないと、また不安に思う。着替え終わり外に出ると先の方に小さく他のアルバイト達が見える。高橋は決して追いつかないようにゆっくりと駅に歩を進める。

駅が近づいてくるにつれ、どうするか結局決まりきらない高橋はさらに歩みを遅くする。しかし、ついに駅前に着いてしまい一瞬立ち止まったその時、後ろから声をかけられた。

「高橋さん、あっちですよ。」

振り向くと昼休みに声をかけてきた女性アルバイトと他何人かのアルバイトが立っており、こちらを見ている。

「え、ああ。」

「どうしたんですか。」

「え、いや大丈夫。」

それを聞くと彼女は先に立って歩き、そのあとを他のアルバイトがついていく。さらに高橋はその後ろからついていく。高橋は断わりを言うタイミングを逃し、飲み会に行くことになった自分を悔やむ。しかし、女性に強引に誘われるということを嬉しくも思っている。

居酒屋に入ると十人ほどがすでにビールや酎ハイを手に持ち談笑しており、後から来たメンバーはまだ席が空いているところへ腰を掛ける。高橋は空いていた一番端の席に座る。そこは図らずも彼女の隣だった。

「高橋さん、何飲みます。」

そこで高橋は一瞬酒を飲むことを頭に浮かんだが、やはりオレンジジュースと答える。

「えー、一杯目からですか。お酒にしましょうよ。」

「いや、あのお酒飲めないんだ。」

「えー、もったいない。じゃあせめて、カシスオレンジとかにしましょうよ。いいですね。」

「え、いや、」

「すみませーん。」

彼女は高橋の返事を待たずして店員を呼び、他のまだ飲み物を頼んでいないメンバーの注文を取りまとめる。高橋は一杯くらいならと思いそのままカシスオレンジを注文することにする。頼んだ飲み物が来るのを待つ間、高橋は特に何も喋らずそこに置かれていたオシボリで手を拭く。手を拭き終わるとそのオシボリを丁寧にたたんで自分の前のテーブルを拭く。隣の彼女は体を高橋と反対側に向けて他のメンバーと楽しそうに話している。高橋が自分の前のテーブルを拭き終わりもう一度オシボリを几帳面に畳みなおし、右手のほうに置く。さきほど注文した飲み物が店員によって運ばれてくる。彼女が手際よく店員から飲み物のグラスを受け取りまわしていき、高橋の前にもカシスオレンジのグラスがまわってくる。

「こんなもの、ジュースみたいなものですから。」

そう言って彼女は高橋に微笑む。

「じゃあ、みんなそろったところでもう一回乾杯しようか。」

一番年配のアルバイトが一同に声をかけ、それにつられて高橋もグラスを右手に持つ。お疲れ様、乾杯。の声にあわせ一同グラスを近くにいるものとカチリと合わす。高橋は隣の彼女とだけグラスが触れ合う。グラスの中には濁った紫色のカシスオレンジが八分ほど入っており、口を近づけるとオレンジの香りの奥にあるアルコールの匂いが高橋の鼻をついた。高橋はアルコールが飲めない人間がみなそうであるように、アルコールの匂いに敏感である。例えカルピスチューハイでも甘さの後にアルコールの匂いと味を感じてしまう。高橋は乾杯をして、口もつけずにテーブルに戻すのはマナーがなっていないことを知っているので、グラスを一度口の前で止め、息を止めてそのまま口に含み飲み込む。オレンジとカシスの甘ったるい味が口を過ぎるとアルコールの味が口全体に広がる。一口だけでグラスを置くと、隣の彼女が高橋との間にメニューを拡げる。

「どうしましょうか。」

高橋は自然と体ごとメニューを覗き込む形になり、顔が彼女と近づいたことを意識したがそれに反応して顔を放すのも、意識していると思われるのが嫌なのでそのまま覗き込んでいる。しかし、お互いの顔の距離が近いことが気になってメニューに集中できないので、高橋は任せますよと体の位置をもとに戻す。

店員が呼ばれ各々注文をする間、高橋は手持ち無沙汰になり店員を見る。店員は手に持つリモコンのような形の機械から目を放さず次々と言われる注文を口で繰り返しながらそれに入力していく。とりあえずそれで、と言われた店員はそれを閉じ、持ち場に戻っていく。

店員が去ると一同はまた談笑を始め、隣の女性もまた体を高橋と逆に向けて誰彼となく話しだす。高橋は一応体を内側に向け、自分が話すことができるタイミングを窺っている。時折、誰かの発言に一同が笑うと、内容があまり聞こえていなくても高橋は笑う。しかし、なかなか会話に参加できず孤独感が高橋の胸に広がる。やはり来なければよかったと後悔の念もじわじわと胸を締めつける。

「高橋君はアイドルオタクなんだよな。」

不意に自分の名前が呼ばれそちらを見ると一番年配のアルバイトがこちらを見ながらにやにやと笑っている。えぇーと驚きながら一同の目が高橋を見ている。高橋はこの職場に入った当初に一度だけそのことを漏らしてしまっていた事を思い出す。

「え、ええ、まあ。」

なんと言ってよいか分からず曖昧に返事をする。

「高橋さん、アイドルオタクなんですか。」

隣の彼女が目を見張り、高橋に尋ねる。

「うん、オタクって言うほどじゃないけど。」

「ライブに行ったりもするんですか。」

「うん、いや、っていうかコンサートだけど。」

「えー、やだぁー。」

高橋はこの屈託の無い言葉にひどく傷ついたが、その場の空気をまずくすることを極端に恐れているのでその感情を顔には出さない。

「なんてアイドルが好きなんですか。」

「いや、そんな特定のアイドルが好きとかはないけど。」

高橋はつい嘘をつく。

「でもコンサートに行ったりするんでしょ。」

「うん、いやまあ、たまにだけどね。」

「誰、誰のコンサートですか。」

彼女がしつこく食い下がるので、高橋は誤魔化せないと思い答える。

「多分、誰も知らないと思うけど、大江かなこっていう人とか。」

大江かなこはアイドルオタクの仲間内ではキャナコ姫という愛称で呼ばれており、高橋もそういった仲間と一緒にいるときはそう呼んでいるが、ここでそれを言うには勇気が必要となり、高橋はその勇気を持っていない。

「それ誰ですかー、全然しらなーい。」

彼女が言うと一同に笑いが巻き起こり、自分の発言がそういう効果を生んだことに驚き、くすぐったいような感情が高橋の中に首をもたげる。しかし、自分で一般的にマイナスととられる趣味がここにいる全員にばれたことの羞恥心もあり、高橋は顔が熱くなるのを感じる。

高橋はアイドルオタクである自分を恥じてなどいないと思ってはいるが、他人にはあまり知られたくないと思っている。中学生の頃に人間が他人を見下す時の視線の冷たさを身を持って体験しており、そういう対象になることを恐れている。それゆえ目立たない行動をとり、かつ他人に理解されがたい趣味を持っていることも滅多に言うことはなかった。しかし、この場で知られてしまった以上、頑なにこの話題を避けることで場の空気を盛り下げることを恐れ、それが今後職場で働き続けることに悪影響を及ぼすことをもっと恐れている。

その後もいくつかアイドルについての質問が高橋に浴びせられた。どこがいいんですか。昔から好きなんですか。写真集とか持ってるんですか。楽しいですか。高橋がそれに曖昧に答えていくうちに、聞いていた者も次第に興味を失う。隣の彼女もすでに体を高橋と反対に向けている。高橋にその話をする者もいなくなり、だんだんと全員の口数も減り、時間も二時間半を過ぎたところで場が解散の空気となる。隣の彼女が店員を呼び、お会計を頼む。店員が持ってきた会計にかかわらず高橋は酒を一杯しか飲んでないという理由で二千円しか払わなくてよいと言われ、それだけを二つ折りの財布から取り出し、隣の彼女に渡す。最初に注文したカシスオレンジのグラスは氷が溶け、まだ半分以上残っている。

高橋が最後に居酒屋を出るとカラオケに行くメンバーと帰るメンバーがここで別れるということで話はまとまっている。カラオケに行くメンバーは固まって駅前のカラオケに向かい、帰るメンバーは二、三人に別れ、駅や自転車の置いてあるところに向かう。カラオケ組には高橋を誘ったアルバイトの女性もいる。高橋はカラオケに行くつもりはなかったが、誘われるのは期待している。しかし高橋は誰からも声をかけられないまま、すでに駅に向かっているメンバーの後をついていく。改札を抜け、階段を上がってホームに出るとちょうど電車が来ており高橋は少し駆け足になる。ドアが閉まる直前に電車に飛び乗ると目の前にいつも昼食を一緒に食べているメンバーが三人立っている。高橋はその輪に入るが、会話には参加できない。電車は数分で高橋の降りる二つ目の駅に着く。高橋はそれじゃ、と言って一人で降りる。この駅で降りるのはいつも高橋だけで他の三人は高橋が降りるとすぐにまた会話に戻る。高橋はそれをわかっているので振り向かずに歩き改札を出て家に帰る。

家に着き、ウエストバッグから鍵束を取り出して錠に差し込む。遅くなったので両親が寝ていると思い、静かに鍵を回しドアを開くが、両親はまだ起きており奥から顔を出してお帰り、遅かったね。ご飯はと聞く。高橋は食べてきたからとだけ答えそのまま二階の自分の部屋へ上がる。部屋に戻ると高橋は腰につけていたウエストバッグを外し、二十年来使っている学習机の上に置き、それとセットになっている椅子に腰をかける。高橋はウエストバッグのファスナーを開け、中から手帳を取り出す。手帳を開き今日のスケジュールの欄に飲み会とだけ書いてまた閉じる。高橋はその姿勢のまま鼻から息を大きく吸い込み口からため息をつく。高橋の頭の中には週末のキャナコ姫のコンサートに行っている自分を思い浮かべている。思い浮かべている。思い浮かべている。

2010年11月13日公開

© 2010 テリー

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