方舟謝肉祭(22)

方舟謝肉祭(第22話)

高橋文樹

小説

7,145文字

たくさんの想いを乗せた海光丸が沈没し、避難艇で海上を漂う松永ら一行。容赦のない飢えと乾き、そして荒れ狂う気候が彼らを襲い、一人、また一人と命を落として行く。彼らを襲う絶望の中、一人の怪物がゆっくりと目を覚まして行く。圧倒的なスケール感で送る、海洋メタフィクション小説。

Chapter Five……謝肉祭

前編 デイドリーム(三)

 

海光丸沈没から一夜明けた朝、我々は船に名前をつける事にした。私と松永の乗っているのが弥勒丸、小見達が乗っているのが菩薩丸である。

反対者はいなかった。そんな名前をつけたのは、せめて助かりたいという思いからである――松永の説明を聞いて、念仏を唱える者さえあった。

しかし、太陽は南中を迎え、我々に無慈悲な宣告をする事になる。

経度測定の結果、我々は東に十海里ほど進んだだけであった。正午の緯度測定を待った結果、北に六海里ほど流されている。一番近いパハロス島までの距離が六○○海里、この速度では単純計算で六十日かかってしまう。それまで生き残れる算段は無い。

もう一度北西行きを提案する私に向かって、松永は「そうこうしているうちに日干しになっちまう」と凄んだ。たしかに、それにも一理ある。我々にはまだ、一滴の水も無かったからである。

釣果は上々で、シイラ、カワハギを中心に、黄金(こがね)(あじ)を釣る者もいたし、魚の釣れない夜に烏賊(いか)を釣った者もいた。釣った魚の内臓を餌にする方策がうまくいったのである。

生魚で水分が取れるとはいえ、それだけでは追いつかない。我々は徐々に乾いていった。南海の熱い太陽が、乾きに拍車をかけた。

口の中に(かす)のようなものが溜まる。時折、それを指で拭って捨てなければならなかった。唇はとうにひび割れ、柳井小町と形容されたみつのぽってりとした唇でさえ、半分近くまで縮み、古びた油絵のようにところどころ皮がめくれていた。唾はとうに出ない。舌で口内を探ると、石と石がぶつかったような感覚があった。

悪い事は続いた。海光丸沈没から三日目、海は急に()いだのである。まだ三○海里弱しか進んでいないというのに、昨日までの微風さえ嘘のように止んでしまった。つぎはぎの帆は、だらりと垂れ下がり、単なるぼろ布となった。我々は疲れた身体に鞭打って、(かい)を漕ぎ続けなければならなかった。

船が止まるのと同時に、釣果(ちょうか)も芳しくなくなった。

「船長、こいつら逃げよります。憶えられてしもうたんでしょか」

夕釣りのための竿を握っていた水夫の沖田が私を呼び止めた。覗き込むと、確かに海中を泳ぐシイラはいたが、針には食いつかない。じっと針を眺め、ふいと泳ぎ去ってしまうのである。

「餌を(わた)じゃなくて身にしてみたらどうかね」

「やってみたが、駄目ですわ。こいつら、いっちょ前に贅沢になりよった」

沖田は憎まれ口を叩き、それから急に泣き顔になった。それがいかにも不当だと、魚に向かって泣くのである。どうやら、だいぶ弱っているようだった。

そして四日目、ついに脱水症状が始まった。菩薩丸の小見が報告してきたのである。その報を聞いて菩薩丸を手繰(たぐ)り寄せると、たしかに、船底に寝転がった井狩がうわ言を漏らしていた。もっとも老齢の井狩から症状が出たのである。

とめ、論文が通ったぞ」

彼の顔は微かに頬笑んでいるようでもあった。聞けば、とめとは井狩の妻の名である。彼は他にも、パラオの土人に関する学術的な事を口走ったり、しまいには「鰹船じゃないか、あれは」などと、我々がひた隠していた願望をあられもなく口にした。

「もうええ、海水でも飲ましたったれ」

そう囁いたのは松永だった。私はつぶさに反論した。

「しかし、海水を飲むと、余計に多くの水分が失われてしまいますよ」

「良えじゃないか。どうせもう保たん。最後にたらふく水を飲ませたったら良え。おい、小見」

2008年10月13日公開

作品集『方舟謝肉祭』第22話 (全24話)

方舟謝肉祭

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© 2008 高橋文樹

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