彼女とか女の子とか川木田とか

竹之内温

小説

6,574文字

自転車で彼女の元へ向かう「俺」。女をうまく抱けないのは、子供の頃に見た川木田の白い下着が脳裏に焼きついているからかもしれない。

 

自転車の五段階ギアを最高に軽くして、俺は彼女の住んでいる街に向かっている。彼女といってもそれは恋人という意味ではなく、女の人という意味だ。俺が引っ越した街は偶然にも彼女の住んでいる街ととても近かった。午後からは雨が降るという天気予報を聞いたので、雨に濡れてもいい格好でアパートを出てきた。防水加工のパーカーに、雨にも風にも負けないブーツ。新しくスーパーで買った自転車は、今や忘れ去ろうと心がけている場所の遺品だ。駅前の商店街を歩く人々は皆片手に傘を持っている。空はまだ昼を少し過ぎた時間なのに憂鬱に暗く、思考回路まで滅入ってくる。俺はリュックサックから地図を取り出して方向を確認する。時に歩いているだけで自分が北に向かっているのか西に向かっているのか分かる人間もいるみたいだが、俺にはそんな能力はない。けれど間違った方向に進むのも嫌なので、いつでも地図を持ち歩いている。一度訪れた場所のページは角を折っていたので、自分が東京全体の中でどれ位の場所を訪れたのかは容易に分かった。彼女は駅前の喫茶店で待っているという。今まで彼女とは何度か待ち合わせをした事があったが、必ず片方の手に本を持っていた。着ている洋服にはしっかりとアイロンが掛けられていたが、持っている本は表紙が破れていたり、水に濡れて縒れていたりした。今もきっと汚れた本を読んでいるのだろう。俺は地図をリュックサックに仕舞って、再び自転車をゆっくりと走らせ始める。

 

自転車を最初に買い与えられたのは小学校五年生の頃だった。今から九年も前の誕生日プレゼントだ。ある時自転車で道を走っている最中に偶然ミミズを轢き殺してしまった。最初はアクシデントだった。二回目からは習慣になった。俺は芋虫やミミズを買い与えられた自転車の車輪で敷き潰しては遊ぶ様になった。べったりと長い虫が好きだった。芋虫やミミズに前輪が乗る瞬間、前輪を伝い僅かな振動がハンドルを握りしめる指先から全身に行き渡る。上手に運転すると芋虫やミミズはちょうど半分に千切れ、少しの間一つの生き物が二つの生き物に分裂した様にお互い支離滅裂な動き方をした。軽薄な体液が流れ出す。俺はそれを見て一瞬の悦楽に浸る。少しくすぐったくて、誰かに撫でられている感じだ。全身を駆け巡った震えにより、ようやく俺は目が覚め地面に項垂れた亡骸を目にする。そして自転車から飛び降りて泣きながら真っ二つになった亡骸をポケットから取り出したティッシュペーパーで包み、その場所から二番目に近い公園に潰れた虫の埋葬のために向かう。自転車はその場所に鍵を掛け止めて、歩いて公園まで向かう。道すがら「ごめんね」「ごめんね」と繰り返してティッシュペーパーの中の亡骸に向かって詫びるのだ。涙は亡骸が完全に土で覆い尽くされるまで止まらない。俺の手で握られたティッシュペーパーは部分部分が、体液で黄色というか緑色っぽい跡が付いていた。春には週に三回四回と同じ場所でその遊びに耽っては、似た様な涙を流していた。自転車の車輪で潰してから埋葬に向かうまで確かに俺は悲しいのだが、地面に亡骸を埋めた帰り道ではすっかり感情は元通りに静まっていて、家に帰って平然とアイスクリームを食べたりしていた。埋葬を終えると公園のトイレで必ず石鹸を使って手を何回も洗った。亡骸から流れる体液はとても汚いものに感じたので、そのままの手で自転車のハンドルを持ちたくはなかったのだ。あの頃同級生も標的は違っても、似た様な遊びをしているのだろうと勝手に思っていた。しかしそれらは一人でこっそりと行う遊びだった。誰かに見つかる事はない様に注意を払って行った。最後まで俺は誰にも見つからなかった。いつでも一人だったからだ。冬の芋虫やミミズがいない季節に初夏を思い出し、苛立った覚えはない。当時それは欲求という程のものではなかったのだと思う。

俺は学校からの帰り道もたいてい一人だった。たまに一緒に帰る友人といえば、クラスにいる軽い障害を持った川木田さんだけだった。川木田さんは時間を人より多く使えば、殆どの事は一人でこなせた。ただ周りの人よりも時間を四、五倍多く必要とするだけだ。生きる速度が周りの人よりもゆっくりしているのだろう。その日も俺は川木田さんと二人で帰っていた。川木田さんはかわいい子だった。クラスの中でアイドル的な存在の女の子よりもよっぽど美しい造形をしていた。ふくよかでおっとりとした動作は俺の慌ただしい心をゆったりと鎮めてくれたりもした。

「家に帰ったら何をするの?」

「あー、うんとね、お母さんにたべ、食べ物をもらうの」

「それっておやつの事?」

「うん、そう! お母さんに……」

「おやつ?」

「おやつをもらうの」

「ふーん。今日のおやつは?」

「えっと、えっとね。今日は月曜日、火曜日、水曜日だから、チョコ、チョコレートの日だから、チョコレートとカルピス」

俺は特に興味もない質問をしつつも、川木田さんが家で何をして過ごしているのか気にもなっていた。一つ一つの行動に時間がかかるという事は、その分川木田さんにとっての時間は俺にとっての時間よりも大切なはずだからだ。川木田さんは「カルピス」という単語だけ、声を強めて話をした。カルピスがとても好きなんだろう。俺は話をするのがあまり得意ではないので、自分から話をしない川木田さんと一緒にいるとお互い黙っている時間の方が多かった。川木田さんと歩いている最中に芋虫やミミズを発見することもあったが、そういう時は「お前はラッキーだな……」と心の中で呟きながら見過ごした。足で潰したのでは意味がないのだ。歩くのが遅い川木田さんと俺が黙って二人で歩いていると、必ず二人の距離は少しづつ開いていった。その日も横を気にせず歩いていた俺の隣に川木田さんはいなかった。少しその場所で待ってあげようと思い、後ろを振り返った。

「川木田さんさ、虫って好き?」

かわいい顔をした川木田さんはその顔を下に向けて、着ているTシャツを首の辺りまで捲っていた。どんな表情をしているのかは見えない。道には俺と川木田さんしかいなかった。川木田さんは俺の存在など忘れ、何かを見つけ出そうと下着の中を必死に覗いていた。俺の立っている場所からは少し膨らんだ柔らかそうな腹と、それよりも僅かに膨らんだ部分を隠す下着が見えた。川木田さんの肌も下着も白かった。下着は白くて安っぽいレースが端っこに付いていて、俺はそれと同じやつを母さんがスーパーで手に取っているのを見た事があった。その下着をブラジャーと呼ぶ事も知っていた。様々な色と型があって、胸の大きさによって下着のサイズが変わってくるらしい。男の下着は大きさが違ってもサイズはどれも同じだ。川木田さんがどれ位のサイズの下着を着けているのかまでは分からなかった。分かっていたのは白い色をしているというそれだけだった。

俺はそれを見た時、何故Tシャツを捲り上げているのか聞きさえしなかった。川木田さんは俺が呆然と立ち尽くしている間中、下着の中の何かを確かめようとしていた。白い柔らかそうな肌に、白い下着に興奮はしなかった。俺はその光景が、電信柱が立っている様な屋外でおもむろに洋服を脱いでいる女がいるという光景が、ただひたすら気持ち悪かった。いつもならば安心するはずのゆったりとした動作がもどかしくて仕方がなかった。「川木田さん、止めなよ」と俺が言えばよかったのかもしれない。そうしたら笑顔でこちらを向いて頷き、Tシャツを元に戻したのだろう。けれど俺は誰かがこの道路に姿を現す前に急いでその場を去った。夕飯を作る匂いが通りのあちこちから漂っていた。ランドセルの留め具が足を踏み出す度に、面倒な音を立てた。俺は突然の猛ダッシュと咽せる匂いのせいで吐きそうになった。けれど立ち止まらずに走り続けた。

 

川木田さんの白い下着を見てもう九年も経つというのに、未だに俺は思い出してしまう。女の子の洋服を脱がせて相手が白い下着を着けていると必ず目の前の女の子の身体ではなく、川木田さんの未熟な上半身が視界を支配する。そして精神も身体も萎えて、行為に至れなくなってしまう。たった一回の記憶を、何十回の体験でさえ覆せないでいるのだ。大概を酒のせいにするか、相手を喜ばせる言葉を言うか、その時の相手との関係と同様にうやむやにしてしまう。俺は決して過去の一点を相手の女の子には話さない。

昨日一緒に飲んだ女の子は可愛い子だった。アルバイト先が同じで、煙を吸い込む空気清浄機が喧しく音を立てる喫煙所で声を掛けられた。俺は相変わらず人と話すのは苦手だが、無口な男は何か考えていると勝手に女の子の方が解釈してくれる。だから案外声を掛けられやすいのだ。本当は何も考えてなどいない。仕事場のある新宿で待ち合わせをして、中華料理屋で酒を飲みながら話をする。明るいその女の子は仕事場の愚痴をひとしきり喋り終えた後、実家がここからどれ程遠いかを何度も違う言い回しで話した。女の子が新宿から近い俺のアパートに泊まりに来たいのは、話しぶりからして明らかだった。

「明日はね、お休みなの。章君は?」

「俺は明日も昼から仕事だよ」

「じゃあ朝まで飲んじゃおうか! 平気でしょ?」

「いいよ」と言おうとしたその瞬間、僅かに身体の位置をずらした女の子の着ているシャツの胸元からちらりとブラジャーの紐が見えた。真っ白の紐だった。俺は再び連れ戻される。女の子は俺の表情を窺う顔つきでこちらを見ている。俺は結局「いいよ」という返事を変更しなければならなくなった。それも下着の色が白だというたったそれだけの理由でだ。女の子にそこら辺の下着屋で、別の色の下着を買って着替えてもらえば俺は簡単に「いいよ」と言える。俺のアパートに女の子を連れ帰るまでもない。今から結末は見えている。それは今までに何度も試みた問答と同じ結果を招くだけだろう。

「悪いね。昨日も全然寝てないからさすがに朝まではきついかな」

分かりやすくつまらなそうな顔をする女の子の頭を俺は優しく撫でる。

「そう……。じゃあ今度にしようか。また飲もうね、約束だよ!」

「うん。俺も暇になったら連絡するよ」

「ねぇ、私の事好き?」

「好きだよ。そうじゃなきゃ一緒に飲んだりしないよ」

それにしてもあの時、川木田さんが考えられない様な変な色、えび茶やらエメラルドグリーンやらの下着を着ていてくれりゃあよかったのにと思うと苦笑してしまう。一度だって二人で遊んだ事もなく、何の感情も抱いていなかった川木田さんはこうやって俺の機会を損ねるのだ。

京王線の入り口まで俺の手をしっかりと握った女の子を送り、俺は小田急線の電車に乗り込む。電車のドア付近に立ち、外をぼんやりと眺める。街灯で照らされた地面は、俺が涙を流した跡など留めてはいないだろう。俺にとって小学生の時に買い与えられた自転車は移動するためのものではなくて、潰すための機械だった。最近は地面を這いずり回る芋虫やミミズ自体を目にしていない。まるで世界全体から姿を消してしまった様だ。それとも俺が緑の少ない場所ばかりを動き回っているのだろうか。芋虫とミミズと川木田さんと白い下着は俺の記憶を留めておく土壌の、似た様な部分をぐるぐると回っている。だから女の子の白い下着を見れば川木田さんを思い出し、川木田さんを思い出すと芋虫を思い出す。もちろんその逆もありうる訳だ。

 

川木田さんはあの時何故、Tシャツを突然捲ったのだろうか。あの日から小学校を卒業するまで集団下校の時以外、俺は毎日一人で学校から家まで歩いて帰った。帰り際川木田さんはこっちをたまに見ていたが、俺は目も合わせずに川木田さんが追いついてこられない早さで廊下を歩いた。別に川木田さんの事が嫌いになった訳ではない。かわいいと思っていたし、放っておけない気分になる時もあった。けれどもう慌ただしい俺の心が、川木田さんによって静まりはしなかった。俺は川木田さんと一緒に道を歩きたくなかっただけだ。ちらりとでも同じものが見えたら、今度は間違いなくアスファルトの上に吐き散らしてしまっただろう。俺は川木田さんの身体を這っている無数の芋虫やミミズを、あの時見た気がするのだ。俺が潰した数の虫が川木田さんの身体をゆらゆらと蠢き、俺を脅した。それは下着の中からも這い出し、川木田さんの身体全体に広がっていった。あれは俺の幻覚だったのだと分かってはいる。けれど半分に引き裂かれた虫は、威圧的な存在感で俺の脳裏に焼き付いてしまった。一つ一つは支離滅裂な動きであっても、全体を見渡すと一体化した生き物へと姿を変えた。今となっては川木田さん自身、俺の事など忘れているだろう。そしてあの街で今もゆっくりと生活しているはずだ。白い下着を脱ぎ捨てて白くて柔らかい肌を相手の肌と合わせ、穏やかな家庭を築いているかもしれない。

俺は長い間、あの街には帰っていない。正確には街に帰るのではなくて、道に帰っていないといった方がいいのかもしれない。芋虫やミミズを潰した道と川木田さんがTシャツを捲り上げた道は別々の道だが、そのどちらかの道を通らないと実家には辿り着けない。実家に帰らなければならなくなったら、俺はどちらの道を選ぶだろう。

 

俺はあの光景を見て以来自転車で芋虫やミミズを潰す遊びをやめて、自転車は川辺に捨てた。家族には駐輪場に止めている間に、自転車を取られてしまったと嘘をついた。白い下着を着けた女の子は未だに抱けない。自転車に乗るのは本当に久しぶりで、最初に足で助走をつける時には身体が左右に揺れた。ハンドルを握る力加減も忘れていて、あまりに強くハンドルを握ったせいで、掌には爪の跡がしっかりとついてしまった。近くの街に住む彼女に会いに行こうと思った朝、咄嗟に自転車が欲しくなって二台目の自転車は自分で購入した。自転車を買おうと思えたのは俺と彼女の住んでいる街の距離の問題だろうか。もちろん電車に乗るには短すぎる距離も関係している。しかし一番の理由は彼女が電話で話していた会話の内容だ。彼女は実家の部品を作る工場でアルバイトとして働いている。都会でスーツを着て働くよりも、工場で作業着を着る様な仕事の方が自分には向いていると前に話していた。

「芋虫歯車というのがあってね、それはねじ状の歯車と円板状の歯車を組み合わせたものなんだけど、回転速度を大きく落とす時に使うの。ねじ状の歯車から円板状歯車には回転が伝わるけれど、反対には伝わらないの。何でだかそれの事を芋虫歯車っていうのよ。変な名前でしょう」

彼女はその後に「こんな話したって面白くないとは思うけど……」と言いながらくすりと笑った。芋虫歯車の話は川木田さんとか女の子とか俺とか彼女とかの関係を分かりやすい図にしてくれた様に感じた。それも芋虫という言葉を使ってだ。確かに芋虫歯車なんておかしな名前だけど、俺がいて、小学生の頃の川木田さんが俺の中にいて、彼女がいて、時に歯車に引っかかる埃みたいに白い下着の女の子が存在する。その話を聞きながら、これでようやく安心して白い下着と対峙できるかもしれないなと思った。それは風が吹けば必ず何処かで舞い上がる声みたいなものだ。

俺は地面に虫がいないか注意しすぎて、ここに着くまでに四回も人にぶつかりそうになってしまった。俺は自転車を手に入れたから、再び悪い遊びに耽ってしまうだろうか。悪い遊びは川木田さんの記憶が止めてくれる。近くの街に住んでいる彼女は前に「白い下着って何だか恥ずかしくって着けられないの。だから私の下着は黒ばっかりなのよ。白って何だか無垢すぎて……」と言っていた。もしもそんな事を話していた彼女の肩の辺りから白い下着が見えたとしても、俺は逃げずにその街の喫茶店の椅子に座っていられるだろう。彼女の汚れた本を手に取って、ページをめくる。俺を脅かすものはもう何もない。それでもたまに訪れる川木田さんには、いい加減あの時何故Tシャツを捲ったのか尋ねる事ができるだろう。もちろん川木田さんは答えない。それでいい。ようやく俺は二回目の自転車の乗り方を覚え始めたばかりだ。

――(了)

2007年3月2日公開

© 2007 竹之内温

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