檸檬

TRAIL(第2話)

宮崎まひろ

小説

18,913文字

思い描いた理想が気高く美しいほど、それが敗れ去った姿は惨めでより美しい。欲するものは往々にして遠回りしなければ手に入らないのだ。

 

花弁

1

開けた窓の向こう側、運動場の上から飛んでくる指示やら声出しやらホイッスルの割れ目を縫うように、オルガンの音と薄い声が聴こえてきた。綺麗な歌声だった。細くて折れそうだけど芯のある、そんな。私は読みかけの本を置いて立ち上がった。
音のする方に歩いていく。掲示板。誰もいない暗い教室。自習する蛍光灯に照らされた同級生。なんとなく悲しくなる吹奏楽部の音出し。合間を縫うように聴こえる声を追いかける。雲の切れ間から薄暗い夕方の空に差し込む光。カビみたいな匂い。私が探す声は、音楽室の隣の準備室から聴こえてきた。
そっと扉を開けて覗いてみる。オーク色のオルガンの陰に誰かが座っている。美しい歌声はそこから聴こえてきた。煙たい匂い。それを吹き飛ばすように夏の風が空いている窓から吹いてくる。私の夏服の薄いスカートが揺れる。そこで、声が止まった。一瞬の間。
「オイ、誰だ」
びくっ、として、私はしょうがなさそうに、そして、申し訳なさそうな感じを演出しながらゆっくりと扉を開けて準備室に入る。
「……ええと、和泉、だっけ」
よっこらしょ、といいながら、少女が私の目の前につかつかと歩いてくる。歌声の主は篠宮さんだった。
「なんか、用?」
篠宮さんが首を傾げながらそう言った。小柄な彼女の視線は私の目を見ていた。
「いや、綺麗な声が、したから」
篠宮さんはきっかり三回、一秒の間を置いて瞬きして、気を取り直したように、そっか、と言って、さっきまで座っていた椅子に腰掛けた。扉閉めてな、といいながら、私にそこにあった椅子に座るよう顎をしゃくった。私は黙って扉を閉め、座って篠宮さんと向かい合う。
篠宮楓。私の同級生の高校二年生。たぶん初めて喋る。バンドをしている不良。頭はいいけど学校にはあまり来ない。理系クラス。脱色気味の茶色い、片目を隠したショートカット。軽い化粧。細めで鋭い目。薄いけれど玲瓏で美しい顔立ち。背は低いけれど存在そのものに主張が強い。行き場がないようで私はちょっと緊張した。
まさか篠宮さんが、と、予想外すぎる結末に動揺してる私を尻目に、篠宮さんは私なんてそこにいないかのようにぼんやりと、火のついたタバコを口に咥えようとして、オイ、言うなよ、と慌てたように付け加えた。
「うん。それ、なに?」
「……は?」
「タバコ。銘柄」
「……わかば」
「あ、お兄ちゃんと一緒」
ちょっとだけ黙ってこっちをみつめて困ったような顔をしたあと、そっか、と言って、篠宮さんは、煙を吸って時間を溜めて吐き出した。
「篠宮さん」
「あ?」
「さっきの曲、なに」
あー、と溜めて、篠宮さんは窓の外を見ながら話してくれた。
「シャルロット・ゲインスブールって人の」
「うん」
「エラスティックって曲」
「そうなんだ、セルジュ・ゲインスブールの親戚かなんか?」
篠宮さんは視線を移して私の方を見た。鋭い光が私を見据える。
「へえ、知ってんのか」
「お兄ちゃんが、好きで」
ふーん。レモン・インセスト。そう呟いて篠宮さんは立ち上がると、また窓の外に視線を移した。私もつられてそっちの方をみる。夕日はもう雲に隠れてしまって、灰色の空に山の木々が伸びていた。
「あのさ、さっきの曲」
ん?と言って、篠宮さんが私の方を見ないで首を傾げる。ぬるい風が吹いて彼女の髪を揺らす。
「もうちょっと、聴かせてよ」
「……なんで?」
「綺麗、だったから」
篠宮さんはもう一度煙を吸うとそのまま鼻から吐き出して、私を見ながらふっ、と笑った。
「しょうがねえな」
椅子に座ると彼女は鍵盤を叩き始めた。

2

担任のクワガタ(顔が昆虫のクワガタに似てるらしい。誰も同意してくれないと言い出しっぺの汐里は言うけど私は似てると思う)がなにか話をしてる。クワガタはいつも、どうせ君らは十年二十年経ったときに俺の英語の解説なんて誰も覚えてないし、だいたい思い出して楽しい気分になるのは雑談とかそういうのだから、俺はなるべくそういう授業を心がけてる、なんて言ってるけど、クワガタの雑談はオチがなくてあんまり面白くないと思う。鹿児島から来たハゲでメガネのの英語教師は面白くなくても三児のパパだ。家じゃどんな風に父親をやってるのかまるで想像がつかないけどクワガタのことは好きだしきっといつか懐かしくなるんだろう。
机の下に隠した本を読む目をとめて、外を眺める。曇った空からは今にも雨がこぼれ落ちそうになっている。水たまりひとつない運動場を走る集団の中に、私はつい篠宮さんがいないか目を凝らした。もちろんわからなかった。
「ェー、次のパラグラフを、ォー……和泉」
私は慌てて視線を戻す。隣の席の汐里が、第四段落二行目から、と囁いてくれる。私が予習の通りに訳を読み上げると、クワガタはいくつか私に質問をして、それに私が答えたあとに、満足そうに解説を始めた。私は篠宮さんのことをすっかり忘れて、読みかけの本の続きを読みだした。そうこうしてる間に終業の鐘がなって昼休みになった。
私はいつも親友の小野汐里と昼ごはんを食べる。たまに理系クラスから中嶋ひろのも来て一緒にご飯を食べる。実家通いの二人はいつもお弁当で、寮住まいの私はパンだ。その日もバカみたいな話でげらげら笑ったあと、ひろのが、そういえば、という感じで話だした。
「メルってさあ、篠宮さんと仲いいん?」
「え、なんで」
「結構一緒におるやろ、私ら以外やと」
私ら、という言葉にはいつもつるんでいるこの場にいない他の数人も含まれてるんだろうな、と思った。
「まあ、たまに話するくらいかな」
あまり学校に来ない篠宮さんだけれど、彼女が学校に来たときは大抵放課後を音楽準備室で過ごすから一緒にいるうちに、彼女の登校するときは話をする機会が増えていた。
そうなんや、と言うと、ひろのはだし巻きを食べた。咀嚼して飲み込んだあと、なんか意外やなあ、といい、汐里も頷いた。
「そう?」
「だって、なんかアレっしょ」
「アレやなあ、篠宮さんは」
理系クラスでも彼女がうまく馴染めてないという話は聞いていた。そもそも出席日数ギリギリを攻めるようなことをしているし、よく生徒指導の先生につかまってもいた。
「なんであれで成績いいか全くわからん」
それは高校に行かないで予備校で勉強してるから、と本人から聞いた話を飲み込む。ミステリアスな不良同級生、そんなイメージを壊すのはなんとなく憚られた。
ところで、とひろのが切り出した。大体私たちの間では、ひろのが会話を引っ張り、汐里が馬鹿をやり、私がなだめ、他の子が笑う、という構図が出来上がっている。
「メルちゃん最近成績大丈夫なん」
汐里がにんまりして首をかしげる。
「ま、まあ、去年ほどは」
私は成績が良くなくて、去年も留年しかけた。通年での欠点を三教科でやってしまって、追試を受けたくらいだ。
「メルちゃん今日はちゃんと予習してたよね」
「そうなんや。まあ、わからんとこあったら、聞きや?」
来月期末やし、とひろのは付け加えた。汐里は黙って野菜ジュースを吸い上げる。私はなにも言わず、見えないように聴こえないように、そっと鼻でため息をついた。勉強は嫌いだ。

3

楓が一曲弾き終わるのと同時に、秋風が窓から吹き込んでくる。夕日に照らされながらそっと楓はタバコに日をつけた。先端から漂う白の煙が橙に溶けていく。
「いまのどうだった?」
「よかった。クラシックだよね」
ふふっ、と楓は笑い、鼻から煙を出した。
梅雨に知り合った私たちは、夏の終わり頃から、篠宮、和泉、という苗字ではなく、楓、芽琉と、お互いを下の名前で呼び合うようになった。放課後、季節をまたぎながら毎日とは言わずとも、楓が登校する週に二回くらい音楽準備室でこうして過ごすのは、それをさせるのに十分な時間だった。
楓がピアノを弾き続け、私が本を読み、会話のない日もあったけれど、色々な話をした。楓のバンドの話、私の読んでいる本の話や、こっそりネットで書いている小説なんかも読んでもらったりした。他にも色々。好きなものに接点はないけれど、それも相まって新鮮で、そしてなにより感性というか笑いのセンスというか、そこらへんが近くて一緒にいて心地よかった。
寮に入っている私と、家から学校に通う楓。楓の家は開業医で、両親は二人とも医者らしい。一人娘にとっては後を継ぐことは宿命のようで、楓はそのことをたまに肩をすくめながら、レールに乗った人生だ、なんて言っていた。
椅子に座って脚をブラブラさせ、窓の外を眺める小柄な同級生は、私が持ってきたお菓子をちまちま食べながら今日もそのことを少しだけ愚痴ったあと、一曲弾いてタバコを吹かしている。玲瓏でミステリアス、という最初のイメージはもうすっかり薄れていた。楓は、普通の、ちょっと不器用な性格の、気のいい女の子だ。
ぼんやりと考えごとをしている楓を尻目に、私は携帯でメールが入ってないかそっとチェックした。
「なあ、見てよ」
楓が自慢げに何かを見せてくる。
「あ、それ」
「うんiPhone」
「さすが金持ち。いいな、触らせて?」
「使い方わかんの?」
「iPod touch使ってるから」
ん、と言って、楓が差し出してくる。小さな手なのに、にゅっとそこに不釣り合いな長い指があって、金属の電話を握っていた。そっと受け取る。触れた指先を、楓が引っ込めた。最新機器は思ったより軽いけどちょっとだけ重い。
「いまはさあ、普通の携帯が主流じゃん。メルが使ってるみたいな、そういう、スライド式のやつとか」
「うん」
「パカパカのやつとか」
楓はタバコを潰し、一呼吸おいて、話を続ける。
「これからはこっちが主流になるんじゃないかなって」
iPod touchに電話機能がついた楓の携帯は確かに便利だ。でも、みんなタッチ操作できるんだろうか。案外みんなできるかもしれない。そんなことを考えながら、私は楓にiPhoneを返す。
「寮の子とか、もってないの?」
「あんまりいないかなあ」
「金持ちばっかなのに?」
楓は次のタバコに火をつけ、ふふっと笑った。
「それよかブランドものにいく」
「確かに」
二人で声を出して笑った。
「けどまあ、なんというか」
「うん」
「寮に入ってると、思うよ。私たちは狭い箱の中で飼育されているような、そんな気が」
楓は黙って私を見た。文化祭が近いので、吹奏楽部が気合を入れて練習する音が聞こえてくる。
「飼育、ねえ」
「そう。飼育。世間のことなんか何も知らないで、高偏差値で高収入家庭出身で、女子校で、守られてて」
楓はまた鼻から煙を吐き出した。
「こう言っちゃなんだけど、姥捨山みたいなところあるよな」
「姥捨山?」
「とりあえずガキを寮に押し込んで、金だけ渡して、あとは頑張れ、みたいな」
「たしかに」
私のお父さんも経営者だし、楓の家も開業医だからあまり人のことを言えた義理ではないが、たしかに、私たち以上に、本物のハイソサエティの出身の子は何人もいる。纏わりつく空気も、持っているものも彼女たちは違う。
「だけどさ、あたしは思うよ」
「たぶん同じこと考えてるかも」
「言ってみ?」
「愛は金じゃ、買えない……?」
耳の裏がちょっと熱くなるのがわかった。楓が下を向いてニヤリと笑う。茶色い髪に隠れていない片目が細くなる。
「同じこと考えてた」
「そっか」
二人でハイタッチする。なんとも思ってないような顔をするのに神経を注いでる私のことなんて気にならないように、楓は話を進めていく。
「あたしらは花であることを強要されてる気がするんだよな」
「どんな花?」
「そうだな、白くてちっちゃいやつだ。レモンの花とかわかる?」
そうかもしれない。私たちは実を宿して収穫されるその日を待つ管理された花で、その時が来るまで清廉潔白な慎ましい顔をして生きている。
「てかさ。なんかでもかわいそうだなーって思うよ、親元離されてこんなとこに、悪く言えば収容、されて」
あ、メルの親悪く言ってるわけじゃないよ、と楓は少し慌てたように手を振った。私はこの小さくて綺麗な友達のことが大人に見えた。
「まあでも、うちもちょっとアレだから、あんまり気にならないっていうか」
「そうなんだ」
「うん、放任っていうか」
ああ、と言って楓はペットボトルの水を飲んだ。私もつられてお茶を飲む。一瞬の沈黙して、吐き出すように楓が、愛ってなんなんだろうな、と呟いた。私にもわからなかった。
携帯が震える。メールが来ていた。お兄ちゃんの名前をみて、素早く開封する。
「誰から?」
「お兄ちゃん」
へえ、と言うと楓はまた窓の外を見始めた。兄のメールはそんなたいしたことは何も書いていなかった。
「メルってさ、ちょっとブラコンだよね。いつもお兄ちゃんの話してるし」
心臓がどくんと跳ねる。え、と返事をして私は固まった。
「お兄ちゃんって何してんの」
「東京で大学生してる」
「お兄ちゃんのこと、すき?」
「え、うん」
「それは家族だから?」
「なんで?」
「家族なのに好きなのかなって」
「家族だから好きなの」
まあいいや、写真あるならみせて、という楓に、私の携帯の待ち受け画面にもしてる兄のキメ顔の写真をみせる(それがバレるのは恥ずかしいから画像フォルダから見せた)。
「イケメンじゃん」
「でしょ」
兄は顔がいい。背も高い。長めのパーマのかかった黒い髪を流し、細い眉の下に鋭い奥二重の目があって、シュッと伸びた鼻筋と顎、整えられた軽いヒゲ。二枚目の読者モデルや若手俳優にも引けを取らないと思う。
「こりゃ惚れるわ、かっこいい。メルはこういうのがタイプなのか」
「ちょっと」
「冗談、冗談」
「ほんとやめてよ」
「あんま似てないよね、メルはなんかこう……」
「お嬢様?」
「そうそう、ギャルっぽい名前なのに」
「失礼な」
「ずっと聞きたかったんだけど、髪、そんだけ長いのにつやっつやじゃん。どうやって手入れしてんの」
「椿油。重たくならないように毛先から薄く伸ばすの」
「なるほどねえ。てかメルのお兄ちゃんさ」
「うん」
「遊んでそう」
「遊んでるよ」
「親が放任だから?」
「そうかも」
私たちは一緒に大声で笑った。でも楓の目は笑ってなくて、どこか寂しそうな笑い方だった。

4

秋から冬にかけて、寒くなるにつれて、楓は日に日に元気が無くなっていった。二人で一緒にいても黙ることが多くなった。季節性うつで冬になるとダメだ、なんて言ってるけど、たぶんそれは、楓がボーカルをしていたバンドが解散してしまったことも関係してるのかもしれない。なんとなく気を遣ってしまって私は聞けなかった。楓も何も言いださなかった。
センター試験が終わると、学校から生徒が減る。国立公立の二次試験や私立の受験なんかで、三年生がいなくなるのだ。超進学校は全員が大学受験をして、数年かかろうとも全員が大学に進学する。だから通学している受験生の生徒は授業が
ほとんどないこの時期から学校に来なくなるし、寮生も退寮して地元の予備校に通ったりしている。もっとも、推薦組なんかは今頃遊びまくってるんだろうけど、そう数はいないから大勢に影響はない。
放課後、音楽準備室で頬杖をつきながらぼんやりとしている楓のことを、バレないようにちらちらとみながら本を読んでいると、彼女はあくびをしながらこう言った。
「なんか、悲しいな」
「え」
「高三、学校来ないじゃん。すっかり人も減っちゃって」
「ああ」
私はページに栞を挟む。
「寂しいよね、人気が減って」
寂しい、ね。そう言いながら楓はタバコに火をつける。
「寂しさの流行り病」
「なにそれ」
「あたしらも来年の今頃、あんな風にバラバラになるんだよね。今はどんなに一緒にいても、結局はみんな違う方向に歩いてく」
ねえ、あたしのこと、忘れずに憶えていてくれる。そう言って楓は窓の外、陽が落ちて暗くなった校庭を眺めている。ガラスに反射した顔に表情はなかった。
「忘れるわけないでしょ。てかさ、残りの時間を大事にしたらいいじゃん」
そうかもな、と言った楓はふっと笑い、窓を開ける。煙がゆっくりと外に流れていく。冷たい真冬の空気が部屋に入ってくる。
「……でもそれは、次があればの話だ」
「え?」
「メルに聞きたいことあったんだった」
楓はゆっくりと私に近づいてきて椅子を手繰り寄せて座ると、そのまま向き直る。煙を吸って、吐き出しながら話し始める。
「将来どうすんの?」
私はなにも言えなかった。言いたいことはあったけれど、それを口にすることはできなかった。
「まあ、いいや。今度聞かせて」
楓は笑いながらそう言ったけど、私は気づいてしまった。そんなこと絶対しないはずの彼女が作り笑いをしたことに。目の下にクマがあることに。

それから一週間が経った。楓は学校に来ない。週に一回は来ていたのに、来ない。連絡をしても返してくれない。私はその間ずっと、彼女にどう返事をするか考えていた。その間に、雪が降って、積もって、融けた。
誰だってそうだ。いつも自信がなくて口に出せない、笑われるんじゃないかと怖れて、懐に思いを忍ばせてる。でも、前に進むためには、終わらせないためには、一歩踏み込んで足場を固めないといけないのかもしれない。思いを、願いを口にするのは、そのはじめの一手なのかもしれない。中庭のベンチに座って寒気に息を吐きかけ、水たまりになった雪や、早咲きの梅の蕾を眺めながらそう考えていると、メールが来た。お兄ちゃんかな、そう思って開いたら、楓だった。
『学校いる?』
『いるよー』
『いつものところで』
『りょうかい』
音楽準備室の扉を開ける。普段と同じように楓はこちらに背を向け、窓を開けてタバコを吸っていた。元々細かったけれど、さらに一回り痩せたような感じがした。
「元気?」
「……あんまり」
「食べてる?」
「食欲ない」
そこではじめて楓は振り返った。クマが隠せないほど広がっている。
「寝てるの?」
「眠れない」
楓はふっと笑って首を振った。
「薬で騙し騙しやってたんだけど、ダメ、みたいだ」
ダメっていう言葉に妙な重さを感じてしまって私は何も言えなかった。
「な、聞いてもいい?」
「なに」
「お兄ちゃんのこと好きなんでしょ。黙っとくから」
答えて、とは言葉には出さず、口を一文字にぎゅっと結び私の方に近づいて、睨むようにこちらを見ている。青白く頬がこけていて、でも眼だけは鈍く輝いていた。その強い目力を感じながら私は覚悟を決めた。
「……うん、異性として」
楓は黙って頷くと、とことこ歩いて力を抜いたように座椅子に座り込んだ。
「愛ってさ、難しいよな」
「うん」
「どうやったって手に入らないものもあるし、妥協したり諦めたり、許してもらえなかったり」
「そうだね」
「手に入ってもそれで幸せになるわけでもないし」
「……うん」
楓はなんだか私と話をしているというより、自分に言い聞かせているように見えた。
「メル、私のこと好きか?」
変なことを聞くな、と思った。
「そりゃ好きだよ、親友でしょ。楓はどう思ってるの」
一瞬時間を置いて楓は口を開いた。
「……そりゃ、好きだよ。でも、メルのそれとはちょっと違うかもな」
てかさ、なあ、メル。先週の話の続きなんだけど、と言って、楓は天井に向かって煙を吐き出した。
「どうするの?」
私は楓の目を見る。楓も私を見つめる。いつまでも管理された白い花でいたくない。なにもしないまま死にたくない。
「私は、書きたい。私がみたもの、知ったもの、感じたもの、この世界に確かに生きた私と私以外の人たちのことを残したいの」
一語一句を噛み締めるように言葉を吐き出す。そのひとつひとつは、私になにか見えない力を掴ませているような高揚感があった。少し間があって、楓は満足したように、けれど少し寂しそうに笑いながら頷いた。
「……そう。あたしはこれで生きていく。……いや、生きていきたかった」
押された鍵盤が低音を奏でる。外は暗くなっていて雨が降り出していた。空気が冷たい。
「冬はいつか春になって、花は枯れてまた新しく芽吹き咲く。でもそれは同じ花では決してなくて」
「え?」
「花が美しいのは一瞬の儚さを象徴してるからだ。何にも染まらず、ただそこにあり続けるから美しいんだよ。いつか枯れるから綺麗なんだ。その輝きを失うことを知らないような顔をしていて……」
まあ、欲しいものは往々にして遠回りして傷つかないと手に入らないんだよ、きっとね。そう自分に言い聞かせるように楓は呟いて、思い出したように、一曲弾くよ、と言って鍵盤を叩き出した。
その日はそのまま普通に別れた。夜、もう寝ようかとしている時に、楓からメールが来た。
『冬の雨に打たれて花は散る』
『どういう意味?大丈夫?』
返事は帰ってこなかった。電話をかけようとして、私は決定ボタンを押すことができなかった。心配で眠れなくて、そうこうしているうちに朝になって、身支度をして遅刻ギリギリに教室に入る。なんだか騒がしい。汐里が私を見かけるなり近づいてきた。
「篠宮さん、マジなん!?」
「え?」
「自殺したって」
何を言われているのかわからない。楓が自殺したって、そんなはずがない。昨日も普通に話して、じゃあまたって、別れたばっかりなのに。
「職員室でずっと名前だして会議してる……ちょ、ちょっと」
汐里が引いてくれた椅子へ崩れるように座った私に、クラスメイトからの視線が刺さるのがわかる。ホームルームの時間になってもクワガタがこない。嘘でしょ。夢か何かでしょこれ。どっきりでしょ。突然全校放送が始まる。教頭だった。声が重い。
『昨夜、高校二年の生徒が、自殺しました。これより全校集会を行いますので、至急体育館に……』
まだ楓だって決まったわけじゃない。でも脚に力が入らない。机に突っ伏したままの私を、遠巻きにみつめている幾重の視線を感じる。きっと同情とかそういうのなんだろうけど、なんだか私には非難のように感じてならなかった。
「いこう、肩貸してあげるから」
汐里に支えられて立ち上がり歩き出す。現実感のないまま動く。夢の中を歩いているようだった。違う、楓じゃない。違う。気づいたら体育館についていた。生徒の騒めき、神妙な顔をした校長が語りだす。
篠宮楓さんが亡くなりました。その言葉を聞いた瞬間、私は落とし穴に落ちたみたいに感じて身体の力が抜け、そのまま意識を手放した。

 

 

 

 

果実

1

2013年6月。私は人生の終わりの中にいる。出口が見えないのだ。どこにも。どこにも出口などないのだ。颯の裸の胸に頭を乗せて、一本しかないマルボロメンソールを二人で交互に吸う。レースのカーテンの向こう側では雨が降っているのがわかる。行き場のない煙が天井にぶつかって消えた。
「今年は梅雨早いね」
「関西ってそうなのか」
返事をする代わりに、颯の胸板を撫でる。痩せているけど鍛えられた、二歳歳上の男の筋肉の硬い感触。顔を寄せられたから無言でキスした。タバコと唾液の味がする。おそらく颯も感じてるだろう。
「メル、やばい」
「なに」
「勃ってきた」
しょうがないな、と私は笑いながら逆さまになって湿気った大きいバスタオルに潜り込もうとする。
「メルってなんでそんなにエロいの」
「そっちのほうがでしょ、お兄ちゃん」
私たちは、兄と妹で、恋人で、セックスしている。だから出口のない袋小路にいる。

高校を卒業した私は、実家に帰ることも、東京に行くこともできず、関西のまあまあな私立大学に進学した。高偏差値の進学校では恥ずかしいけど恥ずかしくない、同窓会に行ける程度の大学だ。行ったことはないが。私はコンプレックスが強いのだ。将来の成功を約束され、キャリアと家庭の両立という幸せを掴むことをほぼほぼ確約されたような奴らを見ると、私は彼女たちを殺してしまいかねないような気がしてならないのだ。一度の留年と一度の休学。それが今の私だ。
メンタルヘルスを拗らせた結果、私は人間関係を崩壊させた。今の私はほぼ天涯孤独だ。仲の悪い後妻はもちろんのこと、親父ともほぼほぼ絶縁状態だ。大学休学することにした、と伝えた時、親父は、そうか、復学する時は学費出してやるからな、とだけ言って電話を切ってきた。ふざけるな。ちゃんと向き合わなかったお前にも私をこんな風にした責任はあるだろうが。ていうかなんだよ芽琉って名前。ヤンキーかよふざけんなよ妙な名前つけやがって。そう憤ったけれど、結局どうにもならないから諦めた。
スキルもなければ、若さもピークをすぎてあとは枯れゆく存在。だから私は、血の繋がった実の兄である颯と週に二日、泥のようにセックスして快感に興じることで現実の全てから逃避することにしている。
その日も四回戦を終えて一緒にシャワーを浴び、けだるさで身体が重くなりながら浴室から出て、エアコンの温度や天井を叩く雨の音や少し黴たような匂いや髪についた水滴の感触を意識した瞬間、強烈に煙草が欲しくなった。颯とのジャンケンに負けた私は、ジャージを着て傘を持ち、手足を引きずりながら玄関を開けた。締め切って涼しい室内に慣らされた身体を、外の緩い潤った空気が包む。くぐもったように薄くグレーな雨の匂いを吸い込みながら、私は非常階段を降りる。部屋は屋上のペントハウスで、エレベーターは五階からしかないのだ。
築年数が古いからガタガタうるさい箱に乗り込む。人がほとんど住んでいないような物件だから床には水滴すらない。一階を押したらふらっとしたので壁にもたれて目を瞑る。やがて地上についた私はゆっくりと開く扉に合わせて目を開き、倒れかけながらエントランスを出て、歩いて二分のところにあるコンビニに入る。
たったこれだけ動いただけでもう四肢が軋むような感じがする。体力が落ちているのをありありと実感する。鈍色に濁る空気の中で緑色の光る看板を見た瞬間、昨日の夕方からなにも食べてないことに気がついた。カゴを持つ。おにぎりと適当なカップ麺を詰め込み、酒類を眺める。視線を感じたので振り返った。誰もいない。代わりに張られた鏡の中には、生気のない顔の、さながら幽鬼のように痩せた自分がいた。慌てて目をそらして、適当に酒を買い込む。
「マルボロメンソール二箱、ボックスで」
自分の声が掠れている。そんな私にも人間的な対応をしてくれるアルバイトの学生は人間の鑑なのかもしれない。マニュアル化されたサービスはロボットみたいだ、なんていう人もいるけれど、私にとって彼ら彼女らは、コンビニという明るい後ろ暗くない場所で汗を流して働く立派な人間だ。社会と接点をちゃんと持つことがどんなに尊いことか、それを理解できないような人がきっと彼らに後ろ指を指してるに違いない。
脚がもつれて転びそうになりながら店を出てボックスの封を切り、煙草を口に咥える。触れる唇からメンソールの清涼感が伝わってくる。どうせ私のことなんて道を歩いている人は誰一人見てないし考えてすらないのはわかっていて、でもそれでもなぜか視線が痛いような気がして、灰皿の前で立ち止まらずにマンションに戻った。逃げないと。あの部屋に。颯のいるあの部屋に。逃げ場なんてどこにもないって、本当はわかってるのに。こうやって逃げ続けても袋小路の奥に入り込んでるだけだって、本当はわかってるのに。
私は楽園から追放されたんだ。美しい秘密の庭園から。そこは鍵盤の音とタバコの匂いがする、活字に彩られた空間で。そこは夢や未来への美しい希望が、清泉のように滔々と溢れ出す、透明な美しい場所で。私は二度と隠された楽園に戻ることはできない。私は汚れてしまったから。そうなることを選んだから。その証拠に、颯のおかえり、という言葉に心の底から安心してしまっているから。書きたいという願望を強く持ち続けていながら、それを放棄し続けているのだから。

2

パソコンに繋げたカメラの前で待機する。客が来ないので暇をつぶすためにスマホでゲームをしていた。ぴろりん、という音が聞こえる。客が部屋の前に来たらしい。接続、を押して、神妙な顔で部屋の鍵を開けてやる。男が入ってきた。透明な身体で。姿は見えない。声だけで。
『麻衣子ちゃん?』
「うん……」
アイドルが着てそうな制服っぽいダサいようなかわいいようなよくわからない服を着た私は、恥ずかしそうな顔を作って俯いた。チークを多めに塗り込んだから血色はばっちりだ。
『今日はいっぱいエッチなことしようね』
「うん……」
『じゃあ、まずは下着になろっか』
ゆっくりと勿体つけて服を脱ぐ。下着は白だ。それもかわいいやつ。派手顏でもなくかといって地味顏でもなく、童顔で痩せ型で大人しそうで従順そうな黒髪の私がつけているイメージにぴったりハマったようなもの。
『すごい……エロい……』
んん……、と顔を横に向けながら恥ずかしそうに吐息を漏らした。内心では爆笑してる。けれどこれはバイトで、賃金が発生しているのだ。最低限金額の半分くらいに、飽きられない程度には真面目にやらないといけない。
私はエロチャットで金を稼いでる。ライブチャットというやつだ。要は、男のオナペットだ。あまり真面目に働いていないので、一ヶ月にだいたい二十万くらいもらう。親父が仕送りを寄越さないし、外で働きたくなんてなかったから、これで生活している。
オナニーしてみせて、カメラの向こう側にいる男と声と視覚だけでセックスして金をもらっている。
『ねえ、じゃあ……次は、下着、外して』
私は勿体ぶってゆっくり全裸になる。
『脚、開いて……』
男の息遣いが荒くなるのに合わせて私も吐息を漏らし、そっと股間に手を当てて座る。
「こわい……」
『大丈夫だよ、安心して』
日本の法律上、モザイクをかけずに性器を写すことはできない。だからそのギリギリを攻める必要がある。
『見えてないよ、見えてたら言うからね』
ん……と高音で喘ぎ、私は貞淑な女のフリをする。
『じゃあ、いれるよ、麻衣子』
「うん……」
私も中指と人差し指を自分の中に入れる。異物感があるだけで快感はない。アホらしいとは思うけど、全ては金のためだ。この瞬間の私は和泉芽琉ではなく、麻衣子という、従順そうでエロい、そんな存在を演技して成り代わっている。
イヤホンから聴こえてくる男の声が荒くなるのに応じて、私も手を動かす速度を上げる。機械のように、事務的に、流れる作業として。
『たっぷりおまんこの中に出してあげるね、麻衣子』
やがて男がイく。それに合わせて私も身体を痙攣させるようにしてイったふりをする。これで一仕事終わりだ。

その日は六人の客を相手にして、二万稼ぎ出した。だいたい平均値に収まったので良しとする。買いためていた缶ビールで薬を流し込み、煙草に火をつける。メンソールの香りが鼻を抜けていく。一日中部屋にいたので頭が痛い。明日は晴れるらしいから夜だけど洗濯をしよう。ついでに外気でも吸おう。私はサンダルを履いて咥え煙草のまま外に出た。
私が住んでいるのは、五階建てマンションの屋上にあるペントハウスだ。築年数二十五年、しかしリフォームのおかげであまり老朽化が目立っていない部屋数の少ない物件。けれど、ここを根城とするものは多くはなかった。正確には、私を含めて確か5部屋だけしか入居者がいない。おそらく四階を除いた全てのフロアに一世帯ずつしか住んでいないと思う。
ここは、曰く付きの集合住宅だ。かつて四階の部屋で、惨たらしい一家心中があったらしい。バブルの荒波を越えられなかった家庭だ。それ以来、とにかくここは出るらしい。私は見たことないが、確かに建物全体に妙な薄気味の悪さを感じる。だから人はここを、幽霊マンションと呼ぶ。けれどそのぶん家賃は安い。
洗濯機をぶん回し、屋上の手すりにもたれながら煙草をふかす。屋上は共有のものではなく、基本的に私のベランダと化していた。入居者が多ければそうはいかないが、顔も見たことのないような数人が住むだけだ。いっそのこと建物を取り壊してしまえばいいのに、と思わないこともない。
私はなにをやっているんだろうか。こうやって時間と若さを擦り減らし、どんどん自分を追い込んでいるだけだ。いつから私は狂ってしまったんだろう。いつから私の人生は狂ってしまったんだろう。かつては私もまた幸せ行きの人生の切符を持っていたはずなのに。花が咲いて、枯れて、あとに実を残せない。そんな人生が待っている。そう思うだけで本当にここから飛び降りたくなる身体を、私は必死に抑え続ける。
そういうことを考えながら立て続けに煙を夜の湿った空気にむかって吐いたり吸い込んだりしているうちに、洗濯が終わった。のんびりと、でも少しげんなりと、洗濯物を干しながら、昔読んだ小説のことを思い出す。どんな話かは正確に思い出せないが、こんなマンションの屋上が、給水塔が壊れて水浸しになって、プールのようになったんだ。このアパートの屋上の給水塔は壊れないだろうな、でも白く塗られたコンクリートがプールみたいになるのはきっと綺麗だろうな。囲いに覆われた大きな水桶を眺めながら考える。雲の切れ間から薄く光る星が見えた。

3

「メル、起きろ」
いつのまにか私は寝ていたみたいだ。顔を上げる。腕が痺れていた。窓から風が吹き込んでくる。懐かしいタバコの煙。
そこで私は気づいた。ここは私の家じゃない。じゃあどこ?高校の音楽準備室だ。ならさっきの声の主は?正面にいた。目があう。篠宮楓だった。息を呑んだ。もういないはずなのに。髪に隠れてない片目だけで視線を送ってくる。凛とした顔は無表情で、でもどこか嬉しそうでもあった。
「楓……?」
「んだよ、オイ、寝ぼけてんのか」
「いや、うん、大丈夫」
視線を落とす。私は高校生に戻ってるようだった。制服を着ていた。頬に触れる心なし肌の状態がいいような気がした。
「元気か?」
「え?」
「久しぶりじゃん」
久しぶり?冷たい秋風が窓から吹いてくる。ああ、そうだ、久しぶりだ。ここは私と楓だけの楽園だ。鍵盤と活字と音色と煙の。二人だけの秘密の、触れられたくない隠された庭園だ。これはもしかしたら明晰夢なのかもしれない。
「久しぶりだね、どうしたの?」
「会いに来たんだよ、数年ぶりに」
幽霊の楓は高校二年生の姿のままだ。今の私も高校二年生の姿だ。でも楓はずっとそこから歳をとることはなくて、私は成長しないまま歳だけを重ねていっている。
「お前さ、飯食ってねえだろ?」
「え」
「まあいいや、吸うか?」
私たちは夕日を浴びながら並んでタバコを吸った。わかばは水っぽくてえぐかった。マルボロが恋しい。けど吸えない味じゃない。悪くない。
「こうして二人でモクやれるなんてな」
「ほんとに」
誰もいない運動場と紅葉した木々を眺めながら、いろんな思いが混じりつつもとりあえずは最初に聞くべきことを聞こうと、楓に話しかける。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ、この際だから言ってやるよ」
「私のこと好きだったの?だから死んじゃったの?」
楓は昔みたいに鼻から煙を吐き出した。
「好きだけど、それは関係ねえなあ。いや、少しは影響あったけど、あたしが死んだのは別の理由だ」
「え、じゃあなに。バンド?」
「その前にあたしの話の時間だ」
楓は私のほうに向き直った。
「愛ってなんなんだろうな」
「何が言いたいの」
「お前満足なの?」
「満足だけど?」
「嘘でしょ」
「何が言いたいわけ?」
「他に女がいたら?」
「それなら別にそれでいいよ」
そっか。そう言って楓はフィルターぎりぎりまで吸いきったタバコで新しいものに火をつける。颯はきっといわゆる紐だ。仕事どうしてるの、と言ってもいつもはぐらかされる。どこに住んでいるかも知らない。友達のところで寝泊まりして働いてる、なんて言ってるけど、絶対に嘘だ。
「メルさ、どうしたいわけ」
えらいひどいことになってんじゃん、と彼女は付け加えた。
「なにを」
「だから、この先だよ」
私はなにも答えない。答えられなかった。自分がどうしたいかなんて、完全に見失ってしまっている。それが分からないから動物的に地べたを這いずり回っている。
「まあいいや、また聞きにくるわ」
楓は薄く笑って、私はそこで目が覚めた。

4

ここは幽霊マンションなんだってことを私は強く実感していた。楓。すっかり忘れていた。もう五年も前のことなのか。いや、死んでからは四年と少しか。あんなに仲が良かったのに、色々なことが積み重なりすぎて完全に忘れていた。もしかしたら忘れているフリをしていただけなのかもしれない。余りにも今が辛すぎて目をそらしたくて。あんなに大事な存在だったのに。
身体を起こさずに、そのままカーテンの隙間から差し込んでくる薄明るいグレーの光の中でぼんやりとする。携帯で時間を見る。朝六時。早起きするのは別にいい。今日はメンクリに行かないといけないのだから。ゆっくり時間をかけていいから準備をしよう。
社会が目覚めて動きはじめる時間。私はこんなにも人の営みから隔絶しているのに、だけれど真っ当に生きる彼ら彼女らと同じ時間に目を覚ましている。そこに決して拭い去ることのできない人間との関わりというある種の幸福に対しての執着を実感せざるを得なかった。一留一休、時間と若さを食いつぶし、アルコールと向精神薬に依存し、兄との近親相姦へ逃げ場を探す、そんなどうしようもない私には、結局得られなかったものに対する妬みしかもう残っていないんだと思う。とにかく外に出たくない。外の世界の全てが私を批判し、総括することを要求しているような気がしてならない。お前が全部悪いんだ、お前がそういう風に自分を追い込んだんだ、お前が自分で全ての責任を取らないといけないんだ、もう若くないんだ、子供じゃないんだ、いい歳した大人なんだから。
悪い思いが逆流して頭に渦を巻く。その濁流が、感情と空っぽの胃の内容物を押してきて吐き気が止まらない。全てを消し去るために、シャワーを浴びる。
なにがしたいとか、どうしたらいいとか、まるでわからない。ただただ今は逃げ続けているだけな気がするし、じゃあ立ち向かえばいいだけの話だし、現状を変えるために何か手を打つのはもう手遅れなような気がしてわけがわからない。もう気が狂いそうだ。この頭の先から泡を押し流すぬるい水が自分ごと溶かしてくれたらいいのに。このまま排水口に消えていってしまいたい、そう考えていた。

 

 

電車一本の距離にある大学病院で主治医と向かい合い、おかわりないですかというお決まりのやりとりをした数日後、颯が家に来た。いつものようにセックスする。仲良くイったあとに煙草を吸ってたら、颯が外でやろうかと言い出した。

「外ですんの?」
「たまには刺激が欲しい」
誰も見てねえしこねえだろ。颯が裸のまま一人だけさっさと屋上に出て行ったので、私もそのままついていく。外は暗い。厚い黒の雲が、すぐそこ、手の届くところまで降りてきている。もうすぐ嵐が来るらしい。風が強い。私が手すりに掴まると、颯が腰を押えて入れてきた。動きと快感の中で、視界の先にある街の景色が揺れる。私たちがほぼ同時に絶頂したあと、雨が降ってきた。白いコンクリートの床に溢れる体液を、雨が洗い落としてくれる。その事実に私はすこしだけ言いようのない安堵を感じていた。
部屋に戻り、気だるい中、二人で煙草を吸う。
「ねえ」
「ん?」
「外に女いるでしょ」
いねえよ、と颯は言って私の肩に腕を回してくる。ずっと関東にいたのに颯はいつの間にか関西にいた。貢がせていた女を孕ませてしまい、親父に絶縁を申し渡され、大学を辞め、私が気づいたときには難波でホストをしていた。数年ぶりに再会した私たちは、何がきっかけでそうなったかはわからないけれど、縺れるように転がり絡まるように、こうして爛れた関係を持っている。その際に私は他に女がいるか尋ねたが、颯は即いないと言った。
「別にいいんだけどさ、いるならいるって言ってよ」
「いねえって。メルだけだから」
「だから私は別に二番目でも三番目でも何番目だって別にいいんだって。でも嘘はついて欲しくない」
颯が唇を塞いでくる。舌を舐められる前に、私は軽く突き飛ばした。
「落ち着けって」
「ねえ、もう、終わりにしよう。やっぱおかしいよ」
「今更だろうが」
そのまま押し倒され、前戯なしでことを始める。やってしまえばこっちのもの、そういう意図が透けて見えていて悔しくてたまらないのに、それでも快楽には勝てなくて、私は知らない間に好き、好き、好き、ときっかり三回絶叫して、やっぱり颯のことが情けないことに好きなんだと確信してしまった。
終わったあとに抱きしめられ、腕の感触にすっかり安心してしまったのか私はだんだん眠くなった。外では風が吹き荒れ、雨が壁を叩くのがわかる。正直すごく怖い。
本当は終わりにしたいのに、終わりが見えない。こんなのもう嫌なのに。私はこんなことを望んでいたのだろうか。絶望という袋小路に閉じ込められ、圧迫してくる可能性という名前の天井に窒息死寸前になり、快感と倫理の鎖の間に揺れる、そんな。
本格的に眠くなって目も開けられない。私は腐った果物だ。綺麗な花を咲かせることもできず、良い未来という名の味わいも身につけることのできなかった、価値のない存在。そう思うととても泣きたくなったけど、涙なんて少しも出ない。最後に泣いたのも思い出せないくらい私はもう泣けない。思い切り泣けなくなったのはいつからだろう。終わりのない悲しみを終わらせたくて、安心したくて、私は眠りと人肌の温もりに意識を委ねた。

5

「よお」
また私は音楽準備室の机にうつ伏せになって寝ていたようだ。顔を上げると、楓と目があった。無表情だけどなんとなく悲しそうだ。
「ひでえな」
「言われなくても」
「わかってんなら……」
そこまで言いかけて楓は首を横に振って軽く笑った。
「まあ、自分でなんとかしろ」
突き放されたようで少しだけ悲しくなった。けどまあ自業自得なのかもしれない、結局のところは。私がそう選択したのだから、その責任はとらないといけない。いつも薄々そう思っていた。
「なんだ、急に悟ったような顔して。涅槃の境地にでも達したのか?」
「ううん、でも、なんかこう、強くならなきゃなって」
はっ、と笑って楓はまたタバコに火をつけた。
「弱いままでもいいんじゃねえの?弱いことは悪いことか?」
違うだろ、そう言いたいように楓は私の顔を覗き込む。
「強すぎるとな、自分を見失う。周りが見えなくなる。あたしはそう思う」
どうだろう。私にはわからなかった。ふと窓の外に目をやる。雪が降っていた。
「で、この前の話の続きだ」
そこで楓はもったいぶって区切る。
「お前どうしたいの」
楓の目を見た。そこにはなにも映っていない、茶色の十七歳の網膜があった。息を吸い込み、諮詢して、それでも前に進もうと私は本当に伝えたい言葉に力を込める。
「私は、書きたいの」
あの冬の日、最後に楓と言葉を交わした冬の日のことを思い出す。私がみたもの、知ったもの、感じたもの、この世界に生きた私と私以外の人たちのことを、証明として証拠として、たしかに残したい。私はそうしたいんだ。
「そうか」
満足げに頷いた楓は、それじゃあ、と言って私に背を向けようとする。慌ててその腕を掴んだ。
「待って」
楓が驚いたような顔をする。
「なんだよ」
「まだ終わってない」
そう、まだ終わってない。
「なんで死んだの」
楓は俯いた。少しの間のあとに、楓は表情のない声で話し出した。
「あたしはね、花でいたかったんだ。白い花のままで。望まない実をつけることなく……それを失うこともなく……」
私は楓がなにをいいたいか分かってしまって、目の前で今にも消えてしまいそうにそっと震える小さい身体を抱きしめた。楓が驚いたような声を出す。
「ごめんね」
「なにが」
「気づいてあげられなくて」
「今更だよ」
「絶対に忘れないから」
「うん」
「楓のこと憶えとくから」
楓は返事をしない。私の胸のところに顔を埋めて震えている。私も今どんな顔をしているのかそれを見せたくないから見えないように楓の耳に頭を寄せる。
「楓」
「うん」
「楓が生きていた証は、私が必ず残してみせる」
「うん」
「私は純粋なまま強くなってみせる」
「うん」
「だから、変わってしまうことを恐れないで。未来を心配しないで。安心して」
「うん」
ありがとう、そう言いながらそっとすすり泣く楓が私の背中に手を回してきたのを感じる。私ももう我慢せずに泣いていた。
「欲するものは往々にして遠回りしなければ手に入らない……」
しばらくそうしていたあとに、私はそっと呟く。楓が胸を叩いてきて身体を離す。照れたように笑っていた。そこで目が覚めた。

颯の寝顔が目の前にある。筋肉質な胸板に乗せた頭を下ろし、身体に回された腕を解いて外に出る。嵐は止んでいた。裸足のまま白く塗装されたコンクリートを歩く。プールとまではいかなくとも、踝のあたりまでは水が溜まっていた。足の裏から表面にまで伝わる水の感触。私が動くのに合わせて、白い水面が朝日を照り返して揺れる。
冷えた手すりを握り、朝の街を見下ろす。車がゆっくりと動き出し、まばらではあるけれど人が歩いている。不意に風が吹いた。嵐に置いて行かれた風が、東から西へ、風の集団へ追いつくように近づくように。嵐のあとの街の、その何ものにも動じずいつも通りである佇まい。それは図々しくもまた、全てを受け入れる包容力を持った存在でいて。ある種の精々しさを持つ、その普段と変わらないということの美しさを知覚した瞬間、私は涙が頬を伝ったことに気づき、私は蹲って大声で泣いた。
ああ、楓。誰よりも繊細で不器用な楓。強くあろうとしていたあなたは移ろいゆくことに耐えられなかったんだね。どんなに透明であり続けようとしても、いつかは強さという色がついてしまう。けれどそれはきっと、強いままで透明でいられるんだよ。もうあなたはこの世界には居ないけど、私の心はあなたといつまでもあの秘密の庭園の中にいる。あなたがこの世界にいたということは、私が、私とあなたとの時間こそが証明してくれていて、私は絶対にあなたの生きた証拠をこの世界に残してみせる。
そうだ。強く。もっと強く。なによりも強く。望むよりも強く。熱望するよりも強く。渇望するよりも強く。希求するよりも強く。そう、私はより強くなろう。より強く研ぎ澄まされよう。より強く鋭くなろう。存在そのものをなによりも強くあり続けよう。誰よりも永劫強くあり続けよう。純粋で繊細な弱いままで強くあり続けよう。それこそが私の役割なのだから。運命の中の役割なのだから。どんなに遠回りしようとも必ず掴み取ってみせる。あの美しい秘密の庭園はこれからも私の中にある。それを思えばこれからの幾重の苦難にも立ち向える。ここから始めよう。奈落から這い上がるんだ。私は絶対に書いてみせる。この命が尽きるまで、書き続けてみせる。
私は顔を上げる。涙の膜の向こう側には空が見えた。雲の切れ目から陽が顔を出している。それはそれはとても綺麗に輝く黄金色の光だった。

2016年9月5日公開

作品集『TRAIL』第2話 (全5話)

© 2016 宮崎まひろ

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