バルドー印刷所

貯畜

ルポ

6,896文字

「世界の田舎」であるチュニジアへ行った著者によるルポルタージュ。途上国の現実を冷静な筆致で描写する。

バルドー印刷所は大通りを少し離れたところに隠れるようにして建っている。かつてはチュニジアのほかの建物と同じように白く輝いていたであろう漆喰の壁は、ベージュ色ともねずみ色ともつかない色にくすんでいる。コンクリート塀は厚く、侵入者を防ぐために無数のガラスの破片が上部に埋め込まれている。

印刷所でモチダさんの通訳を始めてから半年が経つ。モチダさんは日本国際協力機構に派遣されて印刷物の品質改善にたずさわっている。彼は英語を話すが、印刷所の所長はほとんど話さない。月一回のミーティングで所長の話せるフランス語の通訳をするのが私の仕事だった。

二階のオフィスに入ると、モチダさんは書類から眼を上げ、軽く唇の端を上げて微笑んだ。老眼鏡を外すと、書類を私に手渡してミーティングの議題を説明し始めた。印刷機会社の技術者から営業に転向したというモチダさんは明るい声で簡潔に話す。「十時だ、そろそろ行こうか」

所長室にいたのは秘書だけだった。印刷所で機械のトラブルがあり、所長は様子を見に行っていた。

一階に降りてオフセット印刷機の間を通り抜けながら所長の姿を探すと、資材庫で技術者と話していた。手には握りこぶしくらいの大きさの鉄の塊を持っている。すでに髪が後退し始めている額には、汗の粒が浮かんでいる。モチダさんの姿を認めると、鉄の塊を差し出してカタコトの英語で話しかけてきた。「モーター・いず・ブロークン」

「オフセットのフィーダーのモーターだね。なんだか焦げ臭いよ。焼けてるんじゃないか」

所長はフランス語に変えて話し出す。私はその後を追って訳しはじめる。「今朝急に焦げ臭いにおいがして、機械から煙が上がったので、急遽止めたんです。そしたらもう再起動しなくなりました。モーターがいかれちゃったらしいので、うちで直せるかどうかまず調べるところです。でもこのモーター、分解できないタイプらしいんです」

「本来はメーカーのサービスマンしかいじれないように作ってあるんだ。でもこのカバーは外せないかな」

モチダさんはドライバーを、所長は小さなハンマーを持ち、モーターの外装に傷をつけながらもこじ開けると、黒焦げになったコイルが出てきた。

「これは無理のようだね。メーカーに部品を取り寄せるとどれくらいかかるだろう」

「ドイツからの取り寄せになるので、早くて一ヶ月。それまでこの機械はストップです。前にも似たようなことがありましたが、五千ディナールかかりました。当月の利益なんてほとんど吹っ飛んでしまいます。どうしてこういう事態が予防できないのか、私にもほんとうにわけが分かりませんが。さしあたってこれ以上はどうしようもないですから、遅れてすみませんがミーティングを始めましょうか」

二人の後について階段を上りながら、私はモチダさんのこれまでの話を思い出していた。チュニジアの印刷業は機材、紙、インクのすべてを輸入に頼っている。自前のものといえばそこで働いている人間だけなのだ。一度機械が壊れてしまうと修理するための部品も技術もないため、海外のメーカーからサービスマンがやってくるまで工場は生産をストップしてしまうことになる。通常、印刷会社は高価な機械のコストを賄いながら利益を上げるために過密なスケジュールで操業を行わねばならないが、チュニジア政府系機関のこの印刷所には日本の無償援助で一億円の印刷機が据え付けられ、その稼働率は日本の工場の十分の一程度であるが潰れることはない。

所長室の応接テーブルを囲んで全員が席に着くと、モチダさんは検査用紙をホチキスで留めた印刷サンプルを取り出した。裁断前の紙にカラー冊子の表紙が連なっている。「国旗の色を見てください」

所長の眉間に険しい皺が現れる。「緑色になっています。チュニジアの国旗の色はもちろん赤です。この問題は私も先週指摘しておきました。君らは自分の国の国旗の色も知らないで刷っているのか、と印刷工に問いただしました。それは自分のせいじゃない、自分は製版から来た版をセットして刷っているだけだ、と言い訳ばかりです」

「色校正もろくにやらないで緑の旗を五千部も刷ってしまうということは、チェック機能が働いていないということですよね。製版と刷りの間でコミュニケーションが成り立っていない。どこで問題があるのか分からないし、責任の所在もはっきりしない。間違えたことを攻められたい人なんていないから、咎められなければ品質は二の次ということで、こんなふうになってしまう」

「それでは、どうすればよいのですか」

「印刷所内でのコミュニケーションを改善する必要があります。後でお話しますが、そのために日報をつけるよう提案したいんです。この色間違いの件に関しては、きちんとしたチェック機能を作れば予防することができるということです」

「わかりました。日報については私もお話したいと思っています。さしあたっては次の件をお願いします」

厚めの冊子がテーブルの上に置かれた。光沢のある表紙が一枚、ページを包むようにして糊付けされているが、ページの幅より表紙の幅のほうが短く、表紙からページがはみ出ている。

「この公衆衛生のアニュアルレポートですが、これは糊付けのことを考えて、もう少し広めに表紙の幅を取って断たなきゃいけません。それから、表紙がもう剥がれかかっています。糊が足りません」

「糊の量をこれ以上増やすと本の端から糊が流れ出して、製本機の可動部に付きます。糊が乾くと製本機が止まります。表紙の幅に関しては先月製本係に注意したばかりです」

「おととい、製本係のモンセフと一緒に製本機を調整してみました。糊の量の自動調節機能がオフになっていました。いままで誰も気づかずに運転していたのですね。糊の量は現時点で最適になっているはずです。断ち幅の問題はささいなことに見えますが、このほんの少しの違いのせいで、本がすべてだめになってしまいます。チェック機能を確立しなくてはなりません」

それまでテーブルに屈み込むようにして本を両手に眺めていた所長は、背筋を伸ばして座り直し、モチダさんの眼を見据えて言った。

「モチダさん、ここはティエール・モンド(第三世界)の国です。おわかりですか。日本みたいな先進国とは基準が違うんですよ。日本でやるように、寸分の違いもなく製本できれば、それはすばらしいことですよ。でも、ここの工員は給料も安いですし、日本人よりもほんとうにひどい状況で大きな問題ばかり生活に抱えているから、こんな数ミリの表紙の幅の違いなんて、シュワイヤ、シュワイヤ(タイシタコトナーイ)で済ませていなければ、とてもやってられないんですよ。そんな状況で、どうやって改善しろというんですか」

所長は話しながら自分の言葉に興奮しはじめ、地中海人に特有の大きなジェスチャーを手に現して、モチダさんに挑みかかるように話した。私はすでに冷たくなったコーヒーで口を湿らせた。ターキッシュコーヒーに特有のどろどろとした黒い澱もわずかに飲んでしまい、口の中に苦い味が広がった。

「日本は、戦争に負けた直後は途上国でした。資金も資源も機械も何もありません」モチダさんはゆっくりと話し始めた。「四十年前、私の月給は一万五千円でした。日本が今のようになったのは、少しでも製品の品質を上げて、輸出して外貨を稼ごうとみんなが工夫してきた結果です。他に選択肢はありませんでした。チュニジアは国土が小さく、資源も少なく、日本と状況が似ています。チュニジアもみんなが頑張れば豊かに成功すると私は思っています」

「私もそう願っています。それは国民全員の願いです」所長はやや潤んだ目で遠くを見るように話した。「けれども私たちの場合は社会的・政治的なコンテクストを考えなければならないと思うんです。そう考えると、私たちの状況は日本よりもっと悪いでしょう。欧米の先進国は、私たちが途上国のままでいて欲しいのですよ。そうでなくては困るのです。欧米の製造業にはダブルスタンダードがあるのはご存知ですか。しっかりとした規格の製品はヨーロッパで融通しあって、地中海の向こうの途上国には同じ値段で品質の悪い製品を送りつけてくるのです。そんな状況でどうやって高品質の製品を作ればいいのですか」

「いまできることをやって、少しずつ前に進んでいくしかないでしょう。政治が悪い、社会が悪いといって、その被害者になっていても、品質は上がりません。ここでものごとを変えられるのはあなただけです。働いている他の工員のために状況をよくしてあげられるのはあなただけです」

「わかりました。次の件に移りましょう」

「紙の倉庫の改装の話を先月しましたが、その後の状況はどうでしょうか」

「計画書は本省に転送しました。本省の返答待ちの状態です」

「いまの倉庫には入り口に三〇センチくらいの高さでコンクリート製の敷居がありますね。これがある限りフォークリフトが進入できないので、いちいち人力で荷降ろしをして運び込まなければならない状態です。この敷居はぜひ無くしていただきたいです」

「モチダさん、この倉庫の問題は、技術的な問題というよりは行政上の問題なのですよ。もうご覧になったでしょうが、いまの倉庫の屋根からは雨漏りがします。紙の束が置いてある倉庫にですよ。雨漏りに気づいてからすぐに紙を移動しましたが、すでに水に浸かった紙の大部分は乾くと凸凹に波打って、使えなくなってしまいました。紙は自国生産できないのでイタリアから輸入しています。けっして安くはありません。それが倉庫のせいで無駄になってしまっています。倉庫の改装は二年前から本省に依頼し続けていますが、予算が付いたことはありません。申請は続けていきますが、この国の行政はすべてトップダウンなので、中間管理職の私がいくら上の人間に頼んでも聞いてはくれないのです。この印刷所は健康省の家族計画局の付属施設で、私自身は国立印刷局からの出向という形で所長についていますから、本省の人脈にどうも押しが効きにくいということもありますが」

「できるだけ早く予算が付くように期待しています。最後に日報の話をしたいと思います」

「日報については、五年ほど前に『品質カード』というシステムを取り入れたことがあります」

所長はスチール製のロッカーから紙の厚い束を取り出した。アラビア語で手書きの文字がところどころに走り書きしてある。

「これが当時のカードですが、このシステムは一ヶ月で取りやめになりました。全職員に記入を義務付けていましたが、だんだんと書く人が少なくなり、最後には職長が部下の工員の分をすべて記入していました。それが職長の大きな負担になっていたので、やめざるをえなかったのです。このカードを見てください。『作業内容――印刷 数量――空欄』それからこちらを見てください。名前は違いますが、筆跡が同じでしょう。作業内容も適当に書かれています。数量は分かりません。記入すると、印刷部数が少ないことが分かってしまうので、叱責されないようにわざと空欄にしてあるのです。こういったカードは何のデータも反映していません」

「日報は全員が毎日記入するところに意味があります。たとえ仕事がなかったとしても、数量ゼロと書けば、それはそれでひとつのデータなのです。工員の怠慢を責めるのではなく、稼働率について考えるのが管理部の仕事です。作業でミスがあった場合にも叱責を恐れて隠すのではなく、そのまま書けばよいのです。改善はそこから始まるからです。そのためにはミスを書いても叱責や罰を与えないという環境をまず作っておかなくてはなりません。たとえ虚偽の事実を記入するとしても、日報と向かい合ったときに、自分が嘘を書いていると工員は自覚するでしょう。そうした意識のきっかけをつくることが日報の目的で、そこから改善が始まるんです」

「おっしゃっていることはよく分かります。まったくその通りだと私も思います。ただ、カードを全員が記入できないことにはもうひとつ理由があります。ここの職員の中には読み書きができない人たちもいるのです。ここは政府系の企業という事情もありまして、聾唖者をはじめとして障害を持つ人や、さまざまな教育レベルの人を率先して雇う方針を採っています。民間企業のモデルとしてですね。彼らは真面目に働いてはくれますが、彼らがやっている作業のデータを残してもらうことは難しい場合もあるのです。それから、やはり日報が職員を管理する手段であることには変わりありません。たとえ生産性の改善のためだと説明しても、これ以上管理を強化することに職員が納得してくれるとは思えません。彼らは、管理ということにはとても敏感です。無理やりに制度を適用すれば、嘘をついて逃れるまでです。水際まで迫ってくる管理を、心を閉じてやりすごすことにみんな慣れています。自己保身と自己利益の追求のためならどんな嘘だってつくし、誰だって裏切ります。家族以外は信じられません。この国ではお互いの不信感ということはほんとうに深刻なものです。印刷所の入り口にいつも座っている守衛が先週から変わったことにはもうお気づきでしょう。前のやつは、私がクビにしたのです。まあ聞いてください。先月の電話料金の請求書を受け取って、あまりの高さに私はたまげました。企業が一般家庭より頻繁に電話を使うことを考えてみても、これまで見たこともないような金額でした。あわててチュニジーテレコムから通話情報を取り寄せると、この所長室の番号から深夜に発信されたことになっており、さらに驚きました。この建物は夜になると守衛のほか誰もいません。私は毎日この部屋の鍵をかけてから出ます。ここの鍵を持っているのは私だけです。私は張り込みました。いったん帰宅した後、印刷所の前に車で戻り、車の中に隠れて見張っていました。ええ、私にも家庭がありますとも。いい歳をして、家族団らんの代わりに夜は探偵ごっこですよ。印刷所を守るために。深夜を少し過ぎた頃、所長室の窓に明かりが点りました。階段を静かに上り、一気にドアを開けると、私の机の上に座り(ほら、そこです)、受話器を持った守衛がいました。その男は毎晩ここからガールフレンドに電話をかけて、朝まで喋り続けていたのです。日本では施設に守衛を付ければもう安心ということになるのでしょうが、ここでは守衛を付けたら今度は守衛にご注意ということになるのですよ。とてもじゃありませんが、管理を云々するような状況ではないのですよ。それ以前の問題です」

「しかし、鍵を持っていないのに、守衛はどうやってこの部屋に入ったのですか」

モチダさんの問いを予想していたかのように、所長は自信に満ちた笑みすら浮かべて、静かに立ち上がるとズボンのポケットから鍵を取り出した。

「これは私の家の物置の鍵です。これが守衛の家の鍵だったとしましょう。私が部屋を出たら、ドアの鍵をそちらから閉めてください」

所長は隣の秘書室へ移り、後ろ手にドアを閉めた。モチダさんはダイヤルを回してドアをロックした。間もなく向こう側からざくりと鍵を差し込む音がし、ダイヤルが回ると、ドアが勢いよく開いた。「ほら、開いたでしょう!」部屋に戻ってきた所長の顔は興奮で紅潮していた。

「昔は錠前といえば一つ一つハンドメイドで精巧にできていて、専用の鍵無しで開けられるのは錠前屋くらいでした。時代は変わりましてね、いまこの国のドアについているシリンダー錠の大半は、中国製の安物です。つくりが大ざっぱなので、どの鍵を入れても開いてしまうのです。簡単に開けられない錠を探してチュニス中の錠前屋をまわりましたが、ひどいものです。どれもこれもメイド・イン・チャイナ、メイド・イン・チャイナ。ティエール・モンドの人間は、部屋に鍵をかけて身を守る権利さえないということでしょうかね。しかしこれを見て下さい。スファックス[1]の友人に頼んで、ようやくイタリア製のシリンダー錠を手に入れました。ほら、箱のここのところに、『類似品にご注意ください』と書いてあるでしょう。本物のしるしです。所長室の鍵はこれに換えます」

「今日は、このへんにしておきましょうか」モチダさんは疲れた顔をしていた。

門の前でモチダさんと別れ、トラムウェイの駅に向かって私は歩き出した。七月に入ってから気温は毎日四十度を越すようになった。頬に当たる熱風が痛い。バルドー美術館の正門前を通りかかると、昼下がりの直射日光をたっぷりと吸った駐車場からは陽炎が立ち昇っていた。大規模なモザイクコレクションを目当てにバスから次々と降りてくる観光客の列も熱風の中に揺れる。チケット売り場に並びながらふざけあうカップル、帰り際の客の気を引こうと笛を吹く土産物売り。すべてが圧倒的な光の中でしらじらと実在感の抜けた姿を曝していた。そんな光景を見ているとひどく喉が渇いた。

――(了)

 


[1] スファックス……チュニジア第二の人口を持つ商業都市。大規模な貿易港がある。

2007年3月2日公開

© 2007 貯畜

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