月光

久川茲郎

小説

12,133文字

モデルをしていたツキコは親友のルイの自殺に傷つき、じぶんも自殺をしようと考える。自殺をするまえに、母の親類であるおばちゃんに会いたいと、おばちゃんが住む奥能登へむかう。  奥能登での出会いと自然が、傷ついた心をすこしずつ直し、ツキコは自殺を思いとどまる。

いつもの暇な、午後だった。

ツキコは居間で、ぼんやりとテレビを見ていた。ワイドショーが始まり柱の時計に目を移すと、針が二時をさしている。

腰をあげながらツキコが口をひらこうとすると、岡野のおばちゃんがさきに、いってらっしといった。たちあがり、テーブルの左に座っていたおばちゃんへツキコはいってきます、とこたえた。居間から店の中を通り、外へでた。

夏の鋭い光が目のまえにぱっと広がり、ツキコは目を細めた。セミが鳴いている。なん十匹という声が重なって耳をうった。

ツキコは家のまえの細い道を、南へ進んだ。すこし歩くと、緩い下り坂があった。まわりには低い档 あて がならび、濃い影を道の上にななめにのばしていた。

ツキコはミュールを履いていたが、その暗い場所を走ってぬけた。影がきれると、海が見える。陽を白く浮かべる、夏の奥能登の穏やか海だった。

 

 

海岸に沿ってつづく道の反対側には、家がならんで建っていた。鋭い光に黒い瓦が輝く。目の中にとびこんでくるそれが、痛いほどだった。

進むと、右手に川が見える。海と川が交わる場所から、灰色の防波堤がのびていた。そのさきに一本の木があり、光を遮っている。

ツキコは目を細め、木の下を見つめた。だれかが座っている。それを見て急に胸の奥が固くなるのを感じながら、ツキコは歩いた。

防波堤にあがり、木の下へむかう。座っている者の背中が、はっきりとしてくる。ツキコはさらに、進んだ。

木の下で座っていたのは、男だった。竿をのばし、糸を垂らしている。釣りをしているのだ。男の襟に汗が浮かぶのを見ながらツキコは、

「こんにちわ」

と、あいさつをした。男が目をあげたのとツキコが横についてしゃがむのはおなじだった。

男があいさつをかえしたのか、ツキコには聞こえなかった。しかし、ツキコはそれにかまわず、

「釣れますか?」

と、聞いた。いや、と小さいながらも、今度は返事がかえってきた。

二人は黙った。塗りつけたような青い空が広がり、海はやはり穏やかだった。白く厚い雲のむこうに、大きな山の稜線が薄く見えた。富山県の立山だろうか。今日もよく見える。

ここは能登半島の東にある、穴水町の乙波という集落だ。三十数軒の家があり、多くが海岸線にならんで建っている。海岸線に沿ってつづく県道には、おなじような集落がいくつもあった。

奥能登は、過疎に悩んでいる。この乙波もだ。若者のほとんどが、都会へでてゆく。それは都会が便利だということではなく、仕事がないからだ。乙波に残っている者でも家業の漁業、農業、林業を継がず、街へでて働いている者が多い。

しゃがんでいたツキコは、糸が垂れた海面を見た。波に揺れてときに光を映したが、針が見えるほど海はきれいだった。針に近づく、名前のしらない小さな魚も見えた。

小さな魚は、針を警戒している。ある程度までは近づく。近づいてとまり、しばらく様子を見る。それをなん度か繰り返したあと、さっと餌を掠めた。そして深い場所へ戻ってゆくのだ。

男の反応は鈍かった。それは、釣りではないといってよい。男は餌をとられるために、糸を垂らしているようでもあった。

男は餌がとられると、針をあげた。そして弁当箱のふたをあけて、すり身を指さきでとり、ちぎって針につけた。それを一時間に三度はおこなう。魚が釣れたところを見るのは、まれだった。

男はふたたび針を海へおとした。一連の動きを見ていたツキコも、海に目を戻した。尻を地面につけている。熱がパンツに、じんわりと沁みてきた。セミの鳴き声の下から、波が防波堤にあたる音がさしこんでくる。そんな景色の中で、ツキコの意識は沈んでいった。

 

 

ツキコは東京で生まれた。小さいころから両親は、仲がよくなかった。小学校三年のときに離婚し、ツキコは母親とともに父親の家をでた。

ツキコはいまだに、両親の離婚の原因をしらない。あとから父には若い愛人がいたことを聞いたが、母も二人で住み始めたアパートへすぐに男をいれるようになった。

母が男をアパートにいれるのが、ツキコは嫌でたまらなかった。ツキコがアパートをでるまで、それはつづいた。

男がなん人も変わった。母と男が部屋でなにをするかは、早い時期からしっていた。不潔だと思っていた。我慢しつづけていたが、中学校二年のときに、限界となった。

中学生になると、学校へはあまり通わなくなり、悪い遊びをする仲間とつきあうようになった。母は乱れた生活を小うるさくいったが、ツキコには説得力が感じられなかった。

そして、中学校二年の夏のある夜、母のいつもの小言に腹がたち、アパートをでた。それから九年たったが、ツキコはアパートへ一度も戻っていない。

アパートをでたツキコは、仲間や友だちの家を泊まり歩いた。

そうして一年以上をすごし、中学をおえた。高校には進学せず、ツキコはアルバイトを始めた。仲間や友だちの家を泊まり歩く生活は変わらなかった。つきあう男ができれば、その部屋へあがりこんだ。

十七歳になるとツキコは、モデルのような仕事をするようになっていた。バイトさきでしりあった友だちに紹介されプロダクションへ登録し、仕事をうけた。

ツキコの顔だちは年齢よりもおとなびて、憂いているような細い目が印象的だったが、それ以上に均整のとれた体が美しかった。特に足は、細く長い。仕事さきには美しい女性はたくさんいたが、足でツキコにかなう者はいなかった。

ツキコは順調に、仕事を増やしていった。

 

 

「雨の匂いがする」

と、男がいった。ツキコはそのことばにハッとして、顔をあげた。まぶしさに細めた目がなれて、海のむこうの立山が白く浮かんでくる。夏の静かな奥能登の海が広がっていた。

厚い雲は、ほとんど動いていない。雨など降るのだろうか。だがツキコは、男を信じた。まえにもおなじことをいい、激しい夕立があったからだ。

ツキコはたちあがった。時間はわからないが、帰るころだと思った。

「さようなら」

ツキコはそういうと、防波堤をくだる。家につながる細い道にでると、ツキコは振りかえった。男の竿が海にむかってのびているのが見えた。

 

 

目が覚めて、闇になれるのをしばらく待つ。すると、一階の居間にかけてある時計の鐘がふたつ鳴った。夜中の二時だ。ツキコはぼんやりと、天井を見つめつづけた。

隣の部屋で寝ているおばちゃんの寝息が、ときどきたかくなる。ふたたび眠ろうと目を閉じたツキコは、ふっと寂しさを覚えた。それが冷たい感覚となり、ルイを呼びだした。

ルイと初めて会ったのは、ツキコのモデルの仕事が増え始めたころだった。四歳下のルイが、ツキコのプロダクションへはいってきたのだ。顔も体も幼いルイは、みなにかわいがられた。目と口が大きく、やさしい鳶色の瞳が美しかった。

たくさんいたプロダクションの先輩の中で、ルイはツキコを慕った。仕事が忙しく、気持ちがおちつく暇のない日々となっていたツキコは、ルイのまだ擦れていない性格とことばづかいに、好感をもった。

眠れないツキコの脳裏に、ルイの姿がつぎつぎと浮かぶ。ツキコはあらためて、ルイの存在の大きさを感じた。

つきあったのは二年だったが、ルイほど心を許した相手はいただろうか?

居間の時計の鐘が、三つ鳴った。

思考が途切れたツキコは、寝返りをする。しかし、一度思い出したルイのことは消えそうになかった。

 

 

岡野美容院は、月曜日が定休日だった。その日はちょうど、お講さま(報恩講)と重なり、おばちゃんは集落の寺へでかけていった。

「昼はお寺で食べてくるさかい、ツキちゃんすきなもん食べとらっし」

おばちゃんは朝、そういってでていった。

ツキコは居間で、ぼんやりとテレビを見ていた。どこかへでかけるのも考えたが、ときどき細かい雨が降るはっきりとしない天気だった。でかけるにしても、おばちゃんの家には車がない。それにツキコは、免許をもっていなかった。

 

そのうち、二時をすぎると店のドアがあき、おばちゃんが帰ってきた。ツキコはけっきょく、家からでなかった。

おばちゃんはお講さまといわれる寺の集まりでくばられた栗饅頭をだし、お茶をいれて座った。ツキコは栗饅頭をふたつに割る。

「ああ、寺にいったらね、浩史さんのはなしがでたわ」

ツキコは浩史の背中を思い出した。防波堤で釣りをしている、あの男のだ。

「参るんおわって、ごぼさま(住職)らちとお菜(おとき)を食べとったら、だれかが貴一さん帰ってきとるんやないけってはなしがでたんやわ」

ツキコにお茶を渡し、半分の栗饅頭をおばちゃんはうけとる。

「あんなとこで釣りしとりゃ、みんなに見られるわ。それいわれてごぼさま、にがあい顔しとったけど、ありゃ浩史やって。兄さんじゃなくて、おっさま(弟)のほうやね」

浩史が釣りをしているのをおばちゃんにいったのは、ツキコだ。この過疎の集落で昼間、じぶんとおない年ほどの男が釣りをしているのが、珍しかったからだ。なん日かあとに用事で通りかかり、見たおばちゃんが、

「ありゃ、お寺の息子のどっちかやね。兄の貴一さんは新潟の会社におるっていうし、弟の浩史さんは、東京で絵の勉強しとるって聞いたけどな。たぶん、浩史さんやないけ」

といった。本人にたしかめていないが、ツキコは釣りをしているのは、浩史だと思った。

「ごぼさまはあんまりはなしたくないみたいやったけど、はなさんですまされんさかい、いいだしてんわ。浩史さん、輪島の高校でてから東京の絵の学校にいっとったらしい。でもじぶんの描いた絵で生活できるわけなくて、デザインの仕事をしながら描いとってんて。ところが、

二か月ほどまえにあっちの仕事を急に辞めて帰ってきてんと。なしたがやって聞いてもあいまいな返事しかせん。絵も描かんし。今はそのうち街にでて仕事するからっていっとるらしい」

東京で浩史に、なにがあったのか。ツキコは、胸にひっかかるものを感じた。

「東京から帰ってきたとき、荷物はあんまりなかってんと。でもひとつだけ絵があって、ごぼさまがこっそり見たら、どうやら描きかけの女のひとのらしい」

描きかけの女のひとの絵と聞いて、ツキコは浩史と交わした数すくないことばを思い出した。

十日ほどまえである。その日も天気のよい、暑い日だった。ツキコは、昼すぎに店をでた。防波堤へいき、浩史の釣りを見ていた。いつもとおなじだった。

しばらくして、浩史の糸がひいた。竿をあげると、名前のわからない手のひらほどの大きさの魚が針にかかっていた。浩史の釣りでそんな大物を見たのが初めてで、ツキコは興奮しなぜかうれしかった。

浩史は表情を変えずに魚をひきよせ、針からとった。そして、海に投げた。

ツキコにはその行動の意味がわからず、驚くだけだった。ツキコにかまわず、浩史は針につける餌をちぎっている。

「どうして……」

やっとでたことばは、渇いたのどに痛みを広げた。興奮と生まれてきた失望が、夏の暑さとは違う熱い感覚を胸に作る。ツキコはたちあがって、横の浩史を見おろした。

「やっと釣れたのに、どうして逃がしたのッ」

胸から沸き起こる熱いものが、脳天まで一気に駆けあがった。ひさしぶりにツキコは、感情で動いた。

浩史はすぐにこたえなかった。餌を針につけおえるとまっすぐ海を見つめて、つぶやくようにいった。

「だれも命を自由にすることはできない。じぶん自身のでさえ」

浩史は針を海へおとした。針は半円を描き、音もなく吸いこまれていった。

ツキコの怒りは、おさまっていた。浩史のことばが、ツキコの体から熱いものをゆっくりと奪いとっていたのだ。

 

 

うまく眠れない日がつづいていた。今夜もそうだった。

闇になれた目で、いつものように天井を見つめ、浩史を思いだしていた。

命を自由にしてはいけない。

そのことばに隠れたところを、ツキコは捜していた。

目尻がさがり口の大きいルイは、愛嬌があった。際だった美人でも整った顔だちでもなかったが、性格からもみなにかわいがられた。

ツキコはなぜ、じぶんがルイと特に仲よくできたのかわからない。仕事をしてできた友だちといっても、深くつきあえた者は、すくない。しかし、ルイだけは違った。

ふだんの生活でも、彼女とはつきあいがあった。互いの住まいを行き来したり、悩みもずいぶんと聞いた。相談もした。携帯電話のメールで、連絡をしない日はなかった。

いつのまにか、ツキコはルイを肉親、じつの妹のように感じていた。

ルイと出会って、二年になろうとしていたころだ。ルイは、ある男と交際をするようになった。その男はルイより二歳年上で、都内の高校に通う学生だった。商社の社長の父親からは、毎月数十万円のこづかいを貰い、仲間たちと悪い遊びをしているらしい。

ツキコは、その男に会ったことはない。まえに、しりあいのモデルの子がつきあっていたというのを、聞いていた。それも短期間で別れ、すぐに次の相手を見つけたという。そういうことを繰り返しているようだ。

ルイがその男としりあったのは、モデルの友だちの紹介だった。初めて会ったときは、ルイも男も友だちを連れていた。そのあとなん度か遊ぶうちに、ふたりだけで会うようになり、交際となった。

ツキコはルイがかわいく、美しい心のもち主だとしっていた。同時に、子どもではないともわかっていた。それはじぶんもいっしょだった。ルイが心配ではあったが、男との交際を否定しないと決めていた。ふたりを見守るつもりだった。

交際は、すぐにうまくいかなくなった。ツキコが心配したとおり、男の女性関係が原因だった。ルイと交際しているはずなのに、男はほかのモデルに手をだしたのだ。

そのころルイは、タレントとして仕事がすこし増えていた。ようやく進むべき方向が見えてきたのが、このときは不幸だった。

男の悩みと仕事の忙しさが彼女を追いつめたと、ツキコは考える。プロダクションは、所属しているモデルやタレントの私生活にはなるべく干渉をしないという立場であったし、ツキコにはどうすることもできなかった。

男と交際をするようになってからは、ルイと会う日もずいぶん減ったが、会うと彼女は明るく笑った。それがツキコの胸に、痛みをうんだ。

年末のある日、ツキコはルイを夕食に誘った。渋谷のイタリア料理屋でルイは、

「だいじょうぶだから」

と、笑った。そのときは仕事のはなしだけだったが、ルイの笑顔とことばは、ツキコの心配を気づかったものだとわかった。あとでツキコは、この日のことを強く後悔する。見守っている場合ではなかったのだ。体を張って、とめるべきだった。

二日後、ルイは自殺した。

自宅の浴室で、手首を切ったのだ。

そのしらせを聞いたツキコは、倒れた。いくつかはいっていた仕事を、すべてキャンセルしなくてはいけなかった。

ルイの通夜と葬儀には、気力をふりしぼっていった。

ルイには両親と妹がいた。通夜でずっと泣いている妹の声を聞きながら、棺にはいったルイを見た。頬から唇に触れると、硬く冷たかった。それが死を実感させ、ツキコの体を締めあげた。後悔が、胸でたしかなものとなっていた。

葬儀のあとツキコは無気力となり、じぶんの部屋にこもった。カーテンを閉めきり暗くし、壁にもたれて座っている。ルイへのさまざまな思いが頭をめぐり、後悔へと吸いこまれてゆく。日ごとに後悔が大きくなり、のまれてしまいそうだ。

思考がゆきづまるとツキコはよどんだ瞳をあげて、携帯電話をひらいた。メールを見る。それはルイが送った、

最後のメールだった。

〈ごめんね〉

たったひとこと、そう書かれてあった。絵文字もデコレーションもない、黒く細い字だった。

部屋にこもってからツキコは、その短い文字をなん度も見かえしていた。

「ごめんね」

と、小さく読みあげ、ツキコは考えた。ルイはなにを謝ったのだろう。謝るのは、じぶんではないのか。あの男が危ないとわかっていながら、なにもしなかったのが憎い。別れさせられたのは、おそらくじぶんだけだった。

ルイへのやさしさを履き違えなければ、彼女は自ら命を捨てなかったはずだ。たとえ、仲が一時的に悪くなろうとも。

考えが勢いよく噴きあがり、とまらなくなる。そんなとき、ツキコはもう一度、ルイのメールを見る。

〈ごめんね〉

わたしこそ、と思い携帯電話を抱きしめる。すると、大きな粒の涙がつぎつぎと流れてきた。

 

 

セミの鳴き声が、耳の奥まで流れこむ。陽の乾いた匂いに、潮の香りが混ざっていた。いつもの、奥能登の静かな午後だった。

 

档の林をぬけてツキコは歩く。のびる道のさきがゆらゆら歪んで見えたのは、寝不足のせいだろうか。ツキコは防波堤をめざした。

浩史は木の下で、釣りをしていた。青い空と穏やかな奥能登の夏の海も、変わらない。ツキコは浩史の横に座った。

首筋に重さを感じ、海のむこうを見つめていたツキコは、目を細めた。じぶんだけがいつもと違うと思った。周りの光景とは反対に、思考が暗い淵へと静かにおりてゆく。

ルイがいなくなってからしばらくたち、おちついたツキコはプロダクションへ掛けあった。ルイと交際していたあの男を、責めようとしたのだ。

あの男がルイのことをどう思っていたのか、ツキコはしらない。が、男は通夜にも葬儀にもこなかった。ツキコの胸は怒りに満ちていたがそれだけではなく、放っておけばルイとおなじことになる女の子がでてくる心配もあった。

しかし、プロダクションは動かなかった。ルイが命を絶った原因が、あの男にあるとは決められないというのだ。交際で悩んでいたことはたしかだが、遺書もなくそれが直接のものだとは認められない。プロダクションの意見だった。

プロダクションの淡々とした対応に、ツキコは腹をたてた。怒りながらもツキコは、プロダクションがあの男の父親の会社を恐れているのではないか、と考えた。すると、胸に薄い悲しみが広がり、体から力がぬけていった。無力さを感じ、残った怒りがむなしくなった。それ

はルイを失った塊のような寂しさとすぐに結びつき、ツキコの気持ちをおちこませた。

失望が日ごとに強くなり、ツキコはプロダクションをやめた。モデルの仕事もやめ、ふたたび部屋にこもった。

携帯電話を握り、座りこんで考えたことは、なぜか子どものころの思い出だった。

物心がつくと、すでに父と母の仲はよくなかった。ツキコにとって家は、気持ちを暗くし、おちつかない嫌な場所だった。だが、岡野のおばちゃんがくるときは違った。

岡野のおばちゃんは、母のまたいとこである。奥能登の小さな集落、乙波にひとりで住み、美容院をひらいていた。二十代の前半で漁師と結婚をしたが、夫は数年後に海で遭難した。子どもはなく、それからずっとひとりで暮らしている。

おおらかで物事をはっきりという、明るい性格のひとだった。ツキコはおばちゃんがくると、家の雰囲気がよくなると思った。今考えると、おばちゃんのまえで父と母は仲を偽るからだが、ツキコはおばちゃんがすきだった。

おばちゃんは、千葉県に住む弟に会うついでに、ツキコの母のところへきて、泊まっていくことがあった。

ツキコは小学校一年生のとき、おばちゃんと手をつなぎ、二人で街へ食事をしにいった思い出を忘れない。それは、なんでもない出来事だった。しかし、やさしいひとに連れられ、楽しい時間をすごしたのが、険悪な父と母のあいだで暮らしていたツキコには美しい記憶となり、

十年以上たっても覚えている。ひとを信じるここちよさは遠い思い出となっても、ほのかにツキコの胸を温かくする。

重いまぶたをそっとあげ、ツキコはもう一度岡野のおばちゃんに会いたいとたしかに思った。

目の底に浮かんだのは、浩史の姿だった。釣れた小さな魚を、また海へと戻していた。

静かだ。

……。

「絵は描かないの?」

いったというより、ことばが下唇からこぼれたように感じた。だが、ツキコの鼓動に変わりはなかった。浩史も釣りをつづけたまま、動かない。

「描きかけの絵……」

浩史は、ルイの絵を描いている。勝手な想像が、ツキコの中でいつからかほんとうになっていた。

浩史が描けない女のひとの絵と、「だれも命を自由にすることはできない。じぶん自身のでさえ」ということばが、眠れないツキコの頭で混ざりあい、ひとつの形としてできあがっていた。

その絵だけが残っているのは、描いていた女のひとに浩史が特別な感情をもっていたからだろう。だがそれは、未完成である。描きあげなかったのではなく、描けなかった。おそらく、ルイとおなじか似た最期をおくったのではないか。

ツキコは浩史のことばから、そう感じていた。なにひとつたしかめてはいない。いないままツキコの中で、絵の女のひととルイがいつのまにかひとつになっていた。

ツキコは、浩史を見つめた。絵のことを聞いても、浩史の表情に変化はない。静かな奥能登の海を、じっと見ていた。

「絵は……」

しばらくの沈黙のあと、浩史ははなし始めた。その声には張りがなく、小さなものだった。

「対象にいやでも近づく。だから、対象に……」

彼のもっている絵への考えがかえってきたが、ツキコがもとめていたものとは、まったく違った。火花のような怒りがツキコの胸を走った。そしてそれが、

「わたしを描けばいい」

と、いわせた。

力のない浩史の目がゆっくりと大きくなるのを、ツキコは横で見ていた。だが、ふたたび目から力がぬけて、沈黙が流れた。ツキコの怒りもすでに、胸にはなかった。

二人はならんで座ったまま、無言で海を見つづけた。

 

 

客がひとりになると、岡野のおばちゃんは「もういいから、横になっとらっし」と声を低くしてツキコにいった。床を掃いていたツキコは、重い頭をあげて小さく返事をし、そのことばにしたがった。

おとといから、体がだるい。どうやら夏カゼをひいた

らしい。体調がよくなかった。しかし、店の手伝いをじぶんの都合で休みたくはなかったので、ツキコはいつものようにでていた。おばちゃんは心配をし、気をつかってくれる。

ツキコは居間へあがり、横になった。この三日間で、今日がいちばんつらい。そんな日にかぎり、夕方から客が三人もたてつづけにきて忙しかった。どうにか乗り切った安堵とだるさで、ツキコはしばらく、ぼんやりと部屋の天井の隅を見ていた。

ありがとう、という声がして、最後の客が帰ったのをしる。まだ動けないツキコは、初めてすごす奥能登の夏の夜の寒さを思った。

夜中に目が覚めると、肌寒いのである。冷房などかけていない。すこしあけた窓のあいだから落ちてくる風に、たしかな冷気を感じるのだ。東京では考えられない。

ここへきたのは、三月だった。東京でルイのことがあり、モデルをやめて部屋にこもっていたツキコは、死ぬつもりだった。静かなところで、穏やかになりたかった。それをかなえるのは、死だった。生きつづける未練もな

い。しかしよく考えると、ひとつだけ未練があった。

すきだったあの岡野のおばちゃんが住む、奥能登へいきたいと思っていたことだ。小学生のころから考えていたが、東京から奥能登は遠く、ひとりでいける場所ではなかった。仕事をするようになると、時間がとれなくなった。

仕事をやめると、時間ができた。いきかたもわかる。いけるのは、今だけだ。

そう考えながらツキコは、すでにしたくを始めていた。

だがそれは、暗く狭い気持ちの中からはいあがった結果ではない。ツキコはその気持ちの底に、自殺願望が居座っているのをしっていた。

奥能登へいき、岡野のおばちゃんがじぶんの思っているおばちゃんと変わっていたならば、冷たい海へはいるつもりだった。

ツキコは東京での生活をすべて処分し、奥能登へむかった。

のと鉄道の終着駅である、穴水という町に着くと、金沢で降っていた雨が雪に変わっていたので、ツキコは驚いた。それはツキコがしっている、白く軽い美しいものではなかった。北陸の象徴的な重い曇り空から落ちてくる雪は硬かく、濃かった。

手の甲に落ちた雪は、肌の上で冷たい筋となり、垂れていった。奥能登は三月でも寒かった。

穴水駅から海岸線にある乙波という集落へは、バスが走っている。穴水より奥、珠洲市までつながっていた路線は、おととし廃線となったらしい。

客が三人しかいないバスに乗る。窓から見る景色が、ツキコには白黒に見えた。すべてが暗く、空気の流れを感じさせない。

不安でもあった。おばちゃんには、まえの日に一度、連絡をしただけだった。電話の声は元気だったが、会うまでわからないと思っていた。

おばちゃんは、停留所まで迎えにきていてくれた。乙波に近いそこでは、ツキコひとりしか降りなかった。おばちゃんは大きな声でツキコを呼んで、手をとった。

「なん年ぶりやいね。きれいになって」

皮膚が厚く硬いおばちゃんの手から、やさしいぬくもりがツキコの指につたわった。

停留所からおばちゃんの家は川に沿った道を進み、海岸線と交わるところへでて、北に歩くとあった。美容院と住居がいっしょになった、木造の小さな家だった。

居間へはいり、ツキコとおばちゃんはこたつでむきあって座った。二人はしばらく黙っていた。

ツキコの胸には、おばちゃんに会うまでの心配がほとんどなくなっていた。が、心が晴れなかったのは、死への思いがまだ底で生きていたからだ。それは、ツキコが思っていたよりも大きく深いものとなっていたのだ。

ツキコは驚きで、口がひらけなかった。

「ツキちゃん」

ツキコにもだされた茶を一口飲むと、おばちゃんがいった。

「なあんも、聞かんよ。あっちでなにがあったんがか」

ツキコは初めて顔をあげた。おばちゃんのくぼんだまるい目が、じっとこちらを見ている。

「気持ちがよくなるまで、ここにおらっし。なんもないけどね」

そういうと、おばちゃんの目と口の端から力がぬけた。

そのことばと笑みで、ツキコは心が軽くなった。すると鼻の奥が冷たくなり、のどから腹へおちてゆくのを感じた。意識してまばたきを二度すると、涙がでそうになった。

ツキコは、なぜじぶんが泣こうとしているのか考えた。

納得のゆくこたえは、すぐにでてこなかった。ただ、

「ありがとう」

と、いうしかなかった。

それから、半年がたとうとしている。ツキコは岡野のおばちゃんの家に住みこみ、店の手伝いをしてすごした。

奥能登は退屈だった。遊ぶところもすくなく、夜も驚くほど早い。そして、若者がいない。多くが職をもとめて、金沢市や都会へとでていく。

だが、静かだ。聞こえてくるのは、波と林の木が風で揺れる音くらいだ。

ツキコは奥能登に住んでから、周囲をよく見るようになった。夢のつづきかと疑うほど広くのびた朝靄や、昼間のまぶしい海と空、夜の闇の濃さなどが思い浮かぶのは、きっと奥能登の時間がゆっくりしているからだと、ツキコは思う。

まとまりのないそんなことを考えていると、ドアがあくのを感じた。新しいお客さんがきたな、とツキコは思った。かたづけをしていたおばちゃんが近づいていく。いつまでも寝ているわけにはいかないと、体を起こそうとする。

おばちゃんの様子が、違った。いつもの元気のいい声が聞こえない。ドアのまえにたったまま、はいってこようとしない客と低い声で、なにかをはなしていた。

それでもツキコが上半身を起こすと、おばちゃんが居間のあがりくちへきて、

「ツキちゃん、浩史さんやわ」

といった。背筋がのびたツキコにおばちゃんは、

「釣った魚をもってきてくれたんや」

バケツを見せた。中では手のひらほどの大きさの魚が五匹、静かに泳いでいる。ミュールをつっかけ、ツキコはドアのまえへ進んだ。浩史はドアのうしろで、隠れるようにたっていた。

いつも、防波堤の木の下で釣りをしている姿しか見ていないので、視線がほとんどおなじたかさにある浩史が不思議に思えた。

「ありがとう」

ほほ笑むツキコに、浩史の表情は変わらない。目をすこしおとし、黙っていた。

まだ明るい陽に、暮れようとしている匂いを嗅いだ。ツキコはそれに、夏のおわりを感じた。セミの鳴き声が、遠い。

奥能登の短い夏がおわろうとしている。

「絵を描きたいんです」

ツキコを驚かせた浩史の声は、ひどく小さなものだった。

目をむけると、浩史と目があった。力のない眠そうないつもの形の奥にある瞳に、わずかな光を見た。ツキコの胸が揺れる。

「あなたの絵を描きたい」

たしかな浩史のことばだ。ツキコの胸の揺れが大きくなる。視界の焦点が定まらなくなったのは、体調のせいではない。さまざまな感情が複雑にからみあって、ツキコの体の内で暴れ始めた。行き場のない衝動をおさえながら、たっているのがやっとだった。

 

 

路肩から、虫の鳴き声が聞こえる。ツキコは夜道をひとりで歩いていた。

乙波の集落の背となる山の中腹に、寺はある。そのまえを走り街へとつづく県道を、ツキコは進んでいた。夜の八時もすぎると、ひとも車もめっきり通らなくなり、静かだ。海から流れてくる風には、まだ夏の気配はあったが、虫の鳴き声を含む山の空気には秋が感じられた。

ツキコは歩いた。歩きながら、釣った魚をもってきた浩史を思いだす。あれはおそらく、生きると決めた浩史の気持ちだろう。

そのときツキコはそれを、とっさに考えたわけではない。ただ、本能的に断ってはいけないと信じ、うけた。

浩史は、夜に本堂へきてほしいといった。ツキコはそこへむかっている。

ひとすじの風が、ツキコの頬の上をすぎていった。ツキコはたちどまって、顔をあげる。道は集落と寺とのちょうどあいだくらいであった。

空は晴れて雲がひとつもない。白い月が浮かんでいた。やさしい光が地上を照らす。

ツキコは絵を描かれることで、じぶんは生きてゆける

と思った。それは、絵を描くことで生きる浩史を思うからだ。と同時に、描かれようとした女性、ルイも生きる。ツキコの中で、ツキコといっしょに生きてゆく。

ツキコは、ふたたび歩き始めた。月の光で夜道が青白くのびている。

2010年8月8日公開

© 2010 久川茲郎

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