新編武蔵風土記稿(埼玉編)

しょうだまさとも

ルポ

3,158文字

参照(研究)の用に供するため一部公開(引用) – Copyright 1825 TOKUGAWA BAKUFU

新編武蔵風土記稿(埼玉編)

足立郡(wikipedia)
文化7年(1810年)編纂に着手 徳川幕府(林大学頭) 文政8年(1825年)に作業を終え、その後、改訂を加え文政11年(1828年)に完成した。
明治17年 内務省地理局 内務省地理局が初めて原文を和とじの活字本に直して、全80册で刊行せり。
三次以降 現行版元 数種の著名な出版物があります。
昭和63年(1988年)埼玉編が出版 千秋社(三次利用) 内務省地理局の刊行したものの内、埼玉県内該当の15の郡に関する記録137巻分を『埼玉編』として、全4巻にまとめた復刻版である。

参照(研究)の用に供するため一部公開(引用) – Copyright 1825 TOKUGAWA BAKUFU

【モチベーション】文蔵は土着の現住所、足立郡界隈は、かつて浦和の百姓らが板橋の市場に野菜を売りに行く(行商)際の立寄り先として、(中仙道沿いに)縁組をすすめた土地柄です。浦和、戸田、川口あたりに親戚筋の方々が多い訳です。


オンライン資料収集制度│オープン・データ│DATA GO JP│オープン・ガバメント│

Adobe Readerをダウンロード(別ウインドウが開きます) PDFファイルをご覧いただくためには、Adobe Reader5.0以上のプラグイン(無償)が必要となります。お持ちでない場合は、Adobe社のWebサイトよりダウンロード、インストールしてください。

新編武蔵風土記稿巻之一百四十二目録(足立郡之八)

目次 浦和宿 003 004 岸村 調神社 調神社園挿絵 調神社園挿絵(jpg) 別所村 白幡村 010 011 根岸村 013 辻村 015 文蔵村 文蔵二階堂百姓中 芝村 019 020 021 伊苅村 大谷場村 小谷場村 025 道租土村 元太村 巻之一百四十二終


新編武蔵風土記稿巻之一百四十一目録(足立郡之七)

上戸田村 002 003 {(上戸田村の)惣五郎氏を金子と唱ふ本姓は桃井氏にて播磨守の子孫なりと云或は…}下戸田村 005 新曽村 妙顕寺 日蓮宗 009 横曽根村 011 上青木村 013 014 古琴挿絵 下青木村 017 里村 019 西新井宿村 021 前川村 023 024 塚越村 蕨宿 027 三学院 029 030 031 巻之一百四十一終


新編武蔵風土記稿巻之一百三十五目録(足立郡之一)

001 総説 003 正保年中改定図(右) 正保年中改定図(中) 正保年中改定図(左) 元禄年中改定図(右) 元禄年中改定図(中) 元禄年中改定図(左) 010 011 012 013 014 015 016 017 018 019 020 021 022 023 024 巻之一百三十五終


新編武蔵風土記稿巻之一百三十三目録(新座郡之五)

目次  田島村 田島村眺望図 田島村眺望図(jpg) 田島村新田 011 012 013 


大日本地誌大系新編武蔵風土記稿例言 001 002


新編武蔵風土記稿首巻例義 003 004 005 006


新編武蔵風土記稿首巻総目録

豊島郡・葛飾郡・荏原郡 荏原郡・橘樹郡・久良岐郡・都筑郡 都筑郡・多磨郡 多磨郡・新座郡・足立郡・入間郡 入間郡・高麗郡・比企郡・横見郡・埼玉郡 埼玉郡・大里郡・男衾郡・幡羅郡・榛澤郡・那賀郡・児玉郡・加美郡・秩父郡 秩父郡(目録終)


新編武蔵風土記稿巻之一 総国図説 総国図(JPEG) 総国図(PDF右) 総国図(PDF左)


日蓮宗

足立郡界隈には、元々日蓮宗の勢力が根付いている様です。お寺(に関する記述)を調べればよくわかります。何となく謎が解けてきました。民草の民衆(政治)運動の様相を呈しておりますが如何でしょうか。

「新曽(にいぞ)妙顕寺」


高札場

江戸の時代には、どこの村にも「高札場」という「お上」からの「お知らせ」板が設置されていた様です。


文蔵二階堂百姓中

日蓮宗、荏原郡池上本門寺末、、妙吟山實相院と号す。開山開基ともに二階堂氏なり。二階堂右衛門督資朝は、小田原落城の後旧地たつによりて、郡内文蔵村へ落来り、そこに住すること十余年、其頃当所は荒川次郎九郎が采邑たり。この人資朝に縁あるをもて、資朝夫婦を当所へ招き本丸といふ地に居らしむ。しかるに往古より爰に實相庵といへる庵の跡あり。傍に天文7年12月9日妙蓮、弘治3年4月9日妙信とありし古碑二基あり、これ何人なるは傳へざれど、かかる佛道有縁の地なれば、一寺を建立なさんとて、資朝夫婦共に遁世して佛門に入り、当寺を草創して妙吟山蓮昌寺と号せり。これ慶長17年のことなり。因て實朝をもて開山開基とせりと。このこと郡中文蔵邑にも傳へて、既に古文書等にもあれば、たしかなることとは知らる。境内は松杉繁茂し殊に堅固の地なれば、往古塁跡なりしを二階堂氏の居地となせしも知るべからず。
鐘楼。
三十番神社、稲荷社、七面社。
二階堂右衛門督及妻女之墓。二基ならび立てり。資朝が墓には華光院殿蓮昌日性二階堂資朝、寛永16年卯12月27日とあり、又妻女の墓には妙光院鈔鈷日経、寛永15年寅2月28日と彫れり。

日蓮宗、荏原郡池上本門寺末、妙吟山實相院ト号ス。開山開基トモニ二階堂氏ナリ。二階堂右衛門督資朝ハ、小田原落城ノ後旧地タツニヨリテ、郡内文蔵村ヘ落来リ、ソコニ住スルコト十余年、其頃当所ハ荒川次郎九郎ガ采邑タリ。コノ人資朝ニ縁アルヲモテ、資朝夫婦ヲ当所ヘ招キ本丸トイフ地ニ居ラシム。シカルニ往古ヨリ爰ニ實相庵トイヘル庵ノ跡アリ。傍ニ天文7年12月9日妙蓮、弘治3年4月9日妙信トアリシ古碑二基アリ、コレ何人ナルハ傳ヘザレド、カカル佛道有縁ノ地ナレバ、一寺ヲ建立ナサントテ、資朝夫婦共ニ遁世シテ佛門ニ入リ、当寺ヲ草創シテ妙吟山蓮昌寺ト号セリ。コレ慶長17年ノコトナリ。因テ實朝ヲモテ開山開基トセリト。コノコト郡中文蔵邑ニモ傳ヘテ、既ニ古文書等ニモアレバ、タシカナルコトトハ知ラル。境内ハ松杉繁茂シ殊ニ堅固ノ地ナレバ、往古塁跡ナリシヲ二階堂氏ノ居地トナセシモ知ルベカラズ。
鐘楼。
三十番神社、稲荷社、七面社。

二階堂右衛門督及妻女之墓。二基ナラビ立テリ。資朝ガ墓ニハ華光院殿蓮昌日性二階堂資朝、寛永16年卯12月27日トアリ、又妻女ノ墓ニハ妙光院鈔鈷日経、寛永15年寅2月28日ト彫レリ。

北条小田原が落城し、荏原郡から足立郡まで落ち延びた二階堂夫妻は、文蔵村に住み着きました。駒場村にあった庵の跡に由縁を感じ、夫妻共に出家?(遁世して佛門に入り)、慶長17年(1612年)、蓮昌寺を創建したと伝えられます。


北足立八十八ヵ所霊場の58番札所 薬師堂さいたま市南区文蔵4-7-5

浦和六辻水辺公園のすぐ近くに文蔵の薬師堂が在り、(75番文蔵の)不動尊は此処に移されている様である。
門の中に入ると、正面にお堂が在る。向かって右には大きな「殉国英霊の碑」が有って、本堂の両脇はかなり広い墓地になっている。昔、文蔵がまだベッドタウンと化す前、界隈には変質者が出没したものだった。
常駐用務員が居り、駐車スペース(舗装)、水道場、ゴミ捨て場が管理されている。
本堂の前にさい銭箱が有り、その脇の段を上って中に入ると、中央に薬師如来、向かって右に不動尊座像、左には地蔵尊が鎮座している。扁額は見通しが悪い。きっと何かの意味があるのだろう。
不動尊は元々此処にあったものではない。前述の通り、近くに在った不動尊と地蔵尊が、此処に祀られているのである。
一分も歩かない近くの場所に、元々不動堂のあった三百坪程の墓地が在る。現在は、マンションと駐車場と一戸建て住宅に囲まれている。私が子供の頃(30年前)、近くを流れる水路には雷魚が泳いでいた。
江戸の時代の昔(安政時代)、文蔵不動堂は此処にあった様だ。かつてこの区画に隣接して町田氏が住んでおり、屋号は「堂の前」だった。


(さいたま市南区)南本町

現在の南本町は、御料地でした。雉場だった訳ですね。大谷場氷川神社(どんぐり山)にその名残を認めます。


以上、『新編武蔵風土記稿』からの引用(資料写し)おわり – Copyright 1825 TOKUGAWA BAKUFU

2015年9月24日公開

© 2015 しょうだまさとも

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"新編武蔵風土記稿(埼玉編)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る