「トゥルーマン・ショーと手塚治虫と虚構と現実の差」

消雲堂

エセー

1,359文字

虚構と現実の差がよくわからなくなっている最近の自分です。

手塚治虫という漫画家が天才だと思ったのは彼のライフワーク「火の鳥」を読んでからでした。それに、もうひとつ…作品名は忘れましたが、火の鳥に劣らない傑作短編があったのです。”世の中はすべて作り物で、それに気がつかない主人公が偽りの家族や社会のなかで生活していることに…ある日突然として気づく…”という物語なんですが、実は僕はこの作品を読む前から、僕の家族も学校の友達も毎日歩いている町も何もかもが作り物で、もしかしたら無意識に芝居を演じていて、誰かが(もちろん神や造物主と言うことでしょうね)それを観て楽しんでいるんじゃないか? と思っていたのです。だって、自分の世界観でしか物事を判断できないんですからね。僕の目で見る、僕の耳で聞き取ることしか生きている実証にならないのですから…。普通の人間はその目や耳からの入力情報を自意識で最適化できるのですが…。

犯罪者なんかは、おそらく「自分の目や耳で得た情報を最適化できずにそのままをとらえてしまう」ために平気で人を傷つけたり殺したりできるんだろうなぁと考えていたのです。

 ジム・キャリーの「トゥルーマン・ショー」を観ていると、手塚さんの漫画を下敷きにしたんじゃないか? なんて思えてしまいます。いや、手塚さんの作品が書かれた年がはっきりしませんが、1959年に発表されたフィリップ・K・ディックの「時は乱れて」(未読です、ネットを参照しました)も同様の物語もあります。もしかしたら誰でも考えることなのかもしれません。

トゥルーマン・ ショーの主人公であるトゥルーマンは、生まれたときからセットである街中で生活しています。日々関わってくる人々や取りすがりの知らない人まで全員が俳優なのです。ところが空から撮影照明が落ちてきたり、街中で幼いときに死んだはずの父親とバッタリ会ってしまって…周囲の人間たちに不信感を抱くのです。愛する奥さんにも疑念を抱いてしまいます。生まれてから一度も出たことがない街を出ようとすると、放送局の指令を受けた人々によって寄ってたかって邪魔をされてしまって出られないんです。トゥルーマン・ショーはドキュメンタリーライブ番組なんですね。

放送を見ている人々はトゥルーマンの一挙一動に驚喜したり感激したり…よく考えればこの人たちも不幸です、日々の生活に疲れて楽しみはテレビしかないようなんです。映画やテレビが大衆の娯楽だった時代を皮肉っているようでもあります。

手塚さんの漫画では外国にも出かけられるのですが、移動中は睡眠薬で眠らされ(記憶が間違っていたらごめんなさい)現地に到着しても全てがセットなんですよ。あれはおっかなかったなぁ。

犯罪者は自分の目や耳からの入力情報を最適化できないと書きましたが、犯罪者も普通の人も同じ狭小な運命共同体に生活しているわけです。同じ場所で同じ時間を共有しているわけです。現実は虚構よりも恐ろしいのです。

よく考えたら、僕たちは神と呼ばれる何者かに全て決められた道を歩まされて面白がられているのではないか? なんて今でもたまに思ったりします。現実では昨年から今年初めにかけて義父が死んでも実の母親が死んでも世の中は変わらない。僕だって多少の感傷に左右されましたが、もしかしたらそれだってバカバカしくも誰かが面白がって観ているのかもしれません。

2015年9月29日公開

© 2015 消雲堂

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