【新釈】杜子春

近江舞子

小説

4,837文字

男は仙人なりたいと願っていた。徳を積もうと試行錯誤してみたが、どうにもならない。そこへ老人が現れ「仙人への道」を教授してくれるという。男は老人の導きに従い仙人になる修行を始めるのだった。

「仙人になりたい」と男が思ったのはそう遠い昔の話ではない。

仙人になりたかった。具体的にどうするのが仙人なのかわからないが、とにかく徳の高い者になりたいと男は考えていた。

仕事をすることに疲れ果てていたので、とりあえず会社を辞めた。悠々自適の暮らしをできると思ったものの、男にはこれといって趣味がない。紙と鉛筆さえあれば容易に始められると思って小説を書こうと試みたが、一向に筆が進まない。三枚も書かないうちに原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてしまった。ちなみにその物語で主人公は一言も発しないまま、山だの川だのが季節が美しいというありきたりな風景描写だけで終わった。

それから、男はおしゃれが好きだったので、毎日のように渋谷界隈に出かけ、ファッションアイテムを買い漁った。値札には目もくれず衝動に任せて次から次へと。すると、当然の事が起こる。仕事をしているときに蓄えていた預金はあっという間に底をついた。このままでは家賃を払うことはおろか、明日の食事にまで困るところまで落ちぶれてしまった。あるのはタンスの肥やしばかり。アルバイトをする気も起こらなかったので、古本と古着を売って、いくらかのお金を得た。一か月程度は持つだろうが、それ以降は飢え死にするだろう。

男はそれでもよいと思った。この人生で何も成しえなかったことに、ほとんど諦めはついていた。しかし、かすかに心の底に何か、何か名を残したいと思っていたのも確かだ。くすぶった情熱が沈殿していた。淀んだままに。

いつか呑めない煙草を始めた。最初こそ肺に入れるときむせて閉口したが、有害成分が血に混じって体中に行き渡り、倦怠感が訪れるのをおもしろがってスパスパ吸うようになった。男の体のどこにも煙臭い匂いが染み付く。

肌寒い日に公園のベンチに腰掛け、その日も煙草に火を点けた。紫煙が立ち昇る。木の葉がすっかり落ちきった背の低い植え込みのほうを眺めていると、軍手をした壮年の男性がゴミ袋を持って歩いているのを男は見止めた。アスファルトの上に転がっている空き缶を拾っている。彼はボランティアで清掃活動をしているのだ。連れ立って同じ歳くらいの女性もゴミ拾いをしている。時折何か言葉を交わして、清掃活動に勤しんでいる。どこか誇らしげでもある。

これだ、と思った男はフィルターすれすれに短くなった煙草を携帯灰皿にねじこむと、家に急いで帰った。そして、家に着くとすぐさま台所の上の収納棚からゴミ袋と軍手を取り出し、また急いで外に駆け出した。

「ゴミを拾おう」

住んでいるマンションの階段から既にゴミは落ちていた。煙草の吸殻だ。それを皮切りに男は一心不乱に落ちているゴミを拾った。この手で住む町を徹底的にきれいにしてやろうと思った。ゴミ一つ無い美しい町に作り変えてやろうと息巻いた。

マンションの敷地を出てすぐにある遊歩道にはダンボールの切れ端やら古雑誌やらパンの袋やらが二、三落ちていた。穏やかな町の景観をいかにも汚していたため、男は憤慨した。

「恥知らずめ」

心の内で見知らぬ人間に憎悪の言葉を浴びせた。この美しい世界をなんだと思っている! 罰当たり!

一時間ほど歩き回ると、ゴミ袋はいっぱいになっていた。男はそれを見ると、疲れと悲しみを新たに覚えて帰宅した。ベランダで袋の中のゴミを分別しなおす。燃えるゴミ、燃えないゴミ、ペットボトル、カン、ビンなどなど。三十分ほどで作業は終わった。

男は晴れやかな気持ちになるだろうと期待していただけに、達成感のなかったことにがっかりした。この公共への奉仕が腐った心を洗い流してくれると思っていた。果たして、望みは叶わなかった。

男は念入りに手を洗ってから熱いシャワーを浴びた。石鹸をよく泡立てて全身をくまなく洗う。熱い湯煙の中で顔をこすりながら男は思った。自分はこのまま何者にも成れないのだろうか、と。頭上から流れ落ちる湯の中に、彼の涙が少し混じった。

だが、もう次の日にはゴミ拾いのことなどすっかり忘れ、公園のベンチでいつものように煙草を吸っていた。尚も空虚さが彼の胸を支配していた。彼は全然生きていない。生命の匂いがしない、亡骸のようだった。

今日もやることがない。そこで思い立って図書館へ行くことにした。道すがらの駅で献血を呼びかける大音量の声を聞いた。これだ、と男は思った。図書館へ行くのをやめ、まっすぐ献血所へ足を向けた。落ち着いた雰囲気の待合室には十数人の待機者がいた。受付で必要事項を記入し、ソファに腰掛け順番を待つ。数分後、男は名を呼ばれ、問診室へと通された。

……結果、男は献血ができなかった。今服用している薬のせいで献血は不可なのだという。

男は肩を落とした。自分はこれっぽっちも人の役に立てないのか。人命に直接関わることで奉仕できると思ったのに。そして、そんな自分に満足ができると思ったのに。自分は血の一滴も人に分け与えられないのかと、己を惨めに思い、とことん恥じた。

気の抜けたまま、とぼとぼ家路を歩む。足取りは重く、心も沈む。

冬の始まりにふさわしい寒さが男の体を包む。上着を羽織っておらずカットソー一枚の薄着だったため、余計に寒く感じる。

落ち込んだ気持ちを支えるように、いつもの公園のベンチに腰掛けた。

煙草に火を点ける。甘いチェリーの香りの煙が立ち昇る。男は左手を握ったり開いたりして、自分の存在を確かめた。静脈の幾筋かがはっきりと浮かび上がって見える。自分は生きている。死んではいないのだと男は感じる。だが、それだけでは物足りない。そのままぼんやり手首を眺めていると、日焼けをして黒い肌をした白髪の老人が隣に座った。浮世離れをした雰囲気をまとっている。

老人は前のめりになり、目やにのついた目で男に視線を合わせた。

「君、仙人になりたくはないか?」

唐突な問いかけに男は戸惑った。仙人、と。自分のほかにその言葉を口にする人がいることに驚いた。不思議に思った男は固く手を握り締め、用心深く尋ねた。

「仙人というとどんなものですか?」

「仙人は仙人だよ。他の何者でもない」

老人の答えは意味の通らないものだった。自明のことだと言いたいらしい。わかりかねた男はしかし、それ以上深く聞くことができない。視線を泳がせ緊張していると老人は言葉を続けた。

「このまま何者にも成れなくてもいいのか?」

男は己の悩みを言い当てられて押し黙った。そう、仙人でもなんでもいいのだ。現状の自分とはまったく違った、自分ではない何者かになりたかった。男は胸が熱くなった。

「もう一度聞こう。仙人になりたくはないか?」

男は老人の言葉を反芻した。仙人。仙人。

人にあらざる人。人の極み。

何もない自分が価値ある者に変われるかもしれない。心にすうっと清清しい風が吹いた。

「僕は仙人になりたいです」

それはもうほとんど本能だった。論理では説明できない直感。この老人には不思議な説得力がある。あの短い言葉だけだというのにもかかわらず。まるで、仙人そのものが語りかけてきているように男は感じられた。

「そうか、よし」

老人はふさふさのあごひげをさすって、うんうんとやさしい笑みを浮かべてうなづいた。

「ならば、わたしと約束をしてもらおう」

シワシワの右手を男の目の前に差し出し、軽く握った状態から小指を一本立てる。

「どんな苦難が君に襲い掛かろうとも、声を出してはならない。声を出せば、二度と仙人になれない。いいかい?」

男は小指を交わし、誓った。

「はい。どんなことがあろうとも守り通します。きっと」

男の未来は約束された。自分は仙人になるのだと確信した。

「では、さっそく行こうか」

老人は立ち上がり、草の生い茂るほうへと歩いていった。男も後を付いて行く。

気がつくと辺りにはもやが立ち込めていて、幻妖な雰囲気の空間になっている。男が急に不安になって立ち止まり後ろを振り向くと、そこは既に公園ではないどこかであった。なんだか地球上には存在しない場所のような気さえした。

そんな男の不安も気にせず尚も老人は歩みを進める。男ははぐれないように追いつき、早足で歩いた。

進んでいくにつれて寒さが深まる。日本を急速に北上していくかのように。

草木は消え、地面から土は失せ、空の青も見えなくなったところで老人の足は止まった。男は身構えて老人の背後にぴったり立ち止まる。そして、老人の言葉を今か今かと待った。老人は「ふん」と軽く声を出してから男のほうに振り向いて言った。

「この岩に座ってもらおう」

そこには岩どころか小石すらもなかった。しかし、ズボンのポケットから小さな粒のようなものを取り出して足元にひょいと投げると、瞬く間に人が一人座れる大きさの岩に変化した。

男はその魔術に驚きつつも「はい」と首を縦に振って岩の上にあぐらをかいた。

「これから君に色んな災厄が訪れるが、どんなことが起ころうとも声を出してはいけないよ。いいかい?」

「はい。必ず」

男のその答えを聞くや否や、老人は煙のようにふっと姿を消してしまった。そして、男の周りには闇が現れて見渡す限り真っ暗になった。

男には時間の流れがわからなかったが、それから一週間何も起こらなかった。水も飲めず、食事も与えられず、腹は空いて、眠ることもできなかった。

男が飢餓に苦しんでいると今度は四方から針の束が迫ってきた。男はぎょっとして目をつぶり、きっと口を結び肌に突き刺さる痛みをこらえた。腕から、背中から、顔から、血が滴り落ちる。顔が苦痛に歪む。

次に、どこからともなく水が湧き出てきた。湯気が立ち昇っている。あっという間に男の首まで水位は達した。風呂の温度よりはるかに高い熱が男を苦しめた。口を開けあえぎそうになったが、歯を食いしばりこれもなんとか耐えてみせた。

長く続いた灼熱の水攻めが終わると、湯はたちまち消え、冷たい風が吹いてきた。そして、小さな白い粒がちらほらと舞い落ちる。雪だ。男が上を見ると暗い雲が天を覆い尽くしていた。途端に雪が猛烈な勢いで降ってくる。息は白く、男は身震いが止まらない。指先までかじかむが、息をかけることすらままならない。身を抱きしめ、凍る寒さに顔を引きつらせる。それが丸一日続いた。もうほとんど男は死にかけていた。生命の糸が切れる寸前だった。それほどに苦痛に耐え、声を封印していた。

あらゆる肉体の痛みに耐え忍んだ男の前に、年老いた女の姿が映し出された。遠く離れたところに暮らす男の母だ。男は痛みを忘れて懐かしい気持ちでいっぱいになった。

男の母が台所に立って料理をしている。男がしばらく苦痛を忘れていると、母の後ろに男を導いた老人がいる。手には刀を持って。

すると、次の瞬間、男の耳に老人の声が聞こえた。

「君の母には死んでもらう。これも仙人になるためだ」と。

男はただでさえ苦痛で色を失った顔がさらに蒼白になった。

そして、老人が刀を振り下ろそうとするそのとき、男は思い出した。芥川龍之介の『杜子春』を。

「やめてくれ。お母さん」

精一杯の声を振り絞って叫んだ。

だが、無残にも刀は振り下ろされた。男の母親は大量の血を流して、どさりと倒れた。

男は声が出なかった。涙が溢れて止まらない。歯ががちがちとなって震えた。

老人がにいっと笑うと同時に、辺りはぱっと元の公園に戻った。男が周囲を見回すと背後に老人が立っていた。

「君はわたしとの約束を破った。声を出してはいけないとわたしは言っただろう。君は仙人にはなれない」

男は愕然とした。母を失い、仙人にもなれない。芥川ならここで仙人になれたのに……。

「もう一度だけ挑戦する機会をあげよう。どんなことがあろうとも声を出してはいけないよ」

男は呆然としていたが、もう何も残されていない彼はやるしかなかった。そして首を縦に振った。

老人が刀を持って男の前に立った。男は目を見開く。

次の瞬間、その刀で老人は男の首をはねた。男の顔が地面を転がる。

「よくやった。君は立派に約束を果たした。君の墓には『仙人』の名を刻んであげよう」

2010年9月7日公開

© 2010 近江舞子

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