逆行の盆(前編)

佐藤

小説

7,640文字

雷に打たれて死んだ男が生き返った。見たところ、特に変わった様子はない。しかし、「生から死へ」という自然の摂理を逆行した彼を待っていたのは、不思議な出来事だった。不気味さとおかしみの同居する、ユーモレスク。

私が死んだのは雨の日だった。濡れた街の匂いを覚えている。嵐を見るとかえって出かけたくなるという、おかしな性格が災いした。最後に私の脈をとり、死亡を確認したT医師によれば、通りかかった街灯に雷が落ち、感電の衝撃で心臓が停止したそうである。その瞬間を私は記憶していない。覚えているのは、水木しげる先生の「神秘家列伝」で読んだ、スウェーデンボルグという科学者が旅したという、巨大な人間のかたちをした霊界にそっくりなイメージと、そこから次々に飛び出してくる人たちのことだけである。彼らが霊魂だということは直感で理解できたが、どうして彼らが次々と霊界を抜け出て飛んでくるのか、という謎は、生き返ってみるまで解けなかった。とにかく、「ひょっとして自分は死んだのではないか」、という危惧にかられていた私は(実際のところ死んでいたのだが)、霊界のある方とは逆の方向に群れを成して向かう人々の行列に紛れこみ、どこをどう通ったのか知らないが、どうにか病院の霊安室で静かに横たわる私の肉体の傍までやってくることができた。落雷に遭ったのは不運だったが、肉体に殆ど損傷が無かったことを考えると、死因が落雷だったことはむしろ幸運だったと言えるかもしれない。霊界へと続く道を逆行し、生還を果たした私は、ベッドから起き上がるとまず、何はともあれ家へ帰ろうと思い、そのへんにあった患者用と思われる甚平を拝借して裸の体を隠し、病院を出た。すぐ脇の墓地の前を通りがかったとき、献花や供物がやけに多かったので、そこでようやく、お盆の時期だということに気が付いた。霊界から現世へ群れを成して向かってくる霊魂たちのことも、合点がいったのである。

生き返りという事件、それ自体による周囲への波紋は、結論から言うと、字数を割いて語るほどのドラマは生み出さなかった。八戸にいる両親が危篤の知らせを受け、何を迷ったか病院より先に私のアパートを訪れたとき、既に私が帰宅していたことは、目立つことが嫌いな私にとっては幸いな偶然であった。ひと悶着あったものの、既に連絡の伝わってしまっていた幾人かの親類へは、両親からの「人騒がせな馬鹿息子」の一言で説明がついた。病院へは、「体調が良くなったので帰った」という電話の一言で片がついたので拍子抜けであった。あとで甚平を返しに言ったら、死んでいた私を看たという、きれいに禿げ上がって腰の折れた老T医師が出てきて、確かに心肺停止していたように思ったが誤診だった、と言って詫びた。誤診が表沙汰になれば面倒が起こるから、どうか内密にして欲しいと言うので、こちらも面倒は御免ですからと言った。老T医師とは何故か気が合い、それから懇意にさせていただいている。

私の身に起こった奇跡と、背景と、その前後の出来事は、以上をもって語りつくした。ここまでに重要な話は殆ど無い。「一度死んで生き返った」と要約してしまっても、本題を語るにあたり何ら支障は無いのである。本題とは、生き返ってからの私がいかに生きているか、である。

生まれて、死んで、霊界へ行く、という人の一生の道理を、私は逆行した。逆行した勢いというものなのか何なのか、生き返ってからの私の頭や体は、色々なところが逆の筋道を辿るようになってしまっていた。私はもともと読書の趣味があり、落雷で死ぬ前までの一箇月程は太宰治先生に凝っていて、新潮文庫を端から読んでいた。生き返って暫くはごたごたして読書どころではなかったが、十日も経って落ち着いた頃、ふと「お伽草紙」という小説を読み止しだったことを思い出した。部屋のソファに体を横たえ、肘掛けを枕にして本を胸の上に置くのがいつもの姿勢なのだが、舌切雀から読みはじめたところ、どうもすっきりしない。もどかしい。文脈が素直に飲み込めなくて苛々するし、何故だか妙な罪悪感がある。おかしいので、本をひとまず閉じて、深呼吸をひとつして、何が気に入らないのか自分自身と問答したところ、どうやら自分には、このさき話がどう展開するのか、登場人物に何が起こるのか、そしてどのように完結するのかすら分からずに冒頭から読み始めるという読み方が、不整合で落ち着かないようなのだ。そこで、舌切雀のおしまいのページを開いて、結びの一文を読む。次にひとつ前の一文を読む。なるほど、まず結論があって、次に経緯を述べるという構成であれば、実に安心して読め、文脈が旋律のように頭に流れ込んでくる。しかし、舌切雀に関しては、図らずも冒頭にある事の発端の部分を読んでしまっていたたため、肝心のところを知ってしまい、興味が失せてしまった。結局、舌切雀は結びと冒頭と読んだきりであった。

映画鑑賞も趣味であった。仕事の帰りに暑かったので、夜は怖い映画でも観て涼もうと、駅ビルのTSUTAYAでショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」をレンタルした。寝る前にビデオデッキに挿入(うちにはまだDVDプレイヤーが無いのでVHSテープである)して再生ボタンに手を触れかけたが、はたと手を止め、かわりに早送りのボタンを押した。以前の小説のことを思い出したのである。おかげで今度は成功した。おしまいから巻き戻しで鑑賞するサスペンス映画は、始めに結論、次に経緯、最後に前提が来るという論文にも似た構成で、理路整然として実に分かりやすいものであった。おしまいから巻き戻しながら鑑賞する方法には、字幕付きの作品でないと筋書きが殆ど追えないこと(したがって邦画はもう楽しむことができない)、また映画館では貸切でもしない限り鑑賞出来ないという問題があるが、一度死んだ身の自分が世の理に逆らって生きているのであるから、娯楽があるだけ良しとしなくてはなるまい。わがままを言ったところで、世の理のほうを捻じ曲げることは出来ないのである。

小説や映画の結末を先に知りたがるという性質は、生き返ってからの私に限ったものでは無いかもしれない。普通に生きている方のなかにも、そういう性格の方はいるだろう。しかし私の逆行する性質は、小説や映画に限ったことでは無い。例えば寝ると疲れる。起きていると疲れがとれる。朝起きて夜眠る、という時間的な順序が変わらないのは真に不思議である。死ぬ前は寝溜めが効くほうだったが、いまは起き過ぎると次の日よく起きられない。きちんと決まった時間に寝て、規則正しい睡眠を過ごしたほうが、良く起きられるようである。この体質を会社の同僚に打ち明けたところ、大変に羨ましがられ、自分などは時間がなくて寝る時間がもったいない、君みたいな体質ならばむしろずっと起きていたら良いじゃないかとまで言われた。なるほどその考えは合理的で正しいものだが、健康な三十そこそこの男が、ただずっと起き続けているというのは、倫理的にどのようなものかと思う。私などは青森の田舎育ちで古いタイプの人間であるから、夜になったら眠って、日が昇ったら起きるような規律のある生活のほうが、生産的でまさに人間の生活だと思える。しかし人間とは弱いもので、近頃は夜更かしが過ぎ、そのぶん起きる時刻がつい遅くなることも間々ある。

他にも私の体で変わったところは色々とある。入浴するとかえって体が臭うようになったり、古着を買ったのに着ているうちに新品のようになっていく現象などは、体質変化の一言では説明できない。しかしそれ以上に、色々な変化のなかで最もエキセントリックだと思えたのは、飲み食いに関してである。実を言うと、私の体に起こった逆転の現象について、今まで語ってきた順序は、実際にそのことに気が付いた時間的な順序とは関係していない。読書や映画鑑賞のことより、睡眠や食事の異変に先に気が付くのは、当然と言ってしまえば当然である。なぜ私が順を追って説明してこなかったのかというと、生き返ってからの私の、水分と栄養の補給方法は、いきなりそれから語ってしまうと読者に与える衝撃が大きすぎるからである。

病院から帰った日の夕刻のあたりから、渇いてたまらなくなった。そもそもお盆の頃であったから、水分をたくさん取らなければならないところだが、どういうわけか、水だろうがコーヒーだろうがビールだろうが、口の所へもっていこうという気になれない。食い物も同じように駄目だったから、腹も減った。しかしとにかく渇きが酷かった。何故だかしらないが、そんなところに水を注いだり食べ物を挿入してはいけないという本能的な何かが、拒絶するのである。生き返ってばかりで、自分の体質の変化に何も気付いていなかったから、不安で仕方が無かったが、かといって病院に取って返すのも気が引けた。(病院に戻ったらそのまま霊界に送り返されるのではないかと心配していた。無論、病院にそんな権利はないのだが。)飲まず食わずで何も手に付かないので、その晩は早々にベッドに潜り込んだのである。

その夜更け、あるいはあくる日の明け方近かったであろうか、酷い渇きに目を覚ました。グラスに水道水を注いでみたが、やはり受け付けられる気がしない。こうも水を拒絶するのは、落雷の後遺症で脳がやられているか、何かの病気かもしれない、それについては追々また病院にでも行くことになるだろうが、今はとにかく無理矢理にでも水を飲まないと命に関わると判断し、目を瞑り額に皺を寄せて、えいとばかりにグラスの水を口に含んだ。感覚したことのない違和感であった。飲み下そうとするが、のどの奥の門が固く閉まって、びくともしない。暗い台所でひとり唸りながら暫く粘ってみたが、脳が下す命令が頑なに拒否されている感じで、そのうち息が苦しくなって、やむなく水を流しに吐き出してしまった。

いよいよいけないと、途方に暮れた。ベッドに戻ろうとも思ったが、その前にトイレに入った。今考えれば、飲まず食わずで出す物など無いはずなのに、どうしてトイレへ行ったのか、理屈では理解しがたい行動である。本能がそうさせたとしか説明がつかないだろう。とにかく私は、寝巻きのズボンと下着をずり下げて、洋式の便器に腰を下ろしたのである。ふっと息を落ち着けるなり、不意に、尿道の先に水の当たるのを感じた。驚いたが、不快ではなく、むしと自然な、しっくりくる感覚だ。股間を覗き込むと、便器の奥と自分の尿道との間に、細い水の柱ができている。信じがたいことだが、その水の柱は、便器から自分の尿道へと、重力に逆らう方向に流れてきていた。尿道から水を吸い上げて、体内へと吸収して行くのが感じとれたのだ。いまはこのように落ち着いて語ってはいるが、その時点では、三十年もの間、ごく当たり前に続けてきた毎日の営みからかけ離れ、自然の摂理からもかけ離れた自分の肉体の奇妙への恐怖と、一方で、ようやく水分を取り入れて歓喜する肉体的感覚とのずれに、眩暈がするほどの混乱を覚えたものだ。

水の摂取が終わると、次は栄養の摂取が始まった。これについては、さすがに恐ろしくて、いまだその現場を詳しく観察できていない。しかし観察したところで、水洗式である我が家のトイレのどこから、一般の人間には排泄物であるところの物体が生じて出てくるのか、余程の学者でなければ説明をつけるのは難しいかもしれない。現象の分析はともかくとして、物質を外から体内に引きずり込む感覚と、事後の満腹感は確かであるから、生物学的にみて私にとっての、これが食事であることは確かである。

あくる日、たっぷり一日分の仕事をやり終えたような疲労感と共に、ベッドの上で目覚めた。掌ほどの小さな置時計を持ち上げて、ちょうど七時のあたりを指している短針と長針の細かな動きを見ながら、昨日のあれは夢ではないかとぼんやり考えた。しかし数刻の後、昨夜の出来事が夢ではないことと、私の体の新しい仕組みは、奇妙ではあるが、それはそれできちんと整合しているのだということを、いっぺんに受け入れざるをえない出来事があった。

なぜそうしたのか分からないが、私は戸棚から皿を出した。腹の奥から上がってきたものを、その皿の上に吐き出した。きれいに焼きあがったそのままの形の、目玉焼きであった。ウィンナーソーセージは三本、ケチャップをまぶして転がり出た。レタスは葉のまま三枚、ヘタのないミニトマトが二つ。戸棚から取り出した白いプレート皿の上に、朝食のメニューが揃った。次に私は、トーストを載せるのに手ごろな大きさの皿と、コーヒーカップを用意した。案の定、バターをたっぷり滲みこませた厚切りのトーストが、口の幅いっぱいを使って飛び出し、皿の上に収まった。不思議なことに、どう見ても、私の口を限界まで指で引っ張って広げた幅よりも大きいトーストなのである。愛用の青いマグカップには熱いコーヒーを注いだ。舌を火傷しなかったのが、これまた不思議であった。

戸惑いが無かったと言えば嘘になる。しかし栄養の摂取は生と死に直接関わる。生存するためであれば、案外、人はたいていのことに慣れるのである。私は毎日、一度か二度、尻を出して便座に座り、一般に排泄物と言われる物質を肛門を経由して摂取する。一方、口から排泄する「料理」は、きっかり日に三度である。どれも、雷に撃たれて死ぬ以前に、普段から口にしていたようなものばかりである。納豆、キムチ、玉子焼き、海苔、ちくわ、筑前煮、カレーライス、鶏めし弁当、もりそば、日本酒、野菜炒め、肉ニラ炒め、フランスパン、牛乳、ゆでたまご、おひたし、松前漬け、千枚漬け、ラディッシュ、冷奴、白菜とアサリの一人鍋、麻婆豆腐、麻婆茄子、麻婆春雨、ホワイトシチュー、鯖の文化干し、ざる豆腐、めざし、キュウリ、谷中生姜、おでん、カマンベールチーズ、ビール、枝豆、赤ワイン、白ワイン、麦茶、モロヘイヤの味噌汁、焼き茄子、梨、イチジクの甘露煮、焼売、クイニーアマン、ガム(これは口の中に味のする汁が滲み出しただけで、固形物は出なかった)、煎餅、アイスクリーム(ちゃんと固まって出てきた)、バター飴、まぐろの刺身、厚揚げの煮物、ひじきの煮物、冷やしトマト、天津甘栗、スポーツドリンク、うどん…。たいてい、朝は朝食らしいもの、昼は昼食らしいもの(勤め先に毎日ゴミ袋を持って出かけなければならない)、夜は夕食に見合ったものがちゃんと揃うが、夕食の時刻に酒類が大量に出ると、夜中のおかしな時間にラーメンが出たりすることもある。

はたして私のこの行動が食事と言えるのかどうかは、判断し難いところである。しかし、我慢していれば腹が減るし、それが排泄物を吸い上げることによって満たされるのは確かである。口から料理を摂取する、いわゆる普通の食事と違うところは、満腹の感じ方が、腹が膨れるのとは少し違う。手で腹に触れて分かるほど胃が一杯になるような胸につかえる感覚はなく、栄養が摂取できたのでもう良いという、医学的に言うところの満腹中枢の刺激だけがあるのだ。人間が生きていくためには、三大栄養素というものを摂取しなければならないはずである。すなわち炭水化物とたんぱく質と脂肪であるが、私の新しい食事法によって、これらの栄養素がはたして摂取できているのかと自問すれば、甚だ疑問ではある。しかし考えてみれば、生きるために外部から体内に取り入れるモノは生物の種類によって様々だ。草食動物と肉食動物がそれぞれ存在することは誰でも知っているし、ミミズは土を食う、シロアリは柱を食う、カビの中には金属を食ってしまうものもいるという話である。私がどうしてこの食事法で生きていられるのかについて解明しようととするならば、何を摂取しようがそれで生きているのであるから、外部から摂取する栄養として十分だということを前提に考えるべきであろう。

秋口の、虫のうるさく鳴く晩であったと記憶しているが、口から排泄したご飯と焼き魚と味噌汁をゴミ袋に片付けながら(勿体無い気もするが、自分にとっては排泄物なのでこうするしかない)、ふと、そういえば外食しなくなったなと思った。焼肉とか、カフェのサンドイッチとか、豚の背脂の浮いたラーメンとか、いわゆる飲食店の食べ物を、三箇月近く目にしていなかったのである。特にラーメンが、懐かしく思えた。自分はもともと外食は少ない方だが、かつての頃は、ときどき口にする味が濃くてあぶらっこい外の食事が、生活にアクセントを持たせていた。端的に言えば、同じような物ばかり食べていると飽きるということだ。かの内田百閒先生は毎昼食が同じ盛りそばだったというが、自分はその境地に達していないようである。もちろん、それらの食事を口に運ぶことはしない。熱々のラーメンを経口して体に入れるだなんて、考えるだけで恐ろしいのだが、それでも、一杯のラーメンを目の前に据えたいという気持ちが起こる不思議は、人の業というものであろうか。

私のラーメンに対する憧れは日を追うごとに強くなった。しかし、簡単にどうにかなりそうで、簡単にはいかなかったのである。問題は、現在の私にとって料理とはすなわち排泄物であり、別の言い方をすれば自分は料理に関して一方的に生産者であって、消費者にはなり得ない、という点だ。ラーメン屋に行ったところで、料理を生産するのは自分なのであるから、私の目の前に並ぶのはいつもと変わらず白めしや納豆や文化干しの類であろう。生産する現場を見られたら大変な騒ぎになりそうな気がする。ラーメンを注文するだけはして、ひとつも手を付けず、金だけ払って帰るというのも気が引ける。

ラーメンに想いを馳せつつ悶々と数日を過ごしたが、ひとつの発見により大きな転機を迎えた。やけに海苔の乾いた握り飯が、私の口から転がり出たのだ。自分は、握り飯の海苔は、湿って飯に密着した状態でないと気が済まない性質だったはずだ。口にした覚えのない食べ物が、口から出た…。そういえば、会社の手洗いで「食事」をしたのは始めてだった。このときまでは、排泄物は自分がよく食べていた料理のかたちをとっているのだろうと考察していたのだが、新たな仮説として、(一般の)人の排泄物に由来する料理が自分の排泄する料理を決める、という可能性に気が付いたのである。

私はその仮説を実証すべく、飲茶もできる中華料理屋へと赴いた。横浜中華街の市場通りにある彩鳳である。昼間、込み始める前に店に入り、茶と胡麻団子だけを注文し、手洗いで食事をし、胡麻団子は紙ナプキンで包んでポケットにしまい、会計して出た。雑貨屋でいかにもラーメンに使いそうな丼を買って帰った。その日の夜、丼をスタンバイして楽しみに待ったが、私の口から出たのは熱々の中華粥であった。仮説を実証することはできたが、同時に、メニューが豊富な店だと狙った物が出るとは限らないという、新たな問題が露呈した。その後もラーメンを諦められなかった私は、五目そばを出すまでに、かの彩鳳へ五度も通ったのである。

2008年3月17日公開

© 2008 佐藤

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