昼からやっている居酒屋を捜し歩いてついに見つけた思い出の店が湊屋で、五十君とはそこで待ち合わせていた。開けるのに骨がいる引き戸を横へやると、仕事上がりのタクシー運転手や、寄せ場から溢れた日雇い労働者たちが奇妙な陽気に赤らんでいた。ウエイトレスと呼ぶにはあまりに蓮っ葉な女は、煙草などを吸いながら、ままならない人生に痴れた酔客たちの注文を待つ。どん詰まり気味の空気にひきこもりはほっとした。冷奴、どぜう、茹でモヤシ、梅干、コロッケ――煙草の脂で赤茶けた品書きが、歓迎の合図のように揺れていた。
「一人? カウンターでいい?」
「いや、待ち合わせ」
「そう」と、蓮っ葉な女は煙草を吹かした。「飲み物は? 緑茶割りでいい?」
「俺がそれ以外を頼んだことあるかい?」
ひきこもりは親指を立て、呆れ顔の女に愛想を振りまいた。女の名前を無理やり遥としてから随分経つ。昔付き合っていた女の名前で呼ばせてくれよ、とほざくのがひきこもりにとっての処世術だった。サービス精神のつもりだと吹聴してはいたが、その実、女という生き物はこの手段で存外に靡くんじゃないか、などと貧乏性を捨てずにいた。
先に出てて、と追い出した当の五十君がまだ来ない。安い酒精が酔いを突っついて、ひきこもりに魔術をかけた。俺はこれから捨てられるんだ。一緒の家に住んでいるのに改まって外で話し合うなんて、いい話な訳あるか、オイオイ。ひきこもりは薄ら笑いさえ浮かべ、煙草の灰が今にも落ちそうになるのも気にかけず、うつ向いたままゆらゆらと、身体が揺れる。オイオイ。灰は小指ほどの長さになって、ついに堕ちた。遥と呼ばれた女は、墜落して死んだ灰を眺めてため息をついた。
「お兄さん、ちょっと酔っちゃったんじゃない?」
蓮っ葉が嫌そうに案じる素振りをする。まだ緑茶割り六杯だ。そんな訳は無い。ひきこもりはグラスを持ち上げると、半分ほどもあった緑茶割りを一息に片付けた。そして、咽せた。オイオイ。一つの咳を打つごとに、人生で培ってきた苦しみの一つ一つが目を覚ます。もう突き上げが収まっても、ひきこもりはじっとしていた。その苦しみがこれからも時折目を覚ますのだと思うと、すぐに顔を上げる気にはならなかった。
「悪いね、待たせて」
肩を叩いたのは五十君だった。その顔を見るなり、ひきこもりは叫んだ。
「俺たちロックしてたじゃないか!」
別にバンドをやっていた訳ではないが、ひきこもりはいつもそうやって総括した。ロックという言葉には、辞書に載っている以上の意味があった。しかし、五十君は苦笑いさえ浮かべないくそ真面目な顔で見返してくる。とかく取り付く島の無い男だった。
見捨てる見捨てないの痴話喧嘩みたいな話に酔客たちさえ呆れ果てた末、五十君の考えは結局変わらなかった。立ち上がる五十君に「見捨てんな」と後ろから呼び止めると、筋トレが趣味の巨漢がぬっと振り返った。
「亀夫くん、人生とかけて、アンコウの吊るし切りと解く。その心は?」
解けないのを酔いのせいにして、ひきこもりはふらりと前に倒れかけた。えへら笑いが赤黒くなり、おでこの辺りがかぶれている。五十君はそんな狡さも見抜いていたようで、まっすぐ見据えて呟いた。
「最後はジョーしか残らない」
去って行く五十君の後ろを見ながら、ひきこもりは「ジョー?」と顎を撫でた。生憎、漢字は得意じゃない。
取り残されて、自分がいじけていくのを感じながら、その墜落をどうすることもできずに、店を後にした。立ち上がると、小さい方形の椅子は倒れた。そこに載っていたこれまた小さい座布団は裏返り、それまで見えなかった傷口を曝した。紺絣の裂け目に覗く薄黄色の綿は、妙に生き物めいて見え、ひきこもりに吐き気をもたらした。「そんな酔い方しちゃ駄目だよ」という蓮っ葉の言葉に背を押され、湊屋の引き戸から転げ出た。
出てすぐに吐いた。吐瀉物は真っ赤に染まっていた。吐き過ぎで胃と食道の付け根が切れるマロリーワイス症候群。アルコール依存症によくある合併症だと、バイトの外科医が診断した。まずはアルコールを止めなさい、という忠告を無視して、ひきこもりはただひたすらに怒った。その語感が腹立たしかった。なんだマロリーって。お鍋に入れるやつか。ファック、ふざけんな。
冬の外気は食道を冷ますが、アスファルトは日光を呑みながら温んでいる。ひきこもりはその明るさから逃げるように、アーケードの下を匐って進んだ。早く、人のいない所へ行かないと。つんのめる歩みは次第に狂いを帯びて、つるりと足を滑らすように行く末が昏くなった。
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