妾が娼婦だった頃(1)

妾が娼婦だった頃(第1話)

寺島聖

小説

9,903文字

ナオミの経営するスナック、『エトランジェ』には今日も様々な客が訪れる。借金取り、大工、売れない映画監督、女装癖のサラリーマン――場末で繰り広げられる複雑な人間模様。 破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

(1)

 

髪の長い女が二階の部屋の出窓に頬杖を突き、物憂げに外を眺めている。日没の迫った夕暮れが一際(あか)く、不機嫌な雲の切れ間にぼんやりと滲んで、一枚の淡い風景画を描き出している。出窓の側の電柱に鳩が止まっている。寄り添って離れようとしない二羽の鳩は、睦言を囁きながら路上を行き交う人々をじっと見詰めていた。この通りの商店街はとても賑やかで、夕刻には更に人通りが多くなる。

女は出窓から身を乗り出し、通りから誰かを見付け出そうとしていた。アコーディオンを大切そうに抱えた青年が歩いている。臨月間近の妊婦、白い杖の盲目の人、小犬を連れた若い女性、自転車に乗った夕刊配達の青年、それから、黄昏時のお年寄り……、花屋と仏壇屋のおかみさんが他愛もない噂話に花を咲かせている。

ミシェル・ルグランのシェルブールの雨傘が通りから流れている。今朝まで降り続いた小糠雨(こぬかあめ)は午後にはすっかり上がっていた。民家の軒先に植えられた橙色の金木犀が咲き零れ、馥郁(ふくいく)たる香りを(ほの)かに漂わせている。

開け放した出窓から、ひんやりと潤った空気が入って来る。そこには鮮やかな赤と黄の(つがい)のカナリアが籠の中で遊んでいた。女の華奢な後ろ姿には(かす)かな倦怠と(かげ)りが植物の蔓のように巻き付いている。彼女の日常における自堕落さを浮き彫りにするかのように、様々な色彩の衣類が無頓着に部屋の床に散らばっている。日が沈み始めると、女は寝台(ベッド)(うつぶ)せに身を投げ出していた。彼女は鏡台の上に置かれた煙草に手を伸ばすと慣れた手付きで火を点け、白い糸のような煙を吐き出した。約束の時間に男は姿を見せなかった。

日が暮れて夕闇が街を包み込むと、女は白粉で霞んだ鏡台に向かって身支度を整え始めた。洗い(ざら)しのボーダーのタンクトップの背中から(パピヨン)の刺青が覗いている。女は陶器のように滑らかな肌に化粧を施していった。そして、仕上げに金色のキャップを外すと、真剣な眼差しで唇を彩った。

 

 

或る朝ナオミは携帯の着信音に気付き、目を覚ました。携帯の液晶画面を確認すると、彼女の経営しているエトランジェと言うスナックに出入りしている筋者の黒田龍二からだった。ナオミは(シブ)(シブ)電話に出た。「おはよう、ナオミ、今大丈夫か?」と電話越しに太い声が聞こえて来る。「……うん、今起きたとこ、」彼女は眠い目を(こす)った。「聞いてくれよ。あのバカには参っちまったよ。散々脅してやったのに金振り込まねぇんだよ。逃げ回ったって無駄なのになァ。」「何の事なの?」とナオミは訊いた。「仕事だよ、仕事、借金取り! まあ一家心中なんかされても此方(コッチ)が困るんだけれどな。死ぬならウチに生命保険掛けて死ねって感じだよ。(そもそも)あんな屁タレに心中なんてする度胸なんてないだろうが。」「朝から物騒な事言うわね、」と彼女は欠伸を噛み殺して聞いていた。

「ヤクザって言ったって今の時代じゃ浮草稼業よ。副業しなきゃ食って行けねぇ。最後の手段はガキでも誘拐するしかないかもな。奴が金振り込まないと俺にギャラが入って来ねぇんだよ。ッたく面白くねえ。」ナオミは煙草を銜えながら、「本当は子供を誘拐するのなんて厭なんでしょ?」と訊いた。「当たり前じゃねえか。俺がガキん頃、借金取りがうちに来て、居座ろうとするから兄貴が親の借金は俺達に関係ないって怒鳴り散らして奴らを帰しちまった事があったよ、そう言えば。」

ナオミは煙を吐き出し、適当に相槌を打ちながら携帯を耳に当てていた。「それがどういう因果か、三十年近く経って今度は俺が借金取りになってやがらァ。全く、こうなるなんてお釈迦様でも気が付くめぇッてんだ。」死んだはずだよお富さん、と洒落込むか、と彼女は苦笑した。「ま、それは()いといて、なぁ、ナオミ、今度どっか遊びに行こうよ。ドライブでもいいし、」黒田は()()もながら饒舌だ。「うん、気が向いたらね。最近店でも滅入っちゃう事ばっかでさ、」とナオミは角が立たないように断りを入れた。「だから、(タマ)には外に気晴らしに行った方がいいだろ? ま、気が向いたら()()でも誘ってくれよな。」彼女は黒田のお喋りの相手を終えると溜息を()いた。黒田は()()(まが)(まが)しく、その連れ合いの(イカ)つい男達も、同じ(たぐい)の浮世の垢に(まみ)れていた。黒田と、その取り巻きの酒の相手をするだけで、ナオミは心身共に激しく消耗して行った。

エトランジェはナオミが半年前にオープンさせたカウンターだけの小さなスナックである。黒田とナオミは半年前に出会った。エトランジェのオープン翌日、店を開けた途端に二人の筋者が店に迷い込んで来た。三十絡みの小太りの男は、如何(いか)にも()()()風のダブルのスーツに細いサングラスを掛けていた。連れの男も()()をどう見ても堅気ではなかった。「この店の経営者、いる?」筋者の片割れが横柄に訊いた。「(わたくし)ですけれど、」とナオミは注意深く男に答えた。二人は余りにも若いママに驚き、顔を見合わせると何か低い声で相談していた。「そうか、よし、分かった。焼酎のボトルを一本入れてくれ。ミネとレモンで割って欲しいんだが、レモンはあるか? 無かったら悪いが買って来てくれ。」ナオミはアルバイトの女子大生の圭子に小銭を渡し、使いに出した。圭子は携帯を片手に一目散に店を出て行った。

二言三言世間話を交わし黒田と名乗った男は、品定めでもするかのように不躾にナオミを観察していた。その視線は粘液のようにべったりと彼女の身体に(まつ)わり付いて離れなかった。ナオミは小鉢にお浸しと筑前煮を盛り付け、二人の前に出した。男達は行儀悪く出された料理に喰らい付いている。黒田の連れは頑なに沈黙を守っていた。元来無口な性質(タチ)なのか、威圧感を与える為の作為なのか、ナオミには分からなかった。極度の緊張でこの日何を喋ったかすら、彼女は今でも思い出せない。買い物帰りの圭子は、ナオミの情人(アマン)の淳を連れ店に戻って来た。淳は片手にドン・ペリニヨンを持っていた。淳は花束代わりのシャンパンをカウンターの上に置き、ナオミに(めくば)せをした。淳は目の端で二人の筋者を認めたが、最初から無視を決め込んでいた。淳が来て、(ぜん)を追うようにナオミの馴染みの客が花束やお祝いの品々を抱え、店を訪れた。黒田は急に居心地が悪くなったらしく、連れに合図すると金を払って帰って行った。ナオミは金縛りが解けたような心持ちで、握り締めた手に汗をびっしょり掻いていた。

 

 

薔薇のコサージュの付いたベルベットのドレスを身に(まと)い、ナオミは部屋の鏡台の前で身体を(ねじ)っていた。これは暖かな光沢の生地で作られていて、店の照明の加減で玉虫のように色が移ろう素敵なドレスだった。普段の彼女は満艦飾に着飾っていたが、時折面白がって中原淳一や内藤ルネの描く純情な少女のような格好をする事もあった。今日はピアノの発表会風である。店にはナオミがミシンで縫ったお手製のエプロンが数枚あり、圭子と二人でそれを掛けて働いていた。年配のお客から、君たちは二人共、カフェーの女給さんみたいだね、と冷やかされていた。

壁の時計を一瞥すると、ナオミはクローゼットから煉瓦(レンガ)色のコートを引っ張り出し、無頓着に()()った。店を開ける時間が迫っている。彼女はハイヒールに素足を滑り込ませると、夜の帳の下り始めた街に飛び出した。墨を流したように厚く垂れ込めた雨雲にナオミは一瞬戸惑ったが、店に置き傘がある事を思い出し、気を取り直した。

エトランジェを開ける前に、スーパーで酒の(さかな)や消耗品の買い物をする事がナオミの毎日の日課である。今日は黒田の三十六歳の誕生日だ。彼女は買い物籠に少し上等のロゼのスパークリングワインと小松菜と人参、油揚げを入れた。そして、店内を歩きながら毎晩のように店に来る和也の夕食の材料を物色していた。彼女は精肉コーナーから五十円引きの生姜焼き用の肉を選び、夕食の献立を決めた。

和也は岩手の片田舎から十五歳で上京し、この街の工務店で十年近く大工として働き続けていた。和也はナオミより一つ年下の、今時珍しい朴訥とした人柄の青年である。無骨で蛮カラの若者だった昔の自分と和也が重なって見えるからであろうか、エトランジェの大部分を占める中年男性からも和也は人気があった。

時が経つ毎に、ナオミと和也は自然な成り行きで親密さを増して行った。二人は店が跳ねた深夜にコンビニで酒を買い、薄い雲がかかった月明かりに照らされ酒を飲んだ。若い恋人達の真夜中のエスケープは、大抵甲州街道の歩道橋の手摺に(もた)れ掛かりながら酔いたわぶれ、ぺちゃくちゃと罪の無いお喋りに花を咲かせる事だった。二人は並んで猛スピードの長距離トラックを俯瞰(ふかん)しながらポケット瓶のウイスキーを(あお)っていた。

「ねえ、和也、あんたとあたしはこの世に生まれる前からこうやって一緒に生きて来たのよ。」

ナオミは酔うときまって輪廻(サム)転生(サラ)(まつ)わる話をしていた。「人間は生まれ変わり死に変わり、誰かが誰かの続きを生きて歴史は繰り返されて行く、」と言うのが彼女の死生観だった。

「それは何時(いつ)何処(どこ)で?」和也がナオミの横顔に訊いた。そうね、と一寸(ちょっと)だけ彼女は考え、「ピカソや藤田嗣治(レオナール・フジタ)がいた時代のパリの街角で出会ったっていうのはどう? あたしは貧しい路上の歌手。雨の日も雪の日も石畳の上でシャンソンを歌っていたの。」と言った。「その時俺は何をしていたの?」と和也が訊いた。「あんたは煙突掃除の勤労少年ってとこだわ。()()も真っ黒になって働いて、仕事を終えるとあたしを迎えに来るの。ね、今と同じでしょ?」ナオミはウイスキーを口に含むと、ポケット瓶を和也に渡した。「何だか、ナオミちゃんがそんな事を言うと、俺もそんな気がして来た。」彼女に恋焦がれていた和也の秘めた情熱は、うらぶれたこの街の夜の(ともしび)であった。

ねえ、和也、とナオミは夜空を指差した。「今輝いているあの星はね、未亡人の失くしたダイヤの指輪なの。」和也は目を凝らして彼女の指し示す方を見た。和也にはありふれた風景も、ナオミと共に見るもの全てが新鮮な驚きに包まれていたのだ。

十五の歳からたった一人のお袋さんと幼い弟妹に僅かでも仕送りする為に建築現場で犬のように働き、西日しか当たらない湿気の籠る四畳半の社員寮に独りで過ごす事に耐え切れず毎晩飲み歩き、酔い潰れたら泥のように眠る事しか知らなかった和也である。

眠くなると二人は寄り添って歩道橋の階段に座り込み、夜を明かした。涙色に霞んだ夜明けの光が紺碧の星空を焦がす朝焼けに変わる頃、和也は(たくま)しい腕で不器用にナオミの肩を抱き寄せ、再び眠りに落ちた。若い和也は、地球の目覚めの瑠璃色の空に叫び出したい程幸福だった。東京の空の下、天涯孤独だった和也は、ナオミとの邂逅(かいこう)に予感めいたものを感じていた。

エトランジェが店を構えているメール街と呼ばれる歓楽街の一角に、パリジェンヌと言う仰々しい名の古びたケーキ屋がある。ナオミは会計を済ませスーパーを出ると、閉店間際のこの店に立ち寄り、数日前に注文しておいたケーキを受け取った。太った店主のおじさんは、にこにこしながら明日食べるように、とドライフルーツやナッツの焼き込まれたケーキをおまけにくれた。彼女は礼を言って店を出た。今夜は前科者のバースデー。(いく)らヤクザの黒田と言えども、一年に一度位人から祝福されるのも悪くはないだろう。エトランジェのビルに辿り着くと、ナオミは防火扉を開けて店の中に入った。そして、目一杯照明を明るくすると、アート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズのLPを静かに流し始めた。

この店ではジャズは空気のようなものである。エトランジェは、扉を開くと時代から取り残された(セピ)()の空間だった。来る客も、一度は日の目を見た売れない映画監督や、塀の中で男色を覚えた彫刻家、五度離婚して落ちぶれ果ててはいるが今も第一線で活躍しているピアニスト、矢鱈(やたら)フェティッシュな芸大教授、自称産婦人科医のサラリーマンの栗野(クリ)ちゃん、気功に凝っている貧乏学生、ヤクザにオカマ、カメラマンに詩人、等文人(ぶんじん)墨客(ぼっかく)(まで)は行かないが、中々面白い面子(メンツ)で賑わっていた。奇妙な事に、随分昔からナオミは灰汁(アク)の強い強烈な個性を持った男達から猫ッ可愛がりされていた。偏屈で意固地で世間から変人扱いの客に限って、誰にも話せないような心の内をそっとナオミに告白しては肩の荷を下ろして帰った。

カフェーの女給に(たと)えられたエプロンを掛けたナオミは、小松菜を刻みながら昼間に明日香から帰りに店に寄ると電話があった事を思い出した。明日香は大手電気機器メーカーの部長をしている四十代半ばの男性である。性的にはヘテロセクシャルだが、三年前に海外赴任を終えて帰国してからと言うもの、何故(なぜ)だか女装を何よりも趣味にしていた。海外の営業所では鬼の岡田課長と呼ばれた男が、である。休日の明日香は()()もミニスカートやミニのワンピースでおめかししていた。明日香は新宿の女装クラブの常連で、セーラー服やスチュワーデス等の衣装のコスプレも大好きだった。

エトランジェでしこたま飲んだ日の明け方、明日香は二人組みの大学生風の男に尾行され、襲われた。通りから死角になっている駐車場のトラックの陰に無理やり連れ込まれた明日香は、体格のいい方の男に()()()めにされ、もう一人の男にスカートを引き裂かれ、レースのパンティを剥ぎ取られた。明日香は物凄い形相で断末魔の悲鳴を上げ、抵抗したらしい。(しか)し、気の毒なのは女に飢えに飢えた二人の不運な青年達の方である。彼らはあられもない格好にひん()かれた明日香を置き去りにすると、オカマ! 等と大声で罵りながら全力疾走で逃げて行ったそうだ。明日香はこの事件を(ヒド)く憤慨しながらも、その実、女に間違えられた事を多少名誉に思っている節があった。と言うのも、件の(くだん)女装クラブの方針が「あんたたち、後ろ姿で男と見破られたら、恥と思いなさい!」と言うものだったからである。(たま)にはこんな出来事も起こったりはするが、平素の明日香はスーツに身を固めたやり手の営業部長である。明日香は過去に一度結婚に失敗していた。ナオミは時間を確認すると、エトランジェの看板を灯した。赤と黒の八ミリ映画のフィルムをモチーフにした看板は、裏寂れたこの街で一番小洒落たデザインだった。フィルムの中にはスポットライトを浴びた女優がワイングラスを傾けていて、エトランジェの飾り文字が軽妙に並んでいた。

ナオミはカウンターを丁寧に拭くと照明を落とし、赤い蝋燭(ロウソク)を三本灯して行った。(しばら)くして、現場仕事を終えた和也が作業着のニッカポッカの(まま)店の扉を開けた。髪が目に入らないようにタオルを額に巻いている。ナオミは湯気の立ったオシボリを和也に渡し、お疲れ様だったわね、と微笑した。

「今日は誰が来るの?」と和也はジャンバーを脱ぎながら訊いた。「後で明日香ちゃんが来るわ。淳と西川さんも来るかも。それから龍二さんがお誕生日。」ナオミは小松菜のお浸しを小鉢に盛りながら言った。「そうだったよね、俺ワイン買って来た、」と和也は酒屋の袋からワインを取り出して見せた。「ああ、あたしもスパークリングワインを買って来ちゃったけど、お酒は腐るものじゃないし、お土産にも出来るからいいよね。」

ナオミは和也の好物の生姜焼きを鼻歌混じりに作り始めた。ナオミは人に料理を振舞うのがとても好きだった。彼女には、バーのママさんと言うより男達の保母さんのような所が多少なりともあった。頂きます、と和也は不器用に割り箸を割った。ナオミは一心不乱に食べる和也を目を細めて見守っていた。

和也が来て(しばら)くして、柔らかな霧雨が降り始めた。飲食店のビルの隙間の細い路地に毛皮をしっとりと湿らせた野良猫が一匹、出前の寿司桶を舐めている。古い飲み屋が軒を連ねるメール街の舗道には、焼き鳥やラーメンの匂いが混じり合い、いかにも場末といった雰囲気を(かも)し出していた。隣の店からは、酒よ、涙よ、未練よ、と言った感じの時代遅れの演歌が漏れ聞こえて来る。()()もに増して、人通りは極端に(まばら)である。煙草の自動販売機の前に何処(どこ)かの酒場の年増女が傘も差さずに佇んでいた。

ナオミはアート・ブレーキーの次にルイ・アームストロングのLPにそっと針を滑らせた。針はLP盤の溝をなぞって錆びた音を拾った。ルイの濁声(だみごえ)が心地良く流れている。ナオミは楽器が弾けたらどんなにいいだろうと束の間空想した。簡単なコード位は知っているが、店の壁に掛けてあるフォークギターは(ほとん)どインテリアの(まま)である。店のアップライトピアノは埃を被り、()()の間にか物置になってしまっている。(しか)も、ピアニストの客が嘆く程調律も狂っていた。店でピアノを弾くのは、自称婦人科医の栗野(クリ)先生位のものである。

エトランジェはジャズ三昧(ざんまい)ではあったが、時折エディット・ピアフやダミア、リュシエンヌ・ボワイエ、シャルル・アズナブール等の古いシャンソンを皆で聴いていた。ジャンルは問わず、世界の名曲や、古い映画音楽のLPも気分に合わせて聴く。

時折、ナオミと客は往年のジャズシンガーの魅力について時間を忘れて語り合った。「地上に存在する地獄を、黒人は美へと昇華させ、芸術的貢献であるジャズをもたらしたのである。」客が持って来た本に記されていたマックス・ローチのこの言葉に彼女は共感を覚えたものである。麻薬と酒と醜聞(スキャンダル)で刻一刻と蝕まれつつある恰幅の良い身体で、スターの座に登り詰めた黒い肌の天使たち。彼らは渾沌(カオス)の時代にスポットライトの洪水を泳ぎ、夜毎にステージに歴史を刻んで来たのであろう。往年のジャズシンガーの中には、分厚い伝記になってしまう程波瀾に満ち、数奇な一生を送った者も少なくは無い。「ジャズは人種差別と貧困と、明日への渇望から待ち焦がれたように生まれて来たプロレタリアートの音楽だ。だから、ブルジョアの道楽にジャズは似合わない。」とエトランジェのある客が言い切っていた。ナオミはにっこり笑って、ジャズと自由は手を繋いで歩く、と言うセロニアス・モンクの言葉を和也に聞かせた。

エトランジェの客の世代、六十年代から七十年代は日本でもジャズ喫茶の全盛時代であったが、時代と共に徐々に廃れてしまった。それは、終戦後、焼け野原だった日本が驚異的な早さで立て直され、発展途上国でなくなった一つの証拠かもしれない。

苦み走った好い男の映画監督の客は、狛江市から片道一時間掛けてエトランジェに来る度、ナオミがまだ知らない種類のLPを数枚とゴダール映画等の本を土産に持って来てくれた。

エトランジェの雰囲気は、昔懐かしの昭和レトロと言った感じであるが、ナオミはアルフォンス・ミュシャを髣髴(ほうふつ)とさせるような、やわらかな中間色で(まと)めたアール・ヌーヴォー的な要素もふんだんに取り入れていた。お金を掛けて内装に凝る訳ではない。貧しい彼女は常に至る所にアンテナを張り巡らせ、街角の手芸店や雑貨店、又は百円ショップに売っている何気無い品物を工夫して、それっぽく演出する技巧に長けていた。

肩をうっすら雨で濡らした明日香が、店の扉をそっと開けた。「いらっしゃい!」ナオミは明日香を笑顔で出迎え、コートを脱がせた。明日香は雨の匂いを連れてきた。「ああ、疲れちまったよ、今日は。」明日香はオシボリで丹念に額を拭いながらぼやいた。週末の明日香は出鱈目(でたらめ)にネクタイを頭に巻いて、眼鏡を吹き飛ばす程の激しい振り付きでキャンディーズ・メドレーを熱唱するのだが、月末のこの時期はノルマ地獄で生きた心地もしないのだろう。今夜の明日香は、サラリーマン・哀歌(エレジー)と言った感じだ。

「明日香さん、お疲れ様です!」と和也が言った。「和也もお疲れさん。いいな、毎日ナオミの飯が食えて。」明日香が和也にニヤッと笑い掛けた。「明日香さん、夕飯は何を食べて来たんですか?」と和也が訊いた。「会社の側の居酒屋で刺身を(つま)んで来た。一寸(チョット)酒が入ると必ずエトランジェで飲みたくなるんだよな。」人見知りの激しい和也も明日香には打ち解けている。ナオミは明日香の好物のトマトをスライスしながら、「今日は龍二さんのお誕生日なの、後で店に来るんだって、」と言った。

「龍二さんって、黒田さんって言う人の事だろ? この街の管轄のヤクザの。あたしがいても平気かなあ。」

明日香は柄にもなく不安げにしていた。「それは、問題無いと思うよ。性質(タチ)の悪い酔っ払いよりはいいかも、」とナオミは素っ気無く言った。「そう言われてもォ、」と明日香はまだ腑に落ちないと言った感じだった。「お誕生日なのに雨が降り出すなんてね、」とナオミは暖房の風を受けて踊る蝋燭(ろうそく)の炎を見詰めながら呟いた。

「お~う! ナオミ、来てやったぞ。」

扉が開き、黒田が姿を現した。「あ~ら、いらっしゃい!」ナオミは華やかな声で黒田を出迎えた。「龍二さん、お誕生日おめでとう。」黒田は店の中を見回して、「おう、圭子はどうした?」と訊いた。「さあ、お家でお勉強でもしているんじゃない、」とナオミは適当に答えた。「俺の誕生日に休むとはいい度胸だな。どうせ、男遊びでもしてるんだろ。」

明日香は黒田を尻目に(しゃちほこ)張っていた。「圭子はあたしが()()も教育しているわよ、」とナオミが言った。

「それが心配だっつうの。最近の女子大生は乱れているからな。女子大生どころか女子中高生も色情狂だらけだよ。」ナオミはポケットの(マッ)()を擦って、黒田の煙草に火を点けた。

「確かにね、あたしの通った高校だって酷いものだったわよ。もう、お色気満開で勉強なんか最初からヤル気ないって言うか、思い出した。呆れたのが現代文の小テストでね、『( )の一声』って括弧に動物の名前を入れなさいって(ことわざ)の問題があったのよね、」

黒田は煙草を燻らせながら、「それがどうしたんだ?」と尋ねた。「そしたらねえ、『猿の一声』って回答していた子が結構いて、現代文の先生が嘆いていたわよ。」明日香が肩を揺らしながら笑いを噛み殺している。「そりゃ、(ひで)ぇ高校だ。(そもそも)、その問題って高校生に出すレベルかよ?」中卒の黒田がナオミに訊いた。さあ、と彼女は首を傾げた。

「確かに俺は若いネェちゃんは好きな方だけれど、度を越した莫迦(バカ)此方(コッチ)から願い下げだよ。人前で俺が恥を掻くし、疲れるだろ。」

「確かに、度を越すとね。一寸(チョット)抜けている位なら可愛いかもしれないけれど。」黒田は機嫌良くナオミと喋っていたが、隣の明日香に目を留めた。「邪魔してごめんな。俺はそんなに長居はしねェからよ。あんまり気にしないでくれ、」と黒田は控え目に言った。「そんな、邪魔なんてとんでもないですよ。お誕生日おめでとうございます。良かったら今日は一緒にお祝いをさせて下さい、」と明日香も遠慮がちに言った。「龍二さん、おめでとうございます。」和也がカウンターの隅から黒田を祝福した。

「みんな、ありがとよ!」と黒田は(しき)りに感激していた。

黒田は寛いだ様子で、皆と和気(わき)藹藹(あいあい)と語り合っていた。()()もの外連(けれん)()も陰険で闘争的な感じも、今日の黒田からは微塵も感じられなかった。月末の()()〆料(ジメ)の集金日の黒田は異常な(まで)に神経質になっている。暴力団の資金源となる用心棒代や見ヶ〆料の請求等の暴力的恐喝行為は、法的に恐喝罪が適用されるらしい。黒田は前科七犯で、昨年は半年間東京拘置所に入っていた。現在執行猶予中の黒田は、今度何か間違いを起こせばもう確実に後が無い。

「ねえ、龍二さん。スパークリングワイン飲まない? シャンパンみたいなヤツ。」ナオミは冷蔵庫を覗き込みながら訊いた。

「いいね、みんなで飲もう!」

ナオミは戸棚からクリスタルのワイングラスを用意し、スパークリングワインのコルクをオシボリで(おお)ってポンッと勢い良く栓を抜いた。おめでとう、と彼女は黒田のグラスにシュワシュワとロゼのワインを注いだ。グラスに添えられた黒田の手は根元から小指が欠けていた。

2009年3月8日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第1話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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