夕凪の部屋(1)

夕凪の部屋(第1話)

竹之内温

小説

6,320文字

同じスニーカー、狂ってしまった母の話、大学、ビートニクス、東京。言えずにいた思いが部屋の中でひっそりと強まってゆく。閉ざされた空間での思いを描いた傑作長編。

一  神田

 

ここが東京だからだ。私達はいつでも立ち止まれず、歩いてばかりいる。山岡君は今日も同じスニーカーを履いてきた。私は未だに言えないでうずくまってしまう。

「私もそれと同じ靴を持っているんだよ」

たったそれだけの事を、半年経った今も言えないでいる。彼が毎回同じ靴を履いてくるからだ。一度でも黒い色ではなく、布ではない靴を履いてくれたら、言葉を(ひるがえ)してしなやかに彼に言えたのだろう。雨の日に歩く時も、海辺を歩く時も、私の家に来る時も、家の前のコンビニエンスストアーに行く時も、やはり彼はその黒い布のスニーカーを履いていた。私の部屋を彼が訪れる時には、決まって靴箱の一番下の段に私のスニーカーを仕舞った。靴箱の扉が何かの拍子に開いてしまうのを恐れ、麻の布を靴箱の上から被せる。彼が玄関辺りでうろついている間はそれでも落ち着かず、後ろ手で、言葉で部屋の中に連れ込む。一人で出掛けその靴を履いている自分の姿を雑踏の中に見つける度に、「捨てればいいのに」と独り言を言っている。けれど休日になる度に結局その靴を履いて外出する自分の様子は、なんだか惨めったらしい。物は勝手になくなってはくれないが、案外忽然と姿を消したらば、私は思い出しすらしないのかもしれない。同じスニーカーを別々の機会に選んで買ったという偶然を、ロマンチックな彼と私の共通点として並べている訳ではないからだ。何故、捨てなかったのか。記憶に残す準備を既に始めていたのかもしれない。

彼の黒い布のスニーカーは半年前と比べると大分くたびれた様に思う。そして、靴がくたびれるのと比例して、私達の口数は減っていった。「何が食べたい?」という質問に対して、「昨日はパスタを食べたから、今日は別の物がいいな。この前は二人で中華を食べたから、今日は和食にしようか」という答えから、今では「和食……」というたった一言で終わらせてしまう。多くを語らずに済む気楽さと、多くを語る時のあの緊張感のどちらが恋の(うつつ)か、もはや選択肢は無いだろう。それは地層の様なものだ。彼はともかく、私はそう思っている。固まっていないのならば、沈下は避けられない。

 

山岡(あきら)との出会いから現在に至るまでの事を人に話そうと何度か試してみたがどうしても上手くいかない。今回も上手く話せる自信はない。大学に入学して五日目の一限の授業前に彼に話しかけられた。その時の言葉は記憶の蓄積、そして忘却の循環を逃れて、未だに(またた)いている。

「昨日の本はもう読み終わったんだ」

私は教室の外に広がる芝生の上でサリンジャーの『ナインストーリーズ』を読んでいた。声の方を見て、まず大きな人だと思った。彼が太陽を消したからだ。それは後々構図の問題だと気づいたのだが、声の質感と体の質感の一致も効果的だったのだろう。身長は百七十六センチ。彼は私の持っている本を指差して、「『ナインストーリーズ』の中だったら『エズミに捧ぐ』が一番好きだな。『アイとセップンをおくります』という男の子の手紙終わりの言葉は印象的だ」という様な事を言った。語尾まで正しく記憶しているのかと問われると確信はない。その日はそのまま一限をさぼって芝生で話をした。途中、彼が缶コーヒーをご馳走してくれたので、お返しに私は鞄の中に入ったままの本を一冊プレゼントした。その日の夕刻から彼は私を斎木(さえき)と呼び、私は彼を山岡君と呼んだ。そのうち二人で出歩く様になり、私は彼を好きになる。彼は私ではない子を好きになり、その子と付き合い始める。さんざん抱き合い、あいつなどと呼びながらも、その子と彼は別れる。価値観の違いのせいだと彼は言っていた。そして今、彼と私は恋人である。ただそれだけの話だからこれでも少し説明が長い位だ。大切な事を一つ忘れていた。十日前、彼と私は初めて寝た。言葉を交わして、四百二十五日目、私が彼を好きになって三百八十六日、付き合い始めて六十二日目の夜に。彼と彼女の交際期間も手繰(たぐ)り寄せれば計算出来るが、その必要はないだろう。誰かに自分の恋の話を語りたいのならば、数字を伝えるだけで充分なのかもしれない。

 

彼には大学一年生の春、帰るべき部屋があった。そこは私の部屋とほとんど変わらぬ六畳にキッチンとユニットバスが付いているもので、体格のいい彼にはどれも小さすぎる代物だった。彼も私も実家が東京にあるにも関わらず、親に与えられた環境という名の透明な箱からの脱出の為にアルバイトをして家賃を払い、いつでも疲れ果てていた。僅かなお金で借りている小さな部屋の中、仕方なしに彼と私は触れてしまう。台所で料理を作る私の後ろを彼がトイレに向かおうとする時、物を取ろうとする時。最初はその度に、部屋の空気に細かい毛が生えた。そうなると二人は別々の体勢で、部屋中に毛細血管の様に張り巡らされたそれが窓の外に流れていくのを待つしかない。たいがい私は本の中の文字を只眺め、彼は音楽の中に時間を見出していた。そして、いつしか時間も習慣になる。毛が生える代わりに、それを受け入れる体勢を二人は個人的に持つのである。意識から遠ざける為に互いに背中を向ける。体から音を出さぬ様に僅かな身動きにも気を配った。何故あの時、彼と私は背を向け合っていたのだろう。寄り添い、体がどこにあるのか分からなくなってしまえばよかったのに。私が処女だったせいだろうか。私は皆に「寝たことはあるの。ただあまりいいものではなかった」と言い触れる女の子だった。経験は多すぎて悪い事はないという主張を持ち始めた頃で、その主張の元では私の行動はまるで子供と同じであった。

そして、その頃彼の部屋に行く度に何かを頂いてくるのが、私の秘かな日課になっていた。もちろんこっそり盗むのではなく、彼にきちんと伝えた上で頂くのだ。小さなビニール製の人形やら、シールに始まり、彼の洋服やらしまいには自転車を借りていったりした。借りるも、貰うも同様の意味を感じていたのだ。私が何かを借りたり貰ったりしている間、彼は私の隣りを離れないだろう。それは無言のうちに交わされた協定なのだと思って止まなかった。そして、人がたいがいの物なら手放せるという事実に気づいたのは、私の部屋の何処を見渡しても彼の物が目につく環境になり大分経ってからだった。それらは部屋の中と同様に街の中にも溢れていた。だから、私は一時外に出るのを止めた。外に出る元気を取り戻すと所有物はごみだと決めつけ、「私はごみの中で暮らしている」と皆に触れて回ったりした。

 

「山岡君はどうしていつでもそんなに音楽を聞くの?」

彼はいつでも音楽を聞いていた。移動の時はウォークマンを欠かさずに持ち歩き、電池が途中で切れると少し不機嫌になった。眠る時もオーディオからは微量ではあったが音楽が流れていた。トイレに入って暫くすると鼻歌が聞こえる。それはいつでもトム・ウェイツの『サン ディエゴ セレナーデ』だった。

神田からお茶の水に向かう道の途中、楽器店の多く立ち並ぶ道。日曜日の夜、学生街は水たまりに映る街の様だった。

「何でだろう。俺、機械が好きだからね。電源を入れると音楽が流れるっていうシステムが好きなんだよ。音楽そのものというよりも」

「変なの。山岡君は演奏会よりもクラブに行った方が感動するの?」

「斎木は極端だな。たいがい二つを目の前に提示するもんな」

「選択しないで決められる?」

「好きなものを決めるのに選択なんて必要ないと思うけど」

「一つを信じれる程しっかりした考えがないのよ」

「選択したいって思うのは若いからなんじゃない? やっぱり青春してるんだよ、斎木は嫌がるかもしれないけど」

「嫌じゃないけど、年齢の問題かな……」

「選択出来なくなる頃って(いず)れ訪れるんじゃない?」

「そうかしら……」

ちょうど山の上ホテルの近く私は呟いた。彼も私も街と呼ばれている街が苦手であった。彼は渋谷生まれ私は世田谷生まれであり、皆が訪れる為の場所が故郷と名のつく唯一の場所だ。どこの田舎にもありそうな景色は実際どこの田舎にもあるのだろうが、それはただの景色であり故郷の景色とは呼べないだろう。故郷の景色とは細かく、私や彼が見落として通り過ぎてしまう部分にこそ点在しているはずだ。彼にも私にも地元こそあるが、原風景らしき場所を持たぬ不安感が街への苦手意識に繋がっているのかもしれない。増加を続ける人や喧噪は理由めいて聞こえるが、決して街を作り出している要素そのものを嫌っているのではなく、明瞭な説明にすら(いきどお)ってしまう、そこに理由があるのではないか、ここで会話は終わり何時でも最後には水を探していた。噴水、自動販売機に並べられた水、蛇口、貯水タンク、故郷の話をするとやたらに喉が渇くのだ。

その日は彼がジャック・ケルアックの『孤独な旅人』という本が欲しいと言うので神田を訪れた。五軒目の古本屋でようやく単行本を見つけ、彼は今嬉しそうに包装された本を左手で抱え込む様に持っている。本の持ち方が既にビートニクらしくもない。ただあまりにも嬉しそうにしている人に向かってそんな嫌味を言うのはやめておいた。本を見つけた後、彼と私は夕食と一緒に小さな薄いグラスで赤ワインを二杯飲んだ。それだけで二人とも少し朗らかになり、山の上ホテルを右に少し下った道の脇にしゃがみ込んで、彼は話し始める。本当はここでウイスキーの小瓶を片手に持っていればいいのだが、彼が手にしているのは健康と商品名についている代物のお茶のペットボトルだった。

「うちの母さんは今日で四十六歳になる。弁当にはたまに冷凍食品を入れるけれどほとんどは手作りで、きちんと誰にでも気を使い、電話でのセールスにもやさしく受け答えをする人なんだ。だけどさ、母さん、うちの父さんを仕事先に送り出した後、玄関でこのままこの人は消えると思うんだって。どこか遠くに行ってしまうって。本当は船乗りなんだと思うって言うんだよ。父さんは新聞社に勤めてんのに。それなのに母さんは船乗りだと思っているの。だから毎朝、今日で永遠の別れかもしれないと思うんだって。変でしょ? そして、毎朝父さんを見送った後、短い手紙を書くんだよ。誰にも見せないけど、同じクリーム色の便箋一枚に必ずね」

そこまで話し終えると山岡君はズボンのポケットからセブンスターを取り出して、煙草に火を付けた。私も鞄から煙草を取り出す。

男の人がポケットから煙草やらお財布を出す仕草が好きだった。私も真似て何度かジーンズのポケットに入れてみたが、それらは何度かトイレの便器の中に落とし、道に落とし、どこかに消えた。私が立って用を足せない限り、それらをポケットに忍ばせるのは難しい。私は何回かの試行錯誤の末、ポケットには何も入れない事に決めた。煙草を大きく吸い込み煙を吐き出す。煙は見えなくなるだけで、決して空気と混ざってはいない。そんな気がした。

「こういう言い方はよくないかもしれないけど、お母さんは狂ってしまったの?」

「狂ったというよりも催眠術にかかってる感じかな。どちらかというと」

「催眠術?」

「うん。母さんその部分以外はとても真っ当な人なんだよ。だから、静かに大蒜の中身だけが萎んでいくあの感じと近いかな。外見は何の変化もないままにね」

彼は当たり前の様に話をする。その声は大きくもなく、けれど囁く程でもなく、大学にいる時と変化はない。彼の母の異常さばかりではなく、異常を認めた上で客観的に話している彼にこそ異常という言葉が当てはまるのではないか。時に教祖よりも信者にこそ恐ろしさの原因は見い出し易い。

「俺がその話を聞かされたの十九歳の誕生日だったんだぜ。その時は病院に連れて行こうと思ったけど、過ぎてしまうとそれ自体たいした事に感じなくなってくんの。特に身近に危機的な何かがある訳でもないからさ」

「でも船乗りって。あなたの家の近くに海はないのよ」

「でしょ、だから何かの暗喩なのかなぁと最近は思ってる。何の暗喩かは未だに分からないけど」

「その手紙は封筒に入れて、お父さんに渡しているの?」

「まさか。手紙は青い木製の箱の中にどんどん溜まっていってるよ。台所の米びつの奥に置いてある。うちの父さんは台所には決して行かないからさ。行かないというよりも行かせないんだよ。母さんがね」

彼の話は現実と白昼夢を行き交い、頭が(ほう)けてゆく。船乗り、米びつ、クリーム色の便箋、台所。不純物が混在する家庭という密室。クリーム色の便箋がいつも置いてある文房具屋に置いていなかったらどうするのだろう。それはきっと一貫して同じ物でなくてはならないはずだ。

「その手紙の中身読んだ事ないの? 私なら読んじゃうよ、きっと」

「何度か読もうとして、どこに仕舞ってあるかまでは突き止めたんだけどさ、親だからね。それに俺には催眠術の解き方なんて分からないし……」

「見たら見なかった事にはできないもんね。それに、家族だから会わない訳にもいかないもんね」

「そこなんだよなー。そのせいなんだよ」

「でも気になるでしょう?」

「そりゃね。何回か夜中に飲み物取りに行くふりして台所まで行ったもんな」

「それで?」

「なんかさ、びびっちゃって、冷蔵庫の中のお茶を一口飲んで部屋に戻ったよ」

彼はたまに次の言葉を言う為の間を必要とする。会話を一時停止してもその後、相手に言葉を喋らせずに沈黙を要求するのだ。

「実はさ、家に友達を連れて来た事は一度もないんだ。なんとなく駄目だと思ったんだよね、連れて来たら」

「昔からなの? その話を聞く前から?」

「ああ。いつも俺は誰かの家に行ってる記憶しかないもん」

「そう……」

「だから見送るという行為が未だによくわからない」

「私、今度行っちゃ駄目? あなたの実家に」

好奇心と最初の一人になれる優越感から私はそう口にした。冗談と取られても大丈夫な程に、私は少しだけ甘ったるい話し方をした。

「そうだな、あと十回位俺らが会った後なら。もういい加減に呼んでもいいよな」

「いつでもいいよ。その時、私少しだけ上等な洋服着てくわ」

そこまで話した辺りで二人とも煙草を地面でもみ消す。同じ様に煙草をもみ消した跡が私の足元に残っていた。跡をつけた誰かは急いていたのか、長い事ここにいたのか、その跡は羽ばたく蝙蝠(こうもり)の形をしていた。「マッテ」という文字にも見えた。

「お母さんは本当にいなくなると思っているのかな、それともそれは願いかな」

目の前のビルの入り口からは水が僅かに滴り落ちている。なだらかな傾斜を下って一筋の夜に、輝く川を成している。そして瞬きの間にコンクリートの地面はそれも吸収してしまった。少し前まで電話ボックスが設置してあったのだろう溝には、水が溜まって一つの終わりを早急に作り上げる。

彼が儚くも空恐ろしい母の虚言(たわごと)を聞けるだけの大人になったと、彼の母は思ったのかもしれない。彼の母に興味と恐怖を抱きながら、私はどう捉えられるのかを想像する。まず嫉妬に始まり、彼と私が禁欲的な関係だとしても、子供が出来ているかもしれないという不安感に一ヶ月に一週間近く怯えつつも、その事すら再び忘れてしまう様な関係だとしても、そのどちらにしろ私は彼を脅かす悪しき存在でしかないはずだ。すると、彼の母は私だけを孤独な存在に突き落とすかもしれない。自分の若かりし頃も忘れて、衝動には耳を貸してはくれないだろう。

 

「なぁ、斎木はさ、物覚えいい方?」

「部分的だけど、そこそこは」

「去年の夏、梅雨明け宣言が二回あっただろ、二回目の宣言があった日何してた?」

 

2007年9月25日公開

作品集『夕凪の部屋』第1話 (全8話)

夕凪の部屋

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© 2007 竹之内温

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