哲学的な、余りにSF的なゾンビ論証

渡海 小波津

小説

3,743文字

哲学の死は訪れるのだろうか

哲学的な、余りにSF的なゾンビ論証

理論の確立は時代を遡ること百と五十年ばかり昔であった。当時から今に至るまで、机上の空論、形而上学的な、SF的な空想に過ぎないと言われ続け、酒の席での話に上がる程度のものであった。

そんなとき、私はいつも心からその冗談を受け入れることができないでいた。それと言うのも、その理論を研究していた――当時はその分野の第一人者であったのが、私の曽祖父にあたるK教授であったからだ。

私の祖父も同じく研究者ではあったが、祖父の頃には理論の実現性という面で不可能と棄却されてしまい祖父は物理学の道へと進んでいた。そんな祖父はよく私 に曽祖父の研究内容について話をしてくれた。それが今に至るまでの影響力になるとは私自身思っても見なかったが、今振り返ってみると自ら選らんできた道で あったのだなと確信している。

私がまだ中学、高校時代の頃に友人たちと空想を交えた議論をしていたことも懐かしい。中学時代の自論はこうであった。

哲学的ゾンビ――ゾンビ論証における意識のみない機能的に複製された自分は、意識がなくとも複製元の自分と同じ言動をすることが物理的に可能であり、物理法則に乗っ取った化学、生物学的に感覚を有することができるというものであった。

それゆえ、二元論的な意識が存在し得るというものである。

私がこれに加えて考えた自論が、量子テレポーテーションを用いて粒子間で情報を共有したまま複製を作ることで、意識を持たずとも同じ言動をすることが物理的に可能になるというものであった。

人が想像し得る物は実現可能だと言ったのはドイツの哲学者であっただろうか。量子もつれを保存した人工細胞、それを制御するコンピュータプログラムといっ た技術的問題は、私が高校を卒業するまでには解決されており、ただそれらの技術は医療や工学の分野に直接使われるままで、哲学的ゾンビを実現しようとする 研究者はいないようであった。クローンとは違い、複製元の言動を量子レベルで伝達し同様の言動をさせることができる。しかし、唯一の問題点は、座標が複製 元とずれることで生じる受ける刺激の差異である。環境的な面を同様にしなければ、本来同じ刺激に対して同じ反応を示すべきであり、日常レベルでは難しい。 そこで仮想実験と同じ環境を作り双方を同じ作りの部屋に入れたらどうだろう。もしくは人工環境によって同じ環境を作れればこの問題は即座に解決するはず だ。

そして、この哲学的な、余りに物理学的な実験を行うには膨大な費用と協力者の助けが必要であった。必要ではあったが、どこの学会でも酒の肴 としての話でしかなく、一度酔った勢いで話したことがあったそのときさえも周りは面白い話だとまともにとりあってくれる者はいなかった。いや、酒の席だっ たからまずかったのかもしれない。だとしても、再びあの話をする気にはなれなかった。

 

「K教授、それが実現したら世の中の人は働かなくていいではないですか」

と、T大のO先生がワインを傾けながら言う。

「仮に座標をずらして配置すれば手を動かすだけでゾンビはパソコンを操れるではないですか。これはオリジナルとゾンビのエネルギー差を生みますからして別物になったと言っていいでしょう」

赤ワインをくるくるとして笑みながらO先生は一口つける。それに続いてK大のS博士は、

「座標をずらせるなら、片方の世界で向かい合った状態から二歩横にずらせば、シャドーボクシングが片やゾンビどうしの試合に変わっているわけですな」と言う。

S博士は酒は飲めないそうだが、毎回この雰囲気にか匂いにか酔った様子でいることが多い。

「戦争で何でも解決までできちゃいますね」

横で聞いていた別のK大のI教授が言う。

「それでもですね、これは哲学的ゾンビの存在が否定されてきた今までの考えを逆転できるチャンスだと思うんですよ! しかも仮想実験ではない、物理的な実験で、です」

「まあまあそんなに怒りなさんなって酒の席での話ではないですか」

「そうですよ。あくまで空論じゃないですか」

「私は、信じてもいいですよ。星新一の世界みたいで面白いですからね。夢は見なくっちゃ。ねえK先生」

と、めいめい言うと去ってしまった。残った私は近くのテーブルに置かれた白ワインのボトルを取ると一口つける。鼻を抜ける爽やかさに似合わず渋みがごろりと喉を下がる。そのごろごろをいつまでも感じながら私は会場を後にした。

 

ずっと、信頼と研究費を得るための日々であったように思う。院生から育て、有望な者を抱えることもできた。

それが、――哲学的ゾンビが形而下的に存在する証明のための、全ての準備であった。

曽祖父の理論には技術的な部分は一切なく、それ故に私の補足がこの実験の大半を占めていた。そして、その補足の大半はすでに、現代の科学技術によって確実性を保証されている。後は予定通り、三月九日に実験室にてゾンビ実験を行うのみである。

私は自宅のリビングでらしくもなく気持ちが昂ぶるのをワインの酔いで鎮めていた。フルーツの爽やかな香りが喉を滑り降りていく。

 

三月一〇日、実験は予定通りに、滞りなく行われた。一点、私の不在を除いては――。

私が当日いなかった理由は私からすれば簡単に知れることであったが、実験に立ち会った者たちにとってもまた周知のことであったのだろう。誰の考えかは知れ ぬが、恐らくはK大のS博士であろうと思う。昨夜飲んでいたワインは確かにS博士から贈られた物だったからである。仮に、確かめていたとしても開封の形跡 は見られなかったであろう。なぜなら彼の専門分野はまさに遠隔的操作による物質の変化・安定だからである。今回、量子もつれを維持したままゾンビの生成を するにはどうしても彼の研究チームの力が不可欠であった。そして何よりも唯一彼だけは、私の研究について半信半疑でありつつも支持をしてくれていた。もち ろん今回成功した際は彼の名を連ねての発表となるはずであった。まあ死人となってしまえば悔しくはあるがそれまでだったと諦める他はないのであろう。

ただ嬉しかったことは、私の研究に間違いがなかったというそれに尽きた。

インヒューマンと呼ばれた哲学的実在ゾンビに価値を見出し支援してきたのは、思わぬ業種からであった。CG技術からリアル主義に移った映画産業が、危険な アクションや人では難しい動き、また毒物や危険物、実弾の使用といった決して生身の人間では不可能なシーンを撮るためという理由で研究費を出すことになっ た。それまでも人工的に生成された人間のレプリカを使っていたのだが、動きをつける際にはどうしても機械を使わなければならないため、不自然さが残るとい うことらしく、リアル根本主義の監督からは受けが良くなかったそうだ。しかし、インヒューマンを用いることで役者の演技がそのまま活かされつつリアルな描 写が撮れることが多くのリアル主義から賞賛された。

その次に声を上げたのがスポーツ業界であった。昔、K大のS博士が言っていたようにボクシングやプロレス、闘牛までもが危険なくそして選手の腕が競えるという利点からである。

そしてもちろん、宇宙産業や消防、自衛隊活動といった分野でも支持を受けた。

 

技術的な問題は早々に解決され、インヒューマンは着実に実用化への道を進んでいた。

しかし、快く受け入れない者たちも少なからずいた。それは、哲学的ゾンビは人間であると主張する哲学者、動物保護団体、一部の政治家たちであった。S博士 の専門は物理情報であり、哲学に関してはまったくの素人である。そして、その答えは――実験後に書く予定でいた哲学的ゾンビの非人間性についての論証は、 私とともに消えてしまったのであった。私は、この酒の席での笑い話にどれだけの研究時間を割いたことか。

そしてインヒューマンはその名に相応しい形でこの問題の解決に使用されることとなった。人間対非人間、――戦争である。

インヒューマンを人間とする側は、既存の軍隊にゾンビ――彼らを加えた。

一方、インヒューマンを非人間とする側は、兵器としてゾンビ――それらを導入した。

力には大差なかった。だからこそ結果は明白であった。

兵器は尽きても軍隊の控えていた側は、軍人の少なくなった側を容易く制圧していく。兵器に損害が出ても誰も気になど掛けない。故に作戦は淡々と遂行されて いった。片や人が死ねば、同朋が死ねば弔い悲しむ。彼らにとって『彼ら』は人間であり、まったくそれらしかった。一方は彼らにとって『それら』は兵器であ り、まったく人らしくなかった。肉体は改造され、それこそ映画に登場するモンスターのように破壊的な武器に覆われていた。戦争は人対人ではなく、やはり人 間対非人間であった。

人類の半数が消え、消えた分のゾンビが街を歩く社会へと変わった。
私は、もう少しではないかとそろそろ思っていることがある。もうすぐで怠慢になった人間たちが全部の仕事をゾンビに任せるようになった頃、私はもう一度目覚めようと思っている。

私の身体はゾンビ一号として今なおこの資料館に保管されている。

どうやら哲学的ゾンビでも、意識はあるらしいではないか。

 

 

2013年10月22日公開

© 2013 渡海 小波津

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