ここに書かれたことは普通のこと。

W-E aka _underline

小説

10,161文字

『 河南文學 』8号(1998)掲載作品

         ◇

 火星。女。ブラインドの透き間から差し込む星の光に照らされた健康的な色づきと肉を持ったその背に男の手がのびる。語らい。二万三十秒。二度目の前戯と窓の向こうで青い流線。抱擁。四十秒。ぶれ。男の腰の上で揺れ、落下し消え、回転し、ふいに目を開く、女。

 天井。一瞬の停止、七秒? 二秒? 清潔感と肉欲と、それ以外の安心感によって彩られ、建築された空間。女はいう。あなたは、だれ? 判断停止。上下左右に動く景色に男の形、温度差、音、視線を感じて、女は体をあずける。街。逆行。二十五時間前の景色。差し込む光の減少。似たような室内、天井、男、自分自身——それは、女の視界。千十時間の逆行——また、五千二百時間の経過。女はつぶやく。二百一、二百二。それは、彼女自身を数えた数字。

 ブラインドが、室内の風で揺れる。太陽のまわりを四番目の近距離で走る惑星、火星。その星が女の瞳に映り、永遠の熱の流れに換えられ、氷結する、ため息——。

         ↓

 太陽の照りつける海岸に二人。女はビキニ。男はシャツのそでに手を通しながらいう。「おれになにを求めてるの?」植物の風に揺れる姿。飲み干されたコップの中身。男の手から灰が落ちる。煙。熱い砂に重なり混じり区別がつかなくなっていく。女。「永遠に触れたいのよ」男。「それはおれも同じさ」おぼつかない足どりで机から椅子へ移動する女。それを目で追う男。太陽のきらめき。黒い一筋の雲。さざ波。「しばらくあなたとときを過ごしたい」「しばらく?」「ここにいる間だけの短い関係」それでも構わないと男は思う。女は美しい。だが、彼女がいう以上のときを過ごすと、その不動性に狂いが生じるだろう。彼女は一枚の写真。それはつまり死であり、同時に永遠の象徴にもなる。切り離された風景。男はいう。「おれは君のすべてを見ている。すらっとした足、優雅な髪、かもめのように自由を持った手、静かな心、かなしげな顔——もはや変えることのできない君の姿が、おれの瞳に焼きついている」男は空と海との狭間を眺める。「君はおれになにを見ている?」女は、しばらく沈黙を噛み締めてから答える。朽ちる以外にないもの。粉々になり、本来の形が分からなくなっても、死を感じない存在。もしくは死そのもの——。でも、生きているわ」と彼女はいう。半径の小さい円を一つ描いたあと、テーブルの上のコップを手にとり、椅子に腰かける女。「あなたが機械だったらあたしはここにはいない」一枚の写真が落下した煙草の火に焼けて、汚く変色し、湾曲する。波と鳥、かすかに風。女はストローをくわえた口紅の中に、溶けた氷を吸い、かぼそい声で秒読みをはじめる。一から。冷徹に。陽。女は、足を揺らしながらつぶやく、「もう一は通り過ぎたわ」それは、二人の決定的な違い。目をくりぬいて、握り締め、自分の胸の前にくりぬいた眼球を持っていく男。砂の上に赤と足跡。不規則に起こる雨の音。女は秒読みを続ける。それは零ではなく、いずれ訪れるだろう最後の数を目指して語られる。残照。「君の永遠は連続性の中にある。だがおれの永遠は、連続が途切れた瞬間現れる」二人の人間の衝突。その声は熱い海岸から切り離されて波間の果てに消えていく。
 
         ↑

 火星。その星が女の瞳に映り、永遠の熱の流れに換えられ、氷結する、ため息—女は髪を掻きむしり、
笑う。五千二十一、五千二十二、五千二十三、五千二十四……

   ここに書かれたことは普通のこと。
 

 女は窓に寄り添い脇目で三メートル先に横たわる男を見ながら思う。早くあなたの声が聞きたい。何千もの部屋の中の一つ。移り変わるイメージ。街路、車道を走る鮮やかなライト、静物と化した都会の雑踏。女はガラスの向こうに、夜の街ではなく、死の幻影を発見する——容器で切りつけられた首、大量の黒い血。衣服をつたい、床に沼のような染みが広がる——割れるガラス。ぶれ。ガラスのあった部分に血文字が浮かび、二人を硬直させる。あなたの愛がないとこの人に心を奪われてしまうわ。女は破片を浴びたために、全身が血でスッポリ覆われている。三メートル先に横たわっていた男はなにかを憎むかのような瞳で、女の裂けられた背中を凝視している。ぶれ。女は唇を噛み締める。ガラスに手をやり、街の明かりを覗き込む。何千もの部屋の中の一つ。女は九メートル歩いてシャワーを浴びる。透明の水が次々、排水溝に流れ込んでいく。

 何万もの水が落下音を鳴らし、平素の空間に途切れを生じさせる。汗を洗い流している女を包むように男の‚ひんやりした二本の手がやさしく伸びる。女は、男に抱擁される。依然シャワーは続けられる。女の意識の大半はその運動に強く魅せられている。早くあなたの声が聞きたい、と女は、手首を三十八度動かしたばかりの男を鏡に見つけてから思う。何千もある浴室の中の一つ。何万? 何億? 水の落下音の列なり。女は男に連れられてベッドに横たわる——二ミリメートルの距離——それが一瞬にして消えてなくなる。

 女はあなたを何度も思いだす。大量のビルが崩れていくイメージ。その爆音が室内にこだまし、そのせいで表面積の大きなガラスに繊細なひびが一つ入ると、そのたびに女はあなたが存在していることを思いだす。それは一秒間に一、二回? 女は、自分の腹の上で不規則な連続運動をする男に向けて、敵意の声を発する。ビルのイメージが一つに定まらない。女があなたを思いだすのは、依然一秒間に、一、二回? そのことが女をひどく苛立たせる。今目の前にいる男によって与えられた快楽は、妥協や屈服の産物だと、女は結論づける。不規則な運動が、さらに六十分間繰り返される。

 セックスの終わり。男と女は並列状態で横た‚わっている。あなたの声は聞こえない。清閑とした室内が比較的スムーズに下流を目指して進んでいる。何千もの部屋の中の一つ。移り変わるイメージ。タクシーのナンバープレート、交差し絡みあう灯、ヘッドライトにさらされたグレーのスーツ。女は思う。——これは出会いではない。ベッドの上で少し斜めになるよう男は姿勢を変える。女はベッドの上で、二人がシンメトリーの関係を刻むようにそっと自分の位置をずらす。天井の照明が声高に静寂を指揮する。女はあなたの声が聞こえないと、その一言だけを思い浮かべては掻き消し、を続ける、終わり。

 男は立ち上がり、女の首を切る。女は痙攣し、魚のように跳ねて、軽自動車? 血に沈む。高速道路。サイレン。衝突? 女の開けられた胸の暗闇から、男は血文字で言葉が描かれた、脈打つ心臓をとりだす。額を拭う、男。何万もの部屋の中の一つ、二つ? 手の中には、セックスの終わり、という、女の表現した言葉。血文字。カットされる髪、傷つけられる肌。ぶれ——男は一秒間の半分のモーションをとって四メートル離れた真っ白の壁に女の心臓を放り投げる。衝撃。破壊音。ぶれ。平常心を保ったまま起き上がる女。男はベッドに腰かけたまま動かない。

 三文字から二行の沈黙。

 あなたの愛がないとこの人に心を奪われてしまうわ、という文字が判読不能になり、ガラスの一か所にひびが入る。夜が通り過ぎる。朝? 男と女はなにをしている? 睡眠? 会話? もう二人の間にはなにも起こらない。女は念入りに思う——あたしたちは出会ってすらいない。さらに、あなたの存在を女はとり戻す。声が聞きたい、早く——早く——早く。

 ある男は、女の留守番電話に声をいれる、もはやその行為に対話の関係が内在している確信を男は持てない。聴き手は待っているのか? 電話に近づくことがあるのか? 番号が間違っていないか? 声は思っていることを語っているのか、正しく? 声でないものを使っているのではないか? 別のものを受話機だと思い込んでいないか? 繰り返されるこれらの不信感は闇の中へ落ちていく。何メートル? 同じように留守番電話の前でたたずむ老人を見る。トンネル? 急速に通り過ぎる赤い地下鉄? ここは何メートル下? 時間は、明らかに逆行している。何秒?

 男は遠ざかっていく女の幻影を追って後ずさる。息急き切って走れば走るほど女は見えなくなり、小さくなる。周りの染みと区別がつかなくなる。男は老人としゃべる。——列車の進行方向に怒りを感じますか? わたしを迎える女はすでに老婆と化し、命を捨てたあと僅かな時間となってわたしを待っている。——テレホンカードもしくは硬貨の残りについて……。トンネル内をはばたく黒い鳥がすべてを知りなにも知らない。——何メートル? 六本の木がまばらに生えている。映写機の不在。——母国は? 歳は? 男は老人から離れて、列車に乗り込む。昼。

 女は旅路の果てで別の男と体を重ねる。その男に女は、あなたの存在を教えてしまう。男は三十センチ腕を動かし、女の腰を三十三センチ引き寄せると、嘲笑する。生れた時代を間違えたんじゃないか? 女の胸を揉みしだきながら、もしその男と再会するチャンスがあるとすれば、それは奇跡だ。例えば、人が馬と虎に分離してもおかしくない時代がまたくれば、可能性はある。嘲笑、足をばたつかせながら。三度の爆笑、女は押し倒され、身動きがとれなくなる。理由は不明。ただ、男のすることなすことす‚べてに裏があることだけは察知する。虚構色の拡大。七十分間も男の愛撫を受け八十分間交わったあと、女は目を閉じる。翌日。

 女は奇妙な思いに捕らわれる。苦痛、羨望、氷解? あなたの声? 男は、あなたの名を持ちだしては微笑し、苦笑? 小馬鹿にしながら驚異をもたらす。外は晴れ? 晴れ。場所はホテル? いや、避暑地——プールあり。男は、ごく自然に卑猥な言葉を口にし女を笑わす。ふいに男は様々なことを強要する。二十三センチの男の性器が、十七センチのところまで女の陰部に隠れる。二、三、四……。セックスの長さ八十九分、オルガスムス二回。雨。

 女と男は始終セックスに明け暮れる。電話ボックスで女は、三度昇天を味わう。あなたのことを女は思いだせない。翌日。黒雲に突き剌さった、五本のビルディング。女は悶えながらいう——もう六千四百五十二回目に入ろうとしているわ——駄目もう数えきれない——女はいう——あたし、頭がおかしくなりそう——駄目狂ってしまう、あなたの声が聞こえない——翌日。五百六十日後。夕暮れ。男はいう——君によると、おれたちは六億七千回以上したことになる。六億七千三十九回。君‚のいくときの声はとても素敵だよ。女は、男の正体が見抜けない。そもそも裏が実際にあるようには思えない。白夜。さらに五回の性交。翌朝。場所は? さらに、翌日。男はいう。おれと君の二人さえいれば永久にすばらしい快楽にむさぼりつくことができるよ。女はわが身をきつく抱き締めていう、でも、ここにはだれもいないわ、二人すらいない。続ける。

 二人の結末に血は流れない。六億七千七十回目の穏やかな時間の流れ。女は膣内に感じる摩擦感と増幅する喜び、憐れみ? そして永久運動を可能にする不愉快な悪魔の存在を抹消させる。航空機事故? 脱線? 横転? 五十ミリグラムの男の肉片が気化し、腕が崩れて耳が殺げ落ちたとき、女はようやく男のそばから離れる。何年ぶり? 六千七十七日。永遠? 八億日間? 男は姿を消されても女に話しかけてくる。どこまで逃げても君はもう君だけじゃない。嘆声。

 女は走らなければならない。女は立ち止まるとあの男に強姦される。草原が走り、樹木が流れ、煙突が駆け巡り、汽笛が波しぶきとともに遠ざかる。新興住宅地が列なり、工業地帯を抜け、繁華街に突入する。丘? 海? 山? 女はのどの乾きを覚え、空腹に脅かされ、肉体疲労や恐怖に襲われる。砂漠? 氷原? 荒野? 地平線の向こうヘ——水平線の彼方へ。女の走行は九十年間を二度越える。続行。

 ぬかるみに足をとられて、七本の光の筋が交差する林の中で、女はついに屈服する。七十から八十の影が幽霊のように、屋上? 風? 女の視界を横切る。二匹の鳥、悲鳴? 残骸? のはばたく音。呻き、喘ぎ声、苦しみ。泥をつかみ二十センチ先の枝を析る手。快感。地獄。しかしここには彼女一人しかいない。六億七千七十一回目。男の姿が見えない。悲痛。凌辱。タ日。一年前。昨日。三百年間のときが前後する。場所がテレビの中に移る。暗い林の中。立ち上がる女。そして汚辱。

 女は、白い明かりを望む。十六枚目。

 女は列車に乗っている。ここではあの男の力が及ばない。時速六十六キロ。女は正面に、別の男の姿を見つける。赤い地下鉄。残響。ずれ。その車両にいる人物は二人。男はだれもいない平原に一つだけある石が風で裏返る瞬間を夢想して、その石のかけらから実は女が作られて今の自分がいるのだということを考える。老人の韻律。曖昧性。女は自分が身ごもっていないか心配になる。それぞれ、二人は車窓に顔を寄せる。赤い光線の三つの通過。湖に乗って揺らめく街。レンガ。モニュメント。四十八度と三十二度の方向転換を行い一メートル半の間隔をあけて走り去る二頭の馬。批評。発展? 男と女のサイズが少し小さくなる。列車のミニチュア化。思いの減少——荒い赤。ずれ? その車両に人物は二人。本当に? 十二人。ゼロ? 二人。女は突き差すような陣痛を覚える。嘔吐感。屈辱。六億七千七十一回、彼女と性交したあの男がふいに隣に訪れる。おれの力は届かないけれど君はもう君じゃない。白のノイズ。十二本の線。その男は背後にいる人物を発見し、五秒間確認、証明、解説したあと大いに笑う。十六分の一秒を七十回分足をばたつかせ、苦笑。吠えるふりをし、二秒間? 女に向き直る。車両内に人物は三人。サイズがもとに戻り、照明が落ちる。暗闇? 列車の中? 凍結。

 女は断崖に立ち、あなたを思いだす。堕胎。

 奇跡的出産の光景。女は大地と一体になり、もはや鳥が肩、ひざ? に乗ってもなにも感じない。衣服は埃になり、乳房は木の彫刻のようにくすんでいる。雲のように流れる歳月。季節は一秒ごとに移り変わり、裸体の女は周辺にある岩や枯木と区別がつかない。雷雨? 氷雪? 星が化石と化し落下する。無数の人型の植物が黒ずみ、岩石となり、地と天をそれぞれ仰いでいる。暗転。女の下腹部のズームアップ。一瞬の静寂ののち、ひび割れが一筋起こり、産声があがる。歓声。大拍手。裂け目からかわいい小さな手が飛びだし、その八秒後にかわいらしい顔が現れる。父親不在。スポットライト。あなたの泣き声がその光景に終止符を打つ。あなたの復活——命。

 次に神秘的母親殺しの光景——クラシックと民族音楽。こげた葉のこすれあう音。不毛の大地。老木のように崩れかかった女の上半身。体の痛み。サーベルをとりだしたあなたは風の声を浴びる。少年の風采を帯びている。伽藍? 白昼。半径一メートル五十センチの円。夕日。筒のような大木、鶏? 鮮血。カンバス? の首が飛び、スローモーション。目元に笑み、産まれて間もないあなた——少年? は呼吸を崩さず鉱物、生命? を真っ二つにし踊る。三分の一の球、半円。犬、ろば、ハムスター、鹿、黒い巨大な蜥蜴、牛、十億七千七十匹の死体。腐臭と血、女の遺体。乾いた風。少年は母の胸に頬を押しつける。涙。ちりが‚ゆっくりときの中を通過する。肉片の数々が砂をかぶり、風化の一途をたどる。十八分。少年は、女の胸を切り開き、空洞を見つける。受け止めようのない絶叫——

 少年は母を六億七千七十一回犯した男を捜し、追いつめる。場所は? 二人の間の距離は? 男の表情は? 天候は? 温度は? 光彩は? 少年は右手をあげる。天から石作りの平べったい円盤が落下し、腰が抜けていた男はぺしゃんこになる。排水溝に流れる血。噴水のように、円盤の周囲で吹き上がる血。日光。震える少年の身体、拉致? 千七十三秒。煉獄? 男は少年にいう。——おまえはイマジネーションの暴力だ——。哀願。のけぞる少年。苦しみ。十億七千七十一つ目の死体。

 もだえてもなお増加の一手が加えられる、殺人の欲望。

 少年——青年? は母親の奪いとられた心臓を求め、放浪を続ける。ばたばたと落ちてくる鳥、衝突し炎上するトラック、あとを影のようについてくる廃人の群れ。青年は脱いだ上着を踏みつけ、胸の前で手をクロスさせ、右下がりに体を傾ける。延々と歩く。降り続ける小石、飛び降り自殺するものの空中静止、ゲイの男の無数の手。青年は街の一角で生まれたばかりの天使を見つけ翼を二つもぎとると、九つ? それをサーベルで突き剌す。白。剣を投げ捨てふいに青年は思う。——あなたのこえが聞きたい、今——今——今——今。

 青年は何度もよろめき、倒れながら? 二つの行為を進行させる。一つは穴を作ること。目を見開き、青年は、広大な荒野に自分の体をかたどった空間を作る。一つ、二つ、三つ。浮かび弾ける、土、鉱石。水。もう一つは体を重ねること。見知らぬ女の両肩は、青年の鷹、爬虫類? の鋭く尖った爪に切り裂かれて血まみれになる。ぶれ? 十字架の墓石が落ちてばらばらに砕ける。髪の長い女、目のくすんだ女、背の高い女、唇の薄い女、渓谷に住み続けた女、鼻の高い女、八度、死をくぐり抜けた女、青年は一人女を殺すごとに数を数える。一人、二人、三人。大地に開けられ陽を浴びる青年の墓穴。臙脂色。そばに犯され殺された女。一輪の花をつみ、岩場に腰かける青年は、数が零になったとき、母親の心臓を奪った男の娘に出会えると信じている。数億日の経過。青年は青年のまま生き続け、九千回の死を体験する。幾万枚もの絵が無造作に降下する——宗教的な絵、叙情的な絵、アート・セラピーとの関わりを持った絵、悪夢、戦争を描いた絵、人間の根源的存在が追究されている絵、芸術破壊を目的とされた絵、決して得られないものが描出された絵。風景画が二千枚落下し壊れる。青年は汗まみれになって女体を抱きかかえ、自分の数を滅らすために相手を殺す。増殖していく穴。遺体。風雨? 激痛? 青年は自分の脇腹を抉りとり、それに原罪という名前をつける。傷つけられる首筋。吹きだす血。黒? 出血多量で青年は死に、歳月が経つ。輝かしい太陽の光を浴びて起きあがる青年——数億日の経過——これまで青年に殺されてきた女の硬直した白い死体が降り始める。雪のように、灰? 積もる女の死体をかきわけて数を減らそうとする青年。唇だけが赤い死体、腕のはずれた死体、別の女と合体した死体、舌の抉れた死体、腹部から足がはえてきた死体、髪の抜けた死体、胴体の崩れかけた死体、生きているかのような死体、骨のつきでた腐敗途中の死体。青年は、脇の下まで降り積もった女の死体に埋もれ、生命を吸いとられながら、更に新しい女とセックスし、命を奪う。——潜水するように、沈下? 死体の狭間を縫い、墓を掘る——青年は心の中で呟く。これでまた一つ——胸を押さえ、心臓のあるはずの場所に青年は自分の拳を入れる——青年は手をクロスさせ、わめく。慟哭。夢。

 回数の限られた、莫大な数の行為を終えた後にくるものは? 激しい呼吸。ときおり重ねられる唇、舌。厚みのある肉体。四十三度の熱、蒸発する汗、唾液? 声。からみあう手足。日暮れ? 木作りのベッドの軋む音。日陰? 抱き締める。永遠の中に足を踏み入れたとき、二つ以上の存在を分かつための確かな証拠は? 女の、心の果てに旅立ち湾曲と暖流と断絶の入り組んだ迷宮を流れる形をはぎ捨てた意識は、巨大な奔流となって青年の快楽以外の命を支える中身のない柱の内部へ入り込む。薄い言葉の列なり。無から有への転換。女の苦悶の表情、偶然性。いかずち? 群青色? 深い赤の濁流。生命の源にある声。青年は女の野生味のある手首をつかみ、自分の心臓のある場所へ引き寄せる。二人の男女を中心に、世界のすべてが凍りつく瞬間。——六億七千七十一人目の女の、ひきつる顔。女は驚き、焦りながらいう——あなた……あたしの心臓は、どこ? 判断停止。

 青年は両手を女の胸につき刺し女の脈打つ心臓をとりだす。六億七千七十一人目の女。青年は次にŽ自分の胸を開き、染み一つない暗闇の空洞をさらけだす。二人の間に女の心臓。数百億年の時間を超えた男と女の再会……到達? 青年は声をしぼりだすようにいう——早く、あなたの声が聞きたい。女は一メートル半後退し、一秒間の半分のモーションをとる。ぶれ。青年は七十五センチメートル先に浮遊する女の心臓に自分の言葉や思いではない、血液の中に生まれたときから書き記されていた、母親の言葉を表現する——セックスの終わり。青年は、その真意が分からない。四メートル離れた真っ白の壁に放り投げられ、激しく破裂する心臓。女の死。ぶれ。のどの乾き。

 青年は白い明かりを望む。断崖に立つ。

 迷走? 投身? 列なる映像の遠景、全景? 化。

 三十枚の連作。大聖堂の壁画に描かれた絵、精霊? 青年は六千七百七十五回の変化を遂げる。不死の誘い、遂行? 五メートル浮きあがり旋回する。暗黒舞踏? 青年の爪が十六色に塗り分けられ、地との距離がさらに八メートル遠ざかる。九千メートル? 金星、ぶれ。青年の上昇の光景、浮遊? 黄金と白の光線を放つ暗闇の中のオーケストラ。ドラムンベースの混入。オペラ歌手のあらん限りの声。山頂を横切る気球? 金色の聖なる石? 象徴的現象の蓄積。対立。死、必然? ぶれ? 青年は表現する。個人だけの世界に死を! 量産される同じものに火を! 真っ白の壁? 心臓? ぶれ。輪郭が作られペイントされる青年の胸の中の空洞。神々のささやき。全焼? 火災事件。ガソリンの投下。大きな足に踏みつけられて、どす黒い血を吹きだしながら潰れる青年の心臓の模型、それとも、そのもの? 二十九枚目終了——あと一枚の行方の喪失。捜索の打ち切り。大炎上。最後の一枚に描かれていた、もはや手に入らない壁画の内容は? 独白、青年の? その通り——

 失われた長方形。そこに描かれていた青年の声は円環? 停止? 御都合主義的終焉? 未完の終結? では、消えてなくなることにより想像されるだろうあなたの記憶に浮かぶものは? 呼吸。あなたは今文字を追っている。一から、途中から? 読み始め、ここまできたあなたはすでに次の一文へ渡ろうとしている。ラストを先に読む? ラストの言葉は、ここに書かれたことは普通のこと。あなたは、最後の言葉を知った上で読み続ける、閉じる? 単調。この失われた三十枚目、青年の独白の代わりにつづられた白紙同然の情景は、反復関係にある向かいあった鉱物のような二枚の白い空。何千もの直線の一つ。さあ。瞬間移動の奇跡を起こしてみせる青年のイメージ(それは一つの現実だが、見るものの数だけ存在し、またときには否定しあうこともある)と確実性。消失? 目。愛。恐怖? ここに書かれたことは普通のこと。

         ◇

 女は、ベッドに横たわり眠っている男を起こさないよう、慎重に帰り支度をはじめる。ブラインドが揺れその透き間から白みだした空が伺える。起きあがる男。気がつかない女。女は窓に近づいて赤いマニキュアの塗られた細い指先をブラインドに伸ばす。広がる白い空。部屋に差し込む光線の量が増加する。目元を片手で隠す男。女はかすれてほとんど分からない火星をじっとガラス越しに見る。永遠の熱の流れが滞る。五秒、六秒……。男がベッドに腰かける。徴かな音にはっとして振り返り、そこにさっきまでの男ではなく、老人の姿を女は見つける。

 時間が逆行する。老人と女の距離は二メートル八十センチ。部屋の中に人物は二人。女はいう、あなたはだれ? 老人‚はきれぎれの声で、名づけえぬもの、と答える。ガラスの破片、ビルの爆音、高速道路、赤い地下鉄、電話ボックス、汽笛、岩石、それらは女の視界。部屋の壁が消滅し、地平線が八方向に広がる。光が散乱し、風の巨大な音が老人の周囲を駆け巡る、それらはやはり女の視界。あなた——少年——青年、二十九枚の壁画と失われた一枚。女は、静かに老人を見据えて固唾を飲む。老人は沈黙したまま動かない。女は啓示を受けたかのように部屋をでる。老人——男? は声をかけようとして諦める。煙草をとり、ライターをとり、火をつける男。煙草を吸い、煙を吐き、それを五回繰り返したあと、吸い殼を灰皿に落す。

 彼女の姿が遠くなる。小さくなる。やがて、消えて見えなくなる。砂が吹きあがり、周囲が灰色に覆われる。沈黙。霧雨が降りだし、視覚に対する信頼が危うくなる。全体に霧がはびこりはじめ、色彩やものの区別がだんだんつき辛くなる。街の中とは思えない景色。ちりが風に流れ、遠くの街灯の明かりがぼんやりと浮かぶ。紙袋か新聞の切れ端かなにかが、音を立てて地面を這っている。風。細やかな雨。彼女がどこまで歩いたのかまったく分からない。静寂。と、突然女の去った方角からなにかが向かってくる気配がし、それが轟音に移り変わる。薄い光が鮮明な二つのライトに変化する。どんどん近づいてくる感覚。後退り、驚きの声。唐突に飛びだしてきた一台の赤い車。霧を左右に押しのけて、巨体を奔放に揺るがさせる。手にしていたカメラとの激突。その車は雨でスリップしそうになりながらも、やがて、吹き飛ばされたカメラの所持者の背後、深い霧の中へと消えていく。舗装前の道路が文字とともに映る。

「ここに書かれたことは普通のこと。」

2015年5月25日公開

© 2015 W-E aka _underline

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