300枚以上の小説の書き方。マゾヒストの集う小説講評。Q&A。

千本松由季

評論

7,152文字

2021年2月28日、サディストで有名な講評師、作家の川光俊哉さんが、ある小説を手放しでべた褒めするという事態が発生した。私の知っている限りでは初めてのことである。それは一体どんな小説なのであろうか? 

これはQ&Aです。参考のために、川光さんの他の作家さんへの講評もかなりの数、載せました。みなさまのためにリンクをたくさん貼りましたので、参考になさってください。

*太字のイタリックはリンクです。

 

問題の小説は、松本清張賞の一次通過作品である。その賞は400字詰め原稿用紙300枚からなので、それ以上のはずである。

 

小説『セイコの瞳に地平を駈ける獅子を見た』作家:にゃんしー

カクヨムから小説のリンク

川光さんの講評

 

講評から少し抜粋してみよう。

 

【講評】

もし、辞退されなければ
第1回 川光俊哉賞をさしあげたい。

 

作品の美点をあげればきりがない。

 

【小説】

東京駅で新幹線を降りて、東京のビル群を見上げたときの感覚を今でも思い出せる。あたしはあのとき、こう思っちゃったんだ。「ああ、こんなものか」って。その感覚は、初めてセックスを終えたときの感覚にも似ていた。いうほど痛くも気持ちよくもない、意外とあっさりしたあの感じ。それなのに、どうしてかどっぷりそれにハマってしまうあの若さ。そんな溌剌とした若さでもって、あたしは真夏のぎらぎらした太陽をにらみながら、最初の東京を全身で受け止めた。いつか気持ちよくなるまであたしはこの東京という町をなかに入れたいと思った。

 

(中略)

 

【講評】

精彩を放つ表現は数多く、いちいちすべてのページから引用して紹介したい。
めざましい芸術的効果をあげている。
語り手「サチコ」は絶対にこの世界に実在する。
アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、オフィーリア、ザムザ、ドン・キホーテ、ホームズとともに
われわれ人類が共有する図書館の住人になった。
簡潔で、的確で、リズム、独創性、リアリティー、あらゆる価値がこの文体にはある。

 

と、このような調子である。「第1回 川光俊哉賞」という賞まで勝手に作っている。これほどではないが、今までかなり褒められた作品には、

 

小説『見せる虫』作家:亜済公

カクヨムから小説のリンク

川光さんの講評

 

と、金井枢鳴さんの近未来小説がある。こちらは残念ながら現在、公開されていない。

上記の『見せる虫』の講評から抜粋してみる。

 

【講評】

古き良き、推理小説ならざる、「探偵小説」を読んだ。
ことばの選択は厳正で、描写も的確、いまどきこれほど立派な日本語の文章を書ける人がいるとは思わなかった。
(「持ての他」は「以ての外」がただしい。それ以外の誤字脱字誤用はなさそうに思えた)

 

【小説】

随分年季の入った建物で、二階へと繋がる鉄製の階段は所々錆びてしまい、剥離した塗装が足を踏み出す度に湿った煎餅のような音を立てた。

彼女のうなじが差し込んできた陽光に照らされ、そこに張り付いた小さな汗の玉一つ一つが、かすかに微笑んでいるように見えた。髪の生え際、頸椎の骨の輪郭が、チカチカと明滅する。

 

【講評】

すべての細部が
海辺の町の蒸し暑さ、汗のにおい、眠ったような時間の流れを形成し
それぞれの力強い運動と摩擦があざやかな火花をちらす。
一人称「僕」が迷いこんだ異界の感覚を見事に創造した。

 

 

小説『セイコの瞳に地平を駈ける獅子を見た』の中で、私が好きだった部分はここ。

 

【小説】

何があったかは、どうでもいいことなので、いちいち話したくない。とにかくあたしは処女を失った。肛門の処女もだ。ただあたしは不思議とあまり嫌ではなくて、やっぱりそれは、東京のビル群を初めて観たときの感覚が近い。ながくて、かたくて、つめたい。なかでずいぶん時間が経ったのか、外にでると暗かった。右手には一万円札が一枚だけ握られていた。どうしてか二万円はもらえなかった。あたしはがくがくしたあごのまま、「こんなもんか」と呟いた。のどが嗄れて、あたしのものじゃないみたいな声がでて、おどろいた。股間をかばいながらよたよたと歩き、コンビニでいちばん高い弁当を買い、ネットカフェのブースに戻って食べて、シャワーも浴びずに寝た。眠るまえ、彼氏のようなひと、のことを思い出し、東京に来て初めて泣いた。あの部屋からは、夜景なんか見えなかった。

 

しかし、この小説の講評を読んだ誰もが叫んだと思う。「なんだ、いつも我々が川光さんから言われている‟文体”って、こんなんでいいのか!」

 

にゃんしーさんの書き方は、頭に浮かんだ一人称の主人公の思考を、シンプルでパワフルに直接読者に叩きつけるようだ。テンポが速い。人々をぐいぐい引っ張っていける。逆説的な表現にもスパイスが効いている。

 

川光さんが過去に講評した、他の作家さんへの文体について書いた部分を挙げてみる。

 

小説『天女伝説』

川光さんの講評

 

【講評】

(おそらく)若い作者が
こんなに古いスタイルに固執して小説を書こうとしているのが
不思議でならない。
歴代芥川賞受賞作のもっとも低劣な模倣としか感じない。
このようなスタイルを追求すれば
「純文学がんばったで賞」である芥川賞をいずれ受賞するかもしれない。
なんの影響力もないが、大人の作家のひとりとして
若い作者に
こんなものが小説であると思いこませてしまった責任もあるのだろうか。

 

つまらない、長い、古い、くだらない、退屈
というアカデミー流小説の条件をおさえているので
同じような小説観の人間は感心するだろう。
私はまったく感心しない。
才能ある作者が
つまらない、長い、古い、くだらない、退屈な小説を書きつづけるのが残念でならない。

 

小説『宇宙旅行(仮)』

川光さんの講評

 

【講評】

村上春樹風の寓話を書こうとして
村上春樹風の寓話が書けた
としか思わなかった。

 

コエーリョ『アルケミスト』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のようでもある。
名文を書いてやろうという作者の虚栄心が露骨すぎて
読書のよろこびを感じられない。
さほどたいしたことも言っていない。

 

(中略)

 

「夢、還る」はテーマではない。
漠然としすぎている。古今東西、あらゆるフィクションにあてはまる。
「夢であることをわかりやすく」することが
なぜ、読者に対して親切なのか分からない。
古くさい文体と、不正確な描写を改善したほうが
よほど「入りこみ」やすくなる。

 

(中略)

 

「良くない」ところがあるというより
無個性で、評価すべき点を見いだせない。
まずは自分だけのことばで書いてみてはどうか。

 

このような講評に慣れきっていた我々は、彼の小説を読んで「なんだ、あれでいんだ」、あれだったら我々だって書けるかも知れない、と思ったわけだ。

 

しかし前出の『見せる虫』と『セイコの瞳に地平を駈ける獅子を見た』の文体は全く違う。褒め方は似ている。そこに我々は疑問を覚える。

 

もう一度『見せる虫』を読んでみよう。

 

【小説】

随分年季の入った建物で、二階へと繋がる鉄製の階段は所々錆びてしまい、剥離した塗装が足を踏み出す度に湿った煎餅のような音を立てた。

彼女のうなじが差し込んできた陽光に照らされ、そこに張り付いた小さな汗の玉一つ一つが、かすかに微笑んでいるように見えた。髪の生え際、頸椎の骨の輪郭が、チカチカと明滅する。

 

にゃんしーさんの作品が少なくとも300枚の長さなのに対して、『見せる虫』は400字詰め原稿用紙、約8枚、1,900文字である。

 

ここでやっと質問です。

 

Q1:『セイコの瞳に地平を駈ける獅子を見た』と『見せる虫』の二つは、過去の色々な講評を参考にすると、面白くて、くだらなくなくて、退屈でなく、個性的で、自分の言葉で書いてある、わけだ。だが、私はどちらの文体にも興味が持てない。にゃんしーさんの作品は終始、極端な口語体で、この調子で300枚、話を聞かされると疲れる。亜済公さんの文章はロマンティック過ぎて私には書きたくても書けない。「(前略)そこに張り付いた小さな汗の玉一つ一つが、かすかに微笑んでいるように見えた」「髪の生え際、頸椎の骨の輪郭が、チカチカと明滅する。」私はそんなに瀟洒で優美なことは書けない。汗の玉は微笑まないし、骨の輪郭はチカチカと明滅しない。しかし、私は自分の言葉で書いて褒められたことはない。要するに、このおふた方の文体のそれぞれ、どこが良くて評価されているのですか? 私はこれからの人生、どんな文体で書けばいいのですか?(自分の言葉で書くことと正確で汚くない日本語を書くこと以外で)。

 

 

A1:

 

 

文体について、もっと例を挙げてみよう。自分の作品から。

 

 

このような作品を書く作者が
このようなきたない日本語で満足しているのが
不思議でならない。 『考える海』 

 

「ただのポルノ」が書きたかったのなら
いわゆる「濡れ場」の生彩に富んだ描写を評価するにやぶさかではないが
こんなものが散文芸術であるとは言えない。 『プールに沈む』 

 

 

それでは『セイコの瞳に地平を駈ける獅子を見た』の講評から、ヒロインの存在について考えてみましょう。

 

【講評】

精彩を放つ表現は数多く、いちいちすべてのページから引用して紹介したい。
めざましい芸術的効果をあげている。
語り手「サチコ」は絶対にこの世界に実在する。
アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、オフィーリア、ザムザ、ドン・キホーテ、ホームズとともに
われわれ人類が共有する図書館の住人になった。
簡潔で、的確で、リズム、独創性、リアリティー、あらゆる価値がこの文体にはある。

 

「サチコ」がこの世に実在するかについて。まず、これらの言葉を検証してみましょう。川光さんが過去に書いた、他の作家さんへの講評です。抜粋してみました。

 

「関係性そのもの」は小説の主題にならない。
コンフリクトが生じない関係性は
作品全体の構成に貢献していないため、不要と判断する。
コンフリクトとは
キャラクター間では
不和、衝突、対立であり
キャラクター内では
(
異なる信念、感情、動機の間に生じる)葛藤を意味する。

 

このコンフリクトを解決した結果としての「変化」を書こうとすべき。

 

クラシック音楽の「ソナタ形式」と同じ。
「提示部」→「展開部」(コンフリクト)→「再現部」(解決、変化) 『美ら海に漂う愛』

 

 

小細工を弄する前に
生きた人間とはなんなのか、真剣に考えてみることだ。 『ボウキョウ』 

 

説得、会話、あるいはメールなどで人間の信念は変わらない。
かならず「行為」「事件」を通して「歩み寄る」。
メール程度で「歩み寄る」ことができたのなら
それは「たいしたコンフリクトではなかった」
したがって「書く必要がないエピソードだった」ことを示す表現になる。

 

(前略)

「変化」しない人間は生きていない。書く必要がない。
「最終的にこの二人は上手くいかせる」なら
当然、「まず反発する方向に動か」すべき。
破綻するラストを想定しているなら
当然、それまでは逆の関係性でなければならない。『つめたいおふとん質疑応答①』 

 

SF」「伝奇」の設定に苦心しても読者は感心しない。
「あまりキャラクターが立っていない」どころではなく、完全なる無色透明。
作者の使命は、特殊な世界観に生きる人間の特殊な価値観を表現し
あらたな人間観への視角を提唱することだ。『終末供犠』 

 

佯狂。
意味が分からなければ検索してごらんなさい。
あいまい、適当、というより「行動原理[行動理念]」の存在しない
漠然とした狂人を書いてなにがたのしいのか。
狂人の行動理念は論理的で
論理的すぎるがために狂人であることを少しは心得なさい。
大正ロマンめいた探偵小説風擬古文も中途半端きわまる。
語り手「私」に未来、現在がないのは言うまでもなく
過去のある人間を想定しているとは到底信じられない。
リアル、リアリズム、リアリティーとはなんなのか
一生に一度くらい真剣に考えて人間を書いてごらんなさい。 『屹立』 

 

 

300枚に及ぶこの小説の、第一章にあたる『十九歳、新宿、素人AV女優』は素晴らしいと思う。私自身の体験した「東京」と重なって、面白く読めた。やや品格に欠けた部分はあるけど。

 

主人公「サチコ」は家出して憧れの新宿に行く。お金に困り、売春してそれをビデオに撮られ、図らずして素人AV女優になる。そして高円寺で彼女の「神」になる、サブカルチャーミュージシャン「セイコ」と出会う。

 

ここまでが『十九歳、新宿、素人AV女優』。第一章、十一話まで。全五十三話の冒頭である。

 

そのあとなにが起こったかと言えば、色々だけど、それらはほとんどヒロインの努力ではなく、たまたま起こったことが多い。大企業の稼ぎのいいOLになったという、たった一つのことだけが、努力と言えば努力である。そもそも、素人AV女優になったのも、家出して新宿にいた十九歳の時、たまたま知らずに売春していて、たまたま知らずにビデオに撮られ、知らずにAV女優になったので、それがその後、生涯の間、彼女の誇りになるわけだが、私にはなぜそれがそんなに人生にとって大事なことなのか分からない。生まれた娘にまで自慢している。

 

AV女優だったことがバレて、OLを辞めた時に、AV女優だったことを誇りに思って潔く転身した、という場面はカッコいいな、と思った。関係ないけど、私の住んでる国で、そんなプライベートなことで会社を首になったら絶対訴える。仕事さえできれば、それ以外のことはどうでもいいのである。

 

その素晴らしい、第一章、十一話のあと、なにが起こったかというと、どうやったのかは書いてないけど、いきなり稼ぎのいい大企業のOLになり、愛してもいない男とマンションを買うことになり、会社を首になって同僚だったその愛してもいない男から姿を消し、憧れの高円寺に住む。そこでゲイの男にいきなり襲われ、なぜか襲った男と一緒になって、その男の紹介で、いきなりレストランのオーナーになり、父親の見当もつかない子供を妊娠し、なぜか自殺未遂をし、病院でなぜか実弟とセックスし、田舎に帰って女の子を生んで、弟と一緒に住み、知らないうちに本屋になって、メジャーデビューしたため、もうヒロインのサブカルチャーの「神」ではなくなった「セイコ」に会いに行くために、子供を置いて家出をする。

 

高円寺で全く偶然にセイコに会うが、対面するシーンはなく、隠し持っていた、結局使わなかった硫酸の入ったボトルは簡単に手に入り、簡単に見付かって取り上げられるが、なぜか罪にはならない。硫酸を隠し持っていた、というところはカッコいいと思った。もしかしたらセイコと再会したのかも知れない場面はあるが、読者には分からない。私が珍しく、これだけ覚えているということは、もしかしたらよくできた話なのかも知れない。

 

問題はヒロイン「サチコ」がどれだけ存在しているか、だと思う。

 

【講評】

精彩を放つ表現は数多く、いちいちすべてのページから引用して紹介したい。
めざましい芸術的効果をあげている。
語り手「サチコ」は絶対にこの世界に実在する。
アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、オフィーリア、ザムザ、ドン・キホーテ、ホームズとともに
われわれ人類が共有する図書館の住人になった。
簡潔で、的確で、リズム、独創性、リアリティー、あらゆる価値がこの文体にはある。

 

アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、オフィーリアだって、散々男に翻弄されたわけだから、そういう意味では、サチコは存在したのかも知れない。

 

そんなことより私が気になるのは、サチコの人生のテーマが、決して変わらないこと。素人AV女優であったことへの誇り、たった一度しか会ったことのないサブカルチャーミュージシャンの「神」、「セイコ」への信仰、そして新宿と高円寺へのノスタルジー。十九歳の時に起こった、それだけのことを、四十代になるまでの300枚の間、「生きている人間」が、あれだけ強く持ち続けられるのだろうか? 生きていれば当然、なにか他のテーマが人生に降りかかってくる。それが「リアリティー」だと思う。

 

それから、非常に気になるのが、この小説が終始「サブカルチャー」に浸かっていることである。「メインカルチャー」についての描写は、二歳になったサチコの女の子が「ドストエフスキーの古い文庫本を広げてみたりもする」という一言で、本屋になっているのに、どの本の内容にも迫ることはない。作者の彼がメインカルチャーを知らないわけがない。

 

サブカルチャーが悪いというわけではない。私は東京のことも新宿のことも高円寺のことも知っているし、素人AV女優にはならなかったけど、狭い日本の東京を中心としたサブカルチャーも知っている。バランスの問題だと思うんだけど。サブカルチャーについて書くのなら、メインカルチャーもないとサブカルチャーにならない。

 

300枚以上、読み終わったあと、サブカルチャーに息がつまって、ベートーヴェンのピアノソナタを三時間聴く羽目になった。

 

 

ここでやっと質問です。これが二つ目の質問で、最後の質問でもあります。

 

 

Q2:ヒロイン「サチコ」は本当に存在するのでしょうか?

 

 

A2:

 

 

 

あー、大変だった。もうこんなことはやらない。

2021年7月11日公開

© 2021 千本松由季

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文芸評論

"300枚以上の小説の書き方。マゾヒストの集う小説講評。Q&A。"へのコメント 3

  • 投稿者 | 2021-07-12 21:46

     私は此のQ&Aに全く関与していない人間ではございますが、初めてインターネットの文章で心が弾んだので、自身の所感を中心に書かせていただきます。
     正直に申すと、私は此の文章内の作品に一つも目を通しておりません。すみません。併し此のQ&Aは他人の文章に対して非常にアクセシブルなハイパーテクストとして成立していて、迚も楽しく拝読することが出来ました。特に面白いと思った所は、「サブカルチャーについて書くのなら、メインカルチャーもないとサブカルチャーにならない」です。成程、私も彼らに当て嵌まるのですが、最近の若者は余りにもサブカルチャーを称揚する余り、其れが最早メインとしてあるように思えます。Q&Aの文章のみで判断しております故、彼の作品の本髄を理解しきれておりませんが、恐らく其れに於いて、サブは最早メインとして存在しており、其の文化以外は別に重要なものではないのでしょう。メジャーデビューを果たしたセイコは別にサブカルチャーの要素を捨てた訳でなく、寧ろサブカルチャーを以てメジャー歌手になった。最早サブカルチャーは人々の主なニーズへと化している、そう考えることが出来ます。此のメインとサブの転換を考慮すると、ドストエフスキーの本を手に取っても、其れは極北な「サブ」カルチャーとして存在しており、故に瑣末なものでしかなく、あくまでも作品(世界)の装飾という役目を果たしているだけであって、其のカルチャーは作品の本源に根強く作用しないのではないか?
     また、若輩者の愚考ではございますが、作品というのは非常に主観的排外的に存立しており、其れが一人の人間によって審査されるとなると、仮令其の者が博覧強記且つ公明正大であると評判のある人物であったとしても、やはり個々人の選好が優先されてしまうと思います。人間は結局動物であるので、専ら本能の随に行動します。つまり小説などの芸術作品の審査というのは、個人の好みに自身の知識や論理が肉付けされることによって成立するものであり、別に甲の作品が良くて、乙の作品が悪いという評価の基準は決して科学的ではなく、模糊たるものです。其れ故に誰の作品が就中巧緻であるとか拙劣であるとかそういったものは余り気にしてはいけないように思えます。
     彼是と思料しましたが、此のQ&A自体は中々洗練されたもので、寔に興味深いものでした。ありがとうございました。
     乱筆乱文の程、ご容赦ください。

    • 投稿者 | 2021-07-14 10:19

      ちりめんじゃこ様、こんにちは。私の文章を読んでくださって嬉しいです。アレは、私の創作の先生が、いつも私には怒ってばっかなのに、この、にゃんしーさんの作品はべた褒めで、なんで、と思って書いただけです。

      サブカルチャーの件はですね、私も日本を離れて長いんで、どういう使われ方をされている言葉なのかは、本当のところ知りませんが、Wikipediaで読んだ限りでは、やっぱりメインカルチャーというものと対立するものとしてあるらしいです。それに日本独特の使い方もあるそうで、その辺は分かりません。

      私もこれから、ちりめんじゃこさんの作品を読んでみようと思います。それではまた。

      著者
      • 投稿者 | 2021-07-14 14:05

        返信ありがとうございます。
        そう思うと、日本では独特のカルチャーの階層が存在するのでしょうね。
        私もこれに限らず、千本松由季さんの小説を読んでみようと思います。
        繰り返しになりますが、このQ&Aはとても面白かったです。

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