「生きたら何を残せるか」中原昌也私論

大和柚希

評論

2,478文字

「馬鹿げた誠意よりも嘘を吐く方が簡単だ」―この点に於いて中原は如何なのか

 平穏。
 自分の身上と心情、そして信条にはそれが有り得ない。
 たまに私は、周囲から「優しい」だとか「親切」だと言う評価を貰う事がある。何を観た上で言われるのかを問いたくて堪らない。他者を突き放す、常にこの思想が自己の根底へ存在する。
 

 
 今年の一月。
 センター試験を終えたばかりの高校生が集団で乗車していたバス。それに私は乗る必要に迫られた事がある。彼等は「数学が半分も解けなかった」「けれども英語は余力があった」と各々の表情を呈しながら語っていた。
 私は人混みが駄目だ。冷や汗を掻いたり、鼓動が激しくなったりするのはまだ良い。しかしこの時は、頭蓋に激痛が反響して死にたくなるまでに至った。
 自分の中途退学した県立高校。バスで一緒になった彼等は、揃ってその制服を着ていた為だ。
 瞬間だけ抹消したい相手も居れば、常時に殺したく思う存在も居る。生徒の集団は自分にとって前者に属した。恐らく彼等は私がどう言った人間で、何の繋がりを持つのかを知らない。だからこの構図は、高校でよく三年間を過ごせましたね、と言う畏敬と僻みを当方が一方通行で持つに過ぎないのだ。
 記憶そのものが飛んでいる為に、自分が高校に行かなくなった理由を私は明確に分からない。よって学校やそこに属する生徒を否定したならば、同時に「どうして自分は」と言う曖昧な疑問にも付き纏われる。それが頭痛や殺意の根本にあると思う。
 生徒は車内で口々に発した。
「俺は一年だけ浪人しようかな」
「国立は無理でも私立は大丈夫」
「取り敢えずは卒業しておこう」
 二年で学校を去った当方にとって、頭痛が増幅しそうな台詞が飛び交う。自分も自分で中退した後に資格を取り、地元の私立大学に合格した経歴が既にある。もう良いだろうに、と思わない事も無い。大学は卒業したものの、高校の挫折に言及されては就職試験で不採用を喰らい続ける末路があったのだけれども。
 

 
 バスで移動している最中に、自分が発汗と頭痛に耐えながら考えた事がある。
 それは二つの文言だった。
 
「本当にムカつく!」
「アンタより私のほうがマシね!」
 
 稚拙な表現だと思う。しかし、反面ではこれらを頭で巡らせる事により、降車まで自分は発作を起こさずに済んだ。
 前の発言は知り合いが当方に言い捨てたもの。後者は私が愛読を続ける作家の中原昌也が著した一文だった。
 継続して自分が殺害の欲望を堪える相手。その中には既に他人となって久しい、この知り合いが含まれていた。彼女に言動された内容を想起すると、当方がそれを丸ごとに返してやりたい感情が生まれる。同時に、真面な就職が叶えられなくとも大学だけは卒業した者として、妙な表現へ同調したく無い自尊もあった。
「うちはストイックに仕事がしたいだけだから」
 相手にそう言われた事もあるが、「ストイック」に「仕事」がしたい「だけ」の意味が本当に解されていたのか、私には分からない。本心から実現を望むのならば、敢えて他者に言わなくて良かった内容では無いのか。加えて「本当にムカつく!」が後に続いたものだから、こちらは呆れを通り越して嗤ってしまった。到底にストイックを求めた結果だと思えない。
 把握してもいない内容を他人に偉ぶって押し付けるのは、下品だ。
 

 
 私は創作に同様が言えると思う。
 自分の発信がどう言った内容なのかを自分で理解していない、言う事と行う事が異なる。これが「ストイック」の件に関する焦点だろう。私はその部分へ大変な反感を持った。中原昌也はこの点に於いて、非常に優れた見識を著していたのでは無いだろうか。
 彼の作品には、よくこう言った内容が出て来る。
 
自分に文筆の才能などは無い
それなのに偉そうな内容を書き連ねないと生活が出来ない
だから書かなければならない
 
 作家志望者に喧嘩を売る、一見するとそう誤解を受けそうな記述だ。しかし、先に挙げた自分の体験を合わせて考えると、違う。私は彼について創作に関し、非常に正直な姿勢を取っていると感じた。
 先に出した「アンタより私のほうがマシね!」も同様だと個人で解釈するのだが、中原は事物の客観にとても秀でている。無責任に持論を著さない。それを行う位ならば何も言わない方が余程に良い、とも彼は書いていた。
 

 
 昨今に読んだ文芸作品の中には、圧迫された神経症や精神病を連想させるものがある。自分にもその気が多分にあり、疎隔するべきかどうかが分からない。好き嫌いとは違う、個性として捉えよ、と言われた事もあるのだけれども、「分かってもいないのに気分で書いた」作品は残したくないと思う。
 以前にある対談で、綿矢りさが自分の創作についてこう発言していた。
 
世の中に言いたい事があるか無いか、と言えば無い
残っているのは心の揺れ動きだと思う
 
 言いたい事が無ければ止めたら如何ですか、と当方は考える。揺れ動きを描く事は彼女にとって必要かも知れないし、「本当にムカつく!」も括ってしまえば同様に入るだろう。だからこそ過剰に反感を持つ側面が自分にある。けれども、その様な文章で述べられたものはメッセージでは無くてプロパガンダだろう、と言いたい。
 無責任にものを連ねるよりも、自分の言える事を振り切って書く。伝えたい事が無ければ、中原の様に「何もありません」と書いてしまった方が余程に誠実を感じられる。
 私はこの境目が気に掛かって仕方が無いのだ。
 
 中原昌也は最近に著作を出していない。彼にとって、書くべき事が本当に無くなってしまったのかどうかは分かり兼ねる。かく言う自分は、「本当にムカつく!」と言われるまでに他者を揺さぶる創作を書き残したい。これはきっと、一般社会の就労や生活へ完全に適合しない思想だろう。
 

2018年4月6日公開

© 2018 大和柚希

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