共犯者の自白 ――青井橘『佐々木、愛なのか?』解説

アサミ・ラムジフスキー

評論

2,289文字

2015年11月にKindle版が発売された青井橘さんの小説『佐々木、愛なのか?』に寄せた解説のようなエセーのような散文。発売から1年以上が経過したのでそろそろいいんじゃないかなというわけで、若干の手直しをしたうえで公開する。

世の小説を「映画的」か「演劇的」かで分類するとしたら、青井さんの書く小説は間違いなく後者に該当するだろう。舞台設定も物語の構造も描写の技法もリアリティとの向き合いかたも、どの要素をとっても舞台演劇の文脈を踏襲しているように感じられる。

特に顕著なのは画面の構図だ。青井さんの小説では、現象よりも場に焦点が当てられているケースが目立つ。むしろ、場こそが主役だと言ってしまってもよいかもしれない。『喫茶エリザベート』や『妄想風俗店』における「店」もそうだし、『アルコールの神様』や本作における「部屋」もそう。場はいつも、登場人物以上に雄弁だった。まるで大御所俳優かのように、そこにただ存在しているだけで充分に意味的なのだ。縦横無尽にカット割りを駆使する必要さえない。そこで起きる事件や心の動きは、すべて定点カメラで捉えたかのように描かれた。だから読者は演劇の観客と同じように、誰の視点に同調するでもなく、場を見つめつづけなければならない。そしてその構図は、ひとつのシークエンスを完走するまで続く。青井さんの小説中での場面転換は、断章というよりも暗転に近い手触りをもっていた。

一般的に、舞台演劇における暗転の回数は少なければ少ないほどよいとされる。明確な意図があって執拗に暗転を繰り返すというアプローチもあるにはあるが、あくまでもそれは変則的かつ挑戦的な手法であって、王道ではない。優秀な劇作家や演出家に求められるのは、限定されたシーンだけを切り取り、そのなかで過不足なくストーリーを描ききることだ。

青井さんの物語の舞台はいつだって小さかった。箱庭の外側へ主人公が出ることは数えるほどしかない。ほとんどの事件は箱庭で起こるし、最終的な結末も箱庭の内側で迎えることとなる。この点でも、実に演劇的な小説だといえた。

 

演劇というものは、暗黙の了解によって成り立っているメディアだ。舞台装置や小道具はデフォルメされているし、ダイナミックな特効やCGを使おうにも限度がある。わずか数メートルしか離れていない上手と下手がまったくべつの空間として描かれることも多いし、心の声を堂々と口に出したって舞台上のほかの人物にはなぜか聞こえないことになっている。極言すれば、演劇は隅から隅までなにもかもがご都合主義であるわけだ。

それでも「リアリティがない」と笑う者がいないのは、劇場内にいる全員がルールを共有しているからにほかならない。悪意をもった客が奇声のひとつも発すれば、それだけで簡単に作品は壊れてしまうのだから。

映画の観客は傍観者だが、演劇の観客は共犯者なのだ。演者も裏方も観客も全員が共犯関係を楽しんでいるからこそ、演劇の秩序は保たれている。その秩序のもとでは、視覚や聴覚も含めた瞬間の強度によってあっさりとロジックが吹き飛ばされることもあるだろう。ピーター・ブルックは演劇を「風に記された文字」だと表現したが、優れた演劇において、ご都合主義であることは作品性を損ねることにはまったく繋がらない。

青井さんの文章の行間には、そうした劇場ならではの空気がこれでもかと詰め込まれているように思える。展開が多少強引でもキャラクター造形に整合性がなくてもまるで気にならないような、一瞬一瞬の言葉のきらめきが常にあった。そしておそらく、それは偶然の産物ではない。

詳細までは知らないが、青井さんはかつて劇団に在籍していた時期があるのだという。いつだったか、大雪のなか寺山修司記念館まで行ったというエピソードを話してくれたこともあった。僕が在籍していた学部で唐十郎が教鞭を執っていたことや十代のころ鴻上尚史に夢中になっていたことなどを告げようものなら、大きな目をさらに見開いて食いついてきてくれたものだ。そんな青井さんの書く小説が演劇的になるのは、ごく自然なことなのだろう。

 

箱庭で物語が完結するからといって、世界観が狭いということにはならない。そもそも人間は、境界線を引くことなしには世界の外側を認識することさえできないのだ。いちいち主人公が動かなくても、周囲のキャラクターさえ動きまわれば境界線の外側も自ずと描かれることになる。むしろフレームを区切っているからこそ、想像力の放物線はどこまでも大きな弧を描くことが許される。動かないことで動き出す物語もあるわけだ。

たとえば、現代演劇のバイブルとされるサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』などは〝動かない物語〟の典型ではないか。二人の男――エストラゴンとウラディミールは「そろそろ行こう」と口々に言うのに、結局その場を去ることはしない。しかしその繰り返しだけで物語は進んでいく。あるいは、痺れを切らして動きはじめるのは観客の心のほうかもしれない。

本作の構造も似たようなものだ。クライマックスで米沢理香が言い放ったセリフはなんとも象徴的だ。

「あたしは泣かないし、どこにも行かない」

楽園を一度追われた挙げ句おめおめと帰ってきた佐々木晴男はしかし、この言葉の真意をおそらく理解できてはいない。佐々木晴男はどこまでも佐々木晴男で、ハーメルンの笛吹男にもポル・ポトにもなれなかった。ましてや、誰かの恋人になどなれようわけもない。

もっとも、どちらが佐々木自身にとって幸福なのかは誰にもわからない話だ。わかったとして、口に出す権利すらない。共犯者である僕にできることは、ただステージ上を見つめることだけなのだ。だから、こんなふうに青井さんに内緒で勝手に青井さんの作品の解説を書くなんていうことは、重大なルール違反だった。

2017年1月19日公開

© 2017 アサミ・ラムジフスキー

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