縄文小説参考文献『白い種子』レビュー

アサミ・ラムジフスキー

評論

3,304文字

本稿は破滅派主催の縄文小説ワークショップの参考文献レビューである。那須正幹著『白い種子』を取り上げる。

『白い種子たね』は那須正幹による短編小説である。 時代設定は明記されていないものの、作中の描写から縄文後期~弥生前期の話だと推察できる。

那須正幹といえば累計2500万部の大ヒット作『ズッコケ三人組』シリーズで知られる児童文学作家だが、本作のアプローチは子供向けとは言いがたいシリアスなものとなっており、読後感にいたっては純文学に近い趣すらある。『ズッコケ三人組』のイメージで本作を読むと大きく裏切られるだろう。

 

なお今回底本としたのは2015年刊行の短編集『ジ エンド オブ ザ ワールド』所収のものだが、これは1984年の短編集『六年目のクラス会』を改題して文庫化したものである。さらに遡るとデビュー前の1960年代末に同人誌『子どもの家』(広島児童文学研究会)に寄稿したものが初出となるようなので、半世紀も昔の作品ということになる。

 

あらすじ

本作は「クズ」と呼ばれる一族と、その集落に住み着いた若者「カン」とをめぐる物語だ。

 

雪解けの季節に突然現れたカンは、卓越した弓矢の腕前をもつ男だった。博識でもあり、クズ一族の子供たちからもよく懐かれている。将来の長といわれるクズヒコはそんな彼を好ましく思っており、妹のアスカを嫁にやっても構わないとさえ考えるほどだった。しかし一族の全員がカンを受け入れていたわけではない。目鼻立ちが一族とは異なることや、通じない言葉があること、そして村の禁忌である「北のお山」を越えてきたと称していることなどから、ヨソ者としてやや距離を置かれてもいた。

夏、村の食糧事情に異変が起こる。涎を垂らして死んでいるイノシシや泡を吹いて死んでいるシカなど、獣たちの変死体が目立つようになったのだ。クズ一族はそれを山の怒りが生み出した「悪霊」による「祟り」だと呼んだ。しかしそれを一笑に付したのがカンだった。カンは、クズヒコにこっそりととある植物のことを教える。

 

「あの草は、わしが育てておるのじゃ。(中略)遠からず、あの草がクズ一族にとって、山より尊いものになろう」 那須正幹『ジ エンド オブ ザ ワールド』ポプラ社 P.42

ひもじい日々がつづいたあるとき、長であるクズヌシ(=クズヒコの父)は夢で見たお告げを一族の大人衆に伝える。曰く、「山の怒りをおさめるには生贄が必要」「いなくなっても誰ひとり悲しむ者もない者が適任」とのことだった。それに対し、真っ先にカンの名前を挙げたのがクズヒコの妻だった。

 

「あの男じゃ。あの男が、村にこなんだら」那須正幹『ジ エンド オブ ザ ワールド』ポプラ社 P.54

クズヒコは、カンが一族にどれだけ多くの恩恵をもたらしたかを説いた。しかし大人衆は一人また一人と妻の提案に同意していき、ついに生贄としてカンを供することが決定される。クズヒコはどうにかして生贄の儀式がはじまる前にカンを逃がそうと画策するが、狩りの際に傷を負っていたカンは逃亡の途中で息絶えてしまう。

やがて夏が終わると、悪霊の影はぱったりと消え失せ、村には平和な日々が戻った。カンのことを口にする者はもういない。だがクズヒコは、カンが育てていた草が黄色い実をたくさんつけ首を垂らしているのを発見するのだった。ためしに黄色い実の皮を剥いてみると、中から顔を覗かせたのは白い種子だった。

 

構成・技法

本作はエキセントリックな展開もトリッキーな構造もSF的設定ももたない、きわめてオーソドックスな三人称リアリズム小説だ。ある集落での半年間のできごとを時系列に沿って淡々と記述していくだけであり、エンタメ要素はほとんど皆無といえる。それでいて飽きのこない筆致は、第一線で活躍する児童文学作家の面目躍如といったところか。

縄文小説ならではのギミックは特に見られない。人名以外にオリジナルの名詞が登場することはなく、登場人物の会話も完全に現代語と現代の語彙によってなされている。日常生活の描写もステレオタイプの域を出るものではなかった。破滅派縄文ワークショップにおける「情報の乏しい時代のことをいかに書くか」という難題を解決するヒントとしては物足りないかもしれない。

 

ただ、逆に「書かない」ことで成立する縄文小説の可能性を示唆してくれてはいる。というのも、作中ではこれが古代の話だとは一切明言されておらず、黄色い実や白い種子が稲や米であるとの断定もないからだ。ふつうに読めば縄文~弥生の話であることはあきらかだが、その明示がないことにより「架空の未開民族の話だ」「どこか遠い惑星の知的生命体の話だ」と解釈する余地を残している。おかげで、読んでいる最中は現代語を用いることへの違和感を抱くことはなかった。

これは意図的なものだろう。ポイントは、視点をクズヒコに固定していることだ。神の視点(≒現代人の知識)を作品世界内に持ち込むことなく物語が完結しているので、「稲」や「米」という単語が登場しないのはむしろ自然だし、登場人物に時代区分を意識させる必要もない。「時代設定を匂わせつつも核心には触れない」というアプローチをとることで、物語的必然性を担保しながら時代考証へのエクスキューズも獲得しているわけだ。おまけに、この手法であれば学説の更新による影響もほとんど受けずに済む。これはあらゆる古代小説を書く上で大いに参考にできるはずだ。

 

もっとも、このアプローチで作品を成立させるには相応の技量が要求される。ミスリードされない程度に巧妙に設定をぼかしつつ過不足なく情報を書き込むというのは一朝一夕にできることではないし、ともすれば「逃げ」と捉えられてしまうこともあるだろう。世の中には「下手だが面白い小説」というものがたしかに存在するが、この手法に関しては一定以上の筆力がなければ真似はできまい。

 

感想

実のところ僕は、「縄文小説を読もう」と思って短編集『ジ エンド オブ ザ ワールド』を購入したわけではない。目当ては併録されている別作品(小学生のころ読んで印象に残っていた作品のことを、昨年末にふと思い出したのだ)であり、よもや那須正幹がこんな小説を書いているなどとは思いもよらなかった。本作との出会いは偶然に過ぎない。 買ってみたらたまたま縄文小説が載っていたので、せっかくだからとレビューを書いているだけのことだ。

 

その意外性もあって、僕は面白く読んだ。しかし一般的にみてこれが優れた作品かというと、判断はむずかしいところだろう。

なにせ筋書きは凡庸だ。コミュニティに受け入れられようと腐心し貢献してきたヨソ者が結局いざとなったらスケープゴートにされる――きわめて類型的な物語構造ではないか。異民族との邂逅や稲作の伝来といったモチーフ、狩りの上手な者が尊敬されるといった世界観も、「縄文時代について書け」と言われたら誰でも真っ先に思いつくだろう陳腐なものだ。といって深い考察ができるような重厚さや難解さもなく、ニヤリとできるような蘊蓄が書かれているわけでもない。

もちろん、一流の児童文学作家の作品だから、文章は巧いし描写も丁寧だ。ペダンティシズムに陥ることなく平易な文体で縄文の生活を表現しきっている点は、さすがの一言である。そもそも縄文時代を舞台とした小説は絶対数が少ないので、半世紀前にこのテーマを選んだというだけで充分に評価されるべきものなのかもしれない。だが2017年に読む小説としては、「巧い」以上の感想は出てこない人が多いのではないだろうか。事実、この短編集の感想をネットで検索してみても、見つかるのは併録作への言及ばかりだ。もっとも、これに関しては別作品が秀逸すぎるだけかもしれないが。

 

総論としては、さまざまなテーマの作品をあつめた短編集のなかの一作として読むぶんには程よいスパイスとして機能するが、縄文小説ばかりをあつめたアンソロジーのなかに混ざっていても印象には残りづらいのではないか、といったところである。

2017年1月18日公開

© 2017 アサミ・ラムジフスキー

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