無底と喪失(2)

無底と喪失(第2話)

月形与三郎

評論

14,978文字

書くことの倫理とは何なんだろう。鎌倉時代初期の歌人にして公人であった藤原定家に接近した三島由紀夫、その交接点を論点に据えつつ、古今東西のエクリチュールを探訪しつつ。

無底と喪失――藤原定家と三島由紀夫における〈不在〉のイマージュ②

月形与三郎

 

 

時枝誠記は、言語を表現及び理解の行為とする「言語過程説」から導き出されるとして、平安時代を通じた主として贈答歌を中心に置く「和歌生活」という概念を提示した。相互制約的かつ機能的であるスピーチ・アクト、ここでは「和歌行為」は、「目的意識」をもった行為であり、それは慣習的な継続性をもつことによって、言語生活総体の重要な一部をなす「和歌生活」になるとしている。時枝はまた、エロティックな「呼びかける歌」と、観照的な「眺める歌」――これは、文字使用と概念操作の技術としての、書く(、、)歌、ともいえよう――とを区別した。「言葉は決して事物に触れない」というとき三島の念頭にあったのは、「呼びかける歌」を隷属させた価値定立の形式、「眺める歌」としての文学にほかならない。国学的(()学的ではない)及び疎外()的な考え方と、これは同型である。三島はすでに十代の頃の作文『古今の季節』(全集所収)で、和歌は古今集において「古典主義」へ昇華したと述べている。

 

《(雅とは)千年の単位で、それは一度も概念化されたことがないまま、日本文学の中に命脈を保った感覚である》(中沢けい著『雅と俗 俗と聖』漱石全集十八巻(夏目漱石の漢詩を所収)月報・岩波書店、所載)

このようなとらえ方は未だよく見られる。しかし、第一級の実作家をしてそのように捉えさせるということ自体が、すでに死んだはずの「雅び」の縛めの強さを物語っていないか。雅びは「概念化されたことがない」どころか、最初から統治=統辞の概念として大陸文明から輸入されたのである。もっとも、中国は中国で「雅」を中東文明から導入したのだろうし、ヨーロッパにしても、それに当たるものをイスラーム文明から導入しているだろうから、その手の輸入品に頼るのは、いずこも似たり寄ったりな話しなのだ。

 

 

《(古今集は)言葉というものを純然たる形式として考え、感情というものを内容として考えた整然たる体系を夢みていた。(中略)実はこの秩序の観念こそ、「みやび」の本質なのであった。草木も王土のうちにあって帝徳に浴し、感覚の放恣に委ねられたいかなる美的幻想的デフォルマシオンをも免れて、一定の位置(位階)を授けられ梅でさえ官位を賜り、自然は隈なく擬人化されて、それ自体のきわめて静かな植物的な存在感情を持つようになり、そのような存在感情を持つにいたった自然だけが、古今集の世界では許容されるのであれば、四季歌における「誠」はどこに存するか明白であろう。それは草木の誠であり、草木は王土に茂り、歌に歌われることによって、「みやび」に参与するのである。》(三島『古今集と新古今集』)

 

右の三島の整理は、まことに正確なのであった。乱暴に云ってしまえば、雅とは、シンセシス及びクラシカリティのことである(注6)。そして俗とはエスニシティのことだ。つまり雅びとは、三島が明解に整理したように、大雅(帝王を讃える詩)を中心として、小雅(征伐の詩など)によって築かれた、言い換えるなら、民俗史学的対象から政治史学的対象へと趣を「原始」的なものから「合理」的なものへ変えた「神聖王」権と組織化された軍事指揮権の合体した、そのような小中華帝国の八紘一宇の「宇」の構図でもあった。その点でやはり、「エクリチュールとナショナリスム」の相互補完性への批評は必要不可欠だろう。

 

注6 詩法そして楽法においても、もとより雅は六義(りくぎ)の一つ。

三島の云う「感覚の放恣」というのは、ある種の生物学主義的な考え方で、人類の幼態成熟(ネオテニー)による乳児期の多形倒錯の仮説のアナロジーといえそうである。ただそもそもが、その「感覚の放恣」は(いにしえ)にもなかった。万葉の歌ならそれなりの、古今と別の窮屈さがあり、「やまと言葉」自体が洗練されておらず、欲望を創出する規定性が不足しているので「放恣」にしたくともできなかった。それに構文を定め語彙を択ぶことが虚定(ネガティヴ)ではないか。未開社会は神経症的だ、といったのはレヴィ=ストロースだという。「不安」と「抑圧」のある「無文字社会」へ遡っても「感覚の放恣」などなく、「原始」を想定しても在るのは無定義性に違いない。三島も『日本文学小史』で似たことを一部書いてはいた。しかし彼の論考の大筋は結局、初期歌謡は「スポンティニアス」というものなのである。このような文学理論に関する理解のちぐはぐさ――これには、まだ「ポスト構造主義」的な書物の翻訳が出揃っていなかったという事情があるだろう――が「三島文学」に悲喜劇を齎したかもしれない。なお三島の視点は、フーコーによれば「古典主義のリミット」であるような、サドの「乱行」に無垢(イノサンス)を見出すのとも同種のものである。

ついで三島の論考を補足すると、古今の特徴は、歌言葉を共通語とし、物名の悉く「みやび」なる秩序内にある言表上のゲームだということである。枕詞、序詞、懸詞、縁語、また、見立て、体言止め、等々を組み合わせて用いる(かた)のアートであって、喩えると「公理論的」だといえる。三島は「古今集は公理的」といった。同じ意味にとってよい。こういった「物の秩序」が地理的なイメージをもてば「王土」になる。そこでは形が、「詩的礼節」即ち道徳(、、)であり、雅びこそが価値規準なのである。かくて、「眺める歌」が「呼びかける歌」を包摂するとは、エロス的対象が自我理想に転じることともいえる〈注7〉。三島の云うように、ようは古典主義への昇華(サブリメーション)を経たうえでの、「書く歌」しかなかったのだが、その「書く」ことが「行為」であった。

 

注7「色好み」とは、たんなる性欲の解放ではなく、文雅の徳目であり、貴紳の義務としての所為の一面があった。エロス的人間(エローティコス・アネール)知を恋求める者(ピロソポス)(プラトンがその著書の中でソクラテスを称した言葉)であり、プラトン的な「知」では、性的快楽は真に同一的なものへと至る道筋への入り口である。「色好み」の文化においてもそうなので、また「衆道物」の物語などにいたっては、それがほぼ唯一の主題だといってもよい。そうして、物心二相の箍を外して対自存在を無の働きへ導くべき価値、それぞ恋闕(れんけつ)ということにもなるのだ。

 

古今の「古典主義」における形式化が、枕詞の乱舞する万葉を「感覚の放恣」と解させ、その「自由」をあったところのもの(、、、、、、、、、)として、欲望させた。そして想像上の「感覚の放恣」は、その詩情(こころ)を欲望した新古今時代の「眺める歌」により融通無碍に規律された(、、、、、)歌体(すがた)になる。万葉歌と比べれば、そういう新古今の「万葉調」とされるような歌には、たとえばマラルメの『牧神の午後』などに先駆を認められるような〈注8〉、ポストモダン的なミスマッチの軽薄さに似たものがある。日本のマチネ・ポエティック運動が羨望した新古今、その衣鉢を、たしかに三島が、実作技法上は一部継いではいたのである。

 

注8 曙方でも、夕暮どきでも、深夜でもない、どうにも「古代ギリシャ的時間帯」とは言い難い、プチブルのカップルが《茶飲み話をする午後(ひるさが)り》(ギルバート・アデア著『作者の死』邦訳晶文社)、あるいは昼下がりの神話的オフィス・ラヴ?

 

み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞ吹く(俊成。千載)

 

「越の白根」は越前国の歌枕。この歌では、上下が地理空間的に隔たっている〈注9〉。右の俊成の歌などの、歌枕が複数あるときの「風景」を、固有の時間性に於いてあるとするなら、次の定家の歌は「雁がね」に於いてある「配位空間的なもの」とでもいえようか。

 

霜まよふ空にしをれし雁がねの帰るつばさに春雨ぞ降る(新古今)

 

「霜迷う空」という表現は国語史上初出とされる。上の二句は霜降る冬、「雁がね」を挟んで、下の二句は雁のかえってゆく春、と間に半年の時の隔りがある。「帰る雁」は春の主題であり、「霜」は冬の主題である。古今集以来定着していた時間変化を捉えるための景物の分類枠が折り重なっている。ジャック・デリダの「脱臼」という概念の典拠であるハムレットの台詞を引けば、(テクスト上のことである)「時間が脱臼している」…?

 

注9 丸谷才一は、こういうスタイルを、「眼前触目の現象を手がかりにして遠隔の地の事情を推定する詠みぶり」として「遠方推考歌」と名づけている(丸谷著『新々百人一首』新潮社)。だが、丸谷のような見識家の和歌研究においても疑いなく前提されている、包括的な固有の時間性に基づく推定が、たとえば柄谷の『日本近代文学の起源』にあるような考え方を援用したうえで、晩年の三島流に解するならば、おもに万葉時代以降の「昇華作用」の結果だといえる。対象指示的な言葉が横断しうる空間性すなわち「延長」の確定性、自ら疎外(ディスタンシエイト)した「風景」、その均質性こそが歌枕の規制で、「遠方推考歌」も、ある種の規範的エクリチュールの圧倒的な「権威」によって初めて成立する。

 

《帰るさの物とや人のながむらん

待つ夜ながらの有明の月 (定家)

の一首では、喪失が逆の形であらわれて、空しい期待と希望、つまり何事も獲得しない状態が、言語の魔術をよびおこす。(中略)ここには二ヶの月がある。二ヶの有明の月である。一方の月は、「待つ夜ながら」に眺められている。もう一方の月は「帰るさ」に眺められている。前者の月は現実の月のようであり、後者の月は空想上観念上仮定上の月のように思われる。しかし、実は後者の月こそ現実の月であって、前者の月は、正に目の前に見えてはいるが、ありうべからざる異様な月であり、信じようにも信じることのできぬ怖ろしい月、正にそれ故に、歌に歌われねばならない月なのである。なぜならその月は喪失の歴然たる証拠物件として出現しているからだ。(中略)その上、この歌は、気味の悪い二重構造を持っている。これはこうも読まれる筈だ。「きぬぎぬの別れののちに、帰るさの人たちが、いかにも身にふさわしいものとして、この有明の月を眺めていることであろう。事後の疲労と、虚しさと、世界の空白に直面した思いで、人々はこの白っぽい月をながめるのだ。そこへ行くと私は幸福だ(、、、、、、、、、、、)。何もせずに、絶望も虚無感もなしに、ただ充実した待つことの感情のまま、この月を眺めることができるのだからなあ」》(三島『存在しないものの美学』)

 

「現実」からカテゴリーをひき出す媒介性が、同時にカテゴリーへ「現実」をひき入れるのであり、そうやって「現実」そのものを成り立たせもする。しかし、三島の目には、それが「喪失」と映っている。この「二ヶの月」と「喪失」のイメージは『春の雪』序盤の「御立待(おたちまち)」の情景へ転用される。

 

《その明るい檜の板の盥の縁、そこのところでこの世界が終わり、そこから別の世界の入口がはじまっていた。(中略)どれくらい待ったろう。やがて、突然、盥の水のその凝固したかのようなあいまいな闇が破れて、小さな明らかな満月が、正しく水の中央に宿った。(中略)清顕はしかし、天にかかる月の原像を仰ぐのが怖かった。丸い水の形をした自分の内面の奥深く、ずっと深くに、金色の貝殻のように沈んでいる月のみを見ていた。(中略)十五歳の彼は、早くも喪失を怖れていたのだ。得るが早いか喪失を怖れる心が、この少年の特徴をなしていた。》(三島『春の雪』、『豊饒の海』第一巻)

 

この「主題」は更に『奔馬』(『豊饒の海』第二巻)において、謡曲『松風』からの引用を以って再演される。

 

《それだけこの曲(松風)は、幽玄の至極として重んじられて来たものであろう。

いずれも白水衣(あまごろも)からちらほらと腰巻の紅がこぼれ出た松風と村雨(海女の姉妹)が、橋掛りに向かい合って、砂地のしみ入る浜の雨のようにもの静かに、

汐汲車(しおくみぐるま)わずかなる浮世に廻るはかなさよ」(中略)

「波はここもとや須磨の浦、月さえ濡らす袂かな」(中略)

しかしその美は厳密に一回性(アインマーリヒカイト)を持っていた。人は忽ちこれを記憶にとらえて、思い出の中で反芻する他はない。又、その美は高貴な無効性と、無目的性を保っていた。……

そういう本多の思考のかたわらを、「松風」の能は、つかのまも滞らぬ情念のせせらぎのように流れつづけていた。

「かくばかり経がたく見ゆる世の中に、(うらや)ましくも澄む月の出汐をいざや汲もうよ」

舞台の月影の中を、謡いかつ動いているのは、もはや二人の美しい亡霊ではなくて、云うに云われぬもの、たとえば時間の精、情緒の髄、現へはみ出した夢のしつこい滞留(、、)、と云ったものなのだ。それは目的もなく、意味もなく、この世に在り得ぬような美の持続を紡いでいる。(中略)

シテ「これも月の入りたるや」

地 「月は二つ」

シテ「月は一つ」

地 「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて、憂しとも思わぬ汐路かなや」》(三島『奔馬』。括弧書きと強調は筆者による)

《形としての法がただ混沌を整理するのではなく、混沌の奥底に理法を見出し、その月の映像を盥の水にとらえるように、法体系を編み出してゆく上に、自然法のもとをなすヨーロッパの理性信仰よりも、さらに深い源泉がありはしないかと、直観的に感じたことは、多分正しかったのだ。(中略)事態がさらに怖ろしいのは、そういう夢の襲撃が、今まで本多の信じていた人間理性の先験性と、現象よりも法則のほうに近く住むという誇らしい欣びを根元から破壊するのではなくて、むしろこれを強め、これを高め、地上の法則の裏にそびえ立つもっと峻厳な白い法則の塀を垣間見せたからであり、一度それを見たら最後、二度とのどかな日常性の信仰へ戻っては来られなくなるような、究極の環のかがやきを瞥見させたからである》(三島『奔馬』。全編の「語り手」本多繁邦の内面描写である)

《すでにわがものと化していた法律的正義の、目のくらむほどの高みに営んでいた鷲の巣が、よもやここへ来て夢の洪水、詩の浸潤におびやかされようとは!》(『奔馬』。これも法律家である本多の内面独白である)

 

三島によるならば、浸し潤す「詩性」が、「論理性」よりも更に大枠の秩序なのである。サンボリック―セミオティックの構造論を極めて単純化した話しである。これは、「概念は隠喩の残滓」(カッシーラー)、ということであって、散文的な「法則」のうちから排除されたはずの(三島の云う)「詩」が、いわば「図」である論理的なものの「地」だということなのだった。右に三島がいう「法則」と「現象」とは、ほぼカントのいうカテゴリーと感性的直観の言い換えだととってよいものである。この二つを「架橋」するのは「構想力」ないし「想像力」(Einbildungskraft)だとされるが、三島はそれを、唯識論(認識論)的に自足的な「比喩的結合」に類するものか、その他の修辞法の効力をつぶさに考察すれば把握できるものだと思っていたようである(『三島由紀夫最後の言葉』全集所収)。突き詰めればそれは、有即無、のような、レトリカルに矛盾を解消してしまう思考へ至るのも容易い。三島において不足していたのは、構想力の想像性がそのエフェクトであるような、(他我ではなく)云わば「事実存在」的な他者としての「エクリチュール」への関心だった。付言すれば、自伝的小説だといった『詩を書く少年』で三島は、象徴詩を夢の「比喩的世界」の「感覚の放恣」に准えた。しかしながら三島は詩的修辞と詩そのものを混同していたらしい。だいたいにして、三島好みのコクトーよりも、言及したことすらなかったであろうジョイスのほうが、ずっと「詩人」であろう。コクトーのような類は修辞家というべきだ。古くはアリストテレスも、比喩の理論を、『詩学』で扱ってはいても、レトリケーに分類している。レトリケーはそして、もちろん詩学と密接ではあっても、レトリック自体は主意的であることで、「唯物論」的にしか考察し得ない詩作(ポイエーシス)(創作)とは別物なのであり、その(広義の)意味作用上に論理を補完するのである。何も古代ギリシャに限らず何処でも、比喩的結合ばかりが「詩」ではなく、たとえば音韻連合や文字形象的結合、言語新作(統語上や文字配列上の「発明」なども加えてよい)等も「詩」であり、実証的歴史的にいっても、むしろ「物性」的である後者のほうがエクリチュールを介して比喩的結合を「主導」するといえる。レトリックと詩には、乱暴に言えば、権利問題と事実問題の違いがある。精神分析によるならば、夢見には検閲が働いていて、内容の連合へ参照せずにおかない比喩のほうが、フォルムの異化である「圧縮」や、アナグラムやパラグラム等の飛躍的なのに比べ、「抑圧」的な規制に対して、むしろ回避的だともいう。三島の好む抽象的な比喩も「ずらし」であり、予めの内容(コントニュ)の集合モデルへ依拠する。

 

《(ロジェ)カイヨウは、夢の世界が自由奔放な幻想の世界だという「一般の考え」が錯覚にすぎないといっているのである。一般にわれわれの夢は、外側からみた夢すなわち記憶としての夢にほかならないので、「夢の世界」そのものとは縁もゆかりもないといわねばならない。同じことが、狂気や未開の思考についていえないだろうか》(柄谷『意味という病』講談社)

 

「科学的に正確な叙述」にないように、夢幻的な叙述にも「詩の使命」はない。三島の思い描くような「詩的レシ」とは、詩の一機能のいびつな拡張である、なにしろ夢見(、、)のモードが夢のよう(、、、、)ではないのだから。夢見には距離化・疎外(ディスタンシアシオン)がないというのも、(うつつ)に於ける、大方のもっとも判りやすい「距離構造」から単にズレているということなのだ。

「御立待」の場面からの右記引用の全てで、三島は発想の元を別段と隠しておらず、だから『豊饒の海』の典拠だとして示した『浜松中納言物語』だけでなく、内外古典のネタが透いている(注10)。デイヴィッド・ポーラックは、手桶の水や手に結ぶ水に映る月の像へ係るこの作品の記述には、《二元性と非二元性、分離と統一、幻影と現実》が(シンボリックに)内包されているという(ポーラック著・高橋くみこ訳『あらゆるものへの批評・三島由紀夫「豊饒の海」』青土社)。そうした『豊饒の海』全篇を通じるテーマのはっきりした出所の一つが、先の定家の「帰るさの」の歌に関する小文だった。ただし先の「帰るさの」の歌は、定家自身が、幽玄体ではなく有心体に分類しているもので、三島が「幽玄の至極」だという『松風』とは分類上の位置を異にするはずなのである。そしてやはり、

《『豊饒の海』という題名の由来は、作者自身によれば、「月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、しいていえば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたようなもの」だという。》(同前渋沢「『天人五衰』書評。『天人五衰』は『豊饒の海』第四巻。三島によれば、Mare Foecunditatisの邦訳が豊饒の海だそうである)。

こういった、あれやこれやと人口に膾炙したことも、エンターテインメントの薬味としてなら、「本歌取」ないし「間テクスト的」な捻りのあるところへ、「ほう」と一声感心する噺ではあっても、力みかえって「実体化」をされてしまうと、とっちゃん坊や風の妄言だと鼻白むしかなくなる。

 

注10たとえば、《手に結ぶ水にやどれる月影はあるやなきかの世には有りける》 保元物語中で、巫女にのり移った熊野権現が、参篭中の鳥羽院へ、手を三度翻しながら詠じたこの歌により、あくる年の法皇崩御と没後の大乱を予言する。至極あたりまえに解釈すれば、ここでの手水(ちょうず)の浮き月とは、雅びなる国家秩序の幻像であるとともに、その源である鳥羽法皇その人を指す。《若君姫君も、面々に花を手折り、閼伽(あか)の水をむすんで、父の後世を弔い給うぞ哀れなる。かくて時移り事去って、世のかはりゆく有様は、唯天人の五衰に異ならず》(平家物語巻二・新大納言死去の段) 「御立待」と似たようなシーンから「天人五衰」まで入っているではないか。三島の「喪失」とは結局、畏友であった武田泰淳が仏教的思惟の到達点から程遠いというように言った、「平家物語的詠嘆」の圏内にあったのかもしれない。また、『豊饒の海』における鷲と蛇、というシンボルの使用は、『ツァラトゥストラかく語りき』(ニーチェ著・邦訳白水社ほか)が念頭にあったはずだ。『ツァラトゥストラ』には、鷲と親友である云わば良いほうの蛇と、牧人を襲う悪玉の蛇の二匹出てくるが、『豊饒の海』第三巻『暁の寺』で月光姫を殺す毒蛇と、最晩年の三島が「日本を犯している」と米国の記者へ語った「緑の蛇」は、悪玉のほうだろう。なお、神武天皇を助けるのは、鷲ならぬ金の鳶、また、八岐大蛇のような大物ばかりでなく、錦の小蛇というのも『古事記』には出てくる。

 

なるほど、凡そ源氏物語に端を発し藤原俊成が定式化したとされる「幽玄」の審美的ヴィジョンを、これほどすっきり見事に現代的な型に整頓してみせた作家はかつていなかった(集合論的な「寓話」の形をとった、普通には小説と呼びがたい作品をあげてよいなら、森敦の『意味の変容』(講談社)もある)。とはいえるものの、幽玄、創作の指針として幾ら優れているそれも、実態視してしまえば、可能なもの、「外部」的なものを、メタフォリカルな形で隷属化させることでしかなくなる。清顕や本多の内面の記述と、作者のステートメントには、ほとんど違いがなかったのだ。

 

年も経ぬいのるちぎりははつせやまをのへ鐘のよそのゆふうぐれ(定家)

 

初瀬山は和泉国長国寺のこと。通釈をすると、初瀬の寺へ契りを祈りつつ年を経る、ところが、願の叶うのは他所(他人)、ということである。此所と他所、「ヒア・アンド・ゼア」(ゴダール)? 月の代わりに(鐘)()き。これも二つの「恋」のコントラストを読み取れる、「喪失の美」ととれよう。とはいうものの、そんなものは、べつに定家の発明ではなく、過去にいくらでもある。重要なのは、祈る者は性別年齢不明にして――うら若い女性をイメージするのは勝手でも、それは後世の刷り込みである――その恋が二重に観照されているのみならず、そのコントラストがさらにドラマ化されており、しかも、それが詠み人の実情とは無関係な、短詩文を読み聞かせるための装置の一つだということなのである。定家の歌においては、ナラティヴの「内容」それ自体の様式性が詩的操作の対象とされており、それゆえ、何ら「実情」がないことで、指示性に拘束されない全く詩的なものとなりうるのだった。そこには、三島のいう言葉によって回復すべき喪失されたもの、「世界の空白」、言い換えるなら「欠如」はない。創作技法上はわが国の現代的メタフィクション・ライトノベルの祖の一人であった三島でも、その思考は、今日の目で見るなら、驚くほど自然主義リアリズム的であった。定家の歌に於いて、かりに何か欠けるものがあるとすれば内実(、、)への固着そのことで、それは「作者の自意識」が構成に取って代わられることではあっても、それが回復すべき喪失(、、)では何らなく、おそらく新たな獲得(、、)なのである。

 

《さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫 (よみ人知らず・古今集巻十四)

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫(定家・新古今)

 

本歌のほうでは、一首全体から作意が浮かび上がるように作られているが、定家の歌では、「月をかたしく」という言語表現に発明があって、詩のシュティムンク(情緒)はそこに漂っているのである。

ここでは非本質的なものが本質的なものを駆逐し、特殊が普遍を追い出している。しかし、歌のかもし出す複合的効果の繊細さは、前者(本歌)を凌駕しており、「月をかたしく」というときに、いうにいわれぬ官能美を漂わせるのである。前にも言ったように、「月をかたしく」という如き表現は、能楽の詞藻として用いられるときに、イメージのひろがりと、詩的官能性を大いに援けるであろう。(中略)まず「さむしろや」という提示そのものが、古今集の「さむしろに」という単なる指示とはことなって、切り離された「うら寒い莚」という物象をくっきりと目に見せる。「や」で区切られるので、われわれは、はじめ、そのような荒涼たる物象の前に歩を止めさせられる。ついで、「待つ夜の秋の風ふけて」という表現で、「ふける」のは夜と秋と風の三つの複合であることが暗に示される。そのあいまいな錯雑した語序は、単なる叙景ではなくて、まるで小さな雪崩のように、情感と情景と時の移りを一気に投げ落とすのである。このような、いくつかの詩的条件を、一緒くたに提示する芸術的効果は、この世界の確乎たる論理的イメージを破壊してしまうところにある。(中略)さて「月をかたしく」である。「月」と「独り寝」とは、ここでみごとに結合されて、複合的情調をかもし出す。しかしそれは決して明瞭な視覚を狙ったものではない。遊女の寝姿は、寂寥のなかに月光に溶け入り、そのほのかな肉は月かげに透き、その待ちあぐねた官能は、月によって、ひえびえと晶化しているのである。(中略)そこにはいつもかすかなデカダンスが匂っている。そこでは、完全な、理想的な、隅々まで明晰な、論理的世界はすでに破壊されて、廃墟になっている。》(三島『古今集と新古今集』)

 

『橋姫』は源氏物語第四五帖名。記号の「働き」が変異し内破した「(ぐん)」(=インパーソナル(、、、、、、、)個体(、、)崇拝「天皇制」による有機的組織体!)、論理的世界の瓦解後の潤んだ廃墟美(『ブレードランナー』!)、露呈した外部性は、死、エロティシズムの極致、聖なるもの、意識に対するところの自然、がコンビニ的にも等しい構造をもつ「呪われた部分」(バタイユ)のようだ。破壊されたのは、古今集の「古典主義世界」である。しかし、どんなものを論じても、なにやら「神々の黄昏」かとも思うような大仰ムードになるのが晩年には持ち味の一つだったとはいえ、それにしても彼の人が見ていたのは、(ドラマ)であって詩ではなかった。定家の歌の技法についてなら、そこは見識者なので流石にこと詳しく書いている。ただ三島はそれを、悉く、演劇的、というよりも、劇映画的な感じのする効果へ収斂させたうえで、官能美の結晶をみとっている(注11)。そして、フェミニニティを〈詩〉化し、あるいは逆に、詩性を〈女〉化したすえ、「橋姫」を遊君・白拍子のイメージで捉えている。なるほど当時は「今様」の時代だ(注12)。右の読解の背景には、「橋」を共同体と外部の境の象徴とし、(いつきまつ)る姫君を祖とする遊女(あそび)がハレとケを媒介するという〈注13〉、後にフーコーの「外の思考」の受容をも含む日本の文化記号論的なフィクションの典型となるある種の民俗学的な考え方がある。

 

注11晶化(クリスタリザシオン)を官能美の比喩として用いたのは、スタンダールの『恋愛論』が念頭にあるだろう。

注12三島には、初期の未完成の習作に『白拍子』(全集所収)という作品があり、他の「室町もの」と同じく、そこにはすでに、後の「三島美学」なるものの要素のほとんどが発見できるといってよい。

注13〈女〉性の文化的な資源化による収奪の歴史をも隠蔽する、光と闇でも彼岸と此岸でも、一九八○年代の「現代思想ブーム」で流行した単純な構造論的ないし二項対立図式的文化理論は大抵この構図に入る。性のみならず、夢、暴力、逸脱、流浪、「狂気・痴呆」「業病・不具」そういう暗部(ドゥンケルハイト)なり「穢れ」の聖域化という美的な形をとる、歴史上の排除問題のロマン化にも一役買う。

 

三島ほど自ら非難しながら、「民俗学的」「精神分析的」な「構図」が透けていた文学者もない。所謂「禅病」なのである。そして、やはり現代の騎士道的ファンタジー文学などともおなじように規格化された、「構造主義ではなく、構図主義」(浅田彰)に属するといえる(これに関しては後に詳述する)。ちなみに三島と同年輩の吉本隆明も一九七○年代には、

 

《幽玄という場合には、それは白拍子のイメージからきているような気がします。宮廷女性ではなく、制度の裏側にいつでも存在する女性的なるものには、宗教的な意味がつきまとっているというところがあります。折口信夫も源氏物語についての文章の中でそんなことをいっています》(吉本『難しい話題』青土社)

 

と語っている。だが源氏物語の橋姫は、剥落の親王とはいえ桐壺帝八宮の三人の姫達だ(長女の大君が「橋姫」と呼ばれ、妹たちはその形代なのである)。しかるに、後世の「化外(けがい)」の女性たち(史実では凡そ中世を通じて職制(しきせい)へ属しているにもかかわらず、近現代の文学等ではなぜかそういうふうに扱われやすいという意味で)が、その源流を大化以来あり『源氏』で完成をみた「宇治の橋姫伝承」へ託したといえはしても、本来それは、官能的というより厭世的な途絶える恋のイメージのほうが濃厚なものであった(歌道においてはもとより、「鬼女伝説」においても古形では途絶える恋のテーマが強いだろう)。

中絶えむものならなくに橋姫のかたしく袖や夜半にぬらさむ(匂宮。源氏物語作中歌)

江戸時代末まで続く「仏教的厭世観と美との結婚」は実のところ「宿命観と現世主義との微妙な結合」(昭和二四年『近代文学』へ掲載のエッセイから。『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫、所載)だとしていた三島でも、どうやらこの件は、ある時期から通り一遍では飽き足らなくなったらしい。しかし、「待つ夜」は「末世」にも懸かり、「秋」は厭き(、、)、「宇治」は憂し(、、)へ懸かり、「ふけ」は更け(、、)(老け)にかかる。そして新古今集では、恋の歌ではなく、秋の歌に入っているのだった。衣に射す月明かりは、袖へ零れた涙に月の光が宿るという懐旧の隠喩で、その月影の映りこんだ衣を片敷くのだとすると、朝廷が非力化し、武者の暴力に侵され、鎮魂職である琵琶法師の繁盛する末世、宇治の橋姫が、薫または匂宮を懐かしむ、

絶え間のみ世にはあやふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや(浮舟。同作中歌)

と、つまり『源氏』の栄華を懐かしむ「喪失の美」の絵巻の図とみえれば、通いの足の遠のいた情人を待ちくたびれた年増女が仲睦まじかった頃を思いつつ独り寝しているもの寂しげな姿だって浮かんでこよう。なにせ「子生まぬ式部の老の果て」という今様も流行っていたらしいのだ。

ただ何も、そういう鑑賞をすべき、というのではない。いずれにせよ三島が自ら固定した「像」に基づいて和歌を読む、馬齢を重ねても改まらない性癖を指摘したのである。短詩形にさえ必ず背後へ何らかのパーソナリティを想定せずにおかない「指示性」に憑かれた解釈癖がある。近代文学的なのだ。さしもの三島と雖も「散文訳」が習い性なのである。

三島は新古今集の「恍惚と魅惑」の「その中心が定家の有心体」であって「私の新古今観は、あくまで定家の新古今集であり、しかもそのマニエリスムの美学は、むしろ後代に於いて、能楽の詞章として、もっとも適した器を見出したという考え」とも書いている。しかし、こと「詩情」に関し有心(うしん)だと三島が考えたものは、後の世阿弥や禅竹などの「幽玄」のことだと断言できる。それは『奔馬』の須磨の海女、松風、村雨に関するところと、「宇治の橋姫」に関する文章とを読み比べれば一目瞭然のはずである。

定家の「有心」とは、美学ではなく云わば創作法なのであり、三島のいう「いくつかの詩的条件を一緒くたに提示する芸術的効果」をつきづきしく(、、、、、、)創出する態度自体のことであった。それを「実情」として捉えたのが後鳥羽院だった。三島の理解は院の系統にある。三島が指摘した「錯雑した語序」などによる「論理的世界の破壊」にしても、せいぜい「散文」をはかる尺度に照らしてそうであるということで、それも、縁語や懸詞といった和歌の「作法」を、「文意」よりも優先させれば、斬新ではあっても、破壊的ではない〈注14〉。

 

注14これは、ハムレットの抱く「実情」が、よく云われるようにドラマの中で相応しい対象を見つけられない「過剰」なものであったとして、それが、T・S・エリオットほかの人がいった「劇構成的な破綻」の原因なのだとしても、ハムレットの喋ることが「詩法」の上では整然としているのに似ているかもしれない。シェイクスピア劇の台詞を、近代劇的に「台詞が詩になっている」ととるか、「詩が台詞になっている」ととるか、その違いで「解釈」ががらりと変わってしまうということについては異論がないだろう。しかし、どういうわけか狂言綺語(きょうげんきぎょ)を「実情の過剰」と取りたがるロマンティシストは多いのだ。ついでに、『十二夜』などからジェンダーの流動性の表現を見取るのは容易くとも、それにしてからが、シェイクスピアの時代は女形が演じたことを思えば、平たく「楽屋おち」だともいえる。

 

定家の歌論の「和歌十体」の有心()ならば実情といえはするものの、

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王。百人一首ほか、禅竹作の謡曲「定家葛」で取っている)

などの歌を有心体の典型例に定家は挙げた。官能美とは印象が異なるのだ。なお内親王の歌は『源氏』の柏木(の男心(おとこごころ))に成り代って詠んだともいわれ、こういうものが女性的な冗き(クドキ)のスタイルとなるのも鎌倉時代後期以降のようである。後には狐などまでもくどくようになる。

連歌や能にかぎらず、茶、華、絵画、造園などの、有心を受け継ぐとされる芸事のパイオニアの多くが、「農耕共同体」に属さない「阿弥」を号する時衆だったという。三島のいった「マニエリスムの美学」とは、浄土教のマイノリティで「エクスターズ」の信者といえる時衆や、「方下の禅師」をも介し――《かれら(方下の禅師)は、こういう自己矛盾を劇化する方向で思想的な死の周辺を徹底していった。そして、それとともに深化される自己欺瞞の耐え難さが、ますます、かれらをラヂカルな死の思想化へつっ走らせていったといえる。》(吉本『西行論』。括弧書きは筆者)――また山岳宗教の影響も濃い「有心」である。この点は、三島も後期の短編『三熊野詣』で、藤宮先生(折口信夫がモデルだとされる)の説として若干なら類似のことへふれてはいた。木版印刷を普及させた五山文学の「詩禅一味」や武家の式楽になった能を含む南北朝期以降の文芸は、「近代的内面性」に基づく、(とりあえずいうと、「原初的意味作用」とでもいうべきものを想定したうえでの)表現的な芸術と似た性質を備える〈注15〉。そこでは、有心のマニエリスムが、中世的ロマネスク及び「武士道」(「騎士道」なら若き古文書学者バタイユの思想?)と結合し、室町幽玄の美学と化した。極言するとこれは、西行と定家、二つの歌道のあり方の混成なのである。たしかに定家の歌は「達磨歌」とも称されたが、天台の止観禅への知的関心はあっても「禅宗」には概ね批判的だった。それに定家は先にも述べたように、尤もらしい「美学」へなどお義理程度に触れるだけで、「技術論」ばかり残している。

 

注15たとえば網野善彦はかつて、南北朝期以降の文献資料を読むのは現代文を読むのと大して労苦が変わらず理解に詰まるということがほとんどない、といったことを述べていた。三島が憧憬してやまなかった「北山文化」以降の美学主義(、、)成立の時代背景にはつまり、公家式から分離した文書様式の独自の発展があり、主要なエクリチュールの「散文」化傾向があるだろう。

2010年8月8日公開

作品集『無底と喪失』第2話 (全4話)

© 2010 月形与三郎

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