無底と喪失(1)

無底と喪失(第1話)

月形与三郎

評論

12,333文字

書くことの倫理とは何なんだろう。鎌倉時代初期の歌人にして公人であった藤原定家に接近した三島由紀夫、その交接点を論点に据えつつ、古今東西のエクリチュールを探訪しつつ。

無底と喪失――藤原定家と三島由紀夫における〈不在〉のイマージュ①

月形与三郎

 

 

分節化以前には、即ち、局所的(ローカル)な差異が生じる以前には、言語と呼びうるようなものはない。(ジャック・デリダ著「グラマトロジーについて」邦訳法政大学出版)

 

 

《定家は生得の上手にてこそ、心なにとなけれども、うつくしくいひつづけたれば殊勝の者にてあれ》(『後鳥羽院口伝』)

 

心にたいしたものもないけれど美しい言葉を連ねつづけた上手、まるで「三島文学」に対する大方の評論の言い様である。西行の歌についてなら、「心(こと)に深し」と後鳥羽院は、まるで反対の言葉で賞賛した。

よく知られていることで、三島由紀夫には、ライフワークだとしていた『豊饒の海』の完成の後に藤原定家を主人公とする長編歴史小説を書こうと、その構想を練っていた時期があった。あるアンケートでは「歌道の極意は身養生にあり」という定家の言葉が座右の銘だと答えている。また渋沢龍彦の、

《(三島)氏はみずからを現代の定家に擬していたことは疑いようがないのである》(渋沢著『「天人五衰」書評』、『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫所載。括弧書きは筆者)

という言葉も、「評論家の憶測」ではなく、友人の率直な感想だといえそうである。

定家は宮廷政治へ参与するのに熱心だった。勅撰和歌集の撰者は権威者なので当然なりたがった。その地位へつけてくれた「御恩」のある後鳥羽院のひき起こした承久の乱に際し鎌倉幕府寄りだった義弟が後に太政大臣へ出世したおかげをこうむり、京極黄門定家は、しまいは正二位までのぼった。隠岐へ流された院に対する定家の態度など、幕府に気遣ったらしく、それは薄情だったとされる(注1)。このように超俗的というのでもない。ただ十九歳の時、挙兵した源頼朝の討伐令に関し、日記『明月記』へ、「紅旗征戎非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と白氏文集から引いた文を記した。これは自らの文学の非政治性を宣言したものだとも解されていて、晩年の三島は、そのような諦念を自分はもてないと語った。そして、その言葉は承久の乱に際しても、再び『明月記』へ記される。三島はしかし、この言葉を誤解していたかもしれない。人皇を讃えれば「大雅」であり、征夷、征戎などの賛歌は「小雅」である。西行は、

《木曽と申す武者死に侍りけりな。木曽人は海のいかりを沈めかねて死出の山にも入りにけるかな》

と、源義仲の死の報を聞いて、あっさりと詠み捨てた。定家の方は、さらに輪をかけて小雅には無関心なのかもしれない。それと、ごく当たり前に考えて、せいぜい文化革命を企てたぐらいの文化主義者(カルチュラリスト)三島のほうが、しぶとく高官として現実政治(リアル・ポリティクス)へ携わっていた定家よりも、よっぽど政治に関しては諦めがよかったのではないか。

さて、いったい、定家と三島、二人は似ていたのか。目指した「文学」の在り方は近しいものだったのか。それとも似て非なるものだろうか。西行と源氏物語を間に置いてみる。

 

 

注1 とはいえ林直道の研究によれば、『小倉百人一首』は乱後に、「超人的」な技芸により、合せ言葉を以って、大恩ある後鳥羽院の水無瀬離宮辺の景観を絵図として編んだ織物(テクスト)、つまりパズルである。

 

《みわたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮、の歌は何でもって(、、、)いると考えるに「なかりけり」であるところの花や紅葉のおかげでもって(、、、)いるとしか考えようがない。(中略)「花ももみぢもなかりけり」というのは純粋に言語の魔法であって、現実の風景にはまさに荒涼たる灰色しかないのに、言語は存在しないものの表象にすらやはり存在を前提するから、この荒涼たるべき歌に、否応なしに絢爛たる花や紅葉が出現してしまうのである。新古今集の醍醐味がかかる言語のイロニイにあることを、定家ほどよく体現していた歌人はあるまい。(中略)ここには喪失が荘厳され、喪失が純粋言語の力によってのみ蘇生せしめられ、回復される》(三島由紀夫著『存在しないものの美学―新古今集珍解』昭和三十六年。『アポロの杯』新潮文庫、所載)

 

「喪失」とはあったものが失われたことで、「不在」とは本源的な空白を意味する、とドミニク・ラカプラはいっている。「喪失」されたものはフロイトのいう「喪」の対象であり、「不在」はメランコリーの非―対象的な領域だといえよう。ラカプラのいう「不在」とは、言表の内的な限界であって、現実界が、象徴化の挫折としてのみある(、、)ということだろう。近代的二元論の極ともいえるカント認識論のいう物自体(ディング・アン・ジッヒ)の概念をポスト・ラカン派精神分析的に読み替えた――元はヘーゲル以後の「物自体は、あらゆる対他存在の単なる抽象」との批判を受け新カント派哲学がそうした――コミュニケーションにおける不可避なディスコミュニケーションの被隠蔽性、というのと、ほとんど同じと思われる。渋沢龍彦の三島追悼文『絶対を垣間見んとして』(同前『三島由紀夫おぼえがき』所載)のいう「現実」の絶対性。その「現実」は、「三島事件」の背景思想について渋沢的な見方を、晩年のミシェル・フーコーの「実存の美学」と似通ったものへと読み替えた、丹生谷貴志のいう「不在」と同じといってよいだろう(丹生谷著『三島由紀夫とフーコー〈不在〉の思考』青土社)。それは、認識論的即ち経験心理学的〈外部〉、「内的経験」の虚焦点、純粋否定性、要はありていにいうと実存的な()にほかならない。終始素朴二元論的であった「近代文学者」の三島が、『豊饒の海』の執筆に当り学んだ法相宗の唯識論から得たことが、確かにそのようなロマンティックな「死の一元論」というべきものを「行動」の指針とすることだった、と多分に漏れず思えはする。

 

真理(アレーティア)涅槃(ニルヴァーナ)の語源は、共に「覆いを剥ぐ」ということだという。

 

《世には、ひたすら存在の形にかかわる自意識というものもあるのだ。この種の自意識にとって、見ることと存在することの背反は決定的になる。》(三島『太陽と鉄』、新潮社『三島由紀夫全集』所収。以下、特に典拠を示さない場合は、同全集所収作品からの引用)

 

ヘーゲルによるなら、感覚的確信は言葉を介した反省によって事象となり、存在者は媒介がなくして現われえず、現前とともに媒介を拒絶する感覚的確信は退き去る。三島の云う「見ることと存在することの背反」とは、明らかにこの種の「疎外」ないし「物象化」を念頭に置いていた。

 

《中上健次の「北山のうつほ」のなかに、つぎのような一節がある。

〈仲忠は息苦しかった。歌の中の紅葉と北山の紅葉は違っていた。歌は約束事でもあり、歌の詞の紅葉と本当の紅葉とが必ずしも一致しなくてもよい。誰一人あのような色とりどりの紅葉を実際に眼にしたものはいないだろうと仲忠は思い、その時、その息苦しさに耐えられず紅葉の中にある音、梢の中にある音にむかって琴を力いっぱいかき鳴らした〉

ここでいわれている「音」は、言葉だといいかえてもよい。すると、この一節はいわば書くことの秘密を語っている。いわば、北山の紅葉とは対象物ではなく、原エクリチュールなのだ。「息苦しさ」とはそういうものへの予感にほかならない。「約束事」の言葉に抑圧された言葉は、肉体的な「息苦しさ」においてしかあらわれてこない》(柄谷行人著『反文学論』冬樹社。中上作品の藤原仲忠は日本初の長編物語『うつほ物語』の登場人物)

 

若き中上=柄谷のいう、たとえ和歌的な「約束事」でなくとも、近代文学的約束事ではあるだろう「息苦しさ」は、キルケゴールやハイデガーのいう「不安」の如何にも青年っぽい解釈だといえる(ただし後に、柄谷のほうは、こういった若気の解釈を、大幅修正する)。

ウィトゲンシュタインは、前期のハイデガーのいう「存在の不安」に関して、言葉の限界へ向かって突進させるものであり――これは、前期のウィトゲンシュタインの言葉なら、それについては「沈黙」すべき「語りえぬもの」即ち対象指示的な言語表現の「外部」への意欲、とも置き換えられるだろう――その「突進」はキルケゴールのいう「逆説への突進」――コミュニケーションが不可能であるためには同時に、コミュニケーションが可能でなければならなくとも、そういうことを理論的に云おうとすればパラドクスになる、というような意味での「逆説への突進」――ともほぼ同じことで、このような「不安」こそが、「倫理」的欲求と云いうるものの性格であるとした(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』邦訳講談社ほか)。これには、三島の長らく引き摺っていた気分も近似していたに違いない。

 

《抑圧によるリビドーの鬱積が不安を生むのではなく抑圧が不安に惹起される》(フロイト「制止、症状、不安」邦訳人文書院)

 

対自存在が「自己原因的」であること、却って、それが自由そのもの、「自由の刑」であることへの不安、三島がキルケゴール的だという《過去からの不安》(『三島由紀夫対東大全共闘』昭和四十四年)を解消する方策が行動(パフォーマンス)だったのか。ともあれ、本章はじめに引いた三島の小評論では、「存在しないものの美学」がまだ、遂には「行動の文学」へ至るだろう「不在の美学」になっておらず、喪失を言葉の力で蘇生させようとする「喪失の美学」だった。

ならば、定家はどうか。先に結論をいえば、「文学」とは「歌」であり、金輪際「約束事」だという考えだったはずで、しかも―みずから「価値」を創造するものとしての――「貴族」へ、ひたすら憧れていた現代中産階級出の信奉者とは異なり、事実として衰えゆく支配階級である王朝貴族だった定家には、「見ることと存在することの背反」なども、「決定的」どころか、別にどうでもよいことではなかったか。

 

定家の「みわたせば花ももみぢもなかりけり」の歌は、古来さまざまな解釈を呼んできた。なかには青年定家が、「花も紅葉もない寂れた浦景色で、な~んも詰まらんやないの」と単なる退屈を詠んだという珍説?もあれば、この歌は須磨・明石へ退去した光源氏の心――《なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに》(源氏物語『明石帖』新潮社ほか)――を成り代わって詠んだというものから、斉藤茂吉の評で、国文学者谷鼎との論争にまで発展した、云わば(空疎で)取るに足りぬ歌だというものまである。大半は、幽玄体の歌であり三島のいうようにサンボリスムの極みとしての「喪失の美」とうけとっている。これはまた新古今集の有名な「三夕(さんせき)の歌」の一つであって、そのほか、

 

寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 (寂蓮法師)

心なき身にもあはれはしられけり(しぎ)たつ沢の秋の夕暮  (西行法師)

 

の二首がある。寂蓮の歌も、紅葉黄葉の現象がない、「その色としもなき」常葉の秋景色。西行の「心なき身」は気色に動くものでない出家だという含意があるとされるが、「大空(だいくう)」「大虚(だいこ)」の仮象である自心(、、)ともいえ、そのときものの(、、、)あはれ(、、、)をしる(こころ)は「慈悲」である。「空より仮に入る」(最澄)のだ。

この西行の歌は、「御裳濯河(みもすそかわ)歌合」(注2)という西行の史上初とされる自歌合の一首として、神仏習合思想では大日如来の垂迹(すいじゃく)である天照大御神を祀る伊勢神宮へ奉納された。判者(注3)は竹馬の友の藤原俊成であった。俊成はこれを「こころ幽玄にすがた及び難し」と評した。慈円が清書した。西行は後の自歌合「宮河歌合」の判者を若き定家へ依頼している。

 

《道はるかみゆき悲しき今宵かなかぎりのたびとみるにつけても

松山の浪に流れしこし舟のやがてむなしくなりにけるかな (ともに西行、宮河歌合三十二番。鳥羽法皇崩御時に詠まれたとされる歌と、讃岐に流された崇徳上皇に関する歌が合わせられている。定家はこれに関しては判を避けた)

(中略)歌合せというような儀礼と遊びと社交のような形式に、おおまじめに殺し合いの種を播きあった帝王の死を並べたとて、風雅の種にはなりようがない。》(吉本隆明著『西行論』講談社。括弧書きは筆者)

 

「風雅の種にはならない」、はたしてそうだろうか、「原母」へと捧げられたその苗裔たる父子の死、むしろ、それこそが風雅を射影する本身(ほんみ)に相応しくはないか。

 

注2 御裳濯河は、五十鈴川のことで、皇統を表すときにもこの言葉を用いる。

注3 合わせた二首の歌の勝敗を決め論評する役。

 

《(定家は)言語的秩序の孤立と自律性にすべてを賭けようとした》(三島『日本文学小史』昭和四十五年。括弧書きは筆者)

 

と三島は云う。ところが定家ほど、言語的秩序、三島のいう「この世のものならぬ秩序」、言い換えるなら、作家=詩人が自ずから構成するイディオムによる詩的自律性、それが実は「自律」的でない、此世(このよ)(ほか)のものでない(、、、)のを、芯から知っていた者はいないと思える。《パラドックスを歌の唯一の源泉と(たの)み》(小林秀雄著『西行』新潮社から)その「言語的秩序の孤立と自律性」へ賭けようとしたのはむしろ、《自意識が彼の最大の煩悩だった》(同前『西行』から)武士(もののふ)、西行のほうであろう。

 

《西行法師常に来たりて物語して云はく、「我が歌を読むは、遥に尋常に異なり、華、郭公、月、雪、(すべ)て万物の興に向ひても、凡そ所有(あらゆる)相皆是れ虚妄なること眼に遮り耳に満てり。又読み出す所の言句は皆是れ真言にあらずや、華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず(中略)我又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」。》(平泉洸訳注『明恵上人伝記』講談社。引用文中のかぎ括弧は筆者)

 

対象というべきものの触発による何らかの情動性を「あはれ」というとして、西行の「あはれ」はところが、その極みであるような、もはや対象不在のものなのであり、いわば超越的に見出された自己原因的なもの、更にいうなら無原因的なものと了解されている。前登志夫は、右の「心なき身」の歌へ、「中世の光芒、存在の秋」とホイジンガとハイデガーを足して割らないみたいな評をしたが、密教でいう毘廬遮那仏は、闇さえも包む「遍くある偉大な光輝」だというので、…そうなのだろうか? かくして、最澄などの抱いた「やまと言葉」を真言(マントラ)に擬する構想は、西行の一見しては平明な歌道によるところもあり、伊勢神道、吉田神道を経、近代国家神道の神仏再分離まで至る道程の出発点へ立つことになった。

ナーガルジュナの『中論』では、言葉を用いるかぎり(くう)へは至らないとし、ぎゃくにバルトリハリは、音声言語が自体的に絶対者ブラフマンであると説く。そういう両極をもつ言語観の様々は、唯識、三論、華厳、等の仏教哲学的教養の持ち主であった新古今時代の歌人たちにもあった。例えば俊成は歌道を、三にして相即する一、空、()、中、の三諦に比した。(注4)

 

注4 後世になるとそういう「幽玄の美学」は、「三諦即是ノ月ノ光」「三諦即是ノ春ノ華」などとして、「太平記」やらの軍記物や、御伽草子にも出てくるようになる。

 

時代時代の歌のあり方にしてもまた、世界宗教の受容の仕方なり「国体」の変遷と切っても切れず、とくに西行、『愚管抄』の著者で天台座主をも務めた慈円、彼らにとって、和歌は「やまと言葉」の真言(マントラ)だった。歌は真言になりえないと考えられていたという当時、二大歌僧はそういう信念もしくは信仰に基づき、禅宗と浄土教の勃興へも対抗し、神仏習合思想の中世的展開の始まりとなる役を二人羽織で演じた。最初の神国思想家といわれる慈円はもちろん、西行も、宗教政治上果たした役割の重みを、文学的事績よりも重要だとさえする向きがある。

 

右に引いた二つの「無い」を(なが)むる歌が、定家の歌の「無い」という「歌意」を()らしめているといえる、アンソロジーもまたひとえの作品だろうから。「無い」の三首つづく「三夕の歌」の一つであるということを、三島が知らなかった筈もなかりけり、なので繋がりに触れず定家の歌だけを取り上げた、その辺も『新古今集珍解』と副題した所以の一つかもしれない。「現実の風景」と「心象」とを、どうやらふかく考えず安易に分けている点に疑問はあるにせよ(本章初めの引用文をご参照)、日本へ構造主義的な文学理論の紹介される前に書かれた評論としては「進んで」はいたかもしれない。定家はしかし、次のような歌も詠んでいる。

 

しぐれ行く四方のこずゑの色よりも秋はゆふべのかはるなりけり(千載和歌集)

 

この歌では、紅葉の景色を詠めながらも、「もみぢ」という語を意図的に用いていない。三島に倣って「みわたせば」を「存在しない(、、、)ものの美学」というなら、反対にこちらは「存在する(、、)ものの美学」になるだろうか、それとも他の何かなのか。一応いえるのは、どちらの歌も「喪失が荘厳され」などという今では『お宝鑑定団』のナレーションに丁度良くなってしまったものではないということだ(同番組では、『明月記』の写本が出品された際、三島の文章が引用された)。三島のいう「喪失の美」とはたとえば、次のような歌を言うだろう。

 

このごろは花も紅葉も枝になししばしな消えそ松の白雪 (後鳥羽院)

 

定家には左のような歌もある。

 

秋に堪へぬ言の葉のみぞ色に出づる大和の歌も(もろこし)の歌も (この歌には「金韻忽ち生じて残暑尽く、独り吟ず古集早秋の詩」ということで漢詩も添えてある。「大和の歌」「唐の歌」と、当のその歌のなかでメタフィクション的に挿入されているのだ)

 

「秋に堪えぬ」は、秋の情趣に心高まることと読めるが、まだ紅葉も色づかないというのに、秋の情趣へは「堪えぬ」=及ばない、「言の葉のみ」が色づいているとも、さらに「色」を仏教的に「表象」ととるなら、言語表象のみあって、だいぶ古びた言い方をすれば「シニフィアンが浮遊している」ということとも、読める。これも紅葉の「不在」を詠んでいながら、「喪失の荘厳」から、いかに程遠いことだろう。

定家はよく言われたことで、マラルメなどとも似ているのだった(注5)。

 

注5 柄谷行人や浅田彰のいうところの、日本型ポストモダニズム=プレモダニズム、の現在まで名の残る元祖が定家だといえよう。しかし、たいていの「元祖」がそうであるように、定家も自らの方法の硬直しようとするのを無自覚的に自ら「脱構築」してもいる。

 

三たび「みわたせば」に戻ると、三島のいったこの歌の想起させる「絢爛たる花や紅葉」とは、言語表象による残映効果と呼んで差し支えないものだ。ならば『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル著)の、猫がおらず笑いだけがある「チシャ猫」ほどナンセンスではないとしても、効果のほどは類縁的である。ただし、花紅葉は形態記号及び色彩記号で、和歌は歌謡であり(しょ)でもあり、この歌の見るべきは、こういえる点なのだ、音声・文字として在る花や紅葉が、「なかりけり」で景色として「不在」とされており、耳目にある声音や文字形象に引き換え、「散文的」な伝達情報としての景色は閑寂としている、と。詩的レシとは「深み」だとしても、画像の奥行きのようなもので、その「深み」を映し出す詩そのものは「物」的である。柄谷行人は、蕪村の俳句を例にとってこう書いている。

 

《さみだれや大河を前に家二軒(中略)われわれはこの句をいわば視覚的(、、、)に理解しうる。》(柄谷行人著『日本近代文学の起源』講談社所載『風景の発見』)

 

柄谷が「視覚的(、、、)」というのは、音訓、読み方に関わりなく、「心象」など関係なく、端的に字面(、、)()ということである。三島は実作の上でなら「語呂」や「字面」へも大変こだわった。それはしかし、職業人として「体でおぼえた」、いわゆる暗黙知的なものだったのだろう。

 

《夕月夜潮みちくらし難波江の

あしの若葉をこゆるしらなみ(藤原秀能)

霞立つすゑの松山ほのぼのと

浪にはなるるよこ雲の空  (藤原家隆)

これは二首とも自然の事物の定かならぬ動きをとらえたサイレント・フィルムだ。しかし、こんなに人工的に精密に模様化された風景は、実はわれわれの内部の心象風景と大してちがいのないものになる。新古今の叙景歌には、風景という「物」は何もない。確乎(かっこ)とした手にふれる対象は何もない。言語は必ず、対象を滅却させるように、外部世界を融解させるように「現実」を腐食するようにしか働かないのである。それなら、心理や感情がよく描かれているかというと、そんなものを描くことは目的に外にあったし、そんなものの科学的に正確な叙述などには詩の使命はなかった。それならこれらの叙景歌はどこに位置するか。それは人間の内部世界と外部世界の境目のところに、あやうく浮遊し漂っているというほかはない。それは心象を映す鏡としての風景であり、風景を映す鏡としての心象ではあるけれど、何ら風景自体、心象自体ではないのである。それならそういう異様に冷たい美的構図の本質は何だろうかと云えば、言葉でしかない。但し、抽象能力も捨て、肉感的な叫びも捨てたその言葉、これらの純粋言語の中には、人間の魂の一等明晰な形式があらわれていると、彼らは信じていたにちがいない。》(同前三島『存在しないものの美学』)

 

「風景自体」「心象自体」でない「美的構図の本質」が「言葉」だというのは、べつに新味のある考え方ではなくとも、「心象」と対置される「外部世界」を、感覚与件が沈着している、所与のものを意図せず記述する現象言語の構成する「風景」、「心象」を記号の「意思」的操作によると考えれば、そう時代遅れの問題意識ではないはずだ。あるいは、「現象言語」をきめ細かな「経験」を構成するような(取敢えずここではそうしておく)下位の言語、他方を、超越的観点から閉じた系を記述するような(と考えておいて通常は差し支えない)抽象言語といってもよい。いずれにせよ、物心二元論的な「事実関係」を成り立たせようものである。そして大よそむかしから、「昇華」や「堕落」とは、そうした「言表行為」の「上昇と下降」のプロセスを総じていったのである。

また、三島のいう「心理や感情」の「科学的に正確な叙述」とは、凡そ自然主義リアリズム的叙述を意味すると思われる。

 

《われわれは文学作品を、そもそも「見る」ことができるのであろうか。(中略)自分のくぐり抜けている薮を、人は見ることができるであろうか。(中略)文学作品とは、体験によってしか捉まえられないものなのか。それとも名器の茶碗を見るように外部からゆっくり鑑賞できるものなのか》(三島『日本文学小史』)

 

三島は「文学鑑賞」へ対置すべく彫刻などの「立体的な美術」の観賞の例として「名器の茶碗」といった。ところが別段と「独我論」を持ちださなくても、茶器とて、誰も「外部」から「見ている」ということはない。ぶんぶく茶釜のように変身した狸、とまではいかなくとも、茶碗は上から見れば円く横から見れば四角であったりする。「われわれ」が「見ている」形は、(これも取敢えず)射影であって「立体」の()とは時間性に於いて(、、、)在る、「ピタゴラスの定理」に基づく「概念」である。プラトンの「洞窟の比喩」以来?ある種の形而上学の要点がそこなのも言うに及ばない。つまり〈像〉といえども、三島がいう「体験的な時間芸術」、文学や音楽や映画と同様に「藪」である。

 

《風景つまり、「山水画」において、画家は「もの」をみるのではなく、ある先験的な概念をみるのである。同じようにいえば、実朝も芭蕉もけっして「風景」をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学にほかならなかった。》(柄谷『日本近代文学の起源』所載『内面の発見』)

 

三島の引用した、秀能の「夕月夜(ゆうつくよ)」のほうは「蘆州の月の色は潮に随って満つ」と、漢詩取。家隆の歌の「すゑの松山」は、陸奥の歌枕で、宮城県元多賀城市(現在は仙台市に合併)の高い山のことだとされる。ただし、いったいその山がどの山のことなのか、地元の住民にさえも実は不明なのである。イメージ的には、仙境である蓬莱山に重ねられることがあり、また(歴史的イメージ上の)松島などと同様に、(西方ではなく)東方浄土の夢想を掻き立てもする。

君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ(古今・東歌)

や、それを本歌とする、

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは(清原元輔。百人一首ほか)

などにみられるように、末の松山と浪の組み合わせは、従来は恋心が変わらないことの意に用いたのを、家隆は異化し「景色」として(、、、)詠んだのだった。「横雲の空」というのは春曙を表わすのに、後鳥羽院歌壇では一時期頻用されたという。ようするに、はじめから対象記述という意味での「叙景」ではなく、だから、三島のやや「素朴二元論」的な読解とも違って、そもそも「心象風景」に近いも遠いもないのであった。

 

《日本人が長いあいだ名所の風景だけを風景として眺め、また「詩歌美文の配列」に充足してきたのはなぜなのか。むろん、その風景は漢文学との出会いによって与えられたものであり、『古今集』がその規範だった。(中略)逆にいえば、人々が「詩歌美文の配列」にすこしも厭きなかったのは、実際の風景などより「文」の風景のほうが現実的(、、、)だったからである。》(同前柄谷『風景の発見』)

 

「『文』の風景」とは、おもに漢文学から提供されたモデルの組み合わせでできた、ふたむかし前の流行語を遣うなら、「シミュラークル」であり、実在(リアル)ではなく、「ハイパーリアル」なものだということである。凡そ、そういう元になる漢文学の第一が『白氏文集』だったのだ。

「文」が「風景」であり、歌枕が「風景」であり、「現実」であった。そのような理念化、再度、再々度の昇華のすえ歌枕の連合体となった地理とは、もはや対応すべき実在を要さず、歌はなんらかの模写では一切なくなる。普天のした卒土の内を充たすべき王地、それを形作る歌枕とは、本来的に見ずして(、、、、)詠むものだった。それは「経験」を喪失しているがゆえ、逆に一般的な「現実のもの」となり、右で柄谷の述べるように、ついに記号の布置を尽く「実在」と取り替えた、非の打ち所のない「風景」なのである。いうなれば、王地が歌枕に先立ってあったのではなく、歌枕が普天の下・卒土の内を遍く王地に仕立てた。

仮想の、マトリックスの上にあるミニュチュアの世界、それが所々へ纏わる記憶さえ都度毎に創出する操作の可能なシステムだった。だからこそ、西行は「漂白」により、網野善彦のいう「民俗史的変動」の始まり、鎌田東二のいう「四つのチ殻変動、血縁、地縁、霊縁、知縁の動揺した世」で、新たな文武(公武)合体のジオ―ポリティカル・エコノミーに適った歌枕を再構築しようとしたのである。五味文彦によると、王朝の「栄華」が確固と「理念化」したのも院政期以降である。ともあれ、新古今集における「叙景」とそれ以外のものの混淆なり寓意化又は象徴化も、「文」が現実(、、)であるがゆえ容易に可能だったといえる。つぎに定家の「横雲の空」、

 

春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこ雲の空 (新古今)

 

『夢浮橋』は源氏物語の最終帖名。うき(、、)は憂きに懸り、天の浮橋は高天原へと架かるとされ、「春の夜の夢」は和泉式部の有名な歌などがある、

 

枕だに知らねば言はじみしままに君語るなよ春の夜の夢 (和泉式部集)

 

定家の「春の夜の」の歌の下句は、『文選』(高唐賦)にある、楚王が夢で神女に会ったという故事に由来する。霊山へかかる紫雲は瑞兆である。それも途絶えれば、中絶える恋の予感であるとともに、世の凶兆でもあろう。この定家の歌など確かに、あれこれの「心象」を喚起しもするだろうし、実際に現代の有名歌人がそのような「一般向け解説」をするのは後を絶たないけれど、味も素っ気もなく種明かしをすれば、「現実」のみならず仮想のものをも含めて具体的な「景色」や「心情」は一つとして詠まれておらず、いうなれば、多数のヴィジョンを成り立たせる効力をもつ「間テクスト」的な夥しい言葉の仕掛け、名人芸を以って所与のものを再構成したからくりが、巧みに布置されているだけの(一応よい意味で)無内容な歌なのである。『竹園抄』では、この歌を「乱思の病」と評した(「乱思の病」は「精神分裂病」のこと)。「乱思の病」かどうかともかく、定家は「美学的」ではなく「詩学的」なのである。萩原朔太郎は「万葉の自然発生的歌人と対蹠的な構成主義」と定家の歌風を評した。今や万葉歌を「自然発生的」といえなくとも、また主義ではなくとも、定家流は構成的であるとともに強かなまねび(ミミクリー)だった。

2010年5月7日公開

作品集『無底と喪失』第1話 (全4話)

© 2010 月形与三郎

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中世 学究的

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