ホールデン・コールフィールドの憂鬱

かきすて(第22話)

吉田柚葉

エセー

5,614文字

大学院生時代に書いて閉鎖したブログ記事の1エピソードです。

ついにやってしまった。そう思った。きんじょの大学図書館で借りた本にコーヒーのシミができてしまったのだ。それも、二冊。

どんな風にしてそのシミが着いたのか、はっきりと俺には判っていない。俺がねむっているあいだに二冊の本が歩き出し、コーヒーのはいったマグカップで足湯をたのしんできたのかもしれない。あるいは、陽が照れば影が生じるように、望むと望まざるとにかかわらず、そこに本があるかぎりコーヒーのシミはかならずできてしまうのかもしれない。

だけれど俺には、そうした突飛な想像よりも、はるかに現実的な原因について思いあたるふしがあった。

たしかに俺はその日の晩、ついうっかり手をすべらせて部屋の床にコーヒーをぶちまけてしまっていたのだ。だがそれは、あくまで、床に、である。リュックサックのなかに入っていた二冊の本にすさまじいコーヒーのシミができる義理はない。まるで意味が判らなかった。ひょっとしたらこの出来事とは何の関係もなく二冊の本にシミができたのではないかと思わないでもなかったが、人からあずかった子どもの膝に擦り傷ができてしまっていたばあい、それがどうであれ責任をとるのは子どもをあずかった方だ。オーケー、理解した。

まず俺は、より負傷のひどい方の本を図書館に返却することにした。それで相手の反応をうかがってみようとかんがえたわけだ。

こいつは、本の小口にすさまじいシミができてはいるけれど、本文を読むにはなんの問題もないと見えた。だけれどそれは勝手に俺がそう思っているだけで、潔癖な人間であれば、この本を手にとったその日のあいだじゅうずっとブルーな気分にひたりつづけるかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。俺は俺の人生を生きるだけだ。

それで俺はつぎの日の午後、かるいランニングをすませて昼食にサンドイッチとフライドポテトを食べてからその図書館にむかった。カウンターの女の子にあやまろうという気持と、なに、知らんぷりをきめこんでやればいいさ、という気持は半々だった。

いざ女の子をまえにすると、それでも俺の気持は半々のままだった。あやまってもいいし、あやまらなくてもいいと思った。俺は無言で一冊の本を女の子の前に置いた。

「アノ……ヘンキャクデオネガイシマス……」

すると女の子は本を手にとって、それをじっくりとながめ始めた。それから、女の子の顔にちょっと不思議なことがおこりはじめた。

女の子の顔に、赤みが生じた。口もとがすこしゆがみ、言おうかどうしようかまよっていると見えた。俺は、このままこの場から立ち去ってしまおうと思った。しかしつぎの瞬間、

「これはもとからですか」

と俊敏な声が俺の肩をつかんだ。とっさに俺は、

「あ、はい!」

と答えた。

俺は・嘘を・ついた。

 

それから俺がどうしたのかと言えば、逃げだしたのであった。ふだんの俺だったら、現時点であと何冊貸出中なのかを女の子の口から聞き出してからそこをあとにするのだけれど、やましいことがあるときというのは、なかなかその場にとどまることができないものだ。

俺は大学図書館から二キロほどはなれたスターバックスコーヒーに逃げこんだ。持参のタンブラーにドリップコーヒーを淹れてもらって、席につき、じぶんを落ちつかせる。

カウンターの女の子があんなにこわい顔をするのを見るのははじめてだった。俺は、道にはずれた行いをしてしまった。まったくそれは、とりかえしのつかないことだった。あのとき、

「いや、ちょっとやらかしちゃったんです。ア、そういえばもう一冊やらかしちゃいまして、ハイ、これ」

とでも言っておけば、すこしはおこられたかもしれないし、ほんのおこづかいていどの罰金を請求されたかもしれないが、ただそれだけですんだはずだ。なのに……、俺の耳もとで悪魔がささやいた。俺は退路をうしなったのだ。

カウンターにかえすことなく持ちかえってきた一冊の単行本をながめながら俺は、これから起こるであろうよくないことを想像した。見れば見るほど、この本は、さきほど返却してきた本と同じようにコーヒーにつかっていた。かえした本と異なり、小口のところがおおむね無事なのをのぞけば、それらは成長の過程で身長に差が生じてしまった双子の姉妹のようによく似ていた。もし明日、図書館にこれをかえしに行って、万が一にもまたあの女の子がカウンターにいて、俺の応対をすることになれば、いささかくるしい展開になるのは避けられないだろう。

俺はいま、二十代のなかばにいる。おとなにガチ説教されると、くよくよしてしまう。それに、そもそも嘘をつくことが好きではないのだ。嘘をつくと、はげしく自分を糾弾してしまう。わりと自己肯定感ひくいのだ。しかしもう引き返すことなどできなかった。俺は完全犯罪を実行する覚悟を決めなくてはならない。俺は俺がこしらえた虚構に肩までつかり、カウンターの女の子をその虚構にとりこまなければならない。千と一夜ものあいだ、毎夜毎夜、王様の前で興味ふかい説話を語りつづけたあの少女のように。

俺はスマートフォンをとり出して、検索エンジンに「本 シミとり」とうち込んだ。すぐに『まるで魔法!本についたコーヒーや醤油シミの染み抜き法』という記事がでた。俺は、魔法という言葉に飛びあがった。むかしからおジャ魔女どれみとか好きだったのだ。用意するのは、塩素系漂白剤とティッシュだけだ。さいわいにもスターバックスコーヒーのちかくにドラッグストアーがある。

俺はちょっと席をたつ風をよそおって、ふところに本をしのばせ(俺はくろいコートを着ていた)、スターバックスコーヒーをあとにした(また戻ってこられるようにカバンやタンブラーはそのままにしておいた)。

塩素系漂白剤は一番安価な八十八円のものをえらんだ。買うと、近所の百貨店にはいった。そしてトイレにはいり、大きい方で牙城をかためた。ティッシュはもっていないのでトイレットペーパーで代用することにした。

魔法を起こすのはとても簡単だ。ティッシュに漂白剤をたらして、それを患部に当てればよい。このとき大切なのは、ただ当てるだけですませることだ。大切な人の大事なところに触れるように。まちがってもこすってはいけない。

俺はシミのひどい裏表紙に処置をほどこした。漂白剤は、シミをあぶり出し、おおきなカメが手足をのばすように、じょじょに、じょじょに、溶かして行った。が、やはりダメだった。裏表紙は、デコボコになるように特殊な加工がされていて、どんなに慎重にあつかっても、傷ついてしまうのであった。

それでもシミは八割型とれ、ごまかせるかどうかで言えばごまかせる……かな……、しらんけど、という感じになった。

俺の心はズタズタだった。シラフでいろ。自分にそう言いきかせるが、むりだった。俺はブレーキがぶっこわれた。よう相棒、もうちょっとあがいてみようぜ、と思った。

この本は、裏表紙をひらいたところに、色画用紙でコーティングがなされている。しかし、画用紙は裏表紙すべてをおおっているわけではなく、上下三ミリほどずつ、裏表紙の厚紙がはみ出しており、コーヒーのシミは、上のはみだしたところにもついていたのだ。俺はそれをなんとかしようと思った。それが、いけなかった。

漂白剤は、画用紙の色をはがした。まっ赤だった画用紙は、漂白剤のたれたところだけ虫に食われたようにオレンジ色に変色してしまった。

すっかり温水プールみたいなかおりが染みついた大きい方のトイレのなかで、俺はひとり、熱いなみだをながした。

 

「完璧なシミとりなどというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

それはよく判っているつもりだったが、「魔法」ということばの魔力に魅せられた俺は「完璧なシミとり」の幻想にかどわかされ、さらに本をダメにしてしまった。もうこの本を目にしたくもなかった。

俺はスターバックスコーヒーの自分の席にもどって、しばらく茫然とした。死んでしまいたかった。ここで俺が死ねば、この残念な本はこのまま俺のカバンのなかでねむりつづけ、しかしいつかは家人がその存在に気がつき、図書館に返却してくれるだろう。それが俺の最後の望みだった。

俺はカバンから『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をとり出して、任意のページを開いた。たしかこの小説には、未成年であるホールデン・コールフィールドがレストランで飲酒するために、ウェイターに年齢をあざむいてみせるシーンがあったはずだ。

 そのときにウェイターが注文を取りに来た。僕はスコッチ・アンド・ソーダを注文し、ミックスしないでくれと言った。それをできるだけ早口で言った。どうしてかっていうと、もし君が口ごもったりしたら、ウェイターは君が二十一歳以下であることを即座に見抜いて、お酒と名のつくものは一切出してくれないんだよ。でもいずれにしてもすんなりとはことは運ばなかった。「申し訳ありませんが、年齢を証明するものをお持ちではありませんか?」とウェイターは言った。(中略)

「君の目には僕が二十一歳以下に見えるのかい?」

「申し訳ありません。しかしわたくしどもといたしましては――」

「わかった、わかった」と僕は言った。

まったくあざむけていなかった。俺はあまりにも記憶と異なったため、村上春樹が誤訳をしているのではないかと、うたがった。だけれどこれは単行本ではなく、そのあとに出たペーパーバック版なので、誤訳をそのままにしておくはずがなかった。やれやれ。まちがっているのは俺の方らしかった。

それから俺は、そこで二時間ほど読書をつづけた。希望の物語だと思っていたホールデン・コールフィールドの物語は、絶望の物語だった。それだけでも鬱屈とするのに、やめておけばよいものを、二十分だか三十分ごとに俺は、カバンのなかから例の本をとりだし、ためらい傷にそっと指をあてるように、その失敗具合を確認した。何度見ても結果が同じなのは当然のことだが、目の方が慣れてしまって、何がおかしいのか判らなくなってきて、しまいには別にこのままかえしてもなんも言われないのではないかと思えてきた。

じっさい、家に帰って家人に見せても、「そのくらいの汚れの本なら図書館にいくらでもある」と太鼓判を捺してもらえた。とは言え、家人はしごとのことでイライラしていて、そのことばのすべてをうのみにするのは危険だった。はなしはんぶん、と俺はじぶんに言い聞かせた。

家人の愚痴を夜中まで聞き、ちょっとけんかっぽくなってきたところで俺たちはねむりについた。

夢の中で、俺はまだ学部生だった。四年生の終わりごろらしいが、なぜだかすごくかなしい気持でいた。どうやら、必修科目の第二外国語の講義を取得し忘れてしまったようだ。卒論の担当教授にもう手遅れだとつげられ、俺は夜の街に飛び出した。居酒屋にはいると、友人たちが楽しくお酒を楽しんでいた。皆、この春に大学を卒業するらしい。俺も卒業するという態でその会に参加した。死ぬようにまずい酒だった。……

そうして目が覚めると、すでに家人がいなかった。たしかきのうの晩、あしたは髪を染めに行くと言っていた。俺は寝起きに、タンブラーに入ったコーヒーを飲んだ。行くしかない。覚悟を決めた。

スーツに着替えた。それは、きょうの夕方にアルバイトの面接予定が入っているからでもあったが、すこしは変装の意図もあった。眼鏡もいつもとちがうものにした。さらに冷蔵庫からアルフォートを取りだし、それをカバンにつめた。ミッションが上手く行ったあかつきには図書館の中でこっそり食べようと思ったのだ。

大学図書館のまえに立ち、カバンから本を取り出した。すると、シャレにならないミスに気がついた。本に、返却日が記載された紙ぺらがはさまったままになっていたのだ。それがなぜシャレにならないかと言うと、その紙ぺらにはコーヒーのシミがバッチリついていたからだ!

俺は紙ぺらを引っこぬき、本をカバンに入れなおすと、呼吸をとめて図書館のなかに入った。カウンターには、よく見るお婆さんがいた。ヨシ! きのうの女の子じゃない。俺はそのお婆さんに本を差し出した。

お婆さんは、ざっと中身を確認した。そして最後の難関、例の画用紙のページに到達し、本を閉じようとしてもう一度、確認した。あきらかにギョッとしたけはいだった。俺は唾を飲んだ。

「はい、大丈夫ですよ」

と、お婆さんは言った。

俺は深々と礼をして、自習室へと向かった。アルフォートを食べるつもりだった。

 

さて、そんなこんなで一連の事件は幕をとじたかに見えたが、あにはからんや、けっきょく俺は罰金を図書館におさめてきた。

と言っても件のきんじょの大学図書館ではなく、げんざい俺が通っている大学の図書館である。じつは俺、みんなにだまっていたのだけれど、もう一冊、本をずぶ濡れにしてたんだ。だから二冊やらかしたと言ったが本当は三冊やらかしていたのだ。

これに関してはどうにもならないたぐいのやらかしだったので、もう苦悩とかなんにもなかった。あ、ダメだ、と。まったく諦めていた。

だもんできょう、それを持って大学に行って来た。心持、すがすがしかった。結果、罰金刑が処された。二五〇〇円。痛いが、授業料だと思って払ってきた。それに、直前に図書館に六〇〇〇円くらいの本を買わせているので、三五〇〇円の利益だと思っておいた。ギャンブル脳である。

で、今回の事件を振り返ってみると、あがけるのであればなるべくあがいた方がよい、行けそうな人にはちょっとくらい嘘をつけばよい、ということが判ったように思う。なんであれ、人生には罰金がついてまわる。それは早かれ遅かれ、必ずぶちあたる壁だ。図書館の人も「不可抗力ということもありますから……」と言っていたが、まったくそのとおりである。これからも俺は、図書館でアルフォートを食べつづけるだろう。

2021年2月13日公開

作品集『かきすて』第22話 (全44話)

© 2021 吉田柚葉

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