ホールデン・コールフィールドの憂鬱

かきすて(第23話)

吉田柚葉

エセー

5,608文字

大学院生時代に書いて閉鎖したブログ記事の1エピソードです。

ついにやってしまった。そう思った。きんじょの大学図書館で借りた本にコーヒーのシミができてしまったのだ。それも、二冊。

どんな風にしてそのシミが着いたのか、はっきりと俺には判っていない。俺がねむっているあいだに二冊の本が歩き出し、コーヒーのはいったマグカップで足湯をたのしんできたのかもしれない。あるいは、陽が照れば影が生じるように、望むと望まざるとにかかわらず、そこに本があるかぎりコーヒーのシミはかならずできてしまうのかもしれない。

だけれど俺には、そうした突飛な想像よりも、はるかに現実的な原因について思いあたるふしがあった。

たしかに俺はその日の晩、ついうっかり手をすべらせて部屋の床にコーヒーをぶちまけてしまっていたのだ。だがそれは、あくまで、床に、である。リュックサックのなかに入っていた二冊の本にすさまじいコーヒーのシミができる義理はない。まるで意味が判らなかった。ひょっとしたらこの出来事とは何の関係もなく二冊の本にシミができたのではないかと思わないでもなかったが、人からあずかった子どもの膝に擦り傷ができてしまっていたばあい、それがどうであれ責任をとるのは子どもをあずかった方だ。オーケー、理解した。

まず俺は、より負傷のひどい方の本を図書館に返却することにした。それで相手の反応をうかがってみようとかんがえたわけだ。

こいつは、本の小口にすさまじいシミができてはいるけれど、本文を読むにはなんの問題もないと見えた。だけれどそれは勝手に俺がそう思っているだけで、潔癖な人間であれば、この本を手にとったその日のあいだじゅうずっとブルーな気分にひたりつづけるかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。俺は俺の人生を生きるだけだ。

それで俺はつぎの日の午後、かるいランニングをすませて昼食にサンドイッチとフライドポテトを食べてからその図書館にむかった。カウンターの女の子にあやまろうという気持と、なに、知らんぷりをきめこんでやればいいさ、という気持は半々だった。

いざ女の子をまえにすると、それでも俺の気持は半々のままだった。あやまってもいいし、あやまらなくてもいいと思った。俺は無言で一冊の本を女の子の前に置いた。

「アノ……ヘンキャクデオネガイシマス……」

すると女の子は本を手にとって、それをじっくりとながめ始めた。それから、女の子の顔にちょっと不思議なことがおこりはじめた。

女の子の顔に、赤みが生じた。口もとがすこしゆがみ、言おうかどうしようかまよっていると見えた。俺は、このままこの場から立ち去ってしまおうと思った。しかしつぎの瞬間、

「これはもとからですか」

と俊敏な声が俺の肩をつかんだ。とっさに俺は、

「あ、はい!」

と答えた。

俺は・嘘を・ついた。

2021年2月13日公開

作品集『かきすて』第23話 (全25話)

© 2021 吉田柚葉

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