流れで考える日本文学の未来

ヤマダヒフミ

エセー

5,259文字

初投稿です。よろしくお願いします。あくまでも大雑把な論です。他サイトと重複しています。

「お前は日本の現代文学を批判しているが、大江健三郎や中上健次、阿部和重らは優れた現代文学じゃないのか?」というようなコメントをブログの方で貰った。確かに、僕は日本文学の重鎮である大江や中上についてはほとんど言及していない。

 

僕は大江健三郎や中上健次についてはあまり知らない。著書は一応、家にあるのだが、あまり読めていない。阿部和重についてはそれほど素晴らしい作家だとは感じていない。

 

僕の理解では、時代はーーあるいは時代を象徴する文学の有様というのは、大江健三郎・中上健次から、村上春樹・村上龍に写ったと見ている。村上春樹・村上龍・高橋源一郎以降、空爆とした虚無の文学空間が現れている、という一般的な認識を持っている。

これについて、時代順に雑に考えていく事にする。

 

まず、戦争経験をした文学者達がいた。そこから始める。戦争という重たい、実存的な経験を、表に出したり裏に隠したりする事に、当時の優れた文学というものがあって、島尾敏雄・小島信夫・田村隆一といった人達がそこにあたる。僕は島尾敏雄と田村隆一くらいしかちゃんと読んでいないが、そこでは戦争という重たい経験が常に底の方に沈んでいる。そこではいつでも、人間の生や死という巨大な問題が、軽い話をするにしても底の方に沈んでいた。彼らはいつもその経験から物事を見ていたと言う事ができる。

 

そこから時代が映って、中上健次・大江健三郎が文学の主流を担うようになった。そこでは戦争経験が核となっていないが、文学としての重たさは確かに存在した。(それがどのような重さか、僕は読み込んでいないのではっきり言えない) しかし、中上健次・大江健三郎は時代が変化するに連れて、自分の居場所を失ったのではないかと思う。中上健次においては彼が描いてきた「路地」の消失、大江健三郎については知的な、インテリ的な場所への逃避というように、彼らが主題としてきた事は、時代が変化するにつれて消え去ってしまった。

 

次に現れたのが、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らである。彼らの出現は同時期の、坂本龍一、忌野清志郎・糸井重里らと同じ現れ方をしたと見た方が見やすい。

 

ここからは僕の射程に入ってくる。なので詳しく話していく。村上春樹・村上龍のした事を総括すると、アメリカ文学(文化)の日本への導入という事になるだろう。日本にアメリカ的な消費文化が流入すると同時に、それを日本に輸入したのが、現在から見た両村上の役割だったのではないかと思う。

 

これに関しては村上春樹については非常にはっきりとしている。バーで友達とビールを飲んで、女を口説いてホテルに行き、家ではパスタを茹でて本を読む…こうした生活スタイルは過去の日本からは考えられなかったし、仮にあるにしても単に空想的なものに留まっていた。が、戦後に発展した日本社会では、こういう生活も「ありうるもの」として存在する事になった。村上春樹の描き出しているものは、それを可能とした社会に依拠している。ここに村上春樹の小説が単なる空想にならない原因があるし、社会が変化すると村上春樹が基盤としていたものが消え去るという原因も同時にある。

 

村上龍にしても、形は違えど村上春樹と同じような雰囲気を共有していた。僕は村上龍の核を初期の作品よりも「テニスボーイの憂鬱」や「走れ! タカハシ」といったポップな作品に見たい。そこでは、軽薄化した、大衆社会の中に生きる個人が描かれているが、しかし同時に、「それだけでは足りない」という焦慮も感じられるる

 

「テニスボーイの憂鬱」では主人公はステーキ屋の経営者で金があり、バブルの日本を代表する存在となっている。暇な時は愛人とホテルに行き、しょっちゅう仲間とテニスをする。それだけならただそれだけの事なのだが、そこでは彼ら金持ちは遊びを「強要」されている。遊ぶ事、生を楽しむ事は社会が個人に押し付ける「強要」で、本当はそんなに華やかで愉しいだけのものではないという事が、微かに作品の背後に現れている。この寂寥感というのは村上春樹・高橋源一郎にも共有されている。僕は、この寂寥感がなければ彼らの作品にはほとんど大した価値はないだろう、と思っている。もしこの寂寥感がなければただ現状肯定のだらだらした文学があるだけで、現実に対する否定と乗り越えの契機がない。

 

高橋源一郎の場合は「さようなら、ギャングたち」に寂寥感が刻印されている。作品自体はポップな乗りで、記号的な操作といういわば、いかにもポストモダンな文学なのだが、その背後に寂寥感がある。社会の潮流の中で人々は遊び、楽しみ、生きていく事に満足していたが、同時にそこには物質的な事が全てになった事に対する違和感や寂しさがある。記号的な遊びの中で、微かに世界に対する違和感と寂しさがある。こうした違和感や寂しさがなければ、文学というのは単に、社会肯定のイデオロギーを持って大多数に受けいられる安易な媒体(あるいは意味もわからず芸術を気取るスノッブな遊び)でしかないだろう。

 

村上春樹についてはもう書いたので省略するが、要するに、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らにはこうした現実に対する違和感のようなものがかろうじて存在した。また、彼らは「ポストモダン文学」らしく、軽いものと重いものをあえて取り違えるという事をした。糸井重里もそうだが、彼らは自身、重たい教養とか知識とかを持っているものの、「あえて」軽いものを全面的に前に出すという事をした。ここでは「あえて」という言葉が重要になる。「重いもの」が重大な時代は過ぎ去り、軽いものが全てとなった、今はそういう時代だから自分達は軽いものを主題とする。が、重いものを知らないわけではない。知ってはいるが、「あえて」そうするのだ、という転倒的な価値観があった。この辺りは、タモリなども共有している。

 

ここまで、僕の理解の範囲の及ぶ所だし、共感もできる。が、それから下の世代からは僕にはとうとうわからないものとなった。具体的には「よしもとばなな」以降と言っても良い。そこでは重いものを知っているものの「あえて」という、「あえて」の感覚すら消失した。そこでは本当に「軽いもの」が全てとなり、それが全てとなると、もはや対比する条件そのものが消失するので、文学全体が圧倒的に軽薄化した。が、この軽薄化はどういう意味を持っているのか、僕らは理解できない。なぜなら僕らは、軽薄化したものを対比する「重いもの」を全く知らないし、そんなものは知らなくていいといアナウンスが満ち満ちているからだ。

 

こうして文学という場所は、単に、日常の細かな事を追いかけるものになった。就職活動をして、彼氏がいて彼女がいて、あらかじめ鎖のついた人間的葛藤に終始し、それなりの文章で全体を修飾すればそれが文学だという事になった。この傾向をライトノベル、異世界小説、YouTuberという現象にまで拡大していっても大して問題は変わらないように思う。僕達は自分達に嫌なもの、深刻なものがあるとそれを「異常」「不健全」の領域に放り込んで、後は自分達の愉しみに終始する事になった。僕達はもはや、自分達の幻想で満足するようなった。文学というものはこの幻想に違和感を呈し、真実を露出させる事が可能な媒体であるが、それよりもむしろ、幻想を強化する方向に走り出した。

 

中村文則が文学的、実存的なものを前に出していても、それは結局、物語として我々が消費されるために、一時的に現れるだけの話であり、事情は以前と全く変わらない。穏やかな日常をちょっと疑ってみせるという文学的行為も、「そういうのが文学だよね」というファッションの中に吸収される事を最初から「アテ」にしているために、読むに足りるというほどでもない。文学者・芸術家という人達もみんな性格は良いであろうし、色々なルールを守るだろうし、彼らの作品も規範を乱すような顔をしても実は僕達の境界線の内部にきっちり収まっている。僕達の世界では、もはや芸能人の生死すら消費される情報媒体となってしまった。

 

「軽いもの」が全てとなった社会ではどんな「重いもの」もその受け取り方自体が軽いものとなってしまう。「ハイデガー」「ニーチェ」のようないかにも重たいものでも「ニーチェを読んで年収アップ!」みたいなノウハウ本になりかねない。(そんな本があるかは知らないが) こうして世界は単一化されたが、その事について疑問を持つ事をイメージする事すら不可能なほど、僕らは同質の空間に溶けてしまった。

 

その虚偽の極地とも言えるのが、青山七恵だったりする。青山七恵の、実質的には内容がゼロで、少女漫画的感性しか持っていない(少女漫画の中には一流の芸術もあるがここでは類型的に使う)作家が、色々な手管を施し、書いているものをリアリズム・文学の水準に微妙に合わせていく。実際の現実を描かず、微妙にズレた、作家にとって極めて好都合で矮小化された問題しか提出できない空間が作品の中でできていく。しかし、現実だって青山七恵の小説を模倣している。だから我々はルールを破る異常者が出ると、徹底的にその人間を排撃し、自分達の「外」に放り出す。青山七恵の小説は極めて矮小化された現実を模倣するよう描いているが、現実の方でも、そうした矮小なフィクションを模倣するように現れていく。単純な善悪感で構成された「シンゴジラ」がここまで受けるという事は、僕達そのものが随分単純化している事を意味していると思う。

 

こうして文学というものは、現実に対する否定も違和も失い、単にファッションとして否定や違和を時折挿入してみせるというものに成り果てた。結局、文学というものも多くの人に消費されるものであり、「商品」の一部であるから、一時的といえども、人々が望む作品を紡ごうとするのは当然の事だ。

 

しかし、純文学という奇妙なジャンルでは、大衆におもねっているものの、萌えアニメのような思い切りをつける事もなく妙な「芸術的」という冠を着せたがる。ここに文芸誌の苦しみがあるのだろうが、部数が減っても芸術的な高さを守ろうという気概もなく、少年ジャンプのように大衆向けに徹する思い切りもない。どちらも行けずまごまごとして、「純文学」の看板を掲げつつ、出てくる作品はエンタメ作品であり、何の洞察も必要としない作品だというのが今の「純文学」の実情なのだろう。

 

こうした軽い状態、軽い空間、文学者達が皆、健全化した状態が今の文学空間であると思う。この状態を、またひっくり返す事はほとんど不可能に近いだろうし、今の文壇にはそれは不可能だろうと思う。高橋源一郎の最近の対談やエッセイを見ても、村上春樹の新作にしろ、彼らの感性はもはや色褪せている。それは彼らが年を取ったからというより、彼らの方法論がある時代に限定的だった事から来ている。彼らは「あえて」軽いものを前に出したが、もう軽いものしかない状況では、白色に白色を塗り重ねるようなもので、何故彼らがそんなポップな姿勢を見せようとしているのか、もはや今の僕達には理解できない。糸井重里や高橋源一郎がどう自己規定していようと、下の世代である僕らにとっては普通のインテリ、普通の知識人でしかない。つまり、彼らの話している事は僕らのビビッドな現実に響いてこない。

 

こうした文学の下降の代わりに上昇してきたのが、アニメ・ゲーム・漫画・バンドミュージックなどのサブカルチャー文化だと僕は理解している。今はサブカルチャーについて論じている余地はないので、この文章はここで終わる。現在、僕らはこのような空白の現象の只中にいる。そしてこの空白の現象に対し、あるいは芸人の又吉直樹を入れ、あるいは過去には若い女の子二人ーー綿矢りさと金原ひとみを持ち上げる事により、なんとかテコ入れしようとしてきたが、実際、こうした事は一時しのぎにすぎない。こうした一時しのぎはいつまでも続くものではないと僕は思う。まずは現在自分達が陥っている状況を見極める事が先決だと思うが、作家らの言葉は「〇〇という作家の影響で~」「文学はもう一度蘇る」のようなよくわからない言葉であり、現実に対する認識も文学に関する深い掘り下げもあまり見られない。

 

僕は狭義の意味での文学の先行きは暗いと思う。が、当然、メルヴィルのように、陽の当たらない作家がどこからか出てくるかもしれない。それはまた、インターネットあたりから出てくるかもしれない。そんな風に思う。(すでにThe Red Diptychという優れた批評が出現している)

2017年4月4日公開

© 2017 ヤマダヒフミ

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