借りっぱなしの猫

アサミ・ラムジフスキー

エセー

7,944文字

8年間にわたって被写体となってくれた、あの老猫についての随想。

karippa

 

「猫、飼ってるんですか?」

そう訊かれることがよくあった。

理由は考えるまでもない。一時期、たびたびSNSに猫の写真をアップしていたからだ。被写体はいつも同じ肥満体型のキジトラで、背景も一目で個人宅とわかる室内だった。予備知識のない人が見れば、その猫を僕のペットだと認識するのは無理もない話だ。

しかし、僕が愛玩目的でなんらかの動物を飼ったことは、生まれてこのかた一度もない。好きか嫌いかでいえば動物は好きなほうだし、気が向けば一人で動物園に行くこともあるほどだが、僕は基本的に自分だけのために時間を使いたい性分だ。人間との共同生活にすらあまり向いていないのだから、ましてペットとの共同生活となれば適性などあるわけがなかった。

過去には、留守中の友人宅に住み込んで一週間ほど猫の世話代行をしたこともあった。ただそれも、「たまには仕事をする環境を変えたい」とか「気分転換に知らない街で過ごしてみたい」とかいった部分に魅力を感じただけで、猫と戯れることが主目的ではない。もちろん引き受けるからには猫が好きなことに嘘はないのだが、わざわざ自分で寝床と餌を提供してまで面倒をみようとは考えたこともなかった。親戚の子供と同じようなものだ。たまにしか会わないから憎たらしい部分や小生意気な部分も愛せるのであって、四六時中一緒にいたらさすがに疲れてしまう。

すると「なるほど、あれは昔の恋人の飼い猫なのか!」と早合点してくれる人もいるかもしれない。たしかに、自分のペットでもないのに頻繁に会うとなれば、一般的にはその可能性も高そうだ。飼い主以上に懐かれてしまって恋人と別れたあとにもついつい猫のことを思い出してしまう、というシチュエーションはフィクションの世界でもまま見られる。あるいは「行きつけのカフェかバーの看板猫だな!」と深読みしてくれる人もいるだろう。常連客から可愛がられ、それでもけっして周囲に媚びず気高さを失わない猫は、被写体として魅力満点だ。もし身近にそんな看板猫がいたら、僕だってあちらこちらにアップしまくるに違いない。

だが、残念ながらどちらも違う。僕は、そんなヴィレッジ・ヴァンガードでレコメンドされている洒落臭いコミックエッセイのようなエピソードとは無縁だった。

あのキジトラ猫の飼い主は、近所に住む永江さんという人だ。

 

永江さんとの間柄を一言で説明するのはむずかしい。血縁関係にはないし上司でもないし政治的同志でもない。といって友達というにはおこがましい。しかし「遠くの親類より近くの他人」とはよく言ったもので、今年で八十三歳になる永江さんは、おそらく両親以外で最も僕との付き合いが長い人物だった。幸運にも僕には幼少期からずっと仲良くしている友人が何人かいるが、連中だって永江さんには到底かなわない。なにせ、まだ僕が母の胎内にいるころから洋服越しに見てくれていたはずだからだ。永江さんはもともと、母の雇用主だった。

東北の農村で生まれ育った母は、口減らしのため中学卒業と同時に集団就職で上京してきた。「上野駅」という固有名詞に特別な意味を見出していたほぼ最後の世代だろう。祖父が病弱でろくに働いていなかったので、六人姉弟の三女である母は義務教育が終わり次第すぐに家を出なければならなかった。コネも学歴もない少女が身よりもない街で自立しようと考えたら、手に職をつけようと考えるのは妥当だ。それで、母は永江さんの旦那さんが経営していた理容店に就職した。一九六八年春の話だ。

東武伊勢崎線曳舟駅からほど近いその街は、今でこそ東京スカイツリーのお膝元としてぼちぼち賑わっているが、当時は特筆することもないごく平凡な下町だった。深沢七郎の今川焼の店があったあたりだと言えば、わかる人にはわかるだろうか。住みやすい街だが派手な街ではない。それでも山村で育った母には大都会のように感じられたらしい。まだ路面電車が縦横無尽に走っていたこのころの東京は、たしかに写真で見るぶんには今以上に活気があるように見える。

以来、母は産休期間を除きずっとその理容店でハサミを握ってきた。当初はほかにも従業員が何人かいたそうだし、その後もたびたび人員の出入りがあったらしいが、僕が物心ついたときにはもう、店には永江さんと母の二人しかいなかった。たいそうな酒好きだったという旦那さんは早世してしまって、僕からすると「仏壇に飾られている写真の人」というイメージしかない。ほかの従業員も、独立して自分の店を構えるようになった人が多いようだ。母だけが、永江さんと一緒に店に立ちつづけた。

理由としては、自ら店を立ち上げるほど器用ではなかったということもあるだろうし、数字の計算が苦手だということもあっただろう。永江さんを一人にするわけにはいかないという配慮もあったかもしれない。しかしなにより、夫であり僕の父でもある男が家にろくにお金を入れない種類の人間だったことが大きかったのだと思う。食費も学費も小遣いも母の収入だけで賄われていた。だからこそ、リスクのある経営者という立場よりは、賃金が安くとも安定して収入を得られる立場を選んだということだ。そういう事情もあって、僕は母だけを親だと思っているわけなのだが、それはさておき。

よく、落語家や力士が自分の師匠を指して「二人目の父」と表現するが、母にとっての永江さんもまさに「二人目の母」に違いなかった。母は、自身の両親と一緒にいた時間よりも永江さんと一緒にいた時間のほうが何倍も長いはずだ。永江さんからしても、最後まで店に残った愛弟子ということで、母には格別の愛着があったのではないかと思う。だからその子供である僕も、幼いころから本当に可愛がってもらった。永江さん自身に子供がいなかったことも一因だろうか、幼児期にはちょくちょく永江さん宅を訪れて、相撲をとったりウクレレを教わったり寿司をご馳走されたりした。今では高層ビルに隠されてしまったが、当時は窓から東武線の高架を見ることができたので、永江さんのことを「電車おばさん」という安直なネーミングで呼んでもいた。僕から見れば「三人目の祖母」といったところだ。

もっとも、僕個人にかぎっていえば、今日までずっと永江さんと親密な交流があったわけではない。理容店は家から近かったが、通っていた学校とは反対の方向にあったので、小学校に上がってからは半年に一度会うかどうかという状況になっていた。会うとしても、うっかり家の鍵を忘れた日に母に借りにいくというパターンが大半だったので、そのついでに挨拶をして一言二言話す程度がせいぜいだった。半端にませていた僕は、仕事中の大人の邪魔をしてはいけないのだという意識が強かった。用件だけ済ませたら速やかに帰るべきだと考えていたのだ。仕事中の母の姿を見る機会はそういうときしかなかったが、理容室独特の石鹸と化粧品の匂いがやけに印象に残っている。

その後も小学校卒業までは毎年お年玉をもらっていたが、今にして考えると、あの程度の交流しかないのによくぞくれたものだなと思う。六歳からの約二十年間、僕には永江さんとまともに会話をした記憶がない。

 

転機は八年まえのこと。そのころ僕は無職だった。大学在学中からつづけていた家庭教師の仕事を辞めたからだ。理由はいくつかあるが、長期にわたって教えてきた生徒を大学に合格させたことで達成感を得てしまったという部分が大きかったのだと思う。教えはじめたとき、その子は中学一年だった。十二歳から十八歳までの六年間というのは、人生のなかでも特に内面・外面の双方で成長著しい時期だ。ましてその子は同級生の妹だったので、実はもっともっと昔からよく知っている。彼女に関する最も古い記憶は、目が合うなりいきなりジャンピング・ニー・バットを食らわされたことだ。そんな人間以前のクソガキが花の女子大生になってしまうのだから、時間というものはおそろしい。成長の過程を毎週定期的に見守ってくると、思い入れが強くなってしまうのは仕方がない。それで、彼女の大学合格とともにこの仕事はやり尽くしたと思い、後先も考えずに辞めた。

永江さんが理容師を引退したのは、そんなおりだった。それと同時に、母が理容店の経営者になった。税務書類上は新規開業ということになっているが、場所も店名も同じままなので、実質的には跡を継いだ形だ。ちなみに店舗は土地も建物も永江さんのものであり、二階は永江さんの住居となっている。二人の関係は四十年間つづいた「雇用主と従業員」から「大家と店子」に変わったわけだ。母は退職金のかわりに店の設備一式をすべて譲り受けた。散髪用のリクライニング椅子などは中古でも二十万円は下らない代物だし、ボイラーも十万円程度はするから、客観的に見てもまあ妥当な取引だったのだろうと思う。ガスや水道の名義をわざわざ変える必要もなかった。なんの初期投資もせずにすぐに自分の店を開業できたのだから恵まれていた。

とはいえ設備だけ充実していても、不慣れで不器用な人間がいきなり一人で店をまわすのは大変だ。そこで、ちょうど暇をしていた僕に白羽の矢が立ったというわけだ。僕は母より一足早く店に行って、開店前の準備や掃除をアルバイトという形で担当することになった。トータルで一時間もかからない仕事なので大した金額はもらえなかったが、あまり条件がよすぎても次の仕事を見つける気力がなくなってしまう。繋ぎとしてはちょうどよかった。

僕と永江さんが二十年の時を越えて頻繁に言葉を交わすようになったのは、この時期からだ。僕の仕事が終わると、永江さんはいつも二階から下りてきてお茶を淹れてくれた。お茶菓子を出してくれるときもあったし、気分が良いときは朝から一緒にビールを飲んだこともある。そんなとき、僕たちの話題の中心にいたのが、あのキジトラ猫だった。

 

猫が永江さん宅に住み着いたのは、今から十六年ほどまえの話になる。獣医の見立てでは当時二歳だったということになっているが、正確なところは不明だ。もともとあの猫は野良猫だった。

永江さん宅は下町の路地裏にある木造の戸建てなので、敷地内に野良猫が不法侵入してくることはめずらしくもなんともない。店先に小便を撒かれたりしないかぎりは、お互い干渉しないようやり過ごすだけの話だった。ところがどういうわけか、たまたま魔が差したのだろう。あるとき、永江さんはうっかり食事をお裾分けしてしまったのだという。それも、たまたま鰹のタタキを食べているときだった。ゴミ箱を漁って飢えをしのいでいただろう野良猫が急に目も眩むようなご馳走を食べたのだから、癖になってしまうのも無理はない。

以降、猫はたびたび物乞いにやってくるようになり、いつしか転がり込むようになっていた。永江さんは経済観念のしっかりしている独居老人だったから、貯蓄はたっぷりとある。猫一匹増えたくらいどうということもないので、晴れてあいつは家族として迎え入れられることになった。絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーだ。

ただ困ったことに、永江さんにはペットを飼った経験がなかった。それで随分と甘やかしてしまったようだ。餌をやった直後でも、しつこく鳴かれたらすぐにまた餌をやった。文字どおりの猫可愛がりだ。猫は猫で野良出身だから、遠慮というものを知らない。食べられるときに食べておこうという意識が本能的に備わっていたのだろう。それで、どんどん太っていった。顔だけ見ればかなり美人の部類に入る雌猫だったのだが、腹や背中はいつも水枕のようにぶよぶよだった。それだけ飼い慣らされていたくせに、野良時代のプライドはそのままだから、ろくに人間に懐かない。まさに「お猫様」といったところだ。手を借りることなど到底できなさそうな、実に猫らしい性格の猫だった。

母から話を聞いていた僕も、八年まえにはじめてあの猫と顔を合わせたときには面食らったものだ。こちらから近づいていけば逃げるし、距離をおいても警戒して睨みつけてくる。それまでに触れてきた飼い猫たちは揃いも揃って人懐っこかったので、どう接したらよいのか皆目見当もつかなかった。

実際、野良時代の習性というのは抜けないようで、飼い猫になっても半分放し飼いのようなものだった。朝起きて餌を食べたら外に行き、しばらく帰ってこない。昼になってまた餌を食べ、再び外に行く。そんな繰り返しだった。よその猫と喧嘩をする声が聞こえてくることも日常茶飯事だ。そして、いつも相手を負かして帰ってきた。わずかな引っかき傷をもらう以外はぴんぴんしていて、元気にまた餌を食らう。雌であるにもかかわらず、近所に敵はいないようだった。

そんな野良っぽさからか、永江さんは猫に名前をつけなかった。いつも「ニャン」と呼んでいたので、強いて言えばそれが名前だ。もっと立派な名前をつけてやればいいのにと思うこともあったが、今となってはこれほど相応しい名前もなかったような気がする。

もしニャンがもう少し聞き分けのよい猫だったら、僕が写真を頻繁に撮ることもなかっただろう。そのころ僕はちょうどiPhoneを買ったばかりで、写真を撮ってはインスタグラムにアップするということに夢中だった。誰かと交流したいとか繋がりたいとかいう意識よりは、ただ単に新しい玩具で遊ぶのが楽しくて仕方なかったのだ。しかし、身近な風景写真や食べものの写真ばかりを撮るのも飽きていた。まだ建設中だった東京スカイツリーの写真を定点観測するのも、なんだか陳腐でつまらない。そんなタイミングで、絶対にこちらの思いどおりには動いてくれない奇妙な生物と毎朝会うようになったのだから、こいつを被写体にしない手はない。いかに隙をついて写真を撮るか、それがスリリングで面白かった。気を引くため、眼前にいろいろなものをかざしたり、驚かせたり、くすぐったりした。そのたび違う表情をするのが楽しくてたまらなかった。

結果的にそうした試行の数々が、彼女からすると遊んでくれているように思えたのだろう。いつしかニャンは、会うたび僕に顔を寄せてくるようになった。互いの鼻と鼻を触れさせるのが毎日の挨拶になった。妙にひんやりとした感触は、季節を問わず常に心地よかった。もっとも、挨拶のあとはそれっきり無愛想で気位の高いお猫様に戻ってしまうのだが、いちおう僕も、永江さんと母に次ぐ三番目の家族として認めてもらえたようだった。永江さんが海外旅行に行けば僕がかわりに餌やりをしたし、調子に乗って屋根に上がって降りられなくなってしまったときには僕が脚立に昇って迎えにいってやった。僕のフォトライブラリには、怯えた顔も寝ぼけた顔もとぼけた顔も、さまざまな彼女の姿が残されている。

 

ただ、意外に思う人もいるかもしれないが、僕がニャンの写真を毎日のようにアップしていた期間はさほど長くない。副業としてやっていた売文稼業に本腰を入れるようになったからだ。しばらくは店の手伝いと並行していたが、どうにか文章だけでそれなりに稼げるようになったので、母の店に毎朝通うことはなくなった。となれば、当然ながらニャンと顔を合わせる機会も減る。以降は数か月おきにしか会わなくなった。この八年間で、本当に頻繁に会っていたといえる時期は二年ほどに過ぎない。

会う頻度が下がっても変わらず鼻を寄せてくれたし、変わらずすぐに無愛想になったが、彼女の姿は少しずつ変わっていった。猫の年齢で十歳を過ぎれば、人間ではもう高齢者だ。たまにしか会わないがゆえに、かえって僕の目には彼女の老いがまじまじと見えてしまうのだった。たとえば、昔は軽々とジャンプすることができたはずの戸棚に上がれなくなったし、毛玉を吐く頻度も増えはじめた。いたずらをしてもやり返してくることがなくなった。

決定的だったのは、ついに喧嘩に負けたことだ。たまたま永江さん宅を訪れて暢気にお茶を飲んでいると、ニャンが傷だらけで帰ってくるではないか。顔にも体にも、無数の赤い傷跡がついている。瞼は腫れ上がり、片眼が半分しか開いていない。誰の目にも、どこかの猫に返り討ちにされたことは明白だった。永江さんは慌てて手当てをしたが、しかしニャン自身としては、物理的な痛みより精神的ショックのほうが大きかったらしい。鳴き声も上げず、早々に自分の寝床に潜り込んでしまった。無敗のチャンピオンがその座から陥落したのだから無理もない。結局その日は水しか口にしなかったという。

その日を境に次第に食が細くなっていったようで、ぶよぶよと太っていた体は少しずつ萎んでいった。体毛の色もだんだん薄くなった。永江さんはよく「婆さんが婆さんを飼っている」と笑っていたが、いつしか永江さんの年齢すら飛び越えてしまったようだった。

 

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「今朝、ニャンが息を引き取りました」

母からそんなメールが届いたのは、つい先日、二〇一六年五月の水曜日のことだった。メールには、翌朝には動物霊園の担当者が迎えにくる算段になっているとも記載されていた。その日僕は夕方から酒を飲む予定があったが、なんとか時間を作って、最後にニャンの顔を見ておくことにした。

ニャンはもう推定十八歳になっていたので、いつ天寿を全うしてもおかしくないとは思っていた。実際、数か月まえには「癌で余命あとわずかだ」と母から聞かされてもいた。乳癌が肺にも転移したとかで、日によっては随分と苦しそうにしていたそうだ。ただ、猫の場合も人間と同じで、高齢だと癌の進行は緩やかになるらしい。おかげで今年に入ってからだけでも、僕は彼女に二回会うことができた。そのときは意外と元気に動きまわっていたので、これはもしかするとズルズル長生きするんじゃないか、などと思ったりもしたが、死の手前でやたら元気になるのも人間と一緒らしい。

部屋の隅で氷嚢に囲まれながら眠るニャンの姿は、率直にいって奇妙だった。古今東西多くの人間にさんざん書き尽くされてきただろう陳腐な感想を言うが、そこに転がっている冷たい物体が少しまえまで動いていたという事実が、どうにもうまく飲み込めないのだ。

いや、これでも三十年ちょっと生きてきたから、今までだって大切な人の死には何度か直面している。命の重さを比較するのもどうかと思うが、若くして世を去った友人の死にくらべれば、大往生したよその猫の死などそこまで悲しいものでもない。死を受け入れることはむずかしくなかった。しかし医師でも警察官でもない僕がこれまでに見てきた死体は、いずれもきれいに化粧が施され、美しい花に囲まれ、安らかな顔をしているものばかりだった。それに対して、目のまえに横たわっているニャンは死んだそのままの姿だ。美しくもなければ安らかでもなく、「今にも起き上がりそうだ」などとは口が裂けても言えないような、生々しい死体だ。その場には自分を含めて三人の生きた人間がいたというのに、その亡骸ほど生命を感じさせるものはなかった。

 

そのあと飲みにいくことも忘れ、僕は永江さんに勧められるままビールを二缶空けた。特別な味がするかと思ったが、ごくふつうの飲み慣れたビールの味だった。僕は薄情で自分のことにしか興味がない人間なので、きっとすぐにニャンのことなんて忘れてしまうのだろう。だからこそ、たくさん写真を撮ってきてよかったし、今後もペットを飼うことなんて絶対にありえないと思うのだ。

 

2016年5月25日公開

© 2016 アサミ・ラムジフスキー

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