破れた本の読みかた

上限のない電波塔(第1話)

アサミ・ラムジフスキー

エセー

6,006文字

2012年5月にフリーマガジン『Inside Out』vol.8誌上で発表した、The Booksの解散について書いたエセーです。わずかに加筆修正。

観光地としての賑わいから少し離れた路地裏に、その店はある。ガイドブックにはめったに載っていない。味が悪いわけではなく、それどころかむしろ評判も素晴らしいのだが、どうにも観光客がこの地に期待するイメージにはそぐわないらしい。

創業以来四十年以上にわたってひっそりと呼吸をつづけてきた、老舗ロシヤ料理店である。「ロシア」ではなく「ロシヤ」。この表記からも歴史がうかがえるだろう。と同時に、本場のロシア料理とは一味ちがった、洋食文化のもとで発展したレストランであろうことも想像できる。

モダンな響きはこの町によく似合う。かつて東京随一の繁華街として栄えた下町・浅草。その猥雑で混沌とした臭気は、都心が西へ西へと移動し元号が変わった今もなお、土地の通奏低音として響きつづけている。それを聞き取るためには、煮込みが自慢の大衆酒場や芸能人が来ることだけが取り柄のもんじゃ屋などよりも、はるかにこの店のほうが適しているように思える。

そんなロシヤ料理店で、僕はフォアグラを食べた。ほんの数か月まえのことである。いちばん高いコースのメインディッシュだった。フォアグラが正統なロシア料理の食材であるのかどうかは、この際どうでもよいだろう。「ロシヤ」料理店に相応しいことだけは疑いようもない。メインは活けオマール海老、牡蛎のグラタンとの三択だったのだが、迷わずフォアグラのソテーを選んだ。理由は単純だ。それまで一度も、フォアグラというものを食べたことがなかったからだ。いや、パテなどの姿で少量を口にしたことはあったかもしれない。ただ、はっきりそれとわかる形で食べたことはなかった。

存在自体は、かなり幼いころから知っていたように思う。どうやらそれが高級な食材であるらしいことも、なんとなしに文脈から理解していた。たしか、それは漫画のなかのワンシーンで、ギャンブルかなにかで泡銭を得た登場人物が、贅沢の代名詞として「フォアグラ」という単語を口にしていたのだった。ただし、セリフだけの登場であり、絵はなかった。そのため、いったいどのような食べものなのかは皆目見当もつかなかった。形も味も、どこの国のものなのかすらわからない。それでも頭に残ったのは、ふわふわした不思議な語感だったためだ。言葉というものは偉大である。

やがて少々知恵をつけると、それが「世界三大珍味」と呼ばれているもののひとつであることを知る。さらに知恵をつけると、その正体がガチョウやら鴨やらの脂肪肝であることを知り、語感から受け取ったイメージが間違いではなかったことがわかる。大人になった今では、動物愛護の観点から批判があがっているという余計な知識までついた。その気になれば、生産量や消費量といったデータを得ることもできるだろう。通信販売している業者を見つけることも容易いだろうし、レシピもいくらでも出てくるはずだ。

だが、それは情報を得ただけのことである。情報は味も臭いもしないし、ましてや腹を膨らませてもくれない。食べものは年号や公式ではないのだ。丸暗記しただけではなんの役にも立たなかった。「百聞は一見にしかず」という古い言葉に、僕は必ずしも賛同するわけではないのだが、こと食べものに関しては首肯せざるをえない。僕はフォアグラについての多くのことを知っていたが、なにも知らなかった。そう、あの日まで。

だから思うのである。ザ・ブックスの二人は、「イシヤキイモ」がどのようなものであるか、理解しているのだろうかと。

 

 

ザ・ブックスについて僕が知っていることは、あまり多くない。男性二人組の電子音楽グループであるということと、ドイツのTomlabというレーベルから主に作品を発表していたこと、二人とも子持ちのくせに貯金を切り崩してまでレコーディングに勤しんでいたこと、そして、それぞれが単独でも先鋭的な音楽作品を作っていたこと。これぐらいがせいぜいだ。

それでも僕は、繰り返し彼らに関する文章を書いてきた。彼らの紡ぎ出すサウンドの繊細さを、粗雑さを、柔らかさを、不自然さを、遊び心を、冒険心を、先進性を、普遍性を、構成美を、混沌を、貧しい語彙に幾重ものフィルターをかけて偽装することで、どうにか言葉を捻り出し、その魅力を語ろうとしてきた。

セカンドアルバム『The Lemon Of Pink』については、言及した回数も数えきれないほどだ。二〇〇三年に発表されたこのアルバムは、まぎれもなく名盤だった。ポピュラー電子音楽史的にもそうでなければならないし、なにより僕個人の音楽聴取史的にだ。

楽音、声、物音、ノイズ。ハードディスク・レコーディングされた音たちのなかには、高価なマイクで録られたものもあるだろうし、留守番電話程度の音質のものまである。それらが、単なるデータの塊として分け隔てなく徹底的にエディットされているさまは、新時代の音楽の可能性をまざまざと見せつけてくれているかのようだった。時に緻密に並べられ、時に乱暴に積み上げられていく音。生演奏することも可能な弦楽器の旋律を、あえて断片のコラージュによって響かせることで生まれる異化効果。パスコアールさながらに声のもつ音階を生かしつつ、ライヒよろしく音のモアレを浮かび上がらせる魔法。そして、そうした前衛のフィルターを介しても色褪せることのない美しいソングライティング。

それは電子音に頼らない電子音楽だ。ハイアートとポピュラーとに分断された電子音楽の歴史が、数十年の時を経て再会したかのような感動がそこにはあった。

また、サンプリングがついに意味や思想から開放された瞬間でもあったと思う。従来の文脈でのサンプリングには、どこかミュジーク・コンクレートへの負い目のようなものが感じられた。過剰に意味的か、反対に過剰にナンセンスである場合がほとんどだった。だが、ここにそうした感傷はない。意味よりも即物性よりも、ただ音響と強く手を繋いでいるのである。パズルを組み立てていくように、複雑な知恵の輪をいとも容易く外すかのように、音の切れ端たちは自由に姿を変えて響く。

 

特筆すべきは、表題曲である一曲目「The Lemon Of Pink」だ。この曲を聴いて、耳を留めない者はいないのではないだろうか。いや、念のためにいっておくが、これは賞賛したいがための誇張表現ではない。ただ、日本語話者であるならば誰しも、作品中に登場するとあるサンプリング・フレーズに耳が奪われてしまうはずなのだ。

イーーーーシヤーーーー

文字で書いても伝わらないかもしれないが、実際に音源を聴けば即座に意味が理解できると思う。いや、理解以前のレベルで脳に飛び込んでくるというべきだろうか。それほどまでに、われわれ日本人の記憶のなかにこの響きは刷り込まれている。

ここでサンプリングされているフレーズのイントネーションは、まぎれもなく、「石焼き芋」売りが拡声器を用いて連呼する、あのときのものなのだ。後ろの「キイモ」がカットされていても関係ない。僕らの耳は、欠落を補って意味をはっきりと捕捉してしまう。なぜ石焼き芋が出てくるのか。この曲のテーマとどう関係しているのか。なにかのメタファーなのか。ナンセンスを狙ったのか。それとも、深く洞察すればそこに思想を見出すことができるのか――疑問は尽きない。

だがブックスは、おそらくこのフレーズの響きだけに着目してサンプリングしたに違いなかった。日本人がわけもわからずに「なんとなくかっこよさげ」というだけの理由で英字のシャツを着ているのと似たような感覚だろう。ブックスも、響きが「なんとなくよかった」から採用しただけのことだ。このとき「イシヤキイモ」はあの僕らのよく知る「石焼き芋」からは遠く離れ、音節の連なりによる記号「i ʃijakiimo」へと変わった。まさしく意味と物質からの解放だ。

おせっかいな誰かから説明を受けたことはあったかもしれない。なにげなくインターネットで検索をしてみたこともあるかもしれない。ただ、どれほど詳細な説明を受けようとも、高解像度の画像を目にしようとも、それは「知った」ことにはならない。石焼き芋という極東の島国で生まれた奇妙な食べものの実態を知るには、やはり寒い季節に海を渡ってこなければならないのだ。そして白い息を吐きながら、新聞紙の包装を開き、もくもくと湯気の立ち上る光景を眺めなければ、味がわかることはない。あるいは、そうまでしても、石焼き芋の文化までは理解できないかもしれない。

もちろん、ブックスが石焼き芋を知っていようといまいと、この音楽の価値が変わるわけではない。ただ、石焼き芋を知っている僕らだけが、ほかの国のリスナーには聴くことのできないものまでをその音のなかに見つけることができるということだ。反対に、僕らには聴けないものを聴いているリスナーもまた、どこかに必ずやいるはずだ。この多層的な響きこそが、ブックスが獲得した新たなサンプリングの自由度なのである。

 

手法自体が目新しいわけではなかった。いや、二十世紀までのポップスと比較すれば間違いなく新しいのだが、しかし二〇〇四年時点ではすでに手垢のついたものだったといえる。当時、エレクトロニカやポストロック、音響派といった言葉は耳の肥えたリスナーのあいだにすっかり浸透していたはずだ。僕もその言葉にどっぷりと浸かり、踊らされ、そしてついに飽きはじめたころだった。メソッドだけが劣化コピーを繰り返され、量産されていくエレクトロニカ風な音楽。一時期はテレビのCMにもこの種の音楽がよく使われていたように思う。この便利すぎる言葉には、正直辟易していた。「エ」からはじまるその単語を口にすることさえ恥ずかしかった時期もあった。

しかしブックスは、すでに定着しつつあったプロセスで、聴いたことのない響きの強度を生み出したのである。アナログな手触りによる懐かしい音響と、けれどアナログな手法では再現不可能な真新しい音響。

これはエレクトロニカだろうか。

広義にはイエスだろう。だが僕はあえてノーと言いたい。

アヴァンポップ――このCDを買ったとき、その棚に書かれていた言葉である。たしか池袋のタワーレコードだった。エレクトロニカの棚でもロック/ポップスの棚でもない。店の隅のほう、ワールドミュージックやアンビエントが押しやられているあたりに、そのコーナーはあった。なんと蠱惑的な言葉だろうと思った。なにかを定義しているようでありながら、その実なにも語ってはいない言葉。ブックスの音楽への第一印象を表現するには、これ以上の言葉はないように感じた。

それは二年後、確信に変わる。通算三枚目のアルバム『Lost And Safe』は、同じ手法をベースとしていながら、間違ってもエレクトロニカやポストロックには分類されないサウンドへと変貌していたのだ。ほぼ全編にわたって、朴訥としていながらも繊細な歌声が響きわたるさまは、まるでフォークソングのようだった。それなのに、聴けば聴くほど、その音はブックスの音にしか聞こえない。音楽のアイデンティティは、旋律でも律動でも技法でもなく、なにか別のところに宿っているのだと気づいたのはこのときだ。ベンヤミンの言うアウラとはこれのことなのだろうか。

そう、ブックスとの出会いは、耳のパラダイムシフトのはじまりでもあった。彼らの音楽と出会ったことで、僕はカテゴリーからこぼれ落ちてしまった音楽を掬い上げる喜びを知った。そして同時に、カテゴリーの内側にも、こぼれ落ちるすれすれで引っかかっている音楽がたくさんあることにも気づいた。

現在の僕が、戦時歌謡からアニソンからノイズまで節操なく聴き漁るような人間になってしまったその端緒は、間違いなくここにある。それが幸福だったのか不幸だったのかはまだわからない。

 

 

フォアグラの感想をまだ書いていなかった。

旨かったかどうかといえば、もちろん旨かった。さすがは老舗料理店である。しかしそれまでにも、あれと同等かそれ以上に旨いものを食べたことは何度もある。グルメな親戚に可愛がってもらっていたため、幼いころから分不相応な店に連れていってもらうことは多々あったのだ。味覚だけに従えば、あのフォアグラは、生涯忘れられないほど極上に旨いというわけではなかった。

ただ、食事は味覚だけで味わうものではない。グルメとは経験である。トータルでみれば、最初の一口を食べた瞬間の衝撃度では、フォアグラは人生でも五指に入るだろう。

味覚よりも速く、食感が全身を駆けめぐった。

グルメ番組で、ボキャブラリーの貧困なグラドルが「うわぁ~とろける~」などとおきまりのフレーズを吐くのを見かけるたび、僕は鼻で笑っていたものなのだが、しかし、今なら僕は彼女たちの気持ちが痛いほどわかる。あまりにも速い食感をまえにすると、味について語るよりもまず「とろける~」とついつい言ってしまうものらしい。マシュマロのような食感が綿飴のような速度で消えていき、ややあって濃厚な脂の甘さが遅れてやってくる。それでいて、もたれるような気持ち悪さはない。毒にも薬にもなりうる「脂」が、その両面を渾然一体にして攻めてくるのである。そして僕は気づくのだ。これが「フォアグラ」という名称を与えられた必然性に。はぐれていたシニフィエとシニフィアンが手を繋ぎ、その指はもう二度と離れることはないだろう。そう、たしかにグルメとは経験だった。

何百回何千回とフォアグラの画像を見たところで、あの感覚を理解することはできなかったに違いない。しかしたった一度の食事で、すべての点が繋がった。僕はあの日、たしかにフォアグラを知ったのである。二〇一一年十二月、二十八回目の誕生日のことだった。

 

一方、二〇一二年一月、ザ・ブックスは「すでに解散していた」ことを発表した。メンバー二人はそれぞれ別の音楽活動をつづけていくという。

残念ながら、彼らがグループとして来日を果たすことはついになかった。二〇〇九年の秋に一度だけ、六本木で開催されたイベントに出演する予定があったのだが、諸事情で出演キャンセルとなってしまっている。彼らが石焼き芋と公的に出会える唯一の機会だっただけに、非常に残念に思う。その反面、一生彼らがイシヤキイモの正体を知らぬままであってほしいとも思ってしまう。音楽の価値は変わらないが、意味は変わる。僕の耳があのときを境に変わり、僕の胃があのときを境に変わったように。

 

破れた本はもう読めないし、石焼き芋は冷めたら不味い。それでも僕は、この本のつづきを知りたいとまだ思っているのだ。

2015年8月14日公開

作品集『上限のない電波塔』第1話 (全5話)

© 2015 アサミ・ラムジフスキー

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