グッドバイにはまだ早い
 

キモチイイコト

 

この放談は山谷先生とほろほろ先生のはっちゃけた写真とともにお送りします。


編:それでは、X氏もお帰りになったし、どうぞ、お二人で。私は聞いてますから。

ほ: どーよ、感人センセ。酒おーらい?
山:ええ。いま緑茶ハイ大ジョッキで頼みましたから。
ほ:もういいから。緑茶ハイはもう勘弁してくれ。それから敬語はいいから。

入水未遂
玉川上水に通りかかり、思わず飛び込もうとする
ほろほろ先生


山: そこは、太宰的な謙遜も意識していて。
ほ: 名目は太宰だけれども、いろいろ漫談しようか。このどうしようもない世界について。
山: ですね。一言でいえば、やりきれねえ
ほ: やりきれねぇし、やってらんねーし。いー加減にしろ。
山: もうオレは、生きている自分が、偉い! 不思議だねえ、くらい。
ほ: 偉いよ。俺もとても偉いよね。もうムチャクチャのクチャクチャなのにこうして生きてるもん。
山: 焦点が、ずれている者が多いのです。例えば、落伍、頽廃にしても、おりゃこんなに暴れん坊だぜ! みたいなアピールだけで、悲哀のカケラもありませんし。
ほ: 暴れん坊としての自己主張がうまくいけばいいけれど、たいがいはそっぽむかれちゃうので。泣きわめいてみても、周りが冷たいのは、泣きわめき方がいけないのかね。
山: ですね。そうかと言って、プチブル〔編註・プチブルジョワ、つまり小金持ちのこと〕の悲哀なぞ、噴き出しちゃいます。ブルジョワと、先生みたいな博学のインテリの悲哀は、大きく違います。少なくとも、真剣さにおいて。

飛び降り
またまた飛び降りようとするほろほろ先生
太宰入水地点のオーラがこうさせるのか……


ほ: 真剣さねぇ。ダザイ定理「苦しみ多ければ、それだけ、報いられるところ少なし」。ここで悲哀に関していえば、プチプルでも博学でもなんでもない俺も、ヤマでころがってるおっさんも違いはあるのか? という疑問がある〔編註・東京のスラム「山谷」のこと。前号の『望郷ミステリーツアー』を参照〕。悲哀の度合いの根比べをしようとしてるわけでもないし、悲哀が重そうだから、ヒトサマからかわいがってもらえるわけでもなさそうだしね。

河原の靴
川沿いに揃えられた靴。まさか……

山: そこは大きく違うとの、或る程度の矜持は、必要ではないのでしょうか? 深夜、クラブに通い、大勢の売女をひっかけて性行為して、これがオレの悲哀だと述べ、やがて実家に戻り、乾物屋をついだ知人もいます。勿論、ぼくなんてなにも知らない愚物ですから、声を大にしては言いませんが。
ほ: 売女、なんて、いっちゃいけねぇ 美しい方たちだ。
山: 太宰の言葉、ですね。1000人との行為。
ほ:「1000人と寝た女は処女よりも純潔」 だっけか。〔編註・檀一雄『小説太宰治』〕
山: ですね。
ほ: しかし、感人せんせは愚物だから、その乾物屋を継いだナントカってのが一番賢いことにいまだ気づかないんだね。やっぱ愚物カントは予定調和的な悲哀は許さんのだろうか。おぼろげに安楽が約束されている悲哀というか、安楽をチラ見しながらいまのうちに苦しんでおきますという態度が。
山: 勿論、頭には無礼講、そのフレーズには感銘しますが、いかんせん、最後の最後に、実はぼく・わたしはマトモでした! とのたまう方も、多数、この目で見てきたので。破滅していたら、モテるかも! モテたら、まともに働こう! とのゲスな人物も、存在するのが現実でしょう。
ほ: それは当たり前の処世術です。みんな、モテたいです。働けばモテそうだから働くのか、モテるなら働けそうだから働くのか。みんな一回ぽっきりの人生しか与えられていないとなれば、バイキング形式になってくると思う。すぐお腹いっぱいになったら料金分損するじゃないか。だから、ここでは悲哀をちょこっと、ここでは苦悩を、ここでは安楽快楽を、みたいに小皿にちょいちょいズルく取り分けようとする。ほら、いま山谷せんせがさりげなくホイコーローを取り分けたけど自分だけ肉多いでしょ。これはね、だいたい収支表をにらめっこしてるから出てくる恐ろしい人間法則で、得をした分だけ必ず損をしてゼロに戻そうとする運動があるのです。次は野菜だけ食えよ。
山:そういう処世術は、考えるのも嫌ですな。無論、そのズルさをうまく呈示していく事が、書くとの行為なんでしょうね。
ほ:さきほどの鼎談でも触れたけれど、太宰が女中たちに悪戯されていたのでは、という問題、どう思いますか?
山: ええ、面白いですね、そのテーマ。しかし、ぼくは、家庭的な問題は、それこそ他人に漏らすな! と思いますから、先生のおっしゃるテーマは面白いですが、そんな太宰は、がっくりな方ですね。
ほ: 太宰が言っていた 哀しいこと とはなんだったと思いますか。
山: まさに、先生がおっしゃったように、アルで〔編註・アルコールの略〕、どうでもよくなり、最後の最後に、吐いたって事ですかね。

入水
あー! ほろほろ先生! 入水してる!
玉川上水もいまじゃこんなに小さくなりました。


ほ:あれだけ 大庭葉蔵 という名ににこだわっていたのはなんでだったのでしょう。
山: 後期の作品に、家庭的な事は、集まってますし。然し、そこは、単に、「女中の淫行見た! デリケートな俺は、ゆるせねえ!」 だけだと思いますが。
ほ: いや、それだけじゃなく 交接について教えられると同時に、実地でやらされていたのではないか。
山: ま、でしょうねえ。そこも、裏腹な気持ちで。いいことしてんのに、気持ちでは、泣いてる、みたいな。葉ちゃんについては……。
ほ: そういえば、太宰が一度だけ使った男性器の呼称は「おちんぽ」でしたね〔編註・『人間失格』〕。
山: ぼくのおちんぽは、もうアルで、不全です。


破滅について

ほ: カント的な悲哀は、「俺はもうホントにあとがないぞ。全身でやってますよ」というところが強みなんだろうけれど、それでどう次につなげていくのか。全身でやってますよ、じゃ誰も食いついてきてくれなくなってきてないだろうか。やりすぎで。
山: 破滅、狂気とは、後先を考えないものではないのでしょうか? ぼくはガルシン〔編註・19世紀ロシアの短編作家。自殺してます〕に共鳴しています。勿論、しっかりと破滅することを考えているみなさんが他にいるから、存在しうるのであって、世界全体を考えての「役割」的に敢えてそうしている部分もあります。
ほ: 破滅や狂気の定義はあまりにムズいからタッチしたくないけれど、「役割」として意識化された時点で、なにかに吸収されちまうんじゃないの? そこに意匠がはいってくるというか。意匠が入れば、「後先は考えない」なんていってられない。
山: 破滅派が成功すれば、碑としての、ぼくの存在価値もあるでしょう。お互い、厭世的だと思いますが、犬死は、嫌だ。
ほ: 犬死は、嫌ですか。「苦悩を売り物にするなと友人より書状あり」 だっけか。俺は全裸的なパフォーマンスがまっすぐだと思って、色々な前科がありましたが〔編註・今回もです〕、なんだろこの空白感は。失敗しました。はい。と、ここで懺悔めいたことを言ってみてもしょうがないけれどね。感人さん、「犬死は、嫌だ」ということは 何かを残したい祈りみたいなものがあるということなんだろうか。

濡れたストッキングで窒息
なんとか生きる気力を取り戻すほろほろ先生。
しかし、ストッキングをかぶったまま濡れると窒息します。
苦しそうですね。

山: 「苦悩をうりものにするな」 太宰の名言ですね。毎日、『走ラヌ名馬』とのエッセイを読んで、そう生きようと思ってます。
ほ: それなら草野心平〔編註・カエルで有名な詩人です〕で、充分でしょう。
山: 先生、ぼくなりの、浅はかな想像でも、草野心平の労苦は、美しいとは思いますが、それこそ、苦悩を語るな、見せるな、でしょう。
ほ:
苦悩は、伝えてはじめてカタチとなるのので 苦悩の美学うんぬんしている場合じゃないのです。
山: ぼくへのお小言ですか?
ほ: いや、ぼくとあなたに、言うんだがね。ところで、ガルシンが出たけれど、青蛾書房はいいセレクトしてたね。一巻本全集。ガルシン、ヤコブセン、あと長ったらしい名前のロシア作家。この出版社もう潰れたのか〔編註・調べた限りではそうっぽいです〕。
山: おお!流石! ぼくも最近、とんと見ぬ。
ほ: 狂って破滅ってぶんまわってりゃいいものが書けるってわけでもないだろうけれど。ヤコブセンの『ベルガモの黒死病』は押しておきます。キリストが逆ギレするというすさまじい設定です。『赤い花』より好き。ごく個人的に。『走ラヌ名馬』なんて、あれだけ凝縮された文学論は他にないと思うが、なんで注目されてないんかな。
山: なにはともあれ、ぼくはなにも、駄目っぷりをアピールしているわけでもなくて、そうしないと、そこまでやらないと信用しない人種も多いのです。なにも、蔭でこっそり笑ってるなんて、おこがましいことはしていません。あと、『春の盗賊』もいいですね。
ほ: ふーん。ほだね。じっさいやってられんよ。笑うしかない。ここでひとついいキーワードだとおもうが、人はなぜ他人の苦悩を信用したがらないか? 最後はやっぱ自分が一番苦しいと思いたいのかな。

身体を拭くほろほろ
なんとか水から上がり、身体を拭くほろほろ先生。
なんか背中が淋しい……


山: 他人の芝生は良く見える。自分の苦悩は誰も知らぬ。それだけの、エゴでしょうか?
ほ: なんだか、苦悩にせよ、喜びにせよ、共有しようとするエネルギーが減ってきておりはせぬか。あんたのことなんか知ったこっちゃない、で終了。太宰は、「あんたのことなんかしったこっちゃない」、あるいは「あれ。いたの?」みたいな言葉を恐れていたし、そういう言葉がなくなる世界を願っていたんじゃないのか。
山: しかし、そう言われるのも、太宰から教わった苦悩でしょう。でなければ、太宰は他界してないでしょう。
ほ: 太宰が他界したのは、もうあきらめちまったからなのかね。
山: 『如是我聞』は、痛々しい名文ですね。
ほ: 爽快だけれども、最期にきちんと言ってくださった。ラストなんか叫んでるもんな。昔こんな奴がいたな、あはは。みたいな感じで忘れないでくれ、と。俺も叫びたい。昔こんなバカがいたな。あはは。で終わりにしないでくれ
山: 織田作も、田中英光も、似たような文章、書いてますね。文壇、縦社会は、如実な問題でしょうね。
ほ: それでも消える人はきっちり消えているわけで、太宰の言ったとおり、大衆の眼力は恐ろしいものだと思う。現代、書店行けば、太宰がラストに対決した志賀直哉と太宰が占めてる文庫棚の幅で答えが出てる。
山: 然し、当時、大家だった佐藤春夫なぞ、最早、興味がある人しか名も知らぬ訳で、かといって、檀一雄なぞは、娘の影響もあるが、まだそこそこ有名でしょう? そこに破滅の醍醐味もあるのではないか?
ほ: 破滅の醍醐味か。田中英光があれだけの分量の作品を残した上で、太宰の墓前で逝っちまうなんてことをやらかしたにも関わらず、現状、書店の棚には『オリンポスの果実』一冊あるかなきか、という有様も、醍醐味となりうるのかね。誰にとっての醍醐味なんだろう。俺はその辺りが、もうわけわかりません。
山: あれは、例えば、『グッドバイ』に対して『サヨウナラ』との文書を書いたとか、完全にエピだったからでしょう、檀の『火宅の人』とかは、そうではないし。〔編註・エピるとは、山谷先生の造語で「模倣者(エピゴーネン)」から来ている〕
ほ: 太宰をはじめとして、いま挙げた無頼派やなんたら派を語ることの難しさは、語っているご当人は太宰本人でも、破滅しているわけでもなく、気持ちのいい場所から話しているなコイツということが見え透いてしまい、うさんくさがられるからなのかな 。
山: まあ、破滅っぷりについては、それこそ仰るとおり。最近では、中島らもとかは、完全な破滅者だと思いますが、彼は太宰も安吾も読んだ事ないと言ってます。
ほ: これまでいろんな破滅者がいて、らもだったらアル中をネタにして書いたりしたわけだけれど〔編註・『今夜、すべてのバーで』〕、もう個人的な破滅ネタは商品として消費されきっているように思う。しかしワイドショーの司会者がやたら厳粛な顔をして、犯罪のニュースを「さあ、みなさんも一緒にご検証ください」なんて言っているのは、一見同じようで異質なものが根っこにないか? 簡単なガス抜き装置として、ある人間の破滅が気持ちよく消費されてる恐ろしい光景だと思うが。
山: らもならば、アル中が高じての躁鬱病入院歴がありますし、檀一雄は旅にでると、一年は連絡もない、英光はエピだけれども、あそこまでやるか! との行動はしました。

刺すぞ
歯切れの悪い感人先生に襲いかかるほろほろ先生
感人先生は凶器がおもちゃと見抜き、余裕の表情。

ほ: だからなんなの、と問われたらどうすんだ?
山: ですから、そんな、馬鹿らしい時代でもありますし、だからこそ、強制されている訳でもなく、逆に自分が生きるための手段で、破滅したいのです。太宰は、作家にならなければ、というか、「なっても死ぬ!」の方ですから。
ほ: 初期の金字塔で「一度使った、名前で最後を!」 でしょうか?
山: 先程話しが途切れましたが、大庭葉蔵に拘ったのもそうでしょうね。
ほ: 自分が生きるための手段で破滅したいならば、ごく個人的にそこいらで野たれ死んでいればいいわけで、まだ何か語りたいことがある、というか未練があるからのうのうと恥をさらしているの?
山: 先生は、いきなりの大望を求めているのでしょうか? 最近、広報活動もしてますが、実際、「破滅派」とのタイトルで引く方もあれば、ぼくのアグリーな写真に恐れたとの声もあります。しかし、そんな否定的意見も受け入れながらも、自己をアピールするのが「同人誌」ではないでしょうか? 太宰の『青い花』『日本浪漫派』もそうだったのでは?
ほ: これはもちろん揶揄してるとかではまったくなく。大切なテーマだから聞いておきたいので。尋ねたいのは「あとさきなく」破滅するものとして、「その先」は捨てたものとして破滅する役割を引き受けた人間としてのカントが、どうして自己完結的に破滅するのではなく、その存在を伝えようとするか、という点で。まだ自分の言葉が届くかもしれないという期待の感覚があるのかなと。
山: 生活、金銭、名誉、喝采等の為には、ぼくはもう文章なぞ書きません。役割と述べたのは、高橋氏や、先生の小説を面白く読み、「破滅派」との題材なら、自分にも集客できる部分もあるのでは? と思いました。確かに、勝手に滅びるのが、一等判りやすい破滅でしょう。
ほ: そこには、まだなにかの役には立てる自分がいてほしい、という願いがあるの?
山: 恩返しと言えば叱られましょうが、ぼくなりに、破滅雑文ならば、少しは清算できるかも、と思ったのです。まだ、つまらなく、ごめんなさい。
ほ: そんな謙遜は不必要なことをまず前提として。この辺りで、自分自身もこんがらがっている部分があるので、同人として聞いておきたかった。本当に破滅しているならば、他人のレスポンスもまるで期待せず、もう語らず、滅すればいいじゃないか、と。それなのに自分はしこしこ言葉を繰り出しているのは、まだ外部からの応答を期待しているからで、その感覚がある以上、これはもう破滅ではなく再生のための足がかり。となるならば、「滅びて、はじまる生がある」というコピーは意味を持つから〔編註・「破滅派」でYahoo検索をすると、これが出ます〕。
山: 太宰の『織田君の死』、あれは読み方によって、全く違う文章として読めるようです。太宰好きのお決まりの台詞ですが、ああ、ぼくもここに描かれているとも、思いました。
ほ: 破滅的なソブリであがいてみるのも、「もういっかい」を期待してのものであれば、これはうさんくさいものでもなく、まっとうな破滅っぷりじゃないかと思う。そう言ってりゃあたりまえの話で、破滅派同人は全員ぽっくり逝くことはなく、一番まっとうに世界や人間に賭けているんじゃないのか? とユマニスティック〔編註・人道的〕に語るのです。でなきゃ実のところ、やってられない。カント氏は最も世界に、人間に期待していたんじゃないのか? その祈りが強烈過ぎたゆり戻しでこうなっちまってんではないのか?
山: 勿論、同人のみなさんの、その部分にも共感してはいるから、参加させて貰っているのです。然し、もう三十歳過ぎましたが、夭逝する仲間がいた方が、同人誌は盛り上がるもののようです。昔のことにひたるわけではありません。ぼくは未だこうしてピンピンしてますし。おちんぽは不全ですが。
ほ: 感人せんせに夭逝されたら悲しいのである。なんとなれば俺がおそらく誘導しているポイントは、破滅派同人ほど人間を見限ることなく、自分を見限ることなく、根っこに期待の感覚を宿している連中もいないと思うからで。翻ってワイドショウなりで、無感覚にヒトサマの破滅を吸い取って生活している人間ほど危険なものはない。てわけで「壊れているのは世界の方だ」に帰着する〔編註・東京各地の大学・書店に配っている破滅派フライヤーのコピーです〕。あー。太宰はあまりにまっとう過ぎた。カントもかなりまっとう過ぎました。
山: そこは、お互いの信念は、通したく思います。小生は先生を尊敬すらしてますし。『ダスゲマイネ』の羞恥心についての部分、あれが脳裏から離れませぬ。
ほ: 最後は羞恥心どころではないんじゃないか。羞恥心に拘泥してたら何も進まないところまできてると思う。太宰にしろ、ラストにはもういい加減にぶち切れて吼えてグッドバイだよ。だから「おはめつ」は転じてよみがえりの言葉としてうけとっておきたい〔編註・「おはめつ」は流行らせようとしてますが、ぜんぜん普及しません〕。同義的なるものとして。こういうことを言っても当たり前じゃんというかみもふたもないが、こうでも言わないとやってられないから言っておきます。しかしカントはん、固有名詞と引用でうまくかわしてますな。肉声をここらでひとつ言ってしまいなさい。本当の言葉を。

ひょっとこ
感人先生に「ほんとうのこと」を言わせようと、
実家から取り寄せたひょっとこのお面で襲いかかるほろほろ先生。


山: 先生にそこまで鼓舞して頂いて、光栄に思っております。書くと生きるとは同意語ですが、書き終えると、他界とも同じでしょう。今度、『人間失格』での、堀木と葉蔵の遊びでもしましょう。
ほ: んーと あれやね。カントの肉声は「もっと生きたい」か。
山: 『人間失格』で、葉蔵が堀木にからかわれ、「それを言うな! ギャッという悲鳴がでる」と、悲しくお道化した部分は泣けますね。

放談自体が破滅

ほ: ここで同感して「うんうん泣けるよね」なんて言いたくないのである。先ほどの遊びを流用させてもらえれば?「山谷感人」のアントニム〔編註・対義語〕は「破滅」だな。コアに至る話にフィルターがけはやめましょう〔編註・破滅派連載の『****年のフルーツボール』を読みましょう〕。生きたいなら、生きたい。幸せになりたいなら、幸せになりたい。そういえばいいじゃないか。夭逝なんて、甘い手は通用しない。
山: いや、正直、まずは第一に、先生等とこうして語る事ができ、喜びを感じているのは大変な事実です。しかし、それと生活のあり方は、別問題です。
ほ: 生活のあり方を云々するとは、これまた律儀な破滅者だね。生活もすべてひっくるめて、「いま、ここ」の言葉に約される。なぜはぐらかす? なぜ本当のことを言おうとしない? 汚らわしい羞恥心と卑劣な低頭。俺は君を間違った太宰の読み手と断じきり、ここで放談を終了とする。
山: 処女のような反論ですが、対話を打ち切れば、諸々の問題しか跋扈しないのですよ。当方、永遠を求める刹那主義な故、根気がないのです。太宰の『春』とのエッセイ、身にしみます。
ほ: 身にしみたから、なんだ。 諸々の問題? しょーもねぇことばっかいって逃げ隠れしてんじゃねえ。永遠を求める刹那主義の方がよっぽどうっとうしい。
山: プロ野球選手、サッカー選手、偶像にあこがれて、躍起になる事が夢でしょう。太宰好きならば、勿論、根本として、そこは維持しないと。先生の意見も至極、有り難いですし、ぼくも、中期の作風を一等、愛してますが。
ほ: 一般的な太宰好きの見解を逆転して、太宰は永遠も求めず刹那の快楽も否定した現実主義者だと思ったことはないのか。あれだけ執拗に人間の生活と麻痺した感覚を取り戻そうと地道に努力した太宰を、永遠を求める刹那主義だと?
山: 引用して、また逃げているのではないが、『懶惰の歌留多』の中で描かれている、売女との会話を読めば、そうかもしれません。
ほ: かもしれません、じゃありません。絶対に刹那主義ではない。『懶惰の歌留多』の売女の対話は、「これから」を期して、過去の暗い素材を拾い上げてきたのです。まさにあの作こそ、地道にやりますとの決意表明だったんじゃないか。カントせんせ、その緑茶ハイはうまいか。そうやって太宰を一番ラクなトコロに引き寄せて都合よくもてあそんできて飲む緑茶ハイはおいしいですか。小奇麗に取り込んだ、なんともお手軽なツールとしての太宰は役にたちましたか。おねーちゃんもしっかり抱きこめましたか。反省も愚直な努力もクソクラエ、甘えドコロ文学にまかせておきましたか。
山: ですから、ぼくたちは今、伝えようと、動き始めたのでしょう? 僕が書く理由は、そこだけなのです。所謂、太宰に対しての矜持。他は求めません。然し、先生は定義において支離滅裂なトコロもあり、また、「裏の裏は表」の意見が判らないようですな。ともあれ、ありがとう。ファック・ユー。
ほ: ファック・ユー。苦言ではなく愛です。難詰してもしょうがないが難詰じゃないこと分からないかね。この誠実さ分からんかねこの小僧は。いささかの逆説を弄せば、太宰なみにしらふでいられる人間を目指すべきでしょう。もう少し本をきちんと読みなさい。小僧。

ストッキングで首絞め
かぶっていたストッキングで首をしめるほろほろ先生。
感人先生の手首の角度がいいですね。

山:逆ギレですか? あんまり調子にのってると、殴りますよ?
ほ: なんだ。やるのかお前。いい根性してるじゃないか。こいやヒゲ。「あとは、殴るだけだ」というのはこれが最後の最後のコンタクトですよ。




編集部:
この後、ほろほろ先生と山谷先生が壮絶な乱闘を繰り広げたのは写真のとおりです。太宰治に中原中也がからみ、檀一雄がコテンパンにしたのは有名な話ですが、その逸話が目の前で再現されたような感慨がありました。破滅派編集部としては、乱闘騒ぎに一切関知しておりません。写真を撮っていただけです。なお、写真を見る限りではほろほろ氏優勢ですが、後半に本気を出した山谷先生にぼこぼこにされ、最後は泣いて謝ってました。こんな清々しい大人の喧嘩を見たのははじめてです。

かっこつける感人
こういう結末になることは、ほろほろ先生が入水した時に、
こうやってかっこつけてた感人先生の写真で
明らかですね。


もくじへ>>

©HAMETUHA 2007 All Rights Reserved.

footer