ゲシュタルト崩壊

柳澤仲次

小説

6,205文字

心理学用語で、全体性を持ったまとまりのある構造をゲシュタルトという。家から出たくてたまらない「俺」を襲う感覚がもたらすものは――「そうだ、アインシュタインは間違っている」

家から出たいんだ。出たくて、出たくて、頭おかしくなりそうなくらい、出たい。そして確かめたい。外の世界があることを。見たいんだ。いや、ちがうな。見たいって云うか、触れたい。触れて、そのまま溶けて、外の世界と同化してしまいたい。存在そのものを共有したいんだよ。とにかく、外に出たいんだ」

俺は、一気に言い終わると、再び煙草に口づけした。煙草のフィルターが、唇の潤いを奪い、砂漠の如く不毛の地にしてしまうのと同時に、紫煙が肺を満たす。薄荷の香りと共に、セブンスター特有の味が肺胞に噛みついて痛い。一酸化炭素が、赤血球をすぐに汚す。あるいは、浄化したのかもしれないが、それはもう、人間の一部から隔離されていた。

たっぷりと煙を吸い込むときの感覚が、どこか懐かしい。いつだったか、これに似た感覚を味わったことがある。だが、いつのことなのか覚えていない。それほどまでに昔のことなのだろうか? わからないが、とにかく、感覚だけは覚えている。とても寒く、とても明るいところで、その感覚を味わった気がする。

鼻孔を通り抜けた紫煙は、部屋の空間を漂う。部屋を囲むように設置されたボーズのスピーカーからは、床が震えるほどの音量で、ザ・スウィートの『ヘル・レイザー』が流れていて、薄まる煙が曲と絡み合って優美に踊っている。

不条理な法則に従わざるを得ない煙が、そこにいる。

何云ってるの? それなら、家から出ればいいじゃない。今から会おうか? 最近、あなたおかしいわよ。

携帯電話越しに、アイコの声がする。耳から音が侵入するのではなく、直接脳に届くような声。頭の中に、ラジカセがあり、そこから声が再生されているような声だ。

俺は、苛立ちで、声を震わせた。背中で、焦燥感を含んだ汗が垂れるのを感じながら。

「いや、そういう意味じゃないんだ。なんて云うか、どこに行っても、家の中にいる気がするんだよ。駅にいても、公園にいても、神社にいても、海にいても、何かが俺を被っている気がする。家の中にいる気がする。自分でも、理解できないけど、なぜか強くそう思えるんだ」

俺の手から、じっとりと汗が溢れ出す。恐怖心と云うのか、それとも絶望感と云うのか、よくわからないが、黒く冷たい液体みたいなものが、ずっと心臓を押さえつけているようで鬱陶しい。俺は、煙草の火を灰皿に押しつけた。強引に変形させられた赤色光は、薄紫に煙って消える。

大丈夫? あたし、今から行こうか?

ソファに腰掛けると、俺は部屋を見回した。父が建て、母がインテリアを揃えたこの家。この部屋。そう、たしかに、ここは俺の家だ。だと云うのに、凝視すればするほど、誰の家なのかわからなくなる。本当は俺の家じゃないかもしれないという、ある種の虚無感にも似た不安が頭を過ぎる。ふっと、テレビの前にある台の上に、視線を止める。木目がきれいな台の上には、パーヴェヴ・ヒューレの小説、『初恋』が置かれていた。それを見て、夕べ見た映画を思い出した。ジョン・カサヴェテス監督の作品『オープニング・ナイト』だ。

もしもし? ねえ、大丈夫なの?

耳元で、アイコの吐息が響いた。艶やかな吐息は、溜息のようで、同情とも哀れみともつかないペシミスティックな温度で俺を包み込んだ。だが、やはり俺の皮膚とそれの間に、ラップのような分厚い膜が断固として存在し、俺が直接包みこまれたわけではない感じがした。

部屋を揺らす曲が、サンダートレインの『ホット・フォー・ティーチャー』に変わった。次に流れるのは、サー・ロード・バルティモアの『ヘリウム・ヘッド』だろう。雑音ともとれるロックが、今の俺にとっては心地よい。

「大丈夫……じゃないかもしれない。とにかく、無性に怖いんだ。何が怖いのかわからないから、さらに怖いし、イライラするんだよ」

俺は立ち上がって、窓に近寄った。紺色のカーテンで覆われた窓。カーテンには穴が開いていて、そこから棒状の光が洩れている。光に舐められるたびに、舞い上がった埃が煌めいて騒々しい。今の俺を取り巻いている寂寥感からすれば、そのぐらいの騒がしさが、ちょうどいいのかもしれない。この部屋全体を、埃で輝かせたいと思って、俺は勢い良くカーテンを開けた。

ちょっと待ってて。よくわからないけど、今から行くわ。すぐに行くから待っててよ。

アイコの声と共に、俺の中に窓の外の世界が侵入した。真っ白だった。カーテンが身を縮めるのと同時に、強烈な銀白色の世界が俺の視細胞を刺してきた。

雪だ。

外では、雪が降っていた。爪ほどもあろうかという大きな雪が、あとからあとから着地していく。銀白色を強めながら、灰色の空から降りてくる雪たち。地面が雪を引きつけているのか、それとも雪が地面を引きつけているのか。もしくは、雲と雪の間に斥力が働いているのかもしれない。どちらにしても、雪は地面を覆い尽くしていく。俺は、アイコと見た雪を思い出した。

「なあ、前にさ、二人で海に行ったときのこと、覚えてるか? 真冬に行ったろ?」

え? 何?

電話を切ろうとしていたであろうアイコは、困惑に染まった声で云った。

「真冬の海が見たいってアイコが言い出してさ、行ったじゃん。覚えてないのか? 俺は、鮮明に覚えてるよ。そのとき、アイコが着てた服まで覚えてる。青いダウンジャケット着てたじゃん。俺はすごく寒がりだから、嫌だって云ったのに、アイコが強引に俺を連れていってさ。あのとき、雪降ってたよな? 今と同じくらいすごい大雪が降ってたよな? 海面に触れると、すぐに潮臭くなる雪を見ながら、一緒に煙草を吸ったんだよ、たしか。あのとき、鼻が痛くなるくらいに寒かったから、肌と外気の境界が痛いほどわかったよね。俺は、あれがすごく嫌だった。外気と俺の間に、家があるって気がして嫌だった。暑くて、ジメジメして、俺たちが溶けちゃうような真夏にならないかなってずっと思っていたよ。寒くて、肌が痛くなるのは、本当に嫌だった。真冬の海なんて大嫌いなんだ。憎いほどに。あれ? 憎いってことは、愛してるってことになるのかな? そんなわけないよな。そんなわけない」

卑しいくらいに黒く淀んだアスファルトの世界が、どんどん銀白色に染まって謳う。眩しさに慣れると、雪の光は、月光の如く優しかった。世界の温度を奪って凝る雪が、俺の存在までも潜在化してくれないかと、途方もない夢想に耽る。

礼節を唾棄し、虚妄に悪態をつく汎神論者を、雪は消してくれる。

何? なんのこと? どうしたの? 意味わからないよ?

じっと雪を見ているのが怖くて、俺はカーテンを引っ張った。銀白色の世界が、俺を謗っているようで、敗北感や劣等感を感じさせたのだった。カーテンに光を遮られた部屋の中では、すぐに暗闇が膨張する。俺は冷蔵庫まで走り、焦って缶ビールを取り出すと、慌てて口をつけた。酒の力でも借りて刹那主義的にならなければ、あまりにも怖くていられなかった。ビールの冷たさも、苦みも、わからなかった。感覚がどんどん無くなっていく。神経の代わりに、針金が全身に張り巡らされているようだ。その針金が、どんどん体温を奪ってしまう気がする。

不気味な陶酔が頭を麻痺させてしまう一方で、外に出たいという願望がはっきりと感じられた。怖い。あるいは怖くないのかもしれない。怖くないことが怖いのかもしれない。とにかく、俺は外に出たい。

急速に酔いのまわり始めた頭を壁に向けると、そこには、キリストが十字架に張り付けられている絵画があった。ゴッホのものか、ゴーギャンのものか忘れたが、血を流して貼り付いているのは、キリストその人であった。俺は知っている。キリストは、痛がっているんじゃない。喜んでいるんだ。十字架に吊された血塗れのキリストは、喜んでいるんだ。

「俺は海の中にいたんだよね。林檎を囓りながら、海の中にいたんだよ。いや、ちがうかな。海そのものだったんだよ。林檎そのものだったんだ。そのものだったんだよ。世界そのものだった。すべてだったんだ。でも、気が付いたらここにいた。寒くて震えていた。眩しすぎて、目を開けていられなかった。わかるだろ? 何もしてないのに、いきなりここにいたんだぞ? 望んでも、拒んでもないのに。死にそうなくらいに、ここが嫌なんだ。嫌だ。嫌だよ。俺、も嫌だ。俺たち、も嫌だ。なあ、わかるよな? 帰りたいんだよ。海に。戻りたいんだ。林檎にさ。すべてに。俺はどうすればいい? なあ、教えてくれよ。俺は、何をすればいいんだよ? もう、わからないんだ。たしかに俺はここにいて、でも、他人が見てるのはこの家だけなんだよ。アイコ。アイコが見てるのは、俺じゃないんだ。俺の家なんだ。家の中に俺がいることは知ってても、決して俺に会いに来ない。来れないんだろ? ただ、家があることだけが事実なんだ。その中にいる俺は、客観的事実には成り得ない。俺は、出たい。触れたい。この家を出て、アイコに触れたいんだよ」

ビールが全身の細胞を麻痺させていく。細胞小器官が、ひとつひとつ、自分を忘れていく。頭の中がグチャグチャに掻き回され、捩られ、もう、俺は俺のことがわからなくなってしまう。

もしもし? ねえ、ちょっと! もう、あたし嫌だよ! もう付き合ってらんない! ねえ、大丈夫なの? ねえ!

アイコの悲鳴がしたのはわかったが、自分が誰なのかさえわからなくなってしまいそうだった。キンキンする悲鳴が、俺をさらに苛立たせる。煙草が吸いたい。俺は、ビールの空き缶を思いっきり床に叩きつけると、必死になって台へ走り、セブンスターにジッポーで火を点けた。部屋の奥に、空き缶が放出した叫び声がキンキンと逃げていくが、ボーズのスピーカーから流れる曲に捕まった。キング・フロアーの『コール・フォー・ザ・ポリーシャンズ』だった。耳の奥が痛い。鼓膜も、渦巻管も、耳の奥を全部取り出したかった。

「アイコとセックスしてるときでさえ、見えない膜が俺を被ってるように感じるんだよ。家から出てないんだよ。本当に触れ合うなんて不可能なんだって気がするんだよ。俺の陰毛がアイコの陰毛と絡まってる音を聞いても、俺の中にアイコの愛液が浸潤しても、何も変わってないんだ。アイコの熱い吐息を首筋に感じて腰を押しつけても、恥にまみれた喘ぎ声を聞いていても、ダメなんだよ。アイコに思いっきりペニスを押しつけても、性器を舐め合っても、噛み合っても、アナルを舐め合っても、ペニスを切断してヴァギナから子宮に押し込んだって、ダメだ。家があるだけなんだ。セックスじゃ、ダメだ。ヴァギナの奥に行けば行くほど、ペニスを突き抜ける快感も増していくけど、その反面、俺たちの間に距離を感じちゃうんだ。どうしようもない疎外感とか孤独感が、強まる気がするんだ。わけがかわらなくなる。アイコの血を啜っても、俺の血を啜ってもらっても、それは変わらないし、変えられないよ。俺が哀れなまでに求めているカタストロフィーには、たどり着けないんだ。漸近するだけだよ。どんなことをしても、外の世界とは関われないんだよ。わかるだろう? でも、だからこそ出たい。この家から出たいんだよ」

「出たいんだ!」

そう怒鳴ると、俺は火の点いたジッポーとセブンスターを、さっき閉じたカーテンに向かって投げつけた。薄く世界を透明にして揺らめかす炎が、カーテンに食らいつく。

気が付くと、アイコは電話を切っていた。プーっという虚しい音が、俺の全身をメランコリックに叩く。あまりにも悲しい響きに、思わず笑いがこぼれてしまいそうだ。何が何だかわからない。

カーテンに点いた炎は、俺のことなどお構いなしに、勢いを増していった。そのオレンジ色に向かって、携帯電話を投げつけた。我が儘な炎は、飽くことがない。どこまでもハングリーな炎が、俺にとっては妬ましくもあった。

俺は、必死に叫び続ける。

「そうだ、アインシュタインは間違ってる、『神はサイコロを振らない』ってちがうんだ、ちがうんだよ、神はサイコロを振れないんだ、振らないんじゃない、振れないんだよ、そうだよ、アイデンティティの必然性は、選択肢の単一化、唯一化を意味しているんじゃない、選択の制限なんかじゃない、むしろ、その逆なんだ、選択の偶有性が必然だってことだ、選択権の条件なんだ、保証なんだ、俺は選択なんだ、選択自身なんだ、だったら選んでやるよ、そうだ、選んでやる、俺は、外に出る、出たいんだ」

寒くて仕方がない。すべてが歪んでいく。カーテンから、ソファに炎が燃え移り、そこから扉に燃え移り、家全体が白く煙っていく。歪んだスピーカーは、狂ったように、メガデスの『ウェイク・アップ・デッド』を吐き出していた。

世故に長けているだけが取り柄の、欺瞞に満ちた唯物論者が、炎に飲み込まれる。

俺は炎の踊っているソファに飛び込んだ。何も考えずに座り込んだ。タンパク質の焦げる匂いがしても、全く熱くなかった。むしろ、寒かった。すぐに、体毛が消え去った。全身から発疹のように、点々と赤い血が漏れては蒸発し、皮膚が焼け爛れる。きっと、血液が沸騰しているのだろう。白く凝ると、灼かれた細胞はせぐくまってしまう。体から、俺をせせりたかった。耳を切りたい。目を潰したい。腕を切り落としたい。足を切りたい。性器を毟りたい。舌を、鼻を取ってしまいたい。

全身の細胞を、受精する前の卵に返したい。

体なんか、壊してやりたい。そして、俺だけを残したい。この、俺だけを。

「何をしても、この寒さは消えないのか!」

喉が割れるほど叫んだ。臭い。焦げていく家の、焦げていく生き物の、焦げていく俺の体の臭いだ。その臭いが、静謐を保ったまま広がっていく。もしくは、凝縮しているのかもしれない。奇を衒っていると思われる動きで、臭いが運動している。

「俺は、長いこと夢を見ていたんだ……、もしかしたら、今も見ているのかもしれないけど、とにかく夢なんだ……、ニーチェの云う通りだよ……、夢の中なんだ……、夢から覚めたくて覚めたくて……、夢から、家から、世界から、宇宙から、体から、……、出たい……」

燃え盛る家の中で、窓の外を見ると、相変わらず雪がしんしんと舞っていた。そうだ、雪が降ればいいんだ。この家の中に、あの雪が降れば、俺はこの家から出られる。きっと出られるに違いない。

俺は、そう願って天井を見上げた。もう、何がなんだかわからないが、上を見た。すると、そこには、銀白色に伸びる雪があった。煌めく無数の雪があったのだ。雪が舞っていた。針のように細く艶めかしい雪だ。そう思った途端、全身で堰を切ったように鳥肌が波打つのを感じた。そのブツブツひとつひとつが、歓喜を、俺の願望を孕んでいた。

自己否定を自己と等置せざるを得ない、不確定性のうちに潜む、俺がいた。

いや、ちがう。

よく見ると、ただ、そこには埃が舞っているだけだった。雪ではない。天井で光っていたのは、ただの埃だった。俺を魅せていたのは、ただの埃。

そう気付いたとき、遠くでアイコの声がしたように聞こえた。

ヤマウラ! ねえ、ヤマウラ! 返事してよ! 出てきてよ! ヤマウラってば!

「……ああ、そうだ、俺は、俺は、ヤマウラだ、俺の名前は、ヤマウラだ、待ってろよ、アイコ、今から、出ていくからな……」

そう叫んだとき、すでに俺は、ヤマウラではなかった。

もはや、俺は、俺ではなかったのだった。

果たして、俺は誰だったのだろうか?

2008年2月18日公開

© 2008 柳澤仲次

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