左手(前編)

大谷マサヒロ

小説

7,945文字

妻が買ってきてくれた枕は、どう見ても男の太腿だった。平穏な生活に現れる、身体の一部。受け入れるに受け入れられない「俺」の日常を描く。

左手 (前編)

 

離乳食・ みそ風味うどん

材料 ・ うどん(ゆでたもの。乾燥物はこまかく折ってからゆでると刻む手間がはぶける)

・ 鶏ささみ

・ 白菜、えのきなど

・ だし汁、みそ少々

作り方 ①うどんはこまかく刻む。

②白菜、えのきは粗みじん切り。鶏ささみはゆでて細かく刻む。

③小鍋にだし汁を煮立たせ、①と②を入れ、弱火で野菜がやわらかくなるまでゆでる。

④みそを溶き入れ軽く煮立たせてできあがり。

☆ うどんは刻んだ物をラップにくるんで一食分づつ冷凍しておくと便利。使うときはレンジで解凍。

引用元サイト

http://mammy.at.webry.info/200604/article_3.html

「枕、取り替えておいたから」

二階の寝室に向かう途中、サトエの言葉を思い出した。昼食の時のことだ。俺は「そうか」とだけ返事をした。

近頃寝つきが悪いと漏らしたのは、つい昨日のことだ。

無口で無精者の俺と違って、サトエはコマネズミのようにせわしない女だ。年をとっても一向に気質は変わらない。いや、むしろ強くなっているような気もする。昔――といってもそれが二十代か三十代か、あるいは五十代かはわからないが――ならば、「枕変えてみる?」の一言ぐらいはあっただろう。

階段の半ばまで上ったところで、首のつけ根にある骨がピリピリと痛んだ。首筋を伸ばし、歩く速度を心持ち落とした。年齢を重ねた代価は予期しないところにまでやってくる。寝つきが悪くなった原因は、一ヶ月ほど前から始まったこれのような気がする。『姿勢を良くして、できるだけ神経を圧迫しないように』、という医者の言葉を思い出しながら、手すりにつかまってゆっくりと残りの階段を上った。

二階に上がり、すぐ左手にある引き戸を開けた。まだ沈みきっていない日の光がさしこみ、二間続きの室内は物憂げな薄暗さに染まっていた。

すでに開けてある奥の部屋の窓から、雨の香りが残る微風が吹いている。今日は扇風機を使う必要はなさそうだ。足の裏で畳の涼しい感触を味わいながら、奥の部屋にしいた布団に向かった。俺の布団の上には、新しい枕が憂鬱そうに横たわっていた。

風呂から上がったサトエが部屋に入ってきた時、俺はまだ彼女が用意した枕を手にとって、しげしげと眺めているところだった。

「どうしたの?」

いつからそうなったのか、すり足のような歩き方でサトエは近づいてきた。

「いや、これ――」

「新しい枕よ」

サトエが俺の言葉をさえぎるような早い口調で言った。

「気に入らなかった?」

彼女は俺の両手に収まっているものを見つめていた。あちこちに深い皺が刻まれた顔には、意外そうな表情が浮かんでいた。

俺はサトエから目を離し、彼女が「枕」と言っているものをもう一度見た。

やはりそれは、どう見ても人間の太腿にしか見えなかった。

若い男性のものらしいこの太腿は、まるで今切り取ってきたみたいにつやつやしていて、健康的な肌色だった。なだらかな曲線の先はちょうどふくらはぎの部分まで残っていて、地面に置くと上手くバランスが取れるようになっている。

初めに見た時は、悪趣味な業者が作った偽者かと思った。しかし肌の質感は俺と一緒――もっともハリの方は全く違うが――だし、断面を見ると筋繊維や骨、それに血管までがきちんとそろっている。

「かたさもあなた好みだし、それにきちんと毛も剃ったのよ」

そう言いながら、サトエは確かめるように「枕」をなでた。

「毛?」

「ええ。ちゃんと石鹸つけてカミソリで。わりと毛深かったのよ。それ」

――やはりこれは太腿だった。それはわかったが、なぜサトエはこんなに飄々(ひょうひょう)としているのだろう。

「……そうか」

間が持たず、とにかく相槌だけうった。

サトエは小さく笑い、早々に横になった。

枕を指先でいじったりしているうちに、なんとなくタイミングを失ってしまった。すでにサトエは目をつぶっている。

いつまでも座っているわけにもいかず、枕を布団に置いて横になり、ゆっくりと頭を置いてみた。適度な弾力とかたさがちょうどよかった。

「だいじょうぶでしょう?」

サトエが薄く目を開けてこっちを見た。

「ああ」

まあ――とにかく、だいじょうぶなのだろう。家のことはすべてサトエに任せてある。とりあえず正体が判明して胸のつかえが取れると、強く追究する気にはどうしてもなれなかった。

日の光はすっかり薄くなり、今では部屋の暗さを強調する役にしかたっていなかった。

「明日は晴れるって?」

天井の木目を見るともなく見ていると、サトエが聞いてきた。

「予報では大丈夫だと言ってたな」

「よかった。畑の雑草、伸びてるわよね」

「そうだな」

知り合いから土地を借りて何か野菜を育てようと提案したのは俺だったが、今ではすっかりサトエの方が熱中するようになってしまった。三坪の畑ではキュウリとトマト、それにサツマイモを栽培している。

左にいるサトエのほうを向いた。彼女は厚手のタオルケットを足先から胸元まできちんとかぶり、あおむけになって目をつぶっていた。農作業をするようになって冷え性が少しましになったとは言っていたが、やはり七月とはいえ今日みたいに涼しい日は冷えるらしい。

俺のとは違い、サトエの頭は枕に深く沈みこんでいる。柔らかい素材を好んで以前は綿の枕を使っていたが、最近では何とかというもの――一生覚えられそうにない名前だった――に切り替えたらしい。

一度こっそり頭を置いて見たことがあるが、水を含んだスポンジみたいな感触で、とても寝られたものではなかった。頭を離してもすぐには形が戻らず、なんだか得体の知れない生き物のようで気味が悪かった。

俺は少し頭を動かしてみた。サトエが買ってきた枕は適度な弾力を持ち、それでいて芯がしっかりしている。肌触りもいい。右手を伸ばし、枕の膝の部分をなでた。ざらついてはいるが、充分にひきしまった皮膚にたるみはなかった。

枕から発する健康的な青臭い香りをかいでいると、意識がゆっくりと遠ざかっていった。

翌日は予報どおり晴れ渡り、朝から蒸し暑かった。

「もう一杯もらえるか」

俺が空になった茶碗をさしだすと、サトエが一瞬驚いたような顔をした。

「あらめずらしい。夏場は食欲が落ちるって言ってたのに」

「ああ」

俺はテーブルの脇に置いた新聞を読みながら、適当に返事をした。

久しぶりに熟睡して体調がいいのもあるが、それよりもサトエが朝食で出した佃煮がやけにうまかったのが原因だった。

佃煮は薄いクリーム色で粘り気があり、深い青色に縁取られたガラスの小鉢によくはえている。

「はい」

先ほどより少なめに盛られた茶碗を受け取り、三分の一ほどになった佃煮を箸の先ですくい上げた。

ねっとりとした食感で塩味がきいているが、しつこさはない。米と一緒に食べてよくかむと、ほどよい甘味と調和していくらでも食べられるような気がした。

残り一口分になった佃煮を見ながら、もう一度サトエにさっきの質問をしようかと考えた。

「これなんてやつだ?」

台所のテーブルについたあとの初めの一言は、けたたましく鳴り響いた電話の音にかき消された。

サトエは俺の質問を無視して玄関に向かい、戻ってくるなり来週の日曜日に娘が孫を連れて遊びに来ると告げた。質問の答えはなかった。聞こえなかったか、忘れてしまったのかはわからない。

結局、聞く機会をつかめないまま朝食は終わった。

俺は空っぽになった茶碗に熱いほうじ茶をそそぎ、スポーツ欄に目を通しながらゆっくりと茶をすすった。テーブルを挟んだ向かいの台所では、サトエが後片づけをしていた。

新聞を読み終え――といっても一面とスポーツ欄だけだが――、ほうじ茶を飲み干すと、まるで見ていたかのようなタイミングでサトエが茶碗を回収していった。

手早く作業を進めていく背中を一瞬だけ見つめ、黙って立ち上がった。俺が台所を出るまでに彼女は新聞をたたみ、濡れ布巾でテーブルをふき終えた。

結婚してもう五十年近いが、ああいうところがいまだに気になってしまう。あの狙いすましたような動きが妙に癇に障るのだ。若い頃と違ってけんかするようなことはなくなったが、どちらかといえばそれは諦めに似た感覚のためだった。

俺は居間に向かった。四角いちゃぶ台の脇にはシャツとズボンがたたんで用意されていた。

着替えをすませ、テレビを見ながらサトエの片づけが終わるのを待った。テレビの右側にある窓から、日の光を受けたナンテンの木が見えた。表面を金色に輝かせた濃い緑色の葉は、ぴくりとも動かなかった。

朝のニュースを見て時間をつぶしていると、階段を降りてくる音がした。

「できたわよ」

居間の入り口に立ったサトエが言った。左手にはタオルや水筒が入ったバッグを持っている。

「ああ」

テレビを消して、ゆっくりと立ち上がった。ふすまを開けて、中の小物入れから車のキーを取り出した。振り向くと、サトエはすでに玄関で靴を履いているところだった。

知人に借りた土地は、家から車で十五分ほどの場所にある。道路に面した畑につくと、木材とトタンでできた小さな物置小屋から、ゴム長と麦わら帽子、それに軍手を取り出した。

午前中にもかかわらず、皮膚をえぐるような鋭い陽射しだった。一日放っておいた畑には、昨日の雨のおかげで所々に雑草が顔を出している。ときおり首にかけたタオルで汗をぬぐいながら、俺とサトエは黙々と草むしりを続けた。

「あら、ここだめになってるわよ」

俺はトマトの畝で雑草を取っていた手を止めた。後ろを向き、しゃがんでいる彼女の背中に近づいていった。

「ほらここ。すっかりしおれちゃって」

サトエが指さす畝の端には、しわくちゃに縮んだ黄緑色の葉が力なく横たわっている。

「もうだめだな」

「抜いちゃった方がいいわよね」

そういうと同時に、サトエは無造作に苗を引き抜いていた。細い茎が音をたててちぎれ、土の中からはジャガイモほどの大きさの実が見つかった。

サトエは苗から実だけを取り、残りを畑の隅に捨てた。掘り返されて爆発跡のようになった畝を見つめていると、戻ってきた彼女はそこをさっさと埋めてしまった。

二人は無言のままそれぞれの作業に戻った。草むしりを終えて休憩すると、俺は霧吹きを持ってキュウリの畝に、サトエはハサミを持ってサツマイモの畝に向かった。

生い茂ったキュウリの葉を一枚一枚確認し、アブラムシがついていれば木酢液を水で薄めた液体をふきつけていく。雲ひとつない空からは太陽が容赦なく照りつけ、全身に汗がにじんだ。

作業の途中で後ろを振り返ったが、サトエは伸びすぎた茎を切る作業に没頭しているようだ。俺は麦わら帽子を脱いで、すっかり薄くなった頭頂部をぬぐうと、再び仕事に戻った。

昼を過ぎて、ようやく予定の作業が終わった。太陽は真上から光を投げかけ、隣の道路を見るとアスファルトから陽炎が立ち昇っていた。

「まだ水はいらないな」

昨日降った雨のおかげで、土はちょうどよい状態になっている。

「あ、待って。あそこに一個植えようと思ってるの」

俺は軍手を外していた手を止めた。

「あそこって――どこだ?」

「サツマイモを抜いたところよ」

確かにサツマイモの畝の端には、ぽっかりと小さなスペースができている。

「一体何を植えるんだ。何も持ってきてないだろう」

「ちょっと待ってて。今持ってくるから」

そう言って物置小屋に向かうサトエを、俺は訳のわからない思いで見つめていた。扉のない小屋の中を注意深く探したが、どう見てもそこにはクワなどの農作業用の器具しか入っていない。

サトエはゆっくりと小屋に近づき、腰を曲げた。地面から持ち上げたその手には鎌が握られていた。

今度は小屋の隣にある蛇口に近づき、鎌を念入りに洗った。所々錆びてはいるが、太陽の光を反射した刃は鋭く輝き、よく切れそうだった。

俺に背中を向けたまま、サトエが左手を地面に置いた。そして右足で左手の指先を踏みつけて、そのまましゃがんだ。右手に持っていた鎌がゆっくりと降りていき、体に隠れて見えなくなった。

様子を見るために俺が足を踏み出したのと、サトエが右手を素早く引いたのは、ほぼ同時だった。

台所の窓につけた風鈴が、涼しい音を不規則に鳴らしている。その音をかき消すように、孫の悠介の嬌声が食卓に明るい彩を添えていた。

「ほら、下品な食べ方しないの!」

おぼつかない箸さばきでつまんだそうめんを高々と持ち上げて、下から食べようとした悠介を、清美が母親の顔で叱った。彼女の膝の上ではもう一人の孫、春奈が興味津々といった目つきで兄を見つめていた。

「この子、めん類はいっつもこうやって食べようとするの」

困ったように笑う顔には、小さい頃の娘の面影が多分に残っていた。

「だってこっちの方がおいしいじゃん!」

叱られたことを一向に気にしていない笑顔で、悠介は反論した。言葉そのままの勢いでそうめんの横にある皿に手を伸ばし、サツマイモの天ぷらを箸で突き刺した。イモはもちろん畑から取ってきたものだ。皿の上には他にもナスやピーマン、えのきもあったが、悠介はそれらをさっきから一つも食べていない。

「おいしくないわよ。そんな食べ方してたら幼稚園で笑われるよ」

「幼稚園ではちゃんとしてるもんねえ」

さきほどから春奈のために離乳食を作っているサトエがフォローを入れると、悠介は俄然元気に「うんっ!」と返事をした。

俺はビールを飲みながら、その光景をほほえましく見つめていた。

二人目の子どもが産まれてから、清美は口実を作ってよく遊びに来るようになった。今日は連れ合いの勇一君が出張で留守らしい。三十分ほどかけて車でやってきて、夕飯を食べて遅くならないうちに帰る。短い時間ではあるが家の中が活気にあふれる一時は、俺とサトエにとって貴重な時間だった。

五歳になる悠介は楽しそうに俺やサトエに話しかけてくるし、十ヶ月になる春奈もひどかった人見知り――昔は抱くたびに泣かれていた――がすっかりなくなっていた。

「できたわ。ごめんね、待たせちゃって」

サトエがスリッパをパタパタいわせながら食器棚に近づき、春奈用のプラスチックの小皿とスプーンを取り出した。

「春奈、できたって。お腹すいたねー」

春奈は清美の声に素早く反応し、子どもらしい無邪気な笑顔を見せた。横では悠介が母親の反応を見ながら、さきほどと同じ食べ方に挑戦している。作戦は無事に成功したが、その顔にはどことなく物足りなさが浮かんでいた。

「ちょっと冷ました方がいいかしら」

「だいじょうぶよ。この子熱いの平気だから」

白い小皿の底では、離乳食のみそ風味うどんが湯気を立てていた。めん、白菜、えのき、鶏のささみはすべて細かく刻まれていて、汁はひたひたになるくらいしか入っていない。

春奈は力強くスプーンをつかむと、ぎこちない動きでうどんをすくった。口に入れる前にうどんと白菜が脱落し、かむたびに汁がよだれと一緒になって流れ出した。

元気そうに食べる春奈を見たサトエは、ほっとしたような顔で台所の方に向き直った。俺は自分用に作られた唐揚げを箸でつまみながら、そちらを見つめた。

コンロには春奈の離乳食を作った鍋が置いてある。それは風変わりな――つまり、人間の生首を加工した鍋だった。

今朝起きて食卓に入った時にあれを見つけたときは、何に使うものなのかさっぱりわからず不思議に思ったものだ。サトエに聞いても、「鍋よ」と事も無げな答えしか返ってこなかった。俺としてもたかが鍋にあからさまな興味を示すことができないので、それ以上尋ねることはしなかった。

朝食が終わり、サトエがトイレに行っている隙に調べてみると、それはやはり人間の首らしかった。

それは男性で、三十代くらいに見えた。整ってはいるが特徴はなく、別れて一分もすれば忘れてしまいそうなほどの平凡な顔立ちだった。口の中には歯も舌もあり、右上と左下の奥歯は銀歯になっていた。唾液に光る舌は今にも動き出しそうなほど健康的なピンク色だった。適当に高い鼻の穴には鼻毛が生え、二重の目を開くと、瞳孔から毛細血管までがそろった眼球があった。

耳の形は少し変わっていて、極端なまでに正面を向いている。頭も頭頂部だけを残してきれいになくなっていて、わずかに残った毛髪は三編みにされていた。だが、髪の毛と耳はのちに取手として使われているのを見て納得がいった。

鍋は額の部分から上がちょうど蓋のように外れ、開けると中には椀状になった金属がはられていた。表面はつるつるしていてテフロン加工になっているようだった。

サトエが離乳食を作るあいだずっとその鍋を見ていたのだが、どういう仕掛けになっているのか、中のものが沸騰すると男の目が開き、眼球が縦にクルクルと回転した。小さく開いた口からはコンロの青い炎がのぞいていた。

頭蓋骨のない男の生首は、まるで眠っているように静かに目を閉じている。蓋はすぐ隣のカウンターに置かれていた。それから目を離し、俺は箸でつまんだ唐揚げに視線をあわせた。

この人差し指の唐揚げは、先週サトエが畑に植えたのを収穫したものだ。

あの日、サトエは鎌で切り取った自分の左手を、サツマイモの畝にできた小さなスペースに植えた。挙手をしているようにきれいにそろった左手が土から生えている様子は、街中や公園に設置されているばかばかしいオブジェのようだった。

長袖に隠れたサトエの左腕からは、血がたれていなかった。帰りの車中でバックミラーをのぞくと、後部座席にいるサトエが左手をさすっていたから、痛みはあったのかもしれない。

左手は翌日になるとしっかりと地面に根づき――いたって普通の根っこだった――、三日経ったところで周囲に小さな手が生えるようになった。それらは大きさこそ赤ん坊のようだったが形はサトエのものと瓜二つで、ちょうど縮小コピーのような感じだった。そして、当然――といってよいのかどうか――すべて左手だった。

「ばあちゃん、そうめん取ってあげようか?」

ようやく椅子に座ったサトエに向かって、正面に座っている悠介が聞いた。箸はすでに皿につっこまれている。

「まあ、ありがと。悠介は優しいね」

サトエは右手でつゆの入った小鉢を持ち、皿に近づけた。真剣な表情で仕事に取り組む悠介の箸からは、六割ほどのそうめんが皿に戻り、一割ほどがテーブルに落下した。

「ありがと」

生き残った三割が無事小鉢に沈むと、サトエはうれしそうに言った。大役を果たした悠介は、誇らしげな顔で自分の食事に取りかかった。

「お母さん、天ぷら取ろうか? 何がいい?」

「まだいいわ。ありがと」

俺はまだ唐揚げを箸でつまんだままだった。清美も悠介も――あるいは春奈も――、サトエの左手がなくなったことを理由も聞かずすんなりと受け入れ、こうして自然に気を使っているのだ。さきほど居間で過ごしていた時、悠介は傷口を覆っている皮膚をなでながら、「おばあちゃん、ここだけつるつるしてるねー」とはしゃいでいた。

「どうしたのお父さん? ぼうっとしちゃって」

ハッと我に変えると、清見だけでなくサトエも悠介も不思議そうな顔で俺を見つめている。春奈までが食事の手を止めていた。

「いや、なんでもない」

俺は下を向き、唐揚げを深い青色に縁取られた小鉢に持っていった。そこには先週出されて以来、毎日食べているクリーム色の佃煮があった。人間の脳みそを薄口しょうゆとみりんで煮詰めた味わい深い佃煮を、人差し指の唐揚げにたっぷりとまぶしてから口に運んだ。

濃厚なうまみが口いっぱいに広がる。中まで火の通った唐揚げは、弱った歯にちょうどいいかたさだった。

三人は楽しげな会話とにぎやかな食事を再開していた。俺は時々サトエの左手に目をやりながら、その輪に触れる程度に加わった。

――(続く)

2007年12月16日公開

© 2007 大谷マサヒロ

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