夏のフィクション

波野發作

小説

10,054文字

第2回SS合評出品作品 モノクロームな青春の一瞬の補色残像効果。フィクションだけがぼくの逃げ場所だった。※実話です

ぼくの夏の記憶の中で唯一カラーで思い出せるのは浪人二年目の夏の「あの日」だけだ。お盆も過ぎて世の小学生どもは夏休みの宿題が気になる頃だったと思う。当時はまだバブル崩壊もまだ深刻な状況ではなく、観光客はピークほどではないにしても、連日満室になるぐらいにはぼくらの山にも来ていた。マコトとシオリはぼくのうちの客だった。

 

だいたいぼくの人生において夏の思い出なんてものは無い。小学二年の夏休みの前に引っ越しをして、夏休み中誰とも会わずに過ごして休み明けから転校先の学校に行ったり、家業がペンションのせいで中学高校と夏休みは実家の手伝いに忙殺されたり、編集者になってからは季節なんか関係なく忙殺されまくっていたりで、ろくでもない夏ばかりなのだ。バカンスでイェーイだの、彼女のオートバイで夏の島がヒャッハーだの、カラオケでストップザシーズンインザサーンだの、湘南でザパーンだのということはまったく無かった。大人になって上京して湘南鎌倉に住んでいた頃ですら、夏場は万年渋滞のR134を避けて暮らしていたわけで、海水浴だの海辺でデートだのセックスだのという夏っぽいことなんか、まったく縁が無かった。そしてぼくには学生時代が無いのだから、もちろん海の家でバイトしてバイト仲間女子と恋のアバンチュールなんてことも、当然無い。実家のペンションのバイトのお姉さんと何かあればウッハーということも可能性としてはあったのかもしれないが、俺がそこの息子である以上は滅多なことは起こらない。あとが面倒だものな。ということで「夏の思い出」なんて聞かれても何も出て来ないのだ。

 

平成3年は西暦でいえば1991年だ。その夏になる前にぼくは童貞のまま20歳を迎えていた。俗に言うヤラハタというやつだ。人生の敗北者だ。ぼくにとって恋愛やセックスは対岸の花火であり、フィクションのいちジャンルでしかなかった。さらにヒドいことにぼくは人類のカーストにおける最下層であるところの浪人生でもあった。しかもすでに失敗を重ねた二浪めであり今年が正念場であるはずなのだが、予備校には行かず宅浪を決め込んで自宅で暮らしていた。そして受験勉強に専念するかと思いきや、ただひたすら本を読むばかりという晴読雨読な生活を送り、志望校だけは人並みに高望みをするという、どこに出しても恥ずかしくない腐れダメ人間であった。そんな救いようの無い自堕落っぷりではあったが、読書量は人生のどの時代よりも多かったように思う。そしてその読書は、今は肥やしとなってぼくのアイデンティティの大部分を構成している。高校時代はSFや時代小説や推理小説、あるいは今で言うラノベなんかを大量に読んでいたのだが、この頃になるとだいぶ文学青年をこじらせて純文学的なものを気取って読むようになっていた。もともとぼくは理系クラスにいたのだが、高3の正月に突如文系での受験に方針転換をしていた。これはつまり高校2年の選択以降の科目をかなぐり捨てて、全く異なる道に走り出す行為であり結果的に大失敗だった。それなりに身の丈にあった偏差値の志望校を選び直せばそれなりに可能性はあったのだろうが、自分に酔っている文学青年もどきにそんな人並みの謙虚さはなく、ただ、夢と希望だけを喰らって生きているフリをしているだけだったのだった。

 

なぜ文転などという無謀なことをしでかしたのかといえばそれは作家志望という難病に冒されたからである。ぼくの実家は標高1300m近くという山間部にあり、冬は雪に埋もれ、夏は観光客に埋もれる。ぼくの父親が開業したペンションはバス通りから少し奥まった谷間の窪地にあったため、屋根にアンテナを立てただけではテレビは映らなかった。だからぼくの小学生時代は家にテレビが無かった。娯楽がなにもないので、ひたすら本ばかり読んだ。しかし小さな学校の図書館の本はとっくに残らず読んでしまった。図鑑も借りたかったが、そういうのはたいてい禁帯出なので持ち出せない。推理全集などは何巡したか覚えていない。覚えているのは誰が犯人かぐらいだ。ありがたいことに父は書籍に関しては小遣い以外で制限無く買ってくれたのでたくさんの本を読むことができた。テレビのない息子に同情して本ぐらいは買ってやろうと思ったのかもしれない。中学生になってご近所さんと共同で裏山の尾根に大型アンテナを設置してもらったら、人並みにテレビが見られるようになった。ファミコンも手に入ったので現代人のような生活を手に入れることができた。しかし、すでに読書習慣病には蝕まれていたので読書量は変わらなかった。中学校の図書館には小学校の方にはなかった面白い本が山ほどあったからだ。

 

高校は実家から通うことができないので、ぼくの村の若者はみな高校進学と同時に松本市内に下宿をするのが習わしだった。ぼくは村の公営寮には入らず(団塊ジュニア世代なのですぐに定員が満ちてしまったせいだと思う)信州大学の学生と同じ民営の下宿に入れてもらっていた。中学〜高校時代はSFを中心に読んでいたので、理系志望だった。航空宇宙工学を学ぼうと本気で考えていたのだ。今で言う重度の中二病患者である。それに関しては現在も完治はしていない。高校2年になり、図書委員になった。この辺りからぼくの迷走はエスカレートしていった。安部公房にハマったあたりから、ずいぶんと偏った読書遍歴を重ねるようになり、いわゆる文学的なものを好んで乱読するようになった。そしてついに作家志望という難病に罹患するに至り、ぼくの人生はオフロードを突き進むことが予定されてしまったのだった。そんなこじらせ人間がヤラハタで迎えた夏ではあったがそれまでは何も起こっていなかった。それは当然の帰結であり、自業自得以外の何者でもないのだが、当時のぼくにそんなことがわかろうはずもなく、ただただ眼前で幸福を享受しているカップル客をうらやみねたみそねんでいたのだった。

 

その日もペンションは満室で、ぼくも浪人業なんかそっちのけで家業の手伝いに汗を流していた。むしろバイト連中を仕切って、主力の働き手として業務を回していたと思う。夕食時にはぼくは主にフロア係を担当し、客への夕食の給仕を務めていた。いつも通り夕食の片付けを済ませ、あとは就寝まで食堂でくつろぐ客の応対をするために、コーヒーカウンターの奥に座って待っていればよかった。いつもならカウンターにはバイト連中が座り、雑談やら恋話やらに興じるのだが、この日に限っては休みなく働いてきた疲れがたまったのか、皆早寝で自室に上がってしまった。ぼくは早朝の仕事を免除してもらうのと引き換えに遅番を請負って、客がすべて引き上げるまでこの椅子に座って読書をしていた。

その頃のぼくのお気に入りは、鷺沢萠だ。好きな作家というよりはもう彼女に恋をしていた。鷺沢萠は68年生まれなので3歳ほど歳上なだけでほぼ同世代だ。ぼくが高校生の頃に大学生の彼女は当時最年少で文学界新人賞を獲得していた。この年には『葉桜の日』で芥川賞候補になるなど、デビューして終わりなのではなく、若くしてその実力をいかんなく発揮し、文学の海で美しく舞っていた。果たしてその頃のぼくに文学の何がわかったのか甚だ疑問ではあるけれど、彼女の作風に共感し、そこに描かれる自分の境遇とは異なる都会の若者の生活に憧れ、若き女流作家をアイドルのように想っていた。ぼくが彼女の本を買うのは、アイドルのCDを買うのと同義であった。今と違ってWebなんかはないから、得られる情報は本だけだ。本を読むことだけが、鷺沢萠とぼくの接点だったのだ。ただただ、読むことだけで触れ合い、わかりあい、交わっていたのだ。それが完全なる一方通行だとしても構わなかった。彼女の発する言葉をぼくは全身で受け止め、甘受した。彼女の本を読む時間だけが、あの頃のぼくの至福だった。何もかも忘れて読みふけっていたのだ。忘れたかったから。

 

『少年たちの終わらない夏』もそんな鷺沢萠の一冊だ。数日前に山を降りてふもとに買い出しに行ったついでに買ってきたものだ。ぼくは鷺沢萠の本はすべてハードカバーで買っていた。『帰れぬ人びと』、『スタイリッシュ・キッズ』、『海の鳥・空の魚』、そして『葉桜の日』。それらを客に見えるようにコーヒーカウンターの背後の本棚に並べて、悦に入っていた。ぼくは客からのオーダーを待つあいだ、『少年たちの終わらない夏』を読んでいた。この本には4つの物語が収められていて、表題のものはその1作目だ。4つの作品はそれぞれ異なる話で関連性はない。ただ、若者の心の機微を描き出すという点では共通していた。部活に精を出す主人公は、クラスメイトと「寝た」り、クラブで酒を飲んで夜を明かしたり、恋敵とケンカをしたりして、青春を謳歌していた。それはぼくの世界の物語ではなかった。憧れの異世界の物語だ。人は自分に無いものに憧れる。非日常にこそ興味を持ち、惹かれるのだ。ただ、ぼくの非日常は誰かの日常かもしれないが、ぼくの日常もまた、誰かの非日常だった。そのことにその時は気づいていなかっただけだ。

 

「あの、すいません」
二度声をかけられて、ぼくはようやく現実に戻ってきた。慌てて本を綴じ、従業員に戻る。
「ああ、はい」
「アイスクリームってまだ大丈夫ですか」
家族連れで来ていた高校生ぐらいの少女が2人で風呂上がりにカウンターまで来ていた。声をかけて来た方は長身で赤いジャージでちょっと千堂あきほに似ていた。もう一人は青いパーカーだ。少し小柄だが、妹だろうか? 二人はあまり似てはいなかった。
「あ、大丈夫ですよ。どれにしますか」
ペンションで出しているアイスクリームは三種類あり、ただ盛りつけて終わりのバニラが300円、それにハーシーズのチョコレートシロップをかけるものが350円、自家製のブルーベリーソースをかけるものが350円だった。濡れた髪がちょっと色っぽい。寝間着代わりのジャージもなんだか健康的でそそられたが、職業倫理上そういった劣情は許されない。
「どうしよっか」
と二人は相談し、チョコとブルーベリーを頼んでシェアすることにしたようだった。ぼくはキッチンに入り、急いで二杯のアイスクリームを支度し、ダイニングへ戻った。彼女たちはコーヒーカウンターに座って待っていた。
「どちらにしますか?」
と、ぼくは聞いた。部屋で食べるのか、プレイルームで食べるのか、ダイニングで食べるのかを聞いたつもりだった。
「ここでも、いいですか?」
と千堂あきほ似の子が行った。
「構いませんよ」
とぼくはカウンターに並んで座る彼女らの前に、スプーンを添えてアイスクリームを出した。部屋の勘定につけておくかと聞いたら、彼女らはどうする? と相談して、結局現金で支払うことになった。ぼくは350円ずつを受け取り、レジに納めた。

 

彼女たちはオイシーを連呼して、あっという間にアイスクリームを平らげた。
すると階段からカップル客が降りてきた。この場合本当の意味でのカップルだ。欧米人で若くて男前の旦那さんとドえらい美人の奥さんの夫婦だった。チェックインをぼくがしたので覚えている。夕食の給仕もした。
「ボクラモアイスクリームイイデスカ?」
「バニラとチョコレートとブルーベリーがありますが」とぼくが聞くと、旦那さんは奥さんに、
「ドレガイイ?」と聞いた。奥さんはブルーベリー、旦那さんはチョコレートを選んだ。夫婦は少女たちの隣に座った。
ぼくは急いでキッチンに入り、アイスクリームを盛りつけてきた。勘定は伝票につけた。
アイスクリームを食べ終わったところで、旦那さんが明日どこに行けばいいか聞いてきた。今日は上高地に行ったという。彼らはバスで来ていた。うちの客は大半が自家用車だが、たまにバスの客もいる。バスは本数が少なく、移動が不便なので計画的に動かねばならない。ぼくは時刻表をもってきて、明日のおすすめプランを説明した。その他、上高地のこと、松本のことなど、英語と日本を混ぜながら説明した。奥さんが話せば手っ取り早いと思うのだが、彼は自分で話したがった。日本語は上手いのだが、たまにわからない単語が出てくる。奥さんも少しは英語ができるが、日本語でもはじめて聞くような言葉は訳しようがないみたいで、ぼくが貧弱な英語力でどうにか説明をつけていた。観光案内のつもりが、だんだん雑談になり、彼が元米兵で日本語学校で奥さんをナンパして結婚したとか、腕の漢字の入れ墨を見せて、なんて読むのか聞いてきたりした。腕には「鶏」に似た字が彫られていた。元米兵に「chicken」だとはさすがに言えないので「bird」だと言っておいた。どうもバースイヤーだとかなんとか言っているので干支を彫らせたらしいのだが、奥さんあんたもなんか言っておやりよ。なんだか久しぶりに楽しい時間だった。旦那さんはマークという名前だった。ワチャネー? と聞くのでぼくは「アキ」だと答えた。女の子たちにも順に名前を聞いたので、赤ジャージが「マコト」で、青パーカーが「シオリ」だった。奥さんの名前は覚えていない。1時間ほど話して彼らは部屋に上がっていった。

 

彼らが部屋に引き上げたあと、マコトが「アキさんてすごいですね」と言った。
「え?」なにがだろう。
「外国人の人とちゃんと話せて」
「いや、だって今のほとんど日本語だし」
「あ、そっか」マコトは笑った。それはもう相当に可愛かった。もともと可愛い顔をしているが、笑顔はまた格別だ。
「その本、面白いですか?」
マコトが、カウンターの脇に置いておいた鷺沢萠の本を指して聞いた。
「面白いよ」
ぼくはその『少年たちの終わらない夏』を手渡した。表紙の朝焼けの写真を見て「なんかキレイ」と言った。
「どんな話なんですか?」とペラペラとめくりだした。シオリも肩を寄せてのぞき込んだ。
「うーん。高校生がなんか夜遊びする話?」
「えー? 面白いの? それ」
「いや、まだ全部は読んでないからなあ」
「あ、そっか」とぼくのブックマークの場所を見て笑った。
「んでも、他の本は面白かったから」と本棚を指した。マコトは鷺沢萠が並んでいるのをのぞき込んで、
「あ、ほんとだ。ファン?」
「まあファンっていうか、好きなんだよ。雰囲気とか空気感とか」
へえ、と言ってマコトは本棚に手を伸ばして、『葉桜の日』を抜き出した。
「見ていい?」そんなやわらかそうな胸の前に持ってそんな顔で聞かれてノーなんて答えられるわけがない。
「どうぞどうぞ」と勧めると、いえーいと中身をペラペラと見出した。シオリの方は『少年たち〜』の方を読んでいた。
ぼくは手持ち無沙汰になったので、アイスクリームの器を片付けたり、明日の朝食の支度をしたりした。23時が近かったのでダイニングの灯りを少し落とした。カウンターの周囲だけが明るく光っていた。うちは消灯時間などはないので、お客がいる限り何時まででも営業するという方針だ。ただ、誰も降りてこないのに起きていても仕方ないので、23時以降に誰もいなくなったらそれで店じまいとすることになっていた。中年男性が顔を出した。何か注文をするのかと思ったら、少女たちの父親の人だった。父親が「もう寝るけど」と言うとシオリが「もうちょっとしたら上がるから」と答えた。彼は「じゃお先におやすみ」と言って上がっていった。ぼくは会釈して見送った。

 

「お父さん?」とぼくは聞いてどうするんだということを無駄に聞いた。
マコトが「うん。シオリのね」と連れを指した。この二人は姉妹などではなく高校のクラスメイトで、マコトは親友の家族旅行に一緒についてきたのだということだった。なるほどとぼくは腑に落ちた。
「え?」本を見ていたマコトが急に声を上げた。『葉桜の日』の著者近影の鷺沢萠を見て、
「若い! あと美人!」と驚いていた。
「だろ? すごいよね」
「美人だから読んでるんでしょ」
「ちがうよ」とぼくは笑ったが、あながち否定もできなかった。
ふふん、とマコトは笑って「他にどんなの読むんですか」と聞いてきた。
「あとはSFとか」
マコトはあんまり読んだことない、と言った。「マコトちゃんはどんなの読むの?」と聞くと、村上春樹とかサリンジャーとか言った。そうか君も本読みなんだね、と嬉しくなった。SFってどんなの読むのかと聞かれたのでぼくは『銀英伝』と答えた。あ、聞いたことある。とマコトは言った。おもしろいのかと聞くので、そりゃあもちろんと答えた。他には椎名誠が好きだというと、自分と同じ名前だと喜んでくれた。ぼくはジェフリー・アーチャーも好きだった。どんなのか聞かれたので部屋まで取りに行こうかとも思ったが、今はこの子たちの前から離れたくなかった。そうしたらもう寝ますってことになってこの楽しい時間が終わりそうだったからだ。ジェフリー・アーチャーは立身出世の痛快な長編と、小技の利いた痛快な短編集があるよと言っておいた。本の話を女の子とこんなにたくさんしたのははじめてかもしれない。マコトも自分の好きな本の話をたくさんしてくれた。マンガの話もたくさんした。この日薦められてからあとで読んだ本はいくつあるか知れない。ぼくにとってマコトは本読みとしての一つのマイルストーンになった。

 

「マコちゃん、ちょっと待っててね」とシオリが席を立った。なにやらハンドサインを出したら、それを見て「ああいいよ」とマコトが言い、シオリは席を外した。テレカを出して、ダイニングの向こうの廊下にある公衆電話のところに行った。時間は23時を少し過ぎていた。シオリはどこかに電話をかけたらしく、何か小声で話していた。話の中身は聞こえない。
「ダーリンに電話なんだよね」ってマコトはこっそりぼくに教えてくれた。
「マコトちゃんはかけないの?」とぼくは狡い質問をした。
マコトは「今好きな人いなんだよね」と言った。それも狡い答えだった。
しばらく『葉桜の日』をペラペラとしながらマコトが聞いてきた。「アキさんは?」
「オレ?」質問の意図がわからないのでどう返事していいか迷った。彼女がいるかどうか聞いているのか、恋をしているかどうか聞いているのか。
「最近痛い失恋をしたばかりでグロッキーなんだ」と正直に答えるか、「彼女どころかオレ童貞だし」と赤裸々に性事情を暴露するか、「知らない方が身のためだぜ」とハードボイルドを気取るか、「内緒」とミステリアスなリゾ・ラバ気分を醸し出すか迷った。結局こう答えた。
「マコトちゃんはどっちがいい?」
「ずるーい」いたいけな女子高生は頬を膨らませて抗議した。
「サイアク!」ブーと唇をキスの形に膨らませてブーイングをした。なかなか表情豊かでいい。
そういえば、今日はちゃんと忘れているな。実を言うとこのところガラにもなく失恋のショックってやつで眠れない日が続いていたのだ。
といっても全力で告白してフラれたわけじゃない。長年恋心を抱いていた相手に、恋人ができたことを知ったというだけのことだ。こんなものを失恋なんて呼んでいいのか憚るが、傷心には違いない。相手は大学生、ぼくは浪人生。話にならない。どんなラブコメでもうまく行かないパターンだ。このところフィクションの世界に逃げ込んでいたのはそのせいだ。誰かの書いたホラ話にうつつを抜かしていないと、読まないとやってられない気分だったからだ。他人の妄想のラブコメ世界に逃げ込んで、ぼくは自分を見ないようにしていたのだった。
「教えてよー」ねーねーとマコトが詰め寄ってきた。シオリはまだ戻りそうもない。
「いないっつの。察してくれよ」と言ってぼくは笑った。「うそだー」とマコトは信じなかったが、まあ事実の方が強い。マコトはふーんいないんだーと思わせぶりなことを言った。マコトはカウンターにひじをついてほおづえをしていた。細くてきれいな指がやわからそうなほっぺたを押して、ぷるんとしたくちびるがキスするときのように突き出されていた。ぼくの顔との距離はほんの50センチメートル。手を伸ばして目をつぶれば届く距離だった。

 

ひんやりした風が吹き込んできた。ちょっと火照った身体に気持ちがよかったが、マコトが寒そうにしているので、窓を閉めることにした。網戸がゆるんでいるので内からは閉められない。一旦テラスに出て外側から閉めなければならなかった。そっと扉を開けてテラスに出ると、空が満天の星空だった。もともと星がよく見える高原ではあるが、今日ほど見事な日はなかなか無い。「ちょっとおいでよ」とカウンターにいたマコトを呼んだ。「どしたの?」と出てきて、ぼくは上を指差した。「ひゃん」という声をあげたので、ぼくはしーっと口に指を立てた。
「すっごい何これ?」
「星だけど」。わかってるつーのと笑って、マコトはぼくをつっついた。「今日はいつもよりすごいかも」とぼくが言ったら「うん」と答えた。ぼくたちはしばらくずっと空を見上げていた。マコトはずっとぼくのシャツの袖をつかんでいた。距離が近い。いい香りがした。左腕に体温が伝わってきた。ずっと黙ったまま星を見ていた。ぼくたちは銀河に吸い込まれていきそうに思った。手を握ろうかどうかもやもやとしていたら、カウンターにシオリが戻ってきたのが見えた。マコトが慌ててぼくの袖から手を離して、シオリを呼びにいった。「星がすごいよ」
ぼくは入れ替わりに中に戻り、彼女たちはしばらくテラスでひそひそと話していた。シオリはなんか沈んだ顔だったので、たぶん恋の話でもしているのだろう。ダーリンと何かあったのかもしれない。なんだかまばゆくて、うかつには近寄れなかった。そこはぼくのいる場所じゃなかった。マコトにはマコトの世界があって、明日には帰ってしまう。そこにぼくはいない。ぼくはぼくで明日もこの世界にいる。ここにもうマコトはいないだろう。ぼくだけがずっとここにいるのだ。ぼくは考えるのをやめて『少年たちの終わらない夏』の続きを読みはじめた。高校生のマサキがバスケ部にフクロになって、朝焼けに歯抜け顔で復讐を誓ったところで、ぼくのマコトと彼女のシオリが中に戻ってきた。シオリはなんだか決着がついたような顔をしている。話せばすっきりするというのは本当にあるようだ。チーンとベルが鳴った。時計を見るともう夜中の1時だった。マコトは「じゃもう寝ますね」と言い、おやすみなさい、と二人は部屋へ上がっていった。ぼくはおやすみと見送って、ダイニングとカウンターの電灯を消し、店じまいをした。風呂に入って部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。マコトのことが頭から離れなかったが、そのおかげで他のことは思い出さずに済んだので、久しぶりにぐっすり眠ることができた。マコトが夢に出てくることもなく、ぼくはすっきりと目覚めた。

 

朝食の準備をして、客が起きてくるのを待つ間、フロントに座って昨夜のオーダーを伝票に転記していると、花のイラストの入ったTシャツと、キュロットスカートに着替えたマコトが一人でトントンと階段を下りてきた。はっきりした目鼻立ち、花を歪ませるふくらみ、すらっと美しい両脚。明るくなって改めて見ると、びっくりするぐらいの美少女だった。
「よ、おはよう」
「あは、おはよ」
マコトは軽やかな足取りでフロントまで来て言った。
「ね、手紙書いてもいい?」
「え? いいけど」意外な申し出にびっくりして気の利いたことは言えなかったが、断る理由もないので承諾した。
「住所とか教えてね」僕はメモ用紙に住所と名前を書いて渡した。
「アキってこういう字書くんだね」とメモを見てマコトは言った。「出版社にこの字のとこあるよね」「あるね」「関係あるの?」「ないな」とやり取りをしていたら、シオリたちの家族が降りてきて、マコトはじゃあねとダイニングに行った。ぼくもフロントマンの仕事を済ませて、ウェイターに戻った。

 

朝食のあと、ぼくが忙しくしているうちに、マコトたち一行はいつの間にかチェックアウトして帰路についてしまった。もうひと目会っておきたかったが、仕方がない。手紙を書くよという言葉を信じて待つことにした。ぼくは手紙が来たらどうしよう、会いに行ったりできるか、どうやって会いに行こうかなどと余計な心配をして、ただ待っていた。相手の住所も何も知らず、ただ待っていた。マコトが薦めてくれた本を読みながら待っていた。数日後、可愛らしい便せんでマコトからの手紙が届いた。3枚ほどの短いものだったが、ぼくへの興味がたくさん書かれていた。すぐに返事を書いた。

 

それっきりマコトからは手紙は来なかった。

 

だから、ぼくの人生において夏の思い出なんてものは無いって言ったじゃないか。

2015年8月29日公開

© 2015 波野發作

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