堕落した詩とテキストの民主主義

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第11話)

高橋文樹

エセー

4,974文字

詩の発展の歴史は堕落の歴史である——と言ったら、あなたは怒るだろうか。だが、そうなのだ。貴族の娘がコルセットを脱ぎ去って一枚のワンピースで駆け出すことが堕落であるのと同じ意味において。

あらゆる生命は受精卵の段階から出生へと至る間に、遺伝子に刻まれた進化の過程を高速で辿るという。それが本当かどうか知らないが、確かに一つの個体がその種に起こった出来事をすべて辿り尽くしてなおかつ発展するという事例を私は知らないわけではない。少なくとも、詩人という種における個体例として、アルチュール・ランボーを挙げることができる。

ランボーはその短い生涯において、フランスの詩の伝統をすべて破壊し、なおかつ新しいものを作った。フランスの伝統的な詩の形式のあれこれで優れた詩を残し、そのキャリアの集大成を自由詩で締めくくった。そして、わずか20歳そこらで詩を捨てて軍属となり、さらに軍隊から逃げてアフリカで武器商人となった。私も齢35を数える頃となり、そろそろ「芥川ももうすぐ死ぬんだな」などと考えて恥ずかしくなることがあるが、ことランボーに関しては、大学生の頃から私に焦りを抱かせる詩人だった。ほんとうに、驚くべき速度だ。誰かがランボーをして途轍もない歩行者と評していたような気がするが、まさにランボーは速度の人であった。また、フランスの事典『グラン・ロベール』で「天才」という単語を引くと「アルチュール・ランボーのこと」と書いてあるそうだが、その定義に相応しい詩人だったと言えよう。

ホラー映画同様、面倒くさいヤツから死んでいく

詩の歴史には一つの側面があり、それは形式の破壊である。詩はかつて様々な形式を持っていた。例えば和歌でいえば短歌や俳句、川柳といった辺りはなじみ深いだろう。だが、長歌、旋頭歌、仏足石歌体を一つポンと挙げろと言われて出せる人は少ないのではないか。さらに、一時期は日本人が詠む詩の一形式として一定の地位を誇っていただろう漢詩が、漢語を覚えないといけないという当時としては今よりもさらに高かったハードルゆえに日本文学史から早々に退場し、古典として参照されるのみとなった史実も見過ごせない。これはなにも日本に限った話ではないだろう。ソネット(フランス語)やバラッド(英語)といった形式の詩がいままでよりも多く詠まれているということはないはずだ。

これらの破壊には一つのルールがある。複雑な形式から早く破壊されるのだ。なぜサラリーマン短歌ではなく、サラリーマン川柳なのか? 季語がいらないからに決まっている。複雑な押韻のルールを持ち、一つの連が長ければ長いほど、その形式は早くに廃れる。より複雑な形式が簡単な形式を押しのけて大人気になったという事例は寡聞である。詩の歴史にはこうした下方圧力が常にかかっている。

とはいえ、疑問がなくもない。詩の歴史が形式の破壊であるならば、そもそも形式はどうやって生まれたのか?

2014年3月20日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第11話 (全22話)

メタメタな時代の曖昧な私の文学

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© 2014 高橋文樹

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