感性の表現媒体が文字であるか、音楽であるか、絵画であるか、私の友は言えば媒体迷子である。どの媒体においてもそこそこの才能を発揮しているように伺えるのだ。その彼は同じ表現をするという立場故か、私の書いた物に対し、動きがないだとか、最近のは前以上にあかんとか、言いたい放題に言ってくれる。ただそれは的外れでないところがあるため私自身真摯に受け止めているつもりだ。

こういった友がいることは嬉しいことだ。

 

さて、感性を文字で表現する場合、いくらか形式が異なることがある。音か意味かと言ったらいいだろうか。詩か小説かと言えばいいだろうか。

最近書いた物に私は、詩小説というタグをつけた。これには私なりに理由があり、以前ここのコメントにて、自分が書いている物のジャンルについて意見をいただいたことがある。しかしどうもやはり私の書いている物が小説と言い切れる物になれていないのではないかと思うのだ。

それというのは、小説には物語性があったほうがいいだろう(絶対なければならないというものでもないはずだ)。たとえば主人公が物語を通して成長するといったことやそれまで気づかなかったことに気づかせられるなどあるだろう。情景描写はどうだろう。誰の心を映しているのかといえば作中の人物の心象であるはずだ。

ここまでで私の小説の認識が甘いのであればこの先の話は無意味なものとなるのだが、情景描写がそもそも作者の心象をあらわしていたらこれはまだ小説だろうか。人物がその作者の心象をあらわすために、視覚、聴覚、触覚、と五感を提供しているだけでもまだ小説だろうか。主人公はただ歩いて何かを見ては何かを聞き、風が吹き、雨が降る。雲が流れ、陽が差し、それでお終い。これは小説を保っているだろうか。

文を書くとき読むテンポはひとつの効果を与える。句読点もそのひとつだが、濁音や促音、一語の字数もテンポをつくる。場面を表現するのには効果的だ。韻を踏むことだってある。そう考えると小説の中には詩の要素が含まれていると言えるのだろう。小説の中で和歌や詩を直接挿入するものも少なくはないはずだ(映画でも途中で歌って踊ることを一つの表現として扱うことがある)。

小説はそういった意味で自由度が高いのだろう。詩のようにこれという形式はない。これこれといった表現技法を使わなければならないということも、人間を登場させなければならないといった決まりごともない。

では、どこからが小説なのか。恐らくその線は実線ではないのだろう。有理数と無理数の境界のように、私と世界の境界のように、ひどく曖昧なものなのかもしれない。

少なくとも私の書いている物がどこにも投稿できない文字数であることは明白である(原稿用紙30枚以上となれば投稿のための物語を書いている自分がいることに心が痛む)。そして何より、主人公は何もしない、するがそれ自体に意味は然程ない。むしろその周囲に意味があることのほうが多い。そして何もなく終わる(少しは物語の終わりらしく書いてはいるが)。

これらの理由から、私は未だ書いた物を小説と言い切ることができず、では詩かと問われればはっきりとNoと言える日本人なのだが――。詩小説などというタグをつけている次第なのだ。詩としては死んでおり小説としては成り損ないの文はどこにも行く場のないまま電子の海を漂っている。

 

私の書く物が何かははっきりしないまま、捉まえたものを可視化しようと書いているのだ。

 

今はまだ書くことそのものをもっと精錬していくことが大事だと自分で思っているので、書くことになれてきたらこのことは意外とあっさり解決しているのかもしれない。今は、このはっきりしないものを今の自分らしさと受け取っておこうと思う。